鉱山街の古い歌

文字数 6,616文字

 3.

 コブレンが〈模倣された昼の都〉と呼ばれるのは、地球人居留地であった北の一角を、天球儀の光を集めるドームが覆い尽くしていたからだという。石切場で働く言語生命体たちは、いつでも白く輝く光の塊を、コブレンの象徴として遠く見下ろすことができた。
 今では骨組みとキャットウォークだけが残っている。
 ドームを形成していた物質の多くは、地球人が撤収の際に持ち去り、構成要素の一つとして僅かに残っていた天籃石も、盗み尽くされてしまっていた。
 リアンセの頭上で、骨組みを、アエリエがよじ登っている。ほぼ無風。高所であることの恐怖を忘れれば、上るのは難しいことはない。リアンセは大きく弧を描く骨組みの頂点にたどり着きつつあった。下を、カルナデルがついてくる。
 先に頂点に着いたアエリエが、骨組みに沿って這いつくばる姿勢から、しゃがんだ姿勢になる。大人一人がすり抜けられる正方形の骨組みの隙間に両足を入れ、空中にぶら下がった。彼女の足の下には、補修作業用の細いキャットウォークがあった。
 何秒かじっとしてから、アエリエは思い切って手を離した。キャットウォークに無事着地する。彼女が首を上げ、見上げてくるのがシルエットでわかった。リアンセも、アエリエが飛び降りた地点にたどり着いた。目印の布が結びつけられている。どれほど昔に結ばれたものだろう。ぼろぼろで、あまりきれいな感じはしない。
 しゃがんだ姿勢になり、骨組みを掴んだリアンセは、ふと顔を上げて遠くに眼差しを飛ばした。
 美しい世界だった。
 コブレンの街の灯が、濡れた闇を乾かしながら(いさ)()のように広がっていた。そのきらめきは大通りに沿って、大河のように街を貫いている。幾筋もの脇道に沿って展開する灯の列は、川の支流そのものだ。都市は上から見下ろせば、川そのものなのだ。川は、都市を囲む城壁にぶつかり遮断される。その先に、連なる山々の黒い稜線が見渡せた。この惑星を覆う天球儀が、山々の遙か向こうへと消えていき、この夜の天地も彼方の昼の領域まで続いているのだと感じさせる。
 ある一節が記憶の底から蘇り、世界にささやきかけた。

 裁きの淵に満ち満つは 神威(かむい)を示す青き光
 (めしい)の我を導き給え 
 黒く汚れた肺を洗い 癒しの炎で浄め給え
 逝く御霊(みたま)より軽き 天球の乙女よ……

 コブレンの労働階級にある人々の歌だ。
 この歌には、はっきりと異端宗派の面影が刻みこまれている。歌われている天球が、天球儀のことなのか、それともアースフィアの大地そのものなのか、諸説あり今ではわからない。大地への信仰も、出所不明の『天球儀の乙女』への信仰も、もはや一つの体系を持つ神話だ。だが、いずれにしろ、神官たちは弾圧し、握り潰すまでだ。言語生命体の神は地球人。地球人を超越する神聖で絶対なるものなど認められてはならない。
 リアンセはゆっくり骨組みの間に両足をおろした。一度骨組みに預けた尻を滑らせ、両腕で虚空にぶら下がる。大した距離じゃないはずよ、と自分に言い聞かせる。位置も確かなはず。
 手を離した。宙を浮遊し、時間の感覚が断絶する。気がつけばキャットウォークに着地していた。
 見上げて待つ。カルナデルもすぐに来て、骨組みから飛び降りた。
「足許に気をつけてください。支えになる物はありませんから」
 先頭を行くアエリエが、振り向かずに言った。
「鏡の広場が静まり返っています。運が良かったですよ。今日の礼拝は早めに終わったみたいですから」
「鏡の広場……あそこね。天を向いた天籃石の一枚板が掲げられている」
「ええ」
「シオネビュラ神官団は、異端には厳しいよな」
 後ろのカルナデルが言う。
「そうね。私は彼らがよりによってコブレンの救世軍とくっつくなんて思えない。資金力の格差もあるし。くっつくなら、新総督軍か王領軍ね。救世軍とだなんて、共同戦線を張れるかどうかさえ怪しいもんだわ」
