すぐ楽にしてくれよう

文字数 9,572文字

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 シルヴェリアの第一師団は、他の幾つかの部隊とともに、第一城壁の西側から軍用道路を通ってシオネビュラ入りを果たしていた。居住用に転用可能な施設が大隊ごとに割り当てられ、連隊単位で宿営準備の監督が行われるのだが、終了予定時刻より三十分を過ぎてもまだ全部隊の入営が終わらなかった。
「よくわからん地図じゃ」
 シルヴェリアが師団本部となった倉庫会社の管理棟で、西神殿前の地図を睨み不機嫌に唸った。
「随分とでたらめに書いてありますねぇ」フェンが後ろから覗きこむ。「しかも意図的に」
「ただでさえ入り組んでおるというのに、何じゃこれは。何のつもりじゃ」
 防衛のため、正確な地図が渡されるはずがないことは知っていた。それにしても悪意があるとしか思えない出来だ。既に二度、利用施設の勘違いを巡って別の師団の部隊とシルヴェリア師団の部隊との間で騒動が起きていた。
 だが、要領のいい指揮官がいる部隊はさっさと入営を終わらせている。地図にはある規則性があり、暗号のようなそれを読み解けば早く目的地にたどり着けるのだ。
 つまり有能、無能の程度を各指揮官は如実に見せつけられるわけだ。
 これを考えた奴はフェンに匹敵する人間関係破壊装置に違いない。
「このでたらめな地図の上で、シオネビュラ神官団はいつでも一万五千の歩兵を動かせる。そういう脅しですよ」
 シルヴェリアは水色の目に鋭い光を宿し、後ろで微笑むフェンを見やった。
「その一万五千の内、下馬の騎兵はどれほど含まれるのじゃ?」
「騎兵の数は六千ですね」
「そんなに騎兵がおるのか。金持ちじゃのう」
「ところでシルヴェリア様」フェンがジャケットの内側に手を入れて、その豊満な胸でよく温められた一枚の紙と一通の書状を抜き出した。「ここに一枚、正確な地図がございます」
 シルヴェリアは紙をひったくる。手書きだが、主要な通りや施設の記号が分かりやすく描かれた地図で、ある区画の建物の一つに赤い星が描かれていた。
 実母パンネラ・ラウプトラの生家。
 ラウプトラ邸だ。
「……これをどこで?」
「つい先ほどラウプトラ邸から使者が来まして。追い返してもよかったのですが、何せ書状の差出人はシルヴェリア様の妹御、エーリカ様ですからね」今度は書状を差し出した。「ラウプトラ邸への招待状ですよ」
 第一歩兵連隊に新規配属された二人の大隊長は凡庸だった。だが裏切り者であったり実は化け物であったりするより百倍良い。少なくとも愚かではない。二人は先に入営を終えた連隊副長リャン・ミルトに、地図解読の援護を頼んでいた。
 ミルトと同時期に作業を終えたヨリスは、一切他人の手伝いをせずに自分の大隊の仕事を着々とこなした。新任の大隊長たちもヨリスを頼ってこなかった。嫌われているのではない。怖がられているのである。
「チェルナー上級大尉」
 ヨリスはユヴェンサを呼び出して、地図を渡した。赤いインクで線と地図記号が修正されている。
「私なりの解読で正しい道を書き足した。君のところの小隊長たちを連れて、練兵場の位置を確認してきてくれ」
「はい、ヨリス少佐」
 ユヴェンサは熱意と敬意のこもる目でヨリスに答えた。
「結局この地図もアテにならないじゃん……」
 ユヴェンサに言いつけられ、ついて歩きながらヴァンがぼやいた。アイオラとアウィンも一緒だ。
「そうだね」と、ユヴェンサ。「多分、書き足された部分は正確だ。ただ」少しだけ言い淀む。「――あの人が書いたものは、あの人にしか読めない」
「うわあ! さすがはヨリス少佐だね! 悪意がないぶんたちが悪――痛いっ!」
 アウィンが後ろからヴァンの後頭部を叩いた。
「お前は思ったことを何でも正直に口に出すな!」
