琥珀の魂
文字数 7,450文字
3.
六歳。
戦闘訓練を始める年齢に達し、それぞれの師につき、姓名を与えられた頃、コブレン自警団の子供たちは数種類の戦闘歌を教えられる。どれも単純な旋律と安定した音域で覚えやすいが、長音が多くて息継ぎが少ない、真似て歌うには難しい歌だ。
疲労や負傷によって追い詰められたとき、彼らは師に教えられた戦闘歌を口ずさむ。戦闘によって激しく酸素を消費しながら、更に歌で呼吸を困難にし、自らを極限に追い込むことでトランス状態に入り、膂力 を最大限に発揮するのだ。
そのとき、雑念は消え、感情も、自我も消える。人格さえも追い払われる。トランス中の記憶は残らない。ただ、ぼんやりした印象が残る。
ぼんやりした印象の中で、ミスリルは歌いながらゆっくりとコブレンの街を歩いていた。
清らかな闇が空を満たしていた。天球儀は白く光り、夜の無窮のみ胸の中で、子供たちが遊んでいる。
火事が起きたようで、街路は黒く煤けていた。勝手知ったるコブレンの街だ。焼失した建物が何だったか、ミスリルは周囲の様子を観察してすぐにわかった。古いホテルだ。子供たちは両腕を広げて走り回ったり、白墨 で石畳に描いた模様の上を飛び跳ねたりしていた。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
不意に横手から呼びかけられ、ミスリルは真横の塀を見上げた。七歳くらいの女の子が、塀にまたがって座り込んでいた。ガチョウの尾羽を集めて作った、羽根つき遊びの玉を手に持っている。
「下ろしてもらっていい?」
ミスリルは顔を上げて女の子をまじまじと見つめた。一体どうやって上ったのか知らないが、玉を取りに上がったところで怖くなり、自分で下りられなくなったのだろう。
猫みたいな奴だ。
ミスリルは苦笑し、両手を差し伸べて、子供の両側の脇の下に入れた。地面に下ろしてやる。
「ありがとう、兄ちゃん」
何の衒 いもない笑みを受け、ミスリルは子供の頭に手を置いて、ぽんぽんと叩いてやった。
「どうやって上ったんだ?」
「え? うーんとねえ、頑張った」
「頑張ったのはわかるけど、次からは大人の人に取ってもらいな」
うん、と子供は頷いた。念を押す。
「いいか? 兄ちゃんと約束だぞ」
その子から目を離し、道の先で遊ぶ他の子供たちの様子を窺ったときだった。
不意に低い男の声が、女の子の口から放たれた。
「己 が天性を生きよ」
ミスリルは素早く女の子に目を戻した。何の感情もない目がミスリルを見上げていた。
驚きから目つきが鋭くなっていくのを堪えるミスリルの前で、真顔の少女は更に言い足した
「私たちが親を呼び泣き叫ぶのは、ただの反射だ。君がそのことで心を痛める必要はない。まして君が私たちを守れなかったことで、君を憎む者はいない」
この子供、そして子供たち。その正体と末路をミスリルは悟った。怒りも、痛ましさも悲しみも、何も感じなかった。
少女が少女に戻った。子供の顔つきで明るく微笑み、肩から斜めにかけたポシェットをがさごそやりだす。
「兄ちゃん、これあげる!」
小さな拳が突き出された。ミスリルの厚く大きな掌の上で拳を開き、小さな物体を預けた。少女はくるりと背を向けて走り去った。
一人残されたミスリルは、掌にあるそれを凝視した。
親指と同じくらいの大きさの、透き通る赤茶色の物体で、何であるかはすぐにわかった。
琥珀だ。
「天性……」
琥珀には、どこか深層に働きかけ、善い波動を引き起こすものがあった。魂の来歴を思い起こさせる何かが。
これをどこで手に入れたのか、ミスリルは訊こうとした。だが子供たちの中から少女を見つけだすことはできなかった。それに、聞き出す必要もないようだった。
ミスリルはこう悟った。
俺はヒトという言葉を得る前、昔、琥珀だったことがあるんだ、と。
荷車の大きな車輪が石畳を転がる音がする。ついで振動。荷車に乗っているのだとわかった。それで、ミスリルは夢から覚めた。
荷台に指を這わせて周囲の様子を探る。だるくて目が開かない。急に誰かが手を握った。