「もしシオネビュラ神官団が反乱軍側に転ぶとなったら、コブレンの救世軍に対抗手段があるんだろうな」
「何かあるでしょうね。あるいはどちらにも転ばなくても。彼らだっていつまでも中立ではいられないわ。態度をはっきりさせなきゃ。でもシオネビュラ神官団を助ける義理がある?」
 慣れた様子で手すりのないキャットウォークを歩くアエリエに、慎重に、しかし急いでついて行く。そうしながら話し続けた。
「城壁の内部に街があるからシオネビュラの都市全域が神殿の内部だなんて屁理屈こねて、神官の独立性を盾に前総督にも前神官大将にも従わなかった。どうなっても自業自得じゃない」
「やめてくれよ。あそこにはオレの幼馴染みだっているんだぜ?」
 リアンセの胸に、鬱陶しさ、人間のしがらみの煩わしさが思い出され、嫌な気分になった。振り返らずに答える。
「……そうね」
「止まってください」
 アエリエが制する。彼女はしゃがみ、腰に下げていたロープを外してキャットウォークに結びつけ、下界に垂らした。
「ここが市内唯一の派出神殿ですよ。今は救世軍に破壊されて無人ですけど」
 ロープの先端が、高い神殿の平屋根の少し上に浮いていた。すぐそこなのだ。
「気をつけてください。大した高さではありませんけど、下手な落ち方をしたら大けがをしてしまいますから」
 ロープは油の臭いがした。アエリエに続きリアンセが、そしてカルナデルが屋根に降り立つと、アエリエは火打ち石を打った。火花が大きくなりながらロープを駆け上がる。火はキャットウォークに届いて消えた。
「予定より随分早く着いてしまいました……。潜伏している仲間によれば、後一時間後くらいにハサ大尉が下の道を通るはずです。待機しましょう」
「ええ。ぎりぎりに着くよりはずっといいわ」
 屋根を降りてすぐの階に、リアンセは一人残された。そこで背負っていた手荷物入れを下ろし、シオネビュラで購入したワンピースとケープを出して着替えた。窓の外には『鏡の広場』の灯が見えた。
 情報部では、潜伏活動に備えて毎週、各都市や町村の、風習や地理について勉強会が行われる。勉強会での学習によれば、『鏡の広場』は貧しい女が子を捨てる場所として使われるのだ。天籃石の一枚板でできた広場の大きな屋根に梯子をかけ、赤子を捨てる。それを最初に見つけた暗殺者の派閥の構成員が拾う。子供はその派閥で暗殺者として育てられるのだ。誰かがコブレンにやってきて、刺客を雇いたいと打診する。交渉役が話をまとめると、親玉が刺客を選び、任命し、準備金を渡す。育ててくれた組織のために、暗殺者たちは出かけていく。どこにでも出かけていき、殺す。
 アエリエやミスリルもそのような子供だったのだろうかと、リアンセはケープの下に武器を装着しながら考えた。彼らのような民間の……やっていることはともかくとして、あくまで民間の組織が武装して、ゲリラとして外敵と鍔迫り合うなど最悪だ。それは恐怖と憎しみを呼び起こし、無害な民間人への虐殺を招く。後には当事者たちの世代では消えない禍根が残るのだ。
 リアンセは着替えを終えて、一階に降りた。焼き払われた礼拝室の側廊の先にある狭い告解室に身を隠す。そこが指示された場所だった。狭い室内で座り、机に肘をつき、手の甲に額をつけ、意識を微かにしていった。一時間の待機時間で神経をすり減らさないためにはそれが一番よかった。
 リアンセは夢という異世界を覗きこむ。その異世界から車椅子の軋む音が滲み出てくる。告解室のすぐ外にいるのだ。木の車輪がついた椅子に座り、近所から呼んだ修道女に椅子を押してもらいながら、こんなに近くにいる姉を見つけ出せずいつでもさまよっている。
 かわいそうなプリス。どうして私がいなくなったかわからないんだわ。
「お嬢様、お食事の準備が整いました」
 使用人が部屋の外から声をかける。リアンセは十五歳になって答える。
「今行くわ」
 食堂では、父親と、継母が、暗い表情で俯いている。介護人の修道女が三女プリシラを乗せた車椅子を押して入ってくる。
