闇に落つ

文字数 8,377文字

 フェンが先頭に立って塔の内部へ歩いていき、何の障害もないことを証明した。
 内部は、壁一面が天籃石でできていた。天球儀を構成する天籃石との絡み合いによって、地上に直接光を伝達する働きをし、ありふれた照明として広く用いられている。だが、これほど大きな一枚板の状態となっているのは見たことがなかった。ヨリスは観察を続けた。床は白と黒の正方形のタイルで、突き当たりの階段までモザイク模様が広がっている。
 階段が、地下方向と天井方向へ、壁に沿って円周状に伸びていた。手すりは木だが、螺鈿細工が施されており、壁から発される白色光を虹色に反射している。天井まで吹き抜けになっているようだ。頭上には通路が張り巡らされており、それらの通路の底の部分も白色光を放っている。
 フェンが手すりをつかみ、階段を下り始めた。
 下の階も、明るさでは上の階と変わらなかった。空間の中心を天籃石の太い円柱が貫いていることだけが違う。
「フェンや、さっきの話じゃが」
 階段には大人二人が横並びになれるだけの幅があった。シルヴェリアがフェンの横に立つ。
「古き都が滅んだ理由は何じゃ? 神話ではなく、本当の理由は」
「核ですよ」
 シルヴェリアにも、ヨリスにも、その意味がわからなかった。
「三百年間の天球儀建造時代の初期から、文明退化は推し進められておりました。その頃かなり退化した方法で、都の文化を維持する動力がまかなわれていたのです。天籃石よりずっと明るい照明を点したり、人や家畜の手によらず複雑な機械を動かす力です。非常に便利なものですが、その力を生み出す際には極めて有害な物質が発生します。人体をじわじわと蝕み死にいたらしめる物質です」
 その穏やかな声が、縦長の空間に響く。階段が終わり、空中を横切る、手すりのない通路に出た。壁の反対側まで続き、そこから再び下りの階段となった。
「神の青い光」
 その単語に反応し、ヨリスは注意を足許からフェンの背中へと移した。
「有害物質がまき散らされる際に発生する光で、それを肉眼で見た者は、その瞬間に死が決定づけられます。通常は厳重に管理され、誰もそれを見ることのないようされていたのですが、都からの地球人撤収後に事故は起きました。あるいは仕組まれたものかもしれません。動力を生み出す施設が破壊され、死の物質が都中にまき散らされたのです」
「それで埋め立ててしまったのかえ? よほどの災禍であったのじゃろうな」
「その光を浴びた者は、皮膚がただれ、体中の水がしみ出し、数日以内に死に絶えました。事故で発生した火を一人の聖職者が持ち出して、シオネビュラまで運んだと伝えられます。シオネビュラの古老たちは今でも、神の青い光、とその火を呼ぶのですよ。そしてその忌まわしい出来事にちなんで、南西領は〈(まが)()の天領地〉と呼ばれるようになりました」
「神の青い光、というものには『地の底の光』という呼び方もなかったか」
 ヨリスが尋ねると、フェンは一度振り返り、再び前を向いた。
「よくご存知ね、ヨリス少佐。その火は今も私たちの足許でくすぶっていると言われているわ。そんなはずはないと思うけど」
「地球人が意図的にそのような災禍を引き起こしたとしたら、理由は何だ?」
「残念ながら、私の代までは伝わっていないの。何か理由があるんでしょうけどね。私が知っているのはさっき言った、天球儀の乙女という別の伝承とくっついたお話だけよ。さあ、そろそろ底につくわ。さっき見下ろした迷路の終点にね」
 静かなる砂の闇に、三人は降り立った。外の迷路のせいか風は吹きこんでこないが、空気の流れは感じられる。三か所、壁にアーチ型の出入り口が設けられていた。迷路から侵入を試みた場合、どれかの出入り口につくのだろう。
 そして、腰までの高さの、横幅の大きな長方形の出入り口が一つ。フェンはそちらに歩み寄り、屈んで奥へと通り抜けた。
「どうぞ、いらしてください。何も危険はございません」
 そう声が聞こえてくる。