「ミスリル? ミスリル」
耳許で囁く声がする。重い唇を開いた。
「テス?」
「ああ」
同じ荷台に乗るテスが答える。
「気分はどうだ?」
「眠い」
「疲れてるんだ。でも大丈夫。終わったから……」
爆発が起きたことをミスリルは思い出した。
「テス、俺――」
「なんだ?」
「体の部品、全部ついてるか?」
「問題ない。それに」少しの間口ごもった。「ずっと戦ってた。ジェノスと子供たちを追いかけて。止めるのに必死だった」
他の仲間たちはどうしているだろう。答えるテスはどうなのだろうか。怪我はしていないだろうか。確かめたかったが、やはり目は開かず、質問をする前に、再び眠りの海に沈んだ。
夢で、ミスリルはまたもコブレンの街路に一人立っていた。
ひどく眩しかった。空を見上げて驚いた。一面真っ青になっている。透き通る天球儀の編み目模様が、青い空と地の間にうっすらと見えていた。
「おおい、おおい!」
区画の端の曲がり角に、一組の男女が見えた。慣れぬ眩しさに目を細める。女のほうが手を振っていた。
「さっきの役者の人じゃん。こっちで一緒に飲もうよ!」
(声が聞こえた。テスの声だ。『今、ラザイが塩水を持ってくる。飲めるだろうか』アエリエの声。『起きないなら起きないで仕方がないわ』手を握られた。女の手。アエリエの手。『寝かせてあげましょう……』)
夢の中。ミスリルは看板を見る。
『冒涜のねぐら』
場面が変わった。ミスリルは酒場にいて、テーブルについている。見慣れた場所のようでありながら、全く見知らぬ場所でもあった。ピンクや水色、黄色や緑の毒々しい光が狭い店内を彩っている。チューブ状の物体がそれらの光を放っており、どのような仕組みの物なのかわからない。とうの昔に退化させられた技術で作られているのかもしれない。だとしたら、そんな物があるこの場所は何なのだろう?
ミスリルは周囲の人間を観察した。
みな、見慣れぬ装束をまとっている。どれも質の良さそうな生地で、体にぴったりしており、動きやすそうだ。中には細い腰やへそが露出するような衣服の女性もいる。カウンターの奥に並べられた酒の瓶は、信じられないほど種類が多い。人々は香辛料のにおいのきつい料理を食べ、酒をあおり、卑猥な冗談を言い、行き連れの男女が互いの腰に手を回して口づけをする。
カウンターの横の、扇形の舞台だけが静かで暗かった。
観察をやめ、テーブルに目を戻す。心の中で呟いた。
なんて冒涜的な場所だ。
同じテーブルを囲むのは、見たこともない男女だった。
一つだけ知っている顔があった。
ラセルだ。
今は化生の体ではない。恐らくは彼本来の、人間の体をしていた。
ただ、奇妙なことに存在が薄い。色も形もぼやけていて、向こうが透けて見えるのだ。
そして、必死の表情で何かを訴えているが、声はない。
ミスリルは唇を読んだ。
『逃げろ、逃げろ』と言っていた。
「私たちは舞台をおりたの」隣に座る、赤い髪の、いかにも気の強そうな女が言った。「あなたはまだなの?」
ミスリルはラセルを気にかけつつも、隣の女と視線を合わせた。
「舞台?」
「そうよ、役者さん。あたしはサーリ」
先ほどの夢で、一緒に飲もうと誘ってきた女だった。
「俺はヴィル」
サーリと名乗る女の、ミスリルとは反対側の隣に座る、三十絡みの男が笑顔で名乗った。
ヴィルの隣に座るのは、太った、愚鈍そうな男だった。そいつも意味のない笑顔を浮かべて名乗った。
「おれ、ノルル……」
サーリ、ヴィル、ノルル、それにラケルとミスリルの五人で、1つのテーブルを囲んでいた。ミスリルの左隣にサーリ。右隣は空席だった。
「ああ」ミスリルは頷いた。「俺は……」と、少し考え、「……テス」
隣の空席にはネームカードが置かれていた。何となく気になって覗きこむと、
『ご予約席』
その下に名が記されていた。
『ハルジェニク・アーチャー様』
すると、椅子の上にもやもやと朧 な色彩が見え始め、ミスリルはたじろいだ。