 リレーネは、ユヴェンサたちと筋を一つ違えた路地で道に迷っていた。反乱軍のいかなる部隊も見つけられぬばかりか、元いたホテルの場所さえわからなくなり、途方に暮れていた。
 人に出会ったら道を聞こう。ユヴェンサたちを見つけたのはそう決めたときだった。男女の賑やかな話し声が聞こえ、顔を上げたら集合住宅を挟んだ向こう側の路地を進むユヴェンサたちの姿が見えた。
 懐かしい人たち。
 アイオラも、アウィンも、ヴァンも一緒だった。
 心許なさに覆われていたリレーネの顔が晴れる。
「ユ――」
 口が塞がれた。体がふわりと後ろに引かれ、そのまま建物と建物の隙間へと連れこまれた。
 卑しく邪悪な視線を感じた。体は硬直し、思考は凍り付いた。
「ほらな。やっぱり上玉だぜ」
 袖口の模様で、王領軍の兵士だとわかった。
 顎を上げ、視線を上に向ける。
 よくわからないが、複数人いることだけは確かだった。
 一人が囁く。
「なあ、やっぱまずくないか?」
「何怖じ気づいてんだよ。俺たちの宿営所でヤッちまえばバレねぇっての。それに」
 リレーネは思い出す。
「難民が一人二人いなくなったところで誰が気にするんだよ?」
 リージェスに王領軍と救世軍にだけは関わるなと言われていたことを。
 一方ユヴェンサは、目に入る連合軍兵士の数が増えてきたことに困惑していた。反乱軍と連合軍のクッションとして難民たちの受け入れ区画があり、どうやらその受け入れ区画に入りこんでしまったようなのだが、悪いことに、どんどん連合軍宿営地寄りの区画へと進んでしまっているらしい。敵意のこもった目が刺さる。
 一番後ろを歩くアイオラの足許に何かが飛んできた。石だ。石は、前を歩くユヴェンサの足許まで舗道を滑っていった。
 また石が飛んできて、今度はヴァンの隣の街路樹の幹に当たり、落ちた。
 四人の顔が強ばる。自然と無言になる。
「中隊長」アイオラは後ろから声をかけた。「一旦、引き返した方が――」
 引き返した場合、ヨリスがどのように反応するかユヴェンサはありありと想像できた。無表情で言うのだ。『愚か者。石ころの一つや二つで何故すごすごと退散した』ああ、血も涙もない。
「そうだね」頷いた。「数を揃えてまた来よう。四人というのはまずい」
 そう答えたユヴェンサは、頭上に気配を感じて跳びのいた。重い音を立てて、鉄の兜が舗道に落ちてきた。中に石が詰めてある。王領軍の装備品だ。大きく嘲り笑う声が、兜の投げ落とされた建物から降ってきた。
 酒瓶が横手から飛んできた。ユヴェンサは吊り具から剣を外すと、鞘を抜かずに振るって瓶を叩き割った。ぶどう酒とガラス片が散る。
「戻るぞ。武器は抜くな。刃を見せたら襲いかかってくる。騒動を起こさせるのが狙いなんだ」
 四人は元来た道を引き返すべく、踵を返した。
 今度はアウィンが再後尾についた。道の左右からの飛来物は、次第に激しさを増していく。石や兜のみならず、バックラーまで飛んできた。それがぶつかりそうになり、ヴァンが驚いて叫ぶ。アウィンが後ろから腕を強く引いて回避させた。ユヴェンサが振り返らずに呟く。
「突っ切るぞ」
 走り始めたところで、進行方向に煉瓦や木材が降ってきた。背後からも、左右の路地からも、兵士たちの足音が迫ってくる。どうしても武器を抜かざるを得ない状況に追いこむつもりだ。
「駄目だ。立てこもろう」近くの、住居兼店舗の三階建ての建物の戸に手をかけた。接収の際の決まりとして、鍵はかかっていなかった。難民たちにも使われていないようだ。生地屋だった。「救助がくるまで長引くかもしれない。覚悟しろ」
 三人の部下を中に引き入れると、真っ暗な店舗の内鍵をかけた。扉に、一斉に石や何かがぶつかり、大きな音を立てた。アウィンとヴァンが大急ぎで見本棚や裁断用の作業台を動かし、戸の前でバリケードを作る。ユヴェンサとアイオラはそれぞれ二階、三階へと駆け上がり、他に人がいないことを確かめた。