 シルヴェリアとヨリスは順に、フェンに続いて低い出入り口をくぐり抜けた。
 その先の空間で、二人は予期せぬ物を見た。
 白い球形の物体が、空中に浮いていた。直径は、ここにいる三人が輪になって手をつないで、囲みきれるかどうかといったところだ。それが、吊す物も支える物もなく浮いている。ちょうどヨリスの目の高さに球の底の部分があった。
 球は白く、編み目状で、よく目を凝らして見れば、様々な模様がある。
 日々目にしている模様だった。
「これは……天球儀か?」
 肯定の返事を待つまでもなく、確かにそうであった。白色光を放つ小さな天球儀は、上方向に回転していた。その内部に、ふた回りほど小さな別の球体が閉じこめられていた。何の模様もない。そちらは右方向に回転していた。
「ようこそ、二重天球儀の間へ」
 フェンが言った。
「これは……」言いかけたシルヴェリアをヨリスは横目で窺った。水色の目を大きく見開き、浮遊する球体に夢中になっている。「これは何故……どのように浮いて、動いておるのじゃ?」
「それがわからぬからこその聖遺物ですよ」
 フェンは二重天球儀を仰ぎ見ながら後ずさり、シルヴェリアの隣に並んだ。
「私にわかるのは、このレプリカがトリエスタの女子修道学院に安置されていることくらいございます。南西領南部と東部で、他の聖遺物に接触するための鍵として用いられている物です。例えば地図上から抹消された地球人のための療養施設が南の沖合の離島に存在するのですが、そこへ入りこむために、この二重天球儀のレプリカが用いられていたのですよ」
「鍵とは何じゃ? それがあれば、誰でも遺跡に入ったり、聖遺物に接触できるのか?」
「そうでございますね。ですが、どこでも、というわけではございません。今例に出した離島の療養所の最奥部には、人間としての鍵が必要となってまいりますから」
「人間としての鍵?」
「言語子の働きが弱く、言語生命体として認識されない人間のことです。この言語の塔だって、人間としての鍵なくしては〈砂の書記官〉の間へはたどり着けないようになっております」
 ヨリスは、ふと予感がして尋ねた。
「ここに入るよりも出るのが難しいと言ったことは、本来人間としての鍵が必要であることと関係しているのか?」
「いいカンをしているわね。そうよ。少なくとも、私たちの侵入が地球人たちの知るところとなれば、その時点で終わりだと思ってちょうだい」
 フェンが二重天球儀に長い指を伸ばす。
「さあ、私たちは書記官のお眼鏡に叶うかしら?」
 外側の天球儀には、一カ所だけ青い球体が嵌めこまれている箇所があった。指がそれに触れると、小さな四つの青い光の玉が弾けるように飛び出した。光は四方に散り、横に長い長方形の枠組みを作った。その長方形の枠組みの中が、青い光の幕になった。
「前回の来訪者の履歴を探します」
 フェンの指が光の幕に表示された暗号を這う。暗号は次々に形を変え、めまぐるしく光が動く。
「……やはり、パンネラ・ラウプトラ前総督夫人はここに来ていたようです。日付が非公式に聖地へとご旅行された日時と一致します。おや」フェンの目に光が走り、舌なめずりした。「人間としての鍵を連れていたようですね。検索者名が残っております。レーンシー・アーチャー。あの有名なアーチャー家の」
「ふん、有名じゃな、悪い意味で。それよりもあの色気違いブスは何を知りたがっておったのじゃ?」
「お待ちください、履歴を順に辿っていきますので。……最後には地球人に呼びかけを行っておりますね。人間の鍵を連れていたからこそできたことでしょう。反応は見あたりません」
「我々が呼びかけたらどうなるのじゃ?」
「ぞっとしませんね」
 フェンは指先の操作で次々表示を切り替えていく。暗号に目を走らせる内、その表情が曇っていく。
「……子午線?」
「どうした?」
「暗号が高度で、私ではほとんど読み解くことができません。やはり専門の神官がいないと……ただ、地域ごとの人口密度を……地域ごとの言語子の濃度の測定方法を調べていたようです……何のために」
