歌ってくれ

文字数 1,966文字

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 コブレンに潜入した三組のうち、ミスリル、アエリエ、オーサー師の三人が、一番最後に隔離病棟に帰り着いた組だった。百人余りの団員たちと、先に帰った六人だけでなく、十人ほどの非番の病院職員までもが起きて待ってくれていた。昔からコブレン自警団の活動に理解を示してくれる人たちで、わけありの患者の護衛を無償で引き受けたこともある。さすがに患者たちは寝静まっているので、病院の中庭で、静かに無事を喜びあった。
 死亡者どころか、一人の負傷者もでなかったことでミスリルは安堵した。
 ただ、直ちに報復活動が行われる恐れがあった。最大限の警戒を敷くよう団員たちに指示し、他の二組から詳細報告を聞き取り、副市長と救出したその家族の今後の脱出路について本人たちを交えて話し合い、それが終わってから身を清めた。寝室に戻ったときには、零刻まで二時間を切っていた。
「団長、よく休んでくださいね。五時になったら起こしに来ますから」
 アエリエが、ミスリルのベッドの周りを片付けながら微笑んだ。本を読みながら寝る癖があるので、数冊の本と栞がいつも枕もとに散らかっているのだ。さすがに今は、寝る前に本を読む気力などない。
「お前こそ」万一の際にすぐ動けるよう、戦闘に適した服装で、ミスリルはベッドに腰を下ろした。「俺の世話してないで休めよ。お前も疲れてるだろ?」
「はい」アエリエは本をサイドテーブルに重ねて置いた。微笑んだままだ。「ですので、ちゃんと休みますよ。あなたが休まれるのを見届けましたら」
 物腰柔らかだが、言い出したら聞かない女だということはよくわかっている。気がかりなあれやこれやのために、または寝入りばなに訪れる閃きのために、ミスリルが休息を放棄するのではないかとアエリエは案じているのだ。
 ミスリルはベッドの上に仰向けに横たわった。腹に布団を掛け、前髪を払いのけて、額に左腕を置く。すると、立ったり座っていたときには感じなかった疲労がいきなりのしかかってきた。布団を胸まで引き上げた。
「先頭に立って、一番よく戦われましたね」
「当たり前だ。リーダーだぞ」
 ミスリルは瞬きを繰り返した。疲れているにも関わらず、目を閉じるのが嫌だった。
「なんだか、全部悪い夢みたいだな」
「ええ」
「何からどう考えればいいのかわからない」
「考えないで、眠ってください。明日になれば良くなります」
「アエリエ」
 ベッドの横に片膝をつき、アエリエがすぐ近くで囁き返した。
「何でしょう?」
 思いの外弱々しい声で、ミスリルは気弱なことを言った。
「……目が覚めたら、『夢じゃなかった』って言ってくれ」
 アエリエは堪えきれず、ミスリルの右手を握り、白い手に力をこめた。
「ええ」すぐに手を離した。「眠れないのでしたら、歌って差し上げましょうか?」
 ミスリルは天井を見つめたまま頷いた。
「頼む」
 さっきまであれほど張りつめていたミスリルは、今はもうすっかり無防備だった。体も心も。優しい気持ちが広がるのを、アエリエは止めなかった。その広がりに意識を委ねた。アエリエは、今でもミスリルを弟のように思っていた。愛しいミスリル。歌なんていくらでも歌ってあげる。
 彼が安らげるためなら、できる限りのことをしてやるつもりでいた。団長になってから、ミスリルは、本当に笑わなくなってしまったのだから。
 アエリエは上着のポケットから、紐で繋がれた二枚の板を取り出した。銅をベースとする合金で、掌よりも小さいが、厚みがあり、ずしりと重い。
 これはティンシャという楽器で、地球時代に廃れた物を誰かが復活させたものだ。ミスリルが己の武器と武術に対して抱くのと同じ愛着を、アエリエはこの楽器に抱いていた。本来は楽器ではなく、宗教的な儀式で用いていたという。そこがまた、気に入っている理由だった。
 紐の中央を右手の中指にかけ、親指と小指を、板の結び目の少し上にかけた。親指と小指の間隔を狭め、二枚の板を触れあわす。
 高く澄んだ音が、波紋となって額に当たり、頭の中を通り抜けて後頭部から出ていった。
 もう一度、少し強く鳴らした。
 音の波動が雑念や不安を鎮め、運び去る。
 アエリエは、深い藍色の目をミスリルの目に注いだ。血の混じった琥珀というものがあるのなら、彼の瞳と同じ色をしているだろう。怖いくらいに目力のある、その目が穏やかになっていく。そして、瞼を閉ざした。ミスリルは左腕を、閉じた瞼の上へと動かした。アエリエは音をたてずに息を吸い、打ち鳴らすティンシャの響きに歌を乗せた。


 古い嘆きの木霊する 鳥籠の彼方より
 遠くの天性が吾を呼び給う 歌えや
 歌は水 水は霊感 霊感は光へ導く
 光は火と支配の軛を断ち切り 星への道を示さん……


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