 四人とも、表に面した三階の角部屋に集まった。協力し、ベッドとチェストで手早く戸口を封鎖する。
「出て来いよ! 負け犬シグレイの手飼い共!」窓の鎧戸に石がぶつかった。「軍人のつもりなら出てきて戦いな! それともその剣は飾りか?」
 笑い声。
「火をつけてやろうぜ」別の声が言った。「あぶり出すんだ」
「どうしよう」暗い部屋で、鎧戸の隙間から漏れる細い光に顔を染めながら、ヴァンがユヴェンサとアイオラ、そしてアウィンの顔を順に見た。「これじゃ、助けが来るまでもたないよ」
 アイオラが頷く。
「早く事態を師団に知らせないと。騒ぎを大きくすればいいわ。大きくなればなるほど、早く気付いてもらえるはず」
「ふむ」と、ユヴェンサ。「だったら簡単だな」
 一分後、三階の窓の鎧戸が内側から開かれて、騒ぎ立てていた王領軍兵士たちが少し静まった。その窓の内側で、男二人が声を合わせた。
「行くぜ! せーの!」
 すると、小型の本棚が窓から投げ落とされた。本棚は、群れ集う兵士たちのど真ん中に落下した。多くの兵は悲鳴に近い大声をあげて逃げたが、運悪く逃げ遅れた一人の兵士の頭に直撃し、意識を奪った。倒れた兵士のすぐそばに、角を下にして本棚が落ち、ひしゃげた。
 兵士たちは静まった。倒れた仲間に駆け寄り、安全な場所に運んでいく勇気は誰も見せなかった。
「よぉう、王領軍のカスども!」窓辺に、アウィンが姿を見せた。「悪ぃ悪ぃ、急に模様替えがしたくなって動かしてたら手が滑っちまったんだよな! で、誰かそのかわいそうなのを助けてやれよ。それとも輪になって人が死んでいくのを見るのが好きなのか? ひょおっ、悪趣味!」
 右手にはナイフを持っていた。これ見よがしにもてあそび、街灯に刃をきらめかせる。
 怒りの声が一斉に上がった。
「ただで済むと思うなよ!」
「なに? ただでは済まさないって? おお、怖っ。じゃあこっちもどうしよっかなー。怖いなー。ぶるぶる来ちゃってついうっかり勢いよく剣とかナイフとか落としちゃいそう」ナイフを手に取り、切っ先で倒れた兵士を指す。「そいつの上とかにさ」
 すると、もう一つの鎧戸が勢いよく開け放たれた。今度は女二人が声を合わせる。
「せーの!」
 今度はガラスのコレクションケースが降ってきた。誰にも当たらなかったが、兵士を束の間散らし、大声で騒がせる効果はあった。
「聞いたか、今の声。女がいやがるぜ」
 比較的冷静な兵士の声。アウィンが答える。
「おおよ。俺の自慢の上官と自慢の同輩だ! 羨ましいだろう」
「羨ましいもんか! 女とつるんで嬉しいなんて、お前はオカマ野郎か?」
「オカマ野郎はどっちだよ。知ってるぜ? お前ら王領軍は風紀が乱れすぎてるせいで、女性兵士を受け入れられないんだってな。来る日も来る日も野郎のツラばっか拝んでるんだろうが。アッチの始末はどうしてるんだ? 男同士でやってんのか?」
 と、窓の外に尻を突きだし、叩いて挑発する。
 アイオラが嘆いた。
「下品……」
 下から一斉に物が投げつけられるが、窓の内側に入ってくる物はなかった。ユヴェンサが同意した。
「ああ。本当に下品だな……」
 難民たちの受け入れ地区での騒動は、ユヴェンサたちの予想よりも早くヨリスに知らされた。補給地点から師団宿営地に戻ってきたミルトの大隊の士官と立ち話をしたミズルカが、練兵場に向かったはずのユヴェンサたちとはすれ違わなかったと聞き、不安に思って大隊本部の兵士に探りに行かせたところ、すぐに戻ってきて騒動を知らせたのだった。取り囲まれた建物の窓辺にアウィン・アッシュナイト中尉の姿が見え、敵兵たちの気を引きつけていた、残る三人の行方はわからない、と。
「すぐに兵士を送りましょう」
 ミズルカは、強攻大隊の指揮所となった製陶会社のエントランスで、ヨリスに身を乗り出し言った。
