残響

文字数 3,059文字

 1.

 眠る少年の手もとには、折り畳まれた薬包紙(やくほうし)が置かれていた。壁の燭台に刺さった蝋燭の灯影(ほかげ)を受けながら、その紙は、ひっそりと、死の沈黙を続けている。白い粉末が、半透明の薬包紙を透かして見えた。それは、人生の苦しみ、喪失の苦しみ、孤独の苦しみ、とりわけ誰からも愛されず、誰も愛せぬことの苦しみから少年を守るべく与えられた慈悲だった。
 小柄で痩せた、真っ黒い髪を持つ、あかぎれだらけのやつれた少年だ。歳は六つか七つといったところだが、少年自身もわかっていなかった。母親はとにかく彼にものを教えなかった。
 彼は眠っていた――遠くで、錆びついた鉄扉(てっぴ)が開閉される冷厳な音が響くまでは。
 鉄扉に鎖が巻きつけられる音が続いた。少年は両目を開けた。泣き腫らした真っ赤な目でしばし眼前の薬包紙を凝視したのち、毛布を跳ね除けて体を起こした。
「お父さん」
 背中合わせで寝ていた男の肩を掴み、囁く。
「お父さん、起きて。逃げよう」
 父親の体からは、まだアルコールの臭いが立ち上っているように感じられた。父親はよく酒を飲んで少年に暴力をふるった。彼は息子を愛していなかった。それでも少年には他に庇護者がいなかった。重い父の体を揺さぶり、なお囁く。
「先生が帰ってきた――」
 父の首筋に触れた指先が、そのまま粘り気のある液体に沈んだ。少年は息をのみ、ベッドの上に座り直して燭台に手をかざした。
 血だった。
 改めて父を見た。父の体を覆う毛布も、ベッドシーツも、毛布から突き出た腕も、血にまみれていた。
「マリア!」
 階下で、男の呼ばわる声が反響した。少年はベッドを下りて薄い靴を履いた。
「マリア、どこだ?」
 ベッドを回りこみ、血の海の中で銀に輝くナイフを拾い上げる。音を立てぬように、そっと木戸を開いた。階下の男は高圧的な調子で呼ばわり続けていた。
「マリア!」
 ナイフを握りしめ、緊張に息を乱しながら、少年は震える足で廊下に出た。石造りの廊下には、もがき苦しむ一人の男の声が響いていた。どこかの窓が割れたらしく、風の流れが感じられる。開け放たれた一室から、一枚の薬包紙が風に押されて出てきた。少年は部屋を覗いた。まだ一人、生きている男がいて、同室の男の衣服を握りしめながら、その顔のそばに血を吐いていた。
「全員片付けたかね?」
 男が階段を上がって来る。
「終わったのなら出てきなさい!」
 少年は男の声が聞こえたのとは反対側の廊下の端、階段室に駆けこんだ。唯一、一階から最上階まで直通の階段がある場所だった。
「お母さん?」
 階段室の暗さに怯え、少年は思わず声を上げた。
「お母さん、どこ行ったの?」
 光源を見つけた……少年はすぐに、母の姿も見つけた。
 黒いカーテンに覆われた、大きな張り出し窓。そのカーテンの閉じ合わさっていない部分から外の松明(たいまつ)の光が差しこんでいた。そして、窓にへばりついて、青白い顔の女がじっと中を窺っていた。
「お母さん!」
 少年はカーテンを開け放つが、その時既に、女の姿は消えていた。ここは四階で、外に人が立てるはずなどなかった。
 少年は窓を開け、身を乗り出す。
 冷たい風が吹きこんだ。目に映る世界はただ、果てしない夜の闇ばかりで、足場も、まして母の姿も見出せなかった。
 諦めて、外に突き出していた上半身を屋内に戻す。
 すると、上から人が落ちてきた。
 黒い服と黒い髪を、天に伸ばすようになびかせながら、その人は少年の眼前で地に向けて落ちていった。女だった。その女は長い髪の合間から、蒼白な顔と責めるように見開いた目を少年に向けた。そして、少年を道連れにせんと手を伸ばした。