「その人はまだ来れないよ」と、サーリ。「でも、そろそろ来ちゃうよね。色彩から死んでいくもんね」
「死んでいく?」
からりとした笑顔のサーリに尋ねた。
「舞台を下りるって、そういうことなのか?」
だが、同じテーブルにつくラケル以外の全員が、黙って薄笑いを浮かべるばかり。
すると店員がやって来て、ミスリルの前に逆三角形のグラスを置いた。薄い黄色の酒が入っていた。顔を近付けて観察する。そして、驚きに打たれ声をあげた。
「何だこれ! 泡立ってる!」
「発泡酒見たことないの?」
サーリの物言いには嘲りの調子が濃い。
ヴィルが、同じくらい馬鹿にした口調でたしなめた。
「仕方ないよ、この人はまだ夜の王国しか知らないんだから」
「どういうことだよ」と、ミスリル。「ここはどこだ?」
「太陽の王国さ」
頭の割れるような爆音がいきなり鳴り響いた。思わず両手で耳を塞ぐ。人々の歓声が更に鼓膜に届いた。誰もこの音量を苦に思っていないらしい。次は閃光が目を刺した。
太陽の王国の人間というのは、轟音と閃光で自分の耳と目をいじめるのが好きなのだろう。
「拷問かよ」
少しずつ目を開けて光に慣らしながら、顔を上げる。暗かった舞台に太い光の柱が幾本も下りていた。光は自ら左右に動き、やがて舞台の中央に立つ女に集中した。
「みんなー! れなれなきゅんの時間だよー!」
人々が歓声で応える。長い黒髪に白い肌の、顔立ちの良い若い女だった。だが大音量の音楽に合わせて始まった歌ときたら酷いもので、しかも何らかの仕掛けで声が不自然に大きくされているから堪らない。
「下手クソ!」
耐えかねてミスリルは吐き捨てた。たちまち大音量に紛れたが、ヴィルには聞こえていた。
「下手クソ? 何を言ってるんだ。れなれなきゅんことレナ・スノーフレークちゃんの舞台だぞ! かわいいじゃないか」
「かわいいのと歌が上手いか下手かは別問題だろ。めちゃくちゃ下手。っていうか騒音。っていうか拷問」今すぐアエリエのところに逃げ出して、彼女の歌で耳を洗浄したかった。「俺の妹分のほうが五千倍うまいな」
「お前、オブラートに包めないわけ?」
オブラートが何なのかわからないので、ミスリルはこう答えた。
「悪い。俺今オブラート切らしてるんだ」
サーリが笑い転げる。
ミスリルはすっかり嫌になってしまった。帰りたい。コブレンに帰りたい。ここは俺の場所じゃない。
と考えていると、舞台の上のれなれなきゅんとやらが歌をやめ、男のような低い声でこう言った。
「おい、ちょっとBGM止めろや」
轟音がぴたりと止み、全ての人が沈黙した。
今度は静けさが耳を痛くした。
そんな中、レナの呟きが、呟きにしては明らかに不自然な大声で聞こえた。
「今、れなれなきゅんの悪口が聞こえた気がするなぁ……」
その険悪な調子に、人々は凍りついている。
なかなか大人数を支配するのがうまい奴だ、とミスリルは感心し、できる限り気配を消した。
レナは店内にいる全員を睨みつけ、呟く。
「この中に、れなれなきゅんのことが嫌いな奴がいるのかなぁ?」
数秒後、男の声が答えた。
「そんなことないよ!!」
別の男が続く。
「ない! ない! れなれなきゅん最高!」
「れなれなきゅんかわいい!」
「れなれなきゅん! れなれなきゅん!!」
そしてまた轟音が始まった。機嫌を直したらしいレナが叫ぶ。
「そっかあ! 気のせいかあ!」
すると客たち。
「気のせーい!!」
歌が再開した。緊張して息詰めていたヴィルが、長い吐息と共に全身の力を抜いた。
「お前、怖いことするなよ……れなれなきゅん、怖いんだぞ」
「そうなのか?」
「そりゃだってもう、本性が――」
「あのレナって女、すごいムカつく」
と、サーリ。
今度は聞こえなかったようで、歌は止まらなかった。
ミスリルが尋ねる。
「本性が何だって?」
ヴィルは慌てて首を振り、同時に両手も振った。
「言えないよ。怖い怖い……」
「本性当てゲームしようよ!」
曲が終わり、舞台にまた別の誰かが出てくる気配があった。新たに歓声が上がる。ミスリルは舞台に目をやらず、サーリを注視した。彼女の提案の意味を図りかねている間に、舞台でレナが嬌声をあげた。