「そんなことをしてみろ。すぐに収拾がつかなくなる。反乱軍側に先に剣を抜かせるのが奴らの狙いだろう」
「ですが」
「私が直接行く。ディン中尉」
 ヨリスはミズルカの隣を通り抜け、外に向かった。
「はい」
「マントを持ってこい」
 ミズルカが全力で大隊長の執務室に走っていき、ヨリスのマントを抱えて出てくるのを見て、廊下で二人の護衛兵士たちが顔を見合わせた。
「少佐が出かけるぞ」
 もう一人が頷いた。
「ディン中尉、急いでたな。何かあったんだろうか」
「何かあった?」もう一人が目を輝かす。「少佐の戦うところ、見れるかなあ」
「馬鹿! 市内でやりあうようなことになったら大問題だよ。お前は留守番してろ。大隊長殿とは俺が行く」
「ずるいぞ! おれも行く!」
 階段を下りると、残る三人の護衛も玄関口に向かって急ぎ足で歩いているところだった。
「おい、ヨリス少佐が出かけるぞ」
「知ってるよ」
「なんであの人、おれたち護衛に声かけてくれないんだろうなあ」
 一人が、恐らくもっとも正解に近いと思われることを呟いた。
「他人に護衛される必要性を感じてないんじゃないの……」
 護衛たちは通りに出てすぐヨリスとミズルカに追いついた。ようやく宿営区画にたどり着いた第一・第二大隊の兵士らが、居住区の割り当てを巡って、ああだこうだと言い合いをしていた。
「ヨリス少佐! ご一緒いたします!」
 ヨリスは振り向き、五人の護衛の顔を無感動に眺めた後、低い声で呟いた。
「五人も来なくていい」
 一人が、隣の兵士の脇腹をつついた。
「お前残れよ」
「何でだよ、お前が残れ」
「おいお前、ここに着く前足が痛くて堪らないって言ってたよな」
「治ったよ! お前こそだるいだるい言ってたのどうしたんだよ」
「もういい」ヨリスがうんざりして口を出す。「時間の無駄だ。全員来い」
 こうして一行はカルガモ親子のように難民居住区へ繰り出した。連合軍よりの区画へと、躊躇なく突き進んでいく。石畳の舗道を上に行き、下に行き、連合軍の兵士や士官とすれ違い、彼らを一瞥することもなく、しかし全身から威圧の気を発し、そうして何らちょっかいをかけられることなく目的地に近付いていった。
「嫌!」半ばやけになった少女の叫び声が、別の筋から聞こえてきた。「いやいやいやいやいやいやいやいやキイイイイイイィ嫌ですってば嫌ったらいやいやいやいやキィやあぁ!!」
 聞いているとだんだん「いや」の意味がわからなくなってくるほど「いや」を連呼している。難民か市民の娘がちょっかいをかけられているのだろう。その娘の声が突然、「いや」以外の言葉を叫んだ。
「リージェスさん!」ヨリスは思わず足を止めた。「リージェスさぁん!」
 リージェス。あのリージェス・メリルクロウのことだろうか。そういえば少女の声にも聞き覚えがある。ヨリスはくるりと爪先の向きを変え、叫び声の聞こえる筋へと入っていった。
 リレーネは左の二の腕を痣ができるほど強く掴まれながら、踵に力をこめて踏ん張り、兵士たちに抵抗していた。王領軍兵士が嘲笑う。
「叫びたいだけ叫べよ、どうせ誰も助けにこねぇから」
 するとまた「リーイージェースー」息継ぎをし、甲高い声で「さああああぁーんっ!!」
「うるせぇな!」別の兵士が痺れを切らした。「こいつもう、ぶん殴って連れて行こうぜ」
 舗道に積もった砂が踏みにじられてこすれあう、ざっ、という音がした。同時に殺気が飛んできて、兵士たちとリレーネは、本能の警告のまま沈黙した。
 彼らの行く手に一人の将校が立ちはだかっていた。細身で黒髪の、燕脂色の軍服を着た男で、その男が殺気の発生源だった。
「娘から手を離せ」
 ヨリスは低く、ゆっくりと言った。つい言われるままに、王領軍兵士は手の力を緩めてしまった。リレーネは光明を見て顔を綻ばせた。
「ヨリス少佐!」