「子午線というのは? 子午線がどう関係あるのじゃ?」
「たしかに子午線という単語は出ておりますが、他の語が読み解けないのです」
 すると、黄色く縁取られた四角い枠が幕の中に表示された。
「暗号化の解除を希望するか、とのことですね」
 フェンが新しい枠内の文字の上に指を滑らせた。
 すると、光が発せられた。
 光が三人の体を包みこみ、通過する。ちりちりとした感触が残り、鳥肌と産毛が立つ。
「しまった」と、フェン。「罠でした。今のは言語子を検査されたのです。ここに人間の鍵がいないことがばれてしまいました」
「どうなる?」
 足許の砂が、シルヴェリアに答えた。
 二重天球儀の台座のすぐ下に、蟻の巣ほどの穴が開いた。点のように小さなその穴に、周囲の砂が流れ落ちていく。穴は親指が入るほどの大きさになり、拳が入るほどの大きさになった。
 三人は同時に出入り口を振り向いた。目にも止まらぬ早さで落とし戸が落ち、砂の床に当たり鈍い音を立てた。
 ヨリスは素早く部屋中の四方に視線を投げた。
 台座の反対側の壁際に、大きなガラス窓を見つけた。天球儀の頂点とほぼ同じ高さにある。かつては来訪者を監視するために使われていたのだろう。
 足許の穴は台座に沿って半円形に広がり、大股で跨ぎ越す必要があるほど大きくなっていた。まだ広がり続けている。ヨリスは砂を蹴り、穴を飛び越えて台座に飛び移った。穴の底には闇が満ち、何も気配も感じられなかった。一か八か、二重天球儀の外側を掴む。幸い、浮遊している高さから沈むことはなかった。フェンが息を吸いこむ音が聞こえた。
 上方向へ回転を続ける天球儀の網目に指と爪先をかけてよじ登り、頂点にたどり着く。そこから真正面の窓へと、天球儀を蹴り、飛んだ。
 体が宙を舞い、風が起こる。首をすくめ、両腕を交差して顔面を守りつつ、肩からガラス窓にぶつかった。ガラスは頑丈ではなかった。音を立てて砕け散り、ヨリスはガラス片と共に床を滑った。そしてすぐに立ち上がり、窓辺に戻った。
「アルドロス少佐! 師団長殿を連れてここへ!」
 天球儀の向こう側で、フェンとシルヴェリアが助走をつけて穴を飛び越え、天球儀をよじ登った。床は砕けたガラスだらけだったが、気にしている余裕はない。二人とも同じ室内に転がりこんできた。
 部屋の唯一の出入り口には扉がなく、壁が長方形に切り取られているだけだった。
「ここから来た道に戻れるか」
「わからないけど、道を探すしかないみたいね」フェンは頷く。「上を目指しましょう。下はいけません。地球人が残した火器システムが生きています。私たちに太刀打ちできる兵器ではございません」
 何より、下に行っては師団の野営地に戻れなくなるだろう。
「道は私が探す」ヨリスは落ち着いた声で告げた。「アルドロス少佐、師団長殿を頼む」
「決断の早い男はステキよ」
「軽口は後にしろ」
 ヨリスは出入り口から、天籃石の壁の廊下へと飛び出した。後をシルヴェリアとフェンが追う。廊下は螺旋状になっていた。上りきると狭く平坦な廊下に変わり、突き当たりで再び扉のない出入り口に出会う。
 その先は、二重天球儀の間と出入り口がある部屋とを繋ぐ、長い階段のある空間だった。壁際に張り巡らされた手すりのない階段と、空中の廊下に見覚えがあった。
 廊下はそのまま、階段の間を貫く天籃石の円柱へと続く、空中廊下となった。ヨリスは反対の壁際の階段にたどり着くことを期待して空中廊下を走ったが、途中で立ち止まった。その空中廊下は円柱をぐるりと取り囲んで終わっていた。廊下の続きは跳ね上げ式になっており、反対側の通路で無情にも跳ね上げられたままになっていた。
 ヨリスは来た道を振り返る。
 今来た道を駆け戻り、階段に飛び降りるというのはどうだろう。自分ならできる。しかし……。
 壁の向こうから、眼下に、虚無が押し寄せてきた。半円形に広がる虚無に、砂が流れ落ちていく。崩壊はどこまで続くだろう。進入者たちを呑みこまない限り、聖地の果てまで続くだろうか?