「はぁい、みなさまお待ちかね! 美女デュエットの時間だよー! れなれなきゅんと!」
「エーデリアぁ!!」
ミスリルはテーブルをひっくり返したくなった。
「本性って、やっぱ頭に近い場所に出るのよねぇ」
と、サーリ。
ヴィルが身を乗り出してくる。
「髪の色は赤茶色かあ」
「紅茶かなあ」
ノルルが口を挟む。探るような視線を不愉快に感じ、ミスリルは言い放った。
「俺の本性は真鴨さ」
「真鴨?」サーリが噴きだした。「鳥なの? ウケるんですけど」
「そうさ、ヒトになる前は鴨だったんだ」
「へえ、そういうこと言っちゃうんだぁ」サーリが下品な笑いを浮かべた。「自分の本性言っちゃうんだぁ」
ヴィルも、ノルルも、勝ち誇ったような目でミスリルを見ていた。
「何だよ?」
サーリが高笑いを放つ。そして叫んだ。
「本性に返れ! 真鴨!」
またも歌と音楽がやんだ。
酒場にいる全員の視線がミスリル一人に集まった。
ミスリルは座ったまま、腕組みをして動かない。
するとサーリが慌て始めた。
「なんで? なんで本性言われても本性に返らないの?」
「俺が真鴨じゃないからさ」と、できるだけ感じが悪く聞こえるように答えた。「真鴨なのは俺じゃなくて、俺の仲間だよ。残念だったな」
「こいつ、本性を偽ったぞ!」ヴィルが立ち上がり、ミスリルを指さした。「なんて冒涜的な奴だ!」
「テス、あんた何考えてるの!?」
今度はサーリだ。
「偽ってるのは本性だけじゃないみたいだけど」
舞台の上のエーデリアまで言う。ミスリルは殺気をこめて睨みつけたが、そんなことで怯ませられる相手ではなかった。
「だって、本当はミスリル君だもんねー!」
「名前まで偽るなんて!」
どこかで女が非難がましく声を上げた。
ミスリルは不機嫌に言い放つ。
「それがどうした?」
カウンター席の若い男が非難を重ねた。
「お前、よく平然としてられるよな。本性を偽ったんだぞ! どれだけのことを仕出かしたか、自分でわかってんのか?」
「ねぇ、やめようよぉ。あの人なんか怖いよぉ」
連れ合いと思しき隣の女が、甘ったるい声で男の二の腕に縋りつき、肩に頭を置く。
「ほら、怖がってる人もいるんだぞ! 謝れよ!」
ミスリルはふんぞり返って傲然と言い放つ。
「嫌だね」
複数人が口々に、信じられない、なにあの人、と騒ぎ始めた。カウンター席の男が一際大きな声を出す。
「どうして謝らないんだ、カス!」
「今自分で答え言ったじゃないか。カスだから謝らないんだよ」
背後で中年の声が呟いた。
「あいつ、頭おかしいんじゃないのか?」
続いて、
「冒涜的なんて言葉じゃ済まされないぞ」
「悪魔だ! 悪魔がいる!」
そして、決定的な一言が放たれた。
「粛清しろ!」
何人かが素早く動いたが、三歩と動かぬうちに、ミスリルはたった一言で全員を止めた。
「待て」
その威圧と貫録に、酒場は空気ごと静止する。
ミスリルは酒のグラスに手をかけた。
「飲み終わるまで待て」おもむろに酒を一口舐めた。そして一言「まずっ」
少しして、ヴィルが言った。
「度胸あるな、お前」
「まずい」と、ミスリルは繰り返す。「甘い物あるか? 口直しに」
ヴィルは、警戒しながらサーリの前にある皿を勝手に押し出してきた。林檎のパイが乗っていた。
「どうも――」
と、ミスリルは左手を皿に向けて伸ばした。
右手で三節棍を掴む。
左手を天板につけた。一気に立ち上がり、三節棍を引き抜いて、テーブル越しにヴィルの顔面に叩きつけた。
「ありがとよ!」
振り切った時、サーリにも当たった。鼻血を出すヴィルとサーリが転倒し、人々が悲鳴をあげ、ミスリルは武器を振り回す。
舞台ではレナが狂ったように笑っている。火薬の炸裂音が響き、人々が血を流して倒れていくのをミスリルは見た。
ミスリルは床に伏せた。
レナが持っているあれは、武器だ、とわかった。武器。あれは銃で――と、心と思考が硬直する。
どうして俺は、そんなことを知ってるんだ?