 黒いマントには、反乱軍の少佐の地位を示す房飾りがついている。
「見ろよ、コイツ、反乱軍の士官だぜ」兵士の一人がささやいた。「なんだよ、やる気か――」
「警告はこれで最後だ」それをヨリスが遮った。「娘から手を離せ」
 不思議な魔力で、リレーネの腕を掴んでいた兵士は、無意識のうちに完全にリレーネを解放した。その様子に気付かずに、先頭の兵士が前に出た。
 ヨリスはその兵士の肝臓に、左手で正拳突きを叩きこんだ。すぐさま右足を振りあげ、近くにいた兵士の鳩尾に足をのめりこませて壁に叩きつけた。ついでだ。
 一瞬で二人が沈むのを目の当たりにし、残る二人はその場に凍りついたが、ヨリスが動くと金縛りが解けて、倒れて反吐を吐く仲間を置いて逃げていった。
 リレーネは叫び通しだったせいで顔が上気しているが、それ以上にこの再会を喜んでいる様子がヨリスに伝わった。
「ヨリス少佐、ご無事でなによりです。心配しておりましたわ」
「なぜ君がここにいる? 都に移送されたはずだが」
「北トレブレンで第二大隊の襲撃を受けたのです。ですが、リージェスさんが戦って守ってくださいましたわ」
「メリルクロウ少尉はどこだ?」
「お買い物に出かけておられますわ」
「彼は買い物に出かける際、どこか安全な場所に留まっていろと君に指示したはずだろう。護衛武官の同行なく動き回るとは感心しないな」
 リレーネは悲しげな顔をして俯いた。
「何も叱っているのではない。それで、何をしていた?」
「あなたたちがシオネビュラに宿営されると聞いたのです。シルヴェリア様に事態を説明し、保護をいただこうと……」
 ヨリスは頷いた。
「ラスコー一等兵! それからマルケト一等兵、グロースター一等兵」
「はい!」
「リリクレスト嬢を師団本部へ護送しろ」
「ヨリス少佐」リレーネが身を乗り出して続けた。「先ほど、ユヴェンサさんが歩いて行かれましたわ。あちらの筋の道を、あの方向に」と、指を差す。
「情報に感謝する」
 リレーネは、ヨリスがくるりと背を向けるのを見た。立ち去っていく。鋭い痛みが懐かしさを伴って胸を刺した。私はこんなふうに、この方の背中を見送ったことがあるわ。南東領言語の塔。太陽の王国で。最後の戦いに向かわれるのを……。
 リレーネの情報は間違っていた。彼女自身、入り組んだ路地を恐怖に陥りながら歩かされている間に、どこが元々自分のいた道で、どこがユヴェンサたちを見かけた道か、すっかりわからなくなってしまったのだ。
 ミズルカと二人の護衛を連れたヨリスは、難民居住区と連合軍宿営地を隔てる大きな通りに出た。そこで、はたと足を止めた。
 通りの左右に連合軍兵士がたむろし、中央を、やはり連合軍兵士たちが行き交っていた。
 道の左側でなにやら話し合っている、一個分隊と思われる十人程度の兵士たちは南東領の軍装だ。道の右側で荷車に車輪をはめ直しているのは西方領軍兵士だ。槍をきらめかせて道の真ん中を喋りながら歩いているのは、どこかの神官兵だった。
 全ての目がヨリスに集まった。
 ヨリスはしばし立ち止まったのち、引かず、通りの真ん中を堂堂と歩き始めた。理由の半分は、騒ぎの中心地に向かうには人が多い所でその流れに沿って歩いたほうが都合がいいからであり、残る半分は性分、つまり意地だった。
 連合軍兵士たちが色めきたつ。道に、神官兵や各天領地の兵士たちが溢れてくる。一人の神官を中心とする一団が、正面から駆けつけてきた。
 これ以上物理的に接近すれば、武力衝突は免れない。
 それほど近くまで引きつけてから、ヨリスは足を止め、声を張り上げた。
「我が名はマグダリス!」
 正面の神官兵たちが動きを止めた。先頭の神官が足を止めたせいで、二列目、三列目の神官兵が前の神官兵にぶつかる。対応を決めかねて腰を浮かせていた道沿いの兵士たちも、見守ることに決めたようだ。
 ヨリスは続けた。