「迷うな! ヨリス少佐!」シルヴェリアが叫んだ。「私がついて来れなんだら見捨てて行け! 師団本部に一部始終を報告しろ! 全滅するよりはマシじゃ!」
 ヨリスは感情の消えた目でシルヴェリアを凝視した。頷きもしなかった。深淵の上を、シルヴェリアとフェンの隣をすり抜け、走る。壁際まで来ると、階段へと飛び降りた。駆け上る。後の二人が遅れて飛び降りた。どうにか着地できたようだ。体のどこかをぶつけたのか、シルヴェリアが不平不満を呟くのが、ヨリスの耳に届いた。深淵が、階段の間の床一面に、じわじわと広がっていく。もう中央の柱にまで及びそうだ。このまま外に崩壊が及べば、唯一の逃げ道である木道が崩れ落ちることはわかりきっていた。
 天井に開いた穴へが近付いてきた。
 出口だ。
 穴から風が吹いてきた。迷路の上を吹く風が。
「立ち止まるな!」下のほうでシルヴェリアが叫んでいた。「行け!」
 ヨリスは穴の上へ飛び出した。天籃石の光満ち満つ部屋から、木道へ、星と天球儀の下へ、間もなく崩れさる砂の迷路の上へと、そのまま走り続けた。
 シルヴェリアたちはついて来ていた。足の裏に伝わる木道の振動で、振り返らなくてもわかった。その木道が、不安定に揺れている。
 後方では崩壊が進んでいるのだ。
 城壁が見えてきた。
 狭い門。
 視界の隅に、天球儀の乙女が映った。一瞬見えただけだったが、ヨリスの気を引き、強く意識に印象づけるには十分だった。砂混じりの風の中で、踊っていたのだ。青い髪をきらめかせて。
 木道が大きく後ろに傾いた。ヨリスは足を止め、腰を落として転倒を防いだ。シルヴェリアとフェンが、それぞれ驚きの声をあげた。持ちこたえるかどうかは、もはや運次第だった。
 ヨリスが門の向こうに飛び出すまでは、持ちこたえた。木道から飛び降りナイフを抜く。馬を橋脚に結びつけている縄を叩き切った。
 フェンが門から飛び出してきて、木道から飛び降りる。
 ヨリスは、フェンがつないでいたシルヴェリアの手を放すのを見た。
 直後、シルヴェリアが乗る木道が、跳ね上げられたように後ろに傾くのを見た。
 シルヴェリアの目が大きく見開かれるのも、何か言おうと口を開くのも、手を前に伸ばすのも、そのまま転倒する様も、立て続けに見た。
 見ながら、ヨリスは橋脚の横木を掴む。門の中へと腕を伸ばした。崩れていく橋に引きずられ、体が高く浮く。
 門の石柱と跳ね上がった木道の隙間に手を差し入れ、どうにかシルヴェリアのマントを掴んだ。ヨリスの腕を、シルヴェリアが掴み返してくる。門と木道の隙間から、ヨリスはシルヴェリアを無理矢理に引きずり出した。痛みに顔をしかめながら、シルヴェリアは腰まで這い出てきた。曲げた膝を門と木道の間に挟む。それを見て、ヨリスは橋脚を蹴りながら、橋脚を掴む左手を放した。
 落下の勢いで、シルヴェリアの体が完全に門の外側に出てきた。ヨリスが下に、シルヴェリアが上になって、二人は砂地に落下した。すぐにフェンがシルヴェリアを助け起こす。
「何故私を助けた! 命令を忘れたのか!」
 自力で立ち上がるヨリスに、シルヴェリアが怒りをぶちまける。そのシルヴェリアの下敷きになった痛みと衝撃を顔に出さないよう努めながら、ヨリスはさも平常心という口調で答えた。
「私はあくまで護衛として同行しておりますゆえ」
 三人は馬に飛び乗り、全力で駆けさせた。来た時よりも早く。背後の地響きを引き離していく。ホーリーバーチ家のザナリス神官団を筆頭とする神官連合団を見下ろす地点に到達した時点で、地響きは感じられなくなっていた。だからといって気を緩めるような愚は誰も犯さなかった。馬は汗にまみれ、三人は揺れる鞍の上で砂にまみれていた。ようやく、師団の野営地を囲う低い柵が見えてきた。
 シルヴェリアが、腹の底から鬨の声をあげる。何事かと驚いて、二人組の歩哨が出てきた。彼らの前で手綱を引き、シルヴェリアは馬を止めた。
「撤収じゃ! 総員撤収! 警鐘を鳴らせ! 全員を叩き起こせ!」