途端に、ミスリルはそれが何かを忘れた。
それの名も、それの形もわからず、それが放つ音も聞こえなくなり、もう見えない。
真っ白い閃きが眠りを裂いた。
激しく両目を開けた時、彼はベッドの中にいた。
「アエリエ?」
同じ大きなベッドの中で、アエリエが横向きになって眠っている。
「アエリエ!」
濃い青色の髪を広げ、疲れた様子で眠っていた。だが声は聞こえたようで、アエリエは目を開け、ミスリルを見た。
「ミスリル!」そう呼びかけてから、我に返った。「……団長」
「言い直さなくていい。聞いてくれ、アエリエ、わかったんだ」
閃きは消えていなかった。夢の興奮を引きずりながら、起き上がろうとするアエリエを押しとどめ、天籃石のランプの光の中でミスリルは訴える。
「どうしたのですか? 何がわかったのですか?」
「わかったんだ、アエリエ――」
現実的な思考が戻って来て、自分の言おうとしていることがひどく馬鹿げたことに思えてきた。
馬鹿なことを言おうとしている。
そう信じてしまう前に、ミスリルは素早く言い切った。
「宇宙の外に逃げればいい」
「ええ?」
「こことは違う宇宙に逃げればいいんだ。黎明が来る可能性がない世界に……」
頭がすっかり覚醒した。
言い切ったという自信と、馬鹿なことを言ったという失望が同時に来た。
アエリエは、まだ眠たげにミスリルを見返していた。
だが、案外彼女には、良い提案に聞こえたのかもしれない。
優しく微笑んだ。
六歳。
戦闘訓練を始める年齢に達し、それぞれの師につき、姓名を与えられた頃、コブレン自警団の子供たちは数種類の戦闘歌を教えられる。どれも単純な旋律と安定した音域で覚えやすいが、長音が多くて息継ぎが少ない、真似て歌うには難しい歌だ。
疲労や負傷によって追い詰められたとき、彼らは師に教えられた戦闘歌を口ずさむ。戦闘によって激しく酸素を消費しながら、更に歌で呼吸を困難にし、自らを極限に追い込むことでトランス状態に入り、
そのとき、雑念は消え、感情も、自我も消える。人格さえも追い払われる。トランス中の記憶は残らない。ただ、ぼんやりした印象が残る。
ぼんやりした印象の中で、ミスリルは歌いながらゆっくりとコブレンの街を歩いていた。
清らかな闇が空を満たしていた。天球儀は白く光り、夜の無窮のみ胸の中で、子供たちが遊んでいる。
火事が起きたようで、街路は黒く煤けていた。勝手知ったるコブレンの街だ。焼失した建物が何だったか、ミスリルは周囲の様子を観察してすぐにわかった。古いホテルだ。子供たちは両腕を広げて走り回ったり、
「兄ちゃん、兄ちゃん」
不意に横手から呼びかけられ、ミスリルは真横の塀を見上げた。七歳くらいの女の子が、塀にまたがって座り込んでいた。ガチョウの尾羽を集めて作った、羽根つき遊びの玉を手に持っている。
「下ろしてもらっていい?」
ミスリルは顔を上げて女の子をまじまじと見つめた。一体どうやって上ったのか知らないが、玉を取りに上がったところで怖くなり、自分で下りられなくなったのだろう。
猫みたいな奴だ。
ミスリルは苦笑し、両手を差し伸べて、子供の両側の脇の下に入れた。地面に下ろしてやる。
「ありがとう、兄ちゃん」
何の
「どうやって上ったんだ?」
「え? うーんとねえ、頑張った」
「頑張ったのはわかるけど、次からは大人の人に取ってもらいな」
うん、と子供は頷いた。念を押す。
「いいか? 兄ちゃんと約束だぞ」
その子から目を離し、道の先で遊ぶ他の子供たちの様子を窺ったときだった。
不意に低い男の声が、女の子の口から放たれた。
「
ミスリルは素早く女の子に目を戻した。何の感情もない目がミスリルを見上げていた。
驚きから目つきが鋭くなっていくのを堪えるミスリルの前で、真顔の少女は更に言い足した
「私たちが親を呼び泣き叫ぶのは、ただの反射だ。君がそのことで心を痛める必要はない。まして君が私たちを守れなかったことで、君を憎む者はいない」
この子供、そして子供たち。その正体と末路をミスリルは悟った。怒りも、痛ましさも悲しみも、何も感じなかった。
少女が少女に戻った。子供の顔つきで明るく微笑み、肩から斜めにかけたポシェットをがさごそやりだす。
「兄ちゃん、これあげる!」
小さな拳が突き出された。ミスリルの厚く大きな掌の上で拳を開き、小さな物体を預けた。少女はくるりと背を向けて走り去った。
一人残されたミスリルは、掌にあるそれを凝視した。
親指と同じくらいの大きさの、透き通る赤茶色の物体で、何であるかはすぐにわかった。
琥珀だ。
「天性……」
琥珀には、どこか深層に働きかけ、善い波動を引き起こすものがあった。魂の来歴を思い起こさせる何かが。
これをどこで手に入れたのか、ミスリルは訊こうとした。だが子供たちの中から少女を見つけだすことはできなかった。それに、聞き出す必要もないようだった。
ミスリルはこう悟った。
俺はヒトという言葉を得る前、昔、琥珀だったことがあるんだ、と。
荷車の大きな車輪が石畳を転がる音がする。ついで振動。荷車に乗っているのだとわかった。それで、ミスリルは夢から覚めた。
荷台に指を這わせて周囲の様子を探る。だるくて目が開かない。急に誰かが手を握った。
「ミスリル? ミスリル」
耳許で囁く声がする。重い唇を開いた。
「テス?」
「ああ」
同じ荷台に乗るテスが答える。
「気分はどうだ?」
「眠い」
「疲れてるんだ。でも大丈夫。終わったから……」
爆発が起きたことをミスリルは思い出した。
「テス、俺――」
「なんだ?」
「体の部品、全部ついてるか?」
「問題ない。それに」少しの間口ごもった。「ずっと戦ってた。ジェノスと子供たちを追いかけて。止めるのに必死だった」
他の仲間たちはどうしているだろう。答えるテスはどうなのだろうか。怪我はしていないだろうか。確かめたかったが、やはり目は開かず、質問をする前に、再び眠りの海に沈んだ。
夢で、ミスリルはまたもコブレンの街路に一人立っていた。
ひどく眩しかった。空を見上げて驚いた。一面真っ青になっている。透き通る天球儀の編み目模様が、青い空と地の間にうっすらと見えていた。
「おおい、おおい!」
区画の端の曲がり角に、一組の男女が見えた。慣れぬ眩しさに目を細める。女のほうが手を振っていた。
「さっきの役者の人じゃん。こっちで一緒に飲もうよ!」
(声が聞こえた。テスの声だ。『今、ラザイが塩水を持ってくる。飲めるだろうか』アエリエの声。『起きないなら起きないで仕方がないわ』手を握られた。女の手。アエリエの手。『寝かせてあげましょう……』)
夢の中。ミスリルは看板を見る。
『冒涜のねぐら』
場面が変わった。ミスリルは酒場にいて、テーブルについている。見慣れた場所のようでありながら、全く見知らぬ場所でもあった。ピンクや水色、黄色や緑の毒々しい光が狭い店内を彩っている。チューブ状の物体がそれらの光を放っており、どのような仕組みの物なのかわからない。とうの昔に退化させられた技術で作られているのかもしれない。だとしたら、そんな物があるこの場所は何なのだろう?