「事情によりこの道路を使わせてもらう! 死にたくない者は道をあけろ! 決闘を望む者のみ退かぬがいい!」息継ぎし、低く、しかしよく通る声で締めくくった。「刃向かう者は殺し尽くす……!」
 一斉に驚嘆の声があがった。敵軍将校の度胸への驚嘆であり、その凛々しさ、己の宣告に対する本気の度合いに向けた驚嘆であった。
 足を踏み出すと、神官兵たちがそそくさと右により、道の中央をあけた。ミズルカも、覚悟を決めて早足でついていく。二人の護衛が背後に並んだ。
「まさか、あの強攻大隊のマグダリス・ヨリスか?」
 ざわめきの中からそう聞き取れた。
「腕章を見ろ」
「マントで見えないよ」
「なあ、まさか」震える声が左手側からした。「さっき俺たちがちょっかいかけたのって、まさかヨリスの強攻大隊の……」
「誰なんだよ。俺より強いの?」
「お前知らないのかよ! あの男だけはやめておけ!」
 という、左手側からの叫び声。少し遅れて右手側から、恐怖の声があがった。
「北トレブレンの百人斬り隊長!」
 ヨリスは前だけ見続けた。
「北トレブレンだけじゃないぞ。あいつは二年前にリセナラで、救世軍の部隊を一人を残して皆殺しにしたんだ」
「待て、俺は南東領の人間だが知ってるぞ!」再び左からの声。「新任少尉時代に、サマリナリアの城壁で、たった十一人を率いて中隊規模の包囲を突破したって語り継がれている」
「オレは見た! あいつは槍を持った五人の神官兵に取り囲まれて、ナイフ一本で皆殺しにしやがったんだ!」
「俺も覚えてる」震える声が続く。「見たんだ。昔所属していた大隊で、大隊長から小隊長まで十六人に決闘を挑まれて、一人で無傷で勝ち抜けたんだ」
「マジか。人間じゃねえぞ……」
「歩く殺戮装置のヨリス!」
 それは、戦場で獲得した数ある称号の中で、最も有名なものの一つだった。続けて、
「狂犬マグダリス!」
 懐かしいあだ名が聞こえてきた。
「私の右耳を見ろ! この耳たぶは学生時代にあの男に食いちぎられたんだ」
 突き進むヨリスの前に初めて、立ちはだかる者が現れた。
 女性士官だ。まだ若く、副官の銀色のたすきをかけている。腕組みし、不遜な笑みを浮かべて仁王立ちで待ち構えていた。女性士官の後ろには、巨大な荷車が控えていた。積み荷は継ぎはぎされた大きな布で覆い隠されている。
 決闘者の礼に則り、女性士官は高らかに名乗った。
「我が名はレナ!」
 声音を変え、十歩の距離を挟んで立ち止まったヨリスに甘ったるい調子で語りかけた。
「マグダリスと名乗ったのはお前?」
「そうだ」
「決闘を受けてたつわ。ただし」
 腕組みを解き、肩の前で指を鳴らした。左右から、ロラン・グレンの新総督軍の兵装に身を包んだ兵士が駆け寄って、一斉に荷車の布を払った。
 あまりに醜悪な生き物が、鎖で捕らえられていた。
「『捕食者』サーリ。こいつと戦って生き延びたらね」
 連合軍兵士たちの大部分にとっても、それを目の当たりにするのは初めてだった。
 各々が短い呻きを漏らし、言葉もない。
 錠と鎖が外されていく。
 ミズルカも、護衛兵士も、本能的に目を伏せて、捕食者の直視を避けた。視界に入り蠢く巨大なタコの脚や蛾の羽根を見るだけで十分すぎた。
 それは、人や、様々な獣の声で呻いており、臭かった。言語生命体のなれの果て、己にも降りかかりうる惨い運命。
 静寂の大通りで、ヨリスだけが捕食者を真正面から直視していた。
 サーベルに右手をかける。
 それを抜く。ちりちりと、火花を散らすように。
 初めから本気だった。左手でナイフを抜いた。
「憐れな……」
 腕を上げ、頭の上で、サーベルとナイフを交差させた。それを勢いよく振り下ろし、悪臭で汚れた空気を切り裂く。
「すぐ楽にしてくれよう」

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