 早鐘が、まず野営地の入り口で鳴り響いた。撤収、撤収、という怒鳴り声が野営地の奥へ浸透していく。早鐘が声の波紋を追って、野営地の随所で鳴らされた。五分もしない内に、その鐘も鳴りやんだ。その頃までに一万人弱の師団の全構成員が目を覚ましていた。
「急げ! 各自の装備だけ持って、後方の山に逃げるのじゃ! 輸送部隊には食料だけ運べと伝えよ!」
「師団長殿、これは何事です?」
 シルヴェリアは下馬せず指示を出し続けていた。土気色の顔をしたモーム大佐が駆け寄ってくる。
「このような大騒ぎをしては、神官連合団を刺激してしまいます!」
「ええい! そのようなことはどうでも良い! 追っ手どものことなど捨ておけ!」
 ヨリスもまた、強攻大隊の野営地に戻っていた。
「テントなどに構うな! 分隊ごとに固まり後方の山地に退避せよ!」
 白い砂にまみれ、どこかに出かけていたらしい自分たちの大隊長に、誰も事情を問おうとはしなかった。ただ指示に従うまでだ。そのような関係が自分と兵士たちの間にあることを、ヨリスは心の片隅で、満足に思った。
 副官のミズルカに、本当に重要な書類だけをかき集めさせてから、各テントの見回りに加わらせた。取り残された者は誰もいなかった。ヨリスは最後に大隊の野営地を後にした。
 聖地から山への撤収はとうに始まっていた。山中の道を、篝火の長い列が埋めている。指揮部隊が先頭にいるはずだ。ヨリスは砂地を抜けた。足の下が土に変わる。確かな地面だ。
 シルヴェリアは峠に立ち、師団野営地がもぬけの殻となり果てるのを見守った。
 あれは何だ! と、誰かが叫んだ。兵士たちが一斉にぞよめく。白砂の大地の向こうから、虚無が押し寄せてくる。混乱が起き、兵士たちはてんでに勝手なことを口走るが、誰もその場を動かなかった。
 北の森からは、甲冑をまとった騎兵たちが押し寄せてくる。第一師団野営地の喧噪を察知し、攻撃許可を待たずに先制攻撃をしかける決断をしたのだ。砂地の彼方で起きていることを知りもせずに。
 神官兵団が、森から砂地へ広がり出てくる。危ない、危ない、と、兵士の一人がどこかでうわ言のように繰り返していた。敵も味方もなく、彼は兵士から一人の人間に戻っているのだ。虚無の恐怖がそうさせた。痛ましさに満ちたぞよめきが、峠を埋め尽くした。砂地に出てきた神官兵の数は、五百は下るまい。
 彼らの声は聞こえぬが、混乱は見て取れた。
 深い闇が迫り、隊列の端の部隊に混乱が起き、動きがてんでに乱れた。乱れを正そうとした指揮官が、兵士たちの混乱の理由に気付いた。
 彼らは森へと引き返そうとした。だが、地面の崩壊速度のほうが遙かに早かった。
 間に合わなかった。
 わき起こる悲鳴が、シルヴェリアたちのいる高みを通り過ぎ、天を衝く。人が、馬が、為す術なく、深淵の(あぎと)に呑まれていく。
 先頭の指揮官が、篝火が残るままの第一師団の野営地の間近へと迫っていた。よくは見えぬが、何となく、あれはザナリス神官団の正位神官将ではないかとシルヴェリアは思った。
 野営地まであと一歩という所で、彼の足許が後ろへ傾き、彼はそれでも馬を走らせようとした。馬は砂に足を取られ、転んだ。落馬した指揮官は、すり鉢状に傾いていく砂の上で虚しく両腕をばたつかせた。だが、体を引き上げることはできなかった。滝のような白砂と共に、深い闇へ落ちていく。悲鳴が聞こえた。そしてすぐに聞こえなくなった。
 闇はなお広がり、第一師団の野営地を、外周の柵から順に呑んでいった。テントが消え、篝火が消え、ついぞ砂が消えた。
 シルヴェリアたちがいる山の裾は、深い断崖になっていた。その断崖を最後に、崩壊は終わった。
 兵士たちは沈黙を続けていた。目の前で起きた出来事の残酷さに呆然としている様子だった。
「シルヴェリア様」フェンが隣に来て囁いた。「言語の塔は、私たちを取り逃がしたことをわかっているはずです。二度目はございませんよ」
 ふん、とシルヴェリアは鼻を鳴らした。
「二度と来るか」

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