ミスリルは周囲の人間を観察した。
みな、見慣れぬ装束をまとっている。どれも質の良さそうな生地で、体にぴったりしており、動きやすそうだ。中には細い腰やへそが露出するような衣服の女性もいる。カウンターの奥に並べられた酒の瓶は、信じられないほど種類が多い。人々は香辛料のにおいのきつい料理を食べ、酒をあおり、卑猥な冗談を言い、行き連れの男女が互いの腰に手を回して口づけをする。
カウンターの横の、扇形の舞台だけが静かで暗かった。
観察をやめ、テーブルに目を戻す。心の中で呟いた。
なんて冒涜的な場所だ。
同じテーブルを囲むのは、見たこともない男女だった。
一つだけ知っている顔があった。
ラセルだ。
今は化生の体ではない。恐らくは彼本来の、人間の体をしていた。
ただ、奇妙なことに存在が薄い。色も形もぼやけていて、向こうが透けて見えるのだ。
そして、必死の表情で何かを訴えているが、声はない。
ミスリルは唇を読んだ。
『逃げろ、逃げろ』と言っていた。
「私たちは舞台をおりたの」隣に座る、赤い髪の、いかにも気の強そうな女が言った。「あなたはまだなの?」
ミスリルはラセルを気にかけつつも、隣の女と視線を合わせた。
「舞台?」
「そうよ、役者さん。あたしはサーリ」
先ほどの夢で、一緒に飲もうと誘ってきた女だった。
「俺はヴィル」
サーリと名乗る女の、ミスリルとは反対側の隣に座る、三十絡みの男が笑顔で名乗った。
ヴィルの隣に座るのは、太った、愚鈍そうな男だった。そいつも意味のない笑顔を浮かべて名乗った。
「おれ、ノルル……」
サーリ、ヴィル、ノルル、それにラケルとミスリルの五人で、1つのテーブルを囲んでいた。ミスリルの左隣にサーリ。右隣は空席だった。
「ああ」ミスリルは頷いた。「俺は……」と、少し考え、「……テス」
隣の空席にはネームカードが置かれていた。何となく気になって覗きこむと、
『ご予約席』
その下に名が記されていた。
『ハルジェニク・アーチャー様』
すると、椅子の上にもやもやと
「その人はまだ来れないよ」と、サーリ。「でも、そろそろ来ちゃうよね。色彩から死んでいくもんね」
「死んでいく?」
からりとした笑顔のサーリに尋ねた。
「舞台を下りるって、そういうことなのか?」
だが、同じテーブルにつくラケル以外の全員が、黙って薄笑いを浮かべるばかり。
すると店員がやって来て、ミスリルの前に逆三角形のグラスを置いた。薄い黄色の酒が入っていた。顔を近付けて観察する。そして、驚きに打たれ声をあげた。
「何だこれ! 泡立ってる!」
「発泡酒見たことないの?」
サーリの物言いには嘲りの調子が濃い。
ヴィルが、同じくらい馬鹿にした口調でたしなめた。
「仕方ないよ、この人はまだ夜の王国しか知らないんだから」
「どういうことだよ」と、ミスリル。「ここはどこだ?」
「太陽の王国さ」
頭の割れるような爆音がいきなり鳴り響いた。思わず両手で耳を塞ぐ。人々の歓声が更に鼓膜に届いた。誰もこの音量を苦に思っていないらしい。次は閃光が目を刺した。
太陽の王国の人間というのは、轟音と閃光で自分の耳と目をいじめるのが好きなのだろう。
「拷問かよ」
少しずつ目を開けて光に慣らしながら、顔を上げる。暗かった舞台に太い光の柱が幾本も下りていた。光は自ら左右に動き、やがて舞台の中央に立つ女に集中した。
「みんなー! れなれなきゅんの時間だよー!」
人々が歓声で応える。長い黒髪に白い肌の、顔立ちの良い若い女だった。だが大音量の音楽に合わせて始まった歌ときたら酷いもので、しかも何らかの仕掛けで声が不自然に大きくされているから堪らない。
「下手クソ!」
耐えかねてミスリルは吐き捨てた。たちまち大音量に紛れたが、ヴィルには聞こえていた。
「下手クソ? 何を言ってるんだ。れなれなきゅんことレナ・スノーフレークちゃんの舞台だぞ! かわいいじゃないか」
