トレブレン防衛

文字数 2,504文字

 3.

 その日北トレブレンで起きた事をシルヴェリアが知るのはかなり後になる。
 シルヴェリアが滋養酒の栓を開けていた正にその時、新総督軍の一個分隊が、第三軍団右翼、第三師団目前の橋を越えて偵察に来ていた。彼らは光を反射する鎧兜の類は身に着けず、黒いマントに身を包み、じっと丘の上を窺っていた。
 視察のさ中、分隊長が密かに天籃石を草の上に置き、それを幾重にも覆う布を取り払った。そうして自分は早急に闇へと後ずさって消えた。
 前方の闇に目を凝らしていた憐れな兵は、上官を呼ぼうと後ろを振り向き、自分たちが無防備に照らされている事に気が付いた。彼は慌てて天籃石を蹴飛ばしたが、遅かった。すぐにダーシェルナキ軍からの最初の矢が飛んできた。
 たちまち新総督軍の、危急を告げる呼び子が吹き鳴らされた。呼び子の音は一触即発の両陣営に鳴り渡り、もはや止められなかった。

 ※

 連合軍は縦隊を組んで五つの橋を渡り、北トレブレンに押し寄せた。反乱軍の長弓による射撃の雨がそれを迎え撃った。
 辛うじて矢の届かぬ後方で、渡河を終えた一部隊が、突撃には参加せず、川沿いに縦隊を組んだ。救世軍の大隊であった。彼らは川を遡り、第三軍団最左翼のトレブレニカへ押し寄せた。
 トレブレニカでは大急ぎで民間人の輸送が開始された。避難民を満載した荷馬車の列が、なだらかな畑を越えて、北の森へと進んでいく。その列が森へ至るつづらおりになった坂道に差しかかると、密かに進行していた救世軍の大隊は、一斉に松明に火をつけて掲げ、荷馬車を守る強攻大隊の第二中隊と半数の弓射中隊に襲い掛かった。
 強攻大隊の兵たちは、重い荷車を曳きながら、伏兵が潜む森へと応戦しながら追い詰められていく。
 車列の半数が森に吸いこまれた時、森の中の伏兵が強攻大隊の隊列に襲いかかった。闇の森で、鬨の声が上がる。
 ヨリスはその様子を、トレブレニカの北の外れの幽霊館、いみじくも母が身を投げたその屋上に立ち、無表情に見つめていた。
 隣の喇叭手が大きく息を吸う。
「まだだ」
 片手で制した。腹を膨らませたまま、喇叭手は固まった。
 つづらおりの道路。その真ん中に、一か所だけ大きく開けた場所がある。縦隊のしんがりが応戦しながらその位置にたどり着くタイミング、縦隊の前列がそこまで引き返すタイミング、敵の伏撃部隊がその一か所に殺到し、渋滞によって機動が停止するタイミング、そして喇叭の音が届くタイミング。
 それを見抜き、ヨリスは片手を翻した。
「よし」
 吹き鳴らされた喇叭の音が森へ飛んで行った。
 森で、一斉に鬨の声が上がった。民間人護送用に見せかけた荷馬車から、武装した第一中隊の兵が飛び出し、敵の伏撃部隊に躍りかかる。開けた場所に押し寄せた救世軍の伏兵たちは、一転して挟撃を受ける側になった。ただでさえ隙の大きい攻撃から防御への転換は、個々の動揺の大きさをものの見事に反映し、救世軍の態勢は総崩れになった。
 強攻大隊の兵士たちは動揺する敵兵を駆逐し、崖下に突き落としながら、複雑な地形で鮮やかに機動した。弓射手たちは至近距離から一歩も引かずに連弩(れんど)による射撃を続け、包囲を助けた。算を乱した敵部隊は逃げる事もかなわず、斬り刻まれていく。道の下では、川沿いに遡上してきた敵の追撃部隊を、残りの弓射中隊と第三中隊が駆逐していた。
 ヨリスは喇叭手に二度目の喇叭を鳴らせた。それを聞き、本物の民間人を守る少数の部隊が、輸送部隊が待つ大道路へと静かに移動を開始する。その時音が聞こえる――ドシャッ! 人間という水袋が固い地面に叩きつけられて弾ける音。ヨリスはその音で、今が何時何分かわかる。見えない母が飛び降りる。もう何年も、もう何度も、息子を殺し損ねて飛び降りる……。
 トレブレニカの人々が安全な場所へと導かれていく様子を見て、ヨリスは不思議な安らぎが胸に広がるのを感じた。
 恩義ある人々であった。泣く事しかできない無力な子供だった頃、教団の大人たちの使い走りをさせられていた時に重い物を屋敷の近くまで持ってくれたのはトレブレニカの人々であった。大人たちに暴力を振るわれた時に手当てをしてくれたのは、泣いている時に慰めてくれたのは、寒さに震えている時に着る物をくれたのは、飢えている時に食べ物をくれたのは、そして『真理の教団』が集団自殺を決行した後に憐れみ保護してくれたのは、トレブレニカの人々であった。
 村人たちはあの時の子供を薄ぼんやりと覚えてはいるだろうが、まさか今ここにいるなどとは思いもするまい。それでよかった。そんな事を知っているのは自分一人で十分だ。
 ヨリスは難民たちの群れから、森の戦いへ目を戻した。包囲は次第に縮められ、救世軍が撃滅されていく。
 ヨリスが屋上の縁へと足を踏み出すのでミズルカは肝を冷やした。
「哀れな狂信者ども……。私の担当戦域から生きて帰れると思うな」
 北トレブレンの河を見下ろす丘陵では、鉄の装甲をも射抜く長弓の雨を浴びた新総督軍の骸が積み上げられていた。後続部隊が骸の壁を障壁にし、それを乗り越えて斃れ、新たな肉壁に変じていく。第一軽歩兵師団の弓射連隊の射手たちは、手を保護するゆがけが擦り切れ、指が裂け、血を流しながら、長弓の連射を止めなかった。無数の矢の風切り音と、弦のしなるぶぅん、ぶぅんという音が耳を聾し、眩暈を誘う合奏となって広がっていた。三つの橋を担当する隣のチェルナー中将の第二師団では、弓射部隊の援護のもと、白兵戦が始まっていた。シルヴェリアの指揮所からもその様子が見えた。
「見事な戦いぶりです」
 フェンが、短い髪を煤と血の臭いと流れ出た死者の脂を含んだ風になびかせながら囁いた。風が唸り、師団旗をはためかせようとする。重い旗はそよとも動かず沈黙したままだ。
 各連隊からの伝令が、指揮部隊が占有する、地区で最も高い尖塔を有する司令所をひっきりなしに行き来していた。
 眼下の火を見下ろしながら、シルヴェリアはにやりとして副官に答えた。
「ふん……地獄はこれからぞ」


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