 食事が始まった。誰も口を利かなかった。オムレツにナイフとフォークを入れると、カチリと固い物に当たった。腕輪が出てきた。ラピスラズリをくりぬいて作られた腕輪だった。リアンセは泣きたくなった。姉ロザリアが、シンクルスを想って購入した物だった。この石を見ていると、いつでも彼を思い出せるからと。学内で開かれるパーティー用に貸してほしい、とリアンセは頼んだ。そして、パーティーの後、なくしてしまったと言った。本当は、鞄の奥深くにしまいこんでおいたのだ。意地悪をして、怒らせたかった。だがロザリアは寂しそうに笑い、仕方ないわね、と言っただけだった。
 リアンセはオムレツの中から腕輪を引っ張り出すと、行儀悪くテーブルクロスで拭いて服のポケットにつっこんだ。
「何をしているんだ?」
 父のスレイ・ホーリーバーチ。リアンセは動きを止め、黙々と食事を続ける父を凝視した。
「姉さんは今、何歳でしたっけ?」
「五千七百歳だ」
「魂の長さじゃないわ。生まれてからの長さを聞いているのです」
 誰も答えなかった。
「私はいくつでしたっけ」
「ロザリアより年上だよ」
「あら。そんなになるのですね」
「プリシラはもっと古い。ラピスラズリよりも古い。ラピスラズリは虚無より古い。宇宙を生んだ卵だ」
 隣のプリシラが泣き出す。涎をたらし、修道女が口に運ぶ食事を嫌がっているのだ。
「プリスは蠅カステラが嫌いなのよ」リアンセは教えてやった。「ゴミゼリーにしないと」
 顔に唇しかない修道女が、真っ黒い歯を覗かせて笑いながらリアンセを見た。リアンセは恐怖した。この修道女は男だと思った。無害なふりをしているだけだ。男。体力や腕力で劣る相手に酷いことをする連中。男。汚らしい。醜い。所詮ヤることしか考えてない猿。私を見ないで。大っ嫌い。シンクルス以外の男はみんな嫌い。
「どうしてこの子がこんな目に……」
 継母がさめざめと泣き出す。リアンセはこの後彼女が何を言うか知っているし、実際に知っている通りのことを言った。
「リアンセ、どうしてあなたが行ってあげなかったの? この子は十一歳なのよ。なのに一人でロザリアのところに行く勇気を見せて……」
「代わりに私が酷い目に遭えばよかったって?」
 継母は顔を覆い、現実を拒否して首を横に振る。深く嘆きながら。
「あなた。私、この子にはもう我慢できない」
 スレイは粘土のような顔色で、黙って食事を続けている。
 この人たちには私を守るつもりなんてないんだわ。こんなに怖いのに。姉さんやプリスがどういう目に遭ったかを思って、今も足が震えているのに。
「シンクルスはどうなるのですか?」
 震える声で尋ねた。
「ねえ、父上?」
「どうなれば満足だ?」
「父上のおつもりを聞きたいのです」
 スレイはサラダを咀嚼する間を猶予とし、回答を引き延ばした。
「今はみんなが大変な時期だ。自分や自分の知り合いばかりが不幸な目に遭っているような態度はやめなさい」
「見捨てるのね」父の反応が鈍いので、リアンセは攻撃をやめるわけにいかなかった。「今一番辛いのはシンクルスなのに。殺されてしまうかもしれない。でも父上はほっといて、見殺しにするつもりでしょう? そしたら晴れてザナリス神官団の正位神官将の座は父上のものですね」
 スレイはくちゃくちゃ音を立ててパンを咀嚼し、それを終える時間をまたも回答の猶予とした。
「リアンセ」だが、ろくな回答は思いつかなかったのだ。「出て行きなさい」
「父上、私の質問に答えてください」
「お前はこの家に養われている身だ。家長の言うことを聞く義務がある」パンをかじる。それを噛みながら「出て行くんだ」
 リアンセは大きな音を立ててナイフとフォークをテーブルに叩きつけ、席を立った。食堂を出ていく。食堂を出た先に食堂があった。そこで人形の家族が食事を続けていた。
「出て行きなさい」とスレイがパンをかじる。「出て行くんだ」
 食堂を横切り出た。そこもまた食堂だった。
「出て行きなさい!」
 食堂を出てまた次の食堂に入る。