「かわいいのと歌が上手いか下手かは別問題だろ。めちゃくちゃ下手。っていうか騒音。っていうか拷問」今すぐアエリエのところに逃げ出して、彼女の歌で耳を洗浄したかった。「俺の妹分のほうが五千倍うまいな」
「お前、オブラートに包めないわけ?」
オブラートが何なのかわからないので、ミスリルはこう答えた。
「悪い。俺今オブラート切らしてるんだ」
サーリが笑い転げる。
ミスリルはすっかり嫌になってしまった。帰りたい。コブレンに帰りたい。ここは俺の場所じゃない。
と考えていると、舞台の上のれなれなきゅんとやらが歌をやめ、男のような低い声でこう言った。
「おい、ちょっとBGM止めろや」
轟音がぴたりと止み、全ての人が沈黙した。
今度は静けさが耳を痛くした。
そんな中、レナの呟きが、呟きにしては明らかに不自然な大声で聞こえた。
「今、れなれなきゅんの悪口が聞こえた気がするなぁ……」
その険悪な調子に、人々は凍りついている。
なかなか大人数を支配するのがうまい奴だ、とミスリルは感心し、できる限り気配を消した。
レナは店内にいる全員を睨みつけ、呟く。
「この中に、れなれなきゅんのことが嫌いな奴がいるのかなぁ?」
数秒後、男の声が答えた。
「そんなことないよ!!」
別の男が続く。
「ない! ない! れなれなきゅん最高!」
「れなれなきゅんかわいい!」
「れなれなきゅん! れなれなきゅん!!」
そしてまた轟音が始まった。機嫌を直したらしいレナが叫ぶ。
「そっかあ! 気のせいかあ!」
すると客たち。
「気のせーい!!」
歌が再開した。緊張して息詰めていたヴィルが、長い吐息と共に全身の力を抜いた。
「お前、怖いことするなよ……れなれなきゅん、怖いんだぞ」
「そうなのか?」
「そりゃだってもう、本性が――」
「あのレナって女、すごいムカつく」
と、サーリ。
今度は聞こえなかったようで、歌は止まらなかった。
ミスリルが尋ねる。
「本性が何だって?」
ヴィルは慌てて首を振り、同時に両手も振った。
「言えないよ。怖い怖い……」
「本性当てゲームしようよ!」
曲が終わり、舞台にまた別の誰かが出てくる気配があった。新たに歓声が上がる。ミスリルは舞台に目をやらず、サーリを注視した。彼女の提案の意味を図りかねている間に、舞台でレナが嬌声をあげた。
「はぁい、みなさまお待ちかね! 美女デュエットの時間だよー! れなれなきゅんと!」
「エーデリアぁ!!」
ミスリルはテーブルをひっくり返したくなった。
「本性って、やっぱ頭に近い場所に出るのよねぇ」
と、サーリ。
ヴィルが身を乗り出してくる。
「髪の色は赤茶色かあ」
「紅茶かなあ」
ノルルが口を挟む。探るような視線を不愉快に感じ、ミスリルは言い放った。
「俺の本性は真鴨さ」
「真鴨?」サーリが噴きだした。「鳥なの? ウケるんですけど」
「そうさ、ヒトになる前は鴨だったんだ」
「へえ、そういうこと言っちゃうんだぁ」サーリが下品な笑いを浮かべた。「自分の本性言っちゃうんだぁ」
ヴィルも、ノルルも、勝ち誇ったような目でミスリルを見ていた。
「何だよ?」
サーリが高笑いを放つ。そして叫んだ。
「本性に返れ! 真鴨!」
またも歌と音楽がやんだ。
酒場にいる全員の視線がミスリル一人に集まった。
ミスリルは座ったまま、腕組みをして動かない。
するとサーリが慌て始めた。
「なんで? なんで本性言われても本性に返らないの?」
「俺が真鴨じゃないからさ」と、できるだけ感じが悪く聞こえるように答えた。「真鴨なのは俺じゃなくて、俺の仲間だよ。残念だったな」
「こいつ、本性を偽ったぞ!」ヴィルが立ち上がり、ミスリルを指さした。「なんて冒涜的な奴だ!」
「テス、あんた何考えてるの!?」
今度はサーリだ。
「偽ってるのは本性だけじゃないみたいだけど」
