暗殺未遂

文字数 3,791文字

 2.

 雲は厚みと重さを増し、天球儀を隠した。シンクルスは身分を偽装するために、黒い巡礼者の黒衣に身を包み、巡礼者の仮面で顔を覆い、丈の長いマントを着こんでいた。そのマントのフードをかぶって頭も隠した。
 地球人たちが遺した幾本もの大道路に沿って、多くの街や村が興った。オレー大将の邸宅があったこの村も、そうした村の一つだった。
 シンクルスはようやく見つけた食堂の戸を開けた。浮かれ騒ぐ新総督軍の兵士らの声が、外まで聞こえていた。
 酒の臭いと湿気がたちまち身を包んだ。大多数の席が酔った兵士たちで埋め尽くされ、片隅に、何らかの事情でこの村に滞在せざるを得なくなった民間人たちが一塊になっていた。
「宿はないだろうか」
 混雑する座席の間を縫いまわる店主を捕まえ、シンクルスは仮面を取らずに尋ねた。店主は初老の男で、両手に空いた皿を積み上げていた。
「ありませんよ。どこも接収されて。うちの二階も満席です」
「左様であるか」
「お食事ならご用意できますがね」
「頼む」
 店の奥、薄暗く、箱を積み上げただけの即席のテーブルがある方へ、シンクルスは向かった。仮面を取り、フードを脱がず、うなだれて料理を待った。彼は生来、天真爛漫な気質であったが、今ばかりは不安が多く、腹立たしい事や、思い通りにならぬ事ばかりで頭がいっぱいになり、陽気な気分を取り戻せるきっかけは一つとして見つからなかった。
 ザリガニ料理が運ばれてきた。つけ合せは茹でて潰したじゃがいもと、僅かな香草で、パンはつかなかった。ナイフを取ると誰かの影が料理の皿に落ちた。
 太った人夫が酒瓶とグラスを手に、目の前に立っていた。
「相席してよろしいですかね?」
 聞くなり、返事を待たずして、酒樽の椅子に座った。
「巡礼の方ですかな」
「そうだ」シンクルスはナイフとフォークを手にした。「新しい洗礼の御印(みしるし)を受け取り、救世軍に加わる所存だ」
「それが正体を隠す方便なら」
 シンクルスはザリガニを切る手を止めた。
「ここに長居は無用です」
「何の話か――」
「あなたの事ならわかっております。追っ手は近い。すぐに出てください。私の仲間は安全にあなたと合流します」
 人夫は身を乗り出し、一層声を落とした。
「裏口が安全です」
 僅かに顔を上げ、シンクルスは男を直視した。いかつく、肌は荒れ、顔には太い皺が幾筋も刻まれ、禿げあがって額が広い。目を見た。その目で民間人ではない事が分かった。
 人夫は有無を言わせぬ口調で迫った。
「さあ」
 シンクルスは店主を横目で見た。兵士たちへの対応で忙しく、こちらを見てはいない。ナイフとフォークをテーブルに置いた。巾着を取出し、食事代としてニーデル貨を一枚残した。
「後ほど」
 人夫は頷いた。
 人目を盗み、シンクルスは音もなくカウンターの跳ね戸を通り抜けた。続きの厨房に入り、一人しかいない料理人の真後ろをそっと通り抜けて、音も立てず裏口から外に出た。戸を後ろ手に閉めると、仮面が腰帯からすり抜けて地面に落ちた。
 屈んで拾い上げた。
 すると、まさにその頭上で空を切り、何かが今閉ざしたばかりの戸に当たった。
 振り向いた。
 (いしゆみ)の矢だった。
 戸に刺さっている。
 理解するまで数秒を要した。
 理解が及ぶや、シンクルスは脇目もふらず路地の奥へと逃げこんだ。直後、彼が屈んでいた場所に、二本、三本と矢が降り注いだ。路地に明かりはなく、視界の効かぬ中を、シンクルスは全力で駆け抜けた。
 辻に出た。四つ角を松明が照らし、これでは格好の的になる、と思った時、くぐもった悲鳴がどこからか聞こえた。
 ついで、どさりと背後に重い物が落ちた。人間だ。うつ伏せに倒れた体の下には弩があり、流れ出る血に濡れていく。
「よけろ!」
 誰かが叫んだ。屋根の上だと、今度は方向で分かった。だがシンクルスはそちらを見なかった。右から新手の敵が躍りかかってきていた。素早く地に倒れこみ、転がって距離をかせいだ。直前まで立っていた場所で白刃が空を切った。
 シンクルスは立ち上がりながら、マントの下に隠した武器を留め具から外した。三つに折りたたまれた棒で、眼前の暗殺者へと足を踏みこみながら円形に振り回すと、二か所の折り目が連結されて細い槍になった。同時に、穂先を覆う鞘が弾け飛ぶ。
 鞘が塀にぶつかり音を立てる時、シンクルスは上段に構えた槍で刺客の胸を貫こうとしていた。
 が、直前になって槍をくるりと返し、柄で相手のこめかみを全力で殴った。ふらつく敵に全体重をかけて飛びかかり、地面に組み敷いて、のしかかって動きを封じた。