「早く出て行くんだ、リアンセ!」
「あんたが出ていけばいいのよ!」
 リアンセは腹を立ててスレイの椅子を蹴った。
「私かあんたの弟に家督を譲ればよかったのよ! 腑抜けのくせに!」
 食堂を出た。また食堂だった。へどろの家族が食事を続けていく。
「リアンセ」へどろが口を利く。「リアンセリアンセリアンセリアンセリアンセリアンセリアンセリアンセ」
 リアンセは走って食堂を横切り、出た。その先も食堂だった。
「リアンセ――」砂人形が、たった一体で椅子に座っていた。食べている物も砂。飲んでいる物も砂。「これはどういうことだ? 砂しかない。ひどい場所だ。砂の味しかしない。砂しか見えない……」
 リアンセは再度椅子を蹴った。蹴った感触は軽く、人間が乗っているとは思えなかった。椅子が倒れ、砂人形が床の上で砕けた。
 誰かの息遣いを間近で感じた。周囲が暗くなる。夢が終わるのだ。目覚め、目を開ける直前、リアンセははっきりと耳許で聞いた。
「許してくれ……」
 暗い告解室の光景が目に飛びこんできた。リアンセは闇の中で悲鳴を上げそうになった。
 父上が死んだ!
 根拠などない。荒唐無稽かもしれない。それでもリアンセにはわかった。確かな事実なのだ。父は死んだ。砂の中で死んだ。そして、自分が椅子を蹴り倒しさえしなければ、父は死ななかったのだ! 私が一人で、たった一人でここにいる間に、こんな遠くにいる間に、彼は生きて死んだ。涙が溢れそうになった。故郷はどうなっているだろう。蝶と花のザナリス。泉のザナリス。美しいザナリス。ザナリス神官団はどうなっているだろう。プリス、あなたはどうなったの? 今どうしてるの……。
 誰かが告解室のすぐ外の壁を叩いた。外にカルナデルがいるのだ。霊感と直感の世界が去り、現実を支配する力の世界がリアンセの心を塗り変えた。
 夢ごときに動揺している場合ではない。
 ハサ大尉が来たのだ。
 高い明かり取りの窓から入る僅かな外の光を浴び、リアンセは立ち上がり、ワンピースを整えた。行かなければならなかった。
 煤けた派出神殿の礼拝所を、破れた窓から出る。もう一度ワンピースを整え、神殿の陰から、向かいの建物の陰にいるアエリエを見つめた。
 アエリエの腕がまっすぐ、リアンセから見て左を指す。その方向にいるのだ。足音が近付いてくる。アエリエが指を三本出す。二本。一本。
 そして、腕を高く上げた。
 リアンセは走って神殿の陰から飛び出した。
 大通りに出た瞬間、人にぶつかった。がっしりした男だと、ぶつかった衝撃でわかった。怪我を避けながらもできるだけ派手に転び、その人物の足を止めさせた。
 目の前に軍靴の爪先があった。その靴の大きさで、やはり大柄な人なのだとわかった。
 その人物が、慌てた様子で声を上げた
「ああ、すまない!」
 わざとらしく痛そうに顔をしかめながら起きあがると、厚い掌が差し出された。
「大丈夫かい? 怪我はないかい? 本当に申し訳なかったね」
 リアンセはその男の顔を注視した。やや角ばった大きな顔。茶色い髪。垂れ下がった小さい目。髭はない。アエリエから聞いていた情報と合致する。
 イオルク・ハサは、小さい目に温厚な光を湛えた男だった。賢そうでも、機敏そうでも、強そうでもない。だが優しそうだった。リアンセは目を大きく見開いた。
「ハサ大尉ではありませんか!」
 イオルク・ハサが瞬きする。
「君は?」
「私は――」リアンセは唾を飲んだ。「プリシラと申します。北方領総督リリクレスト公がご息女リレーネお嬢様の付き人をいたしておりました。あなたのことは存じております。リレーネお嬢様の将来のお相手でいらした……」
 イオルクもまた、喉仏を上下させて生唾を飲んだ。
 リアンセは、イオルクの手を借りて立ち上がった。
「時間はあるかい? もしよかったら、ついて来てほしい。行きつけの喫茶室があるんだ」

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