舞台の上のエーデリアまで言う。ミスリルは殺気をこめて睨みつけたが、そんなことで怯ませられる相手ではなかった。
「だって、本当はミスリル君だもんねー!」
「名前まで偽るなんて!」
どこかで女が非難がましく声を上げた。
ミスリルは不機嫌に言い放つ。
「それがどうした?」
カウンター席の若い男が非難を重ねた。
「お前、よく平然としてられるよな。本性を偽ったんだぞ! どれだけのことを仕出かしたか、自分でわかってんのか?」
「ねぇ、やめようよぉ。あの人なんか怖いよぉ」
連れ合いと思しき隣の女が、甘ったるい声で男の二の腕に縋りつき、肩に頭を置く。
「ほら、怖がってる人もいるんだぞ! 謝れよ!」
ミスリルはふんぞり返って傲然と言い放つ。
「嫌だね」
複数人が口々に、信じられない、なにあの人、と騒ぎ始めた。カウンター席の男が一際大きな声を出す。
「どうして謝らないんだ、カス!」
「今自分で答え言ったじゃないか。カスだから謝らないんだよ」
背後で中年の声が呟いた。
「あいつ、頭おかしいんじゃないのか?」
続いて、
「冒涜的なんて言葉じゃ済まされないぞ」
「悪魔だ! 悪魔がいる!」
そして、決定的な一言が放たれた。
「粛清しろ!」
何人かが素早く動いたが、三歩と動かぬうちに、ミスリルはたった一言で全員を止めた。
「待て」
その威圧と貫録に、酒場は空気ごと静止する。
ミスリルは酒のグラスに手をかけた。
「飲み終わるまで待て」おもむろに酒を一口舐めた。そして一言「まずっ」
少しして、ヴィルが言った。
「度胸あるな、お前」
「まずい」と、ミスリルは繰り返す。「甘い物あるか? 口直しに」
ヴィルは、警戒しながらサーリの前にある皿を勝手に押し出してきた。林檎のパイが乗っていた。
「どうも――」
と、ミスリルは左手を皿に向けて伸ばした。
右手で三節棍を掴む。
左手を天板につけた。一気に立ち上がり、三節棍を引き抜いて、テーブル越しにヴィルの顔面に叩きつけた。
「ありがとよ!」
振り切った時、サーリにも当たった。鼻血を出すヴィルとサーリが転倒し、人々が悲鳴をあげ、ミスリルは武器を振り回す。
舞台ではレナが狂ったように笑っている。火薬の炸裂音が響き、人々が血を流して倒れていくのをミスリルは見た。
ミスリルは床に伏せた。
レナが持っているあれは、武器だ、とわかった。武器。あれは銃で――と、心と思考が硬直する。
どうして俺は、そんなことを知ってるんだ?
途端に、ミスリルはそれが何かを忘れた。
それの名も、それの形もわからず、それが放つ音も聞こえなくなり、もう見えない。
真っ白い閃きが眠りを裂いた。
激しく両目を開けた時、彼はベッドの中にいた。
「アエリエ?」
同じ大きなベッドの中で、アエリエが横向きになって眠っている。
「アエリエ!」
濃い青色の髪を広げ、疲れた様子で眠っていた。だが声は聞こえたようで、アエリエは目を開け、ミスリルを見た。
「ミスリル!」そう呼びかけてから、我に返った。「……団長」
「言い直さなくていい。聞いてくれ、アエリエ、わかったんだ」
閃きは消えていなかった。夢の興奮を引きずりながら、起き上がろうとするアエリエを押しとどめ、天籃石のランプの光の中でミスリルは訴える。
「どうしたのですか? 何がわかったのですか?」
「わかったんだ、アエリエ――」
現実的な思考が戻って来て、自分の言おうとしていることがひどく馬鹿げたことに思えてきた。
馬鹿なことを言おうとしている。
そう信じてしまう前に、ミスリルは素早く言い切った。
「宇宙の外に逃げればいい」
「ええ?」
「こことは違う宇宙に逃げればいいんだ。黎明が来る可能性がない世界に……」
頭がすっかり覚醒した。
言い切ったという自信と、馬鹿なことを言ったという失望が同時に来た。
アエリエは、まだ眠たげにミスリルを見返していた。
だが、案外彼女には、良い提案に聞こえたのかもしれない。
優しく微笑んだ。