「ただの物取りではあるまいな」
 敵の鳩尾に膝を当て、喉には槍を突きつけながら、押し殺した声で尋ねた。表通りでは略奪に気をよくした兵士たちが酔って大騒ぎを繰り広げており、その喧騒が路地の闘争を隠していた。角の松明の火が、刺客の青ざめた顔の上で赤く揺らめいていた。刺客は側頭部を打たれたショックで呆然としていた。
「答えよ! 誰に雇われ俺を狙った!」
 すると、背中に鋭い物を突き付けられた。マントと黒衣を通してその冷たさを感じた。殺意の鋭さと、情の割りこむ余地のない、闘争の冷たさだ。
「お前のよく知る南東領の男だよ、ライトアロー正位神官将」
 背後に立つ新手の刺客が感情のない声で言った。
 背中に冷たい汗が浮く。
「雇い主からの伝言だ」刺客は鼻で笑った。「『やはり貴様の死体は確認しておくべきだった』、と言っていたよ」
 その一言だけでシンクルスは理解した。目を見開く。口が自然に動いた。
「ソレスタスの――」
 だが、二十五年の人生が終わろうとしている今それを知っても遅かった。あてがわれた刃が力をくわえられ、皮膚を貫こうとするのを感じた。
 援助が現れたのはその時だった。
 誰かがシンクルスと二人の刺客の後方で呆れた声をあげた。
「詰めの甘さを悔いるには、時間が経ち過ぎたんじゃないか?」
 中年の男の声だった。背中から刃が離れた。互いに踏みこみあう、ざっ、という音。剣のぶつかり合う音が背後で続いた。シンクルスは全身に力をこめ、身を乗り出すようにして、組み敷いた敵の固い胸に槍の穂先を押しこんだ。胸郭を破り肺を貫く固い手応え。刺客は体を弓なりに反らせて、目と口を日開いた。口から血が噴き出てきた。
 立ち上がり、死体を踏んで槍を引き抜きながら振り向いた。食堂で出会った人夫が、その背後に立つ何者かによって口を押さえつけられていた。目はシンクルスを見ていた。戦いのさ中で殺されていく者の目。絶対に許さぬ、という目。
 刺客の後ろに隠れた素性不明の救援者は、ダガーで刺客の喉を裂いた。悲鳴も上げず、血を拭き上げながら、人夫は血に倒れこんだ。
 そうして味方の姿が松明に照らし出された。
 がっしりした体格で、火に照らされダガーの血を拭いている姿は、堂堂と落ち着いており、何故か力強いばかりでなく、知性的に見えた。顎ひげを生やし、髪は色の薄い金髪。長く伸びっぱなしで、背中で雑に束ねている。その中年の男をシンクルスは知っていた。知っていて、なお信じられず、呆然と見つめ続けた。
「いつまでぼけっとしている?」
 男はダガーを鞘に納め、歩み寄ると、シンクルスの目を鋭い眼差しでじっと覗きこんだ。
「よもや私を忘れたではあるまいな?」
「忘れるわけがなかろう――」夢を見ているような心地で、シンクルスは男の名を呼んだ。「アセル・ロアング中佐殿」
「覚えていてくれて光栄だ。鞘を拾え。行くぞ」
「何故ここに」
「話は後にしたまえ。表の兵士どものバカ騒ぎはじきにここにまで押し寄せるぞ」
 シンクルスは口を噤み、男の顔を凝視した。
 この男アセルは陸軍情報部の士官だった。並みならぬ縁がある。西部のシグレイの軍にいるはずだった。何故――。
 とにかく鞘を拾い、槍を畳んで元通りマントの下に隠した。来い、と手で合図され、辻の奥の奥、家々がまばらになり、ついに真っ暗になる所で、アセルはやっと言った。
「君が罷免された事は知っている」
 川に出た。ついぞ雨が降り始めた。マントのフードをかぶる。仮面を失ってしまった事に気が付いた。巡礼の衣裳と共に、旅立ちにあたり部下の神官たちが贈ってくれたものだった。最初の矢を回避するという幸運をシンクルスに与え、役目を果たしたから消え失せた……そんな気さえした。
 アセルは続けた。
「その文書に付属していた、オレー大将から君への個人的な親書の事もだ。オレー大将に合流しろと書いてあったな。だがそれまでに大将の身に何かあったら、シグレイに合流しろと。それを読んだから君は抗議書をしたためもせず、直ちに荷物を纏めてここに来た。そうだろう」
 アセルは雨から身を守る物を持っていなかった。雲に僅かに天球儀の光が滲んでいるため、よく目を凝らせばアセルの姿を見失わずにいる事ができた。
「何故その事を?」
「何故だと? 情報部が普段何をしていると思ってる?」
 アセルは雨の中で肩を竦めた。
「街道の事故で遅れてしまってな。合流に手間取ったが、とにかく、君を保護しに来た。君にはシグレイの『反乱軍』に合流してもらう」


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み