 一瞬を永遠に引き延ばして、少年はその挙動全てを見た。間もなく、人間という水袋が固い地面に叩きつけられて弾けるドシャッ、という音が聞こえた。
 知らず後ずさっていた。背中が手すりにぶつかって、少年は膝が砕けてその場に座りこむ。
 お母さん、と空しく呼んだ。瞬きを忘れた目は赤く、歯はガチガチと鳴り、喉は隙間風のような音を立てるばかりだった。それでも少年は言葉を振り絞った。
「お母さん……ごめんなさい……」
 見開かれた両目から涙が溢れ出る。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 少年の耳の底では、繰り返し繰り返し、母親が地面で弾ける音が鳴り続けた。その音を少年のみならず、付近の農村の人間もまた何度も繰り返し聞いた。一人の女の死を告げる音は、時を越えて鳴り続けた。アースフィアと呼ばれるこの星の、一年の春が終わり、六年の夏、一年の秋、六年の冬に入って明け、再び訪れた一年の春、そしてまた四季が一巡しても、まだ鳴り続けていた。
 春、一人の若い士官がその音を聞いた。のみならず、軍靴の爪先を濡らして散る血飛沫を見た。士官は息をのみ足を止めたが、辺りにおかしなものはなく、ただ昔女が飛び降りた地点の石畳がへこんでいるのに気付いただけで、改めて注意深く周囲を見渡した後には血飛沫も消えていた。
「どうされましたか」
 夜の底で、先導する下士官がカンテラを前方に差し出したまま振り向いた。士官は躊躇いがちに口を開いた。
「今……何か落ちて来なかったか?」
「いいえ。ですが、信じますよ」
 下士官は堅牢な石造りの館の鍵を開け、中に士官を招いた。士官は後を追い、ポーチの前階段を段飛ばしで上ってから、下士官に尋ねた。
「どういう意味だ?」
「ここはしょっちゅうおかしなことが起きる館です。二、三十年も前の話ですけどね、あの『救世軍』……連中が今のような力を持つずっと前、まだ『真理の教会』を名乗ってた頃の話ですがね、弾圧に絶望した一派がここで集団自殺を行ったんです。以来おかしな音や声がしょっちゅう聞こえて、地元の人間は幽霊館と呼んで誰も近付きません」
「何でまたそんな所に人質を幽閉したんだ」
「誰かが住まなければいけないからですよ」
 下士官は振り返らずに、石の廊下を歩きながら続けた。
「生きている者の目がなくなれば、霊は手が付けられなくなる。地元の人間の迷信です。もともとよくない屋敷でしてね。事件を起こした連中が住みついたのだって――」
 廊下を分け隔てる格子状の鉄扉を開け、士官が通ると、大きな音を立てて閉める。
「ああ、嫌な音だ。この音も頻々に村人たちに聞かれていましてね。中に誰もいないのに、窓の外からは白い人影が鉄扉をすり抜けるのが見えると――」
「その話はもうやめてくれ」士官はうんざりして言った。「聞きたくない」
 二人は黙って複雑な造りの建物を進み、最上階まで上った。
「ここですよ」
 下士官はある一室の前で立ち止まり、木戸を叩いた。
 どうぞ、と、少女の声が応じた。
 施錠はされていなかった。
 四角く狭い部屋の中央に、イーゼルが立てられていた。若い娘が一人、キャンバスに向かって座っており、横顔を見せていた。波打つ緑がかった金髪が、窓から吹きこむ風に吹かれて揺れている。どこか思い詰めた顔をしていたが、顔を上げ、戸口の二人を見ると、表情はたちまち驚愕に塗り替えられた。
 娘は立ち上がり、若い士官を凝視しながら手で口を押さえた。士官はただ、自分の何がそんなに彼女を驚かせたのかわからず困惑した。
「彼女です」
 下士官が耳もとで囁いた。
「彼女が北方領からの人質、リレーネ・リリクレスト嬢ですよ。メリルクロウ少尉」


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