一度死んだ男
文字数 8,276文字
※
リジェク市で一度死んで以来、ハルジェニクの体は生き血と新鮮な生肉以外受け付けなくなっていた。人を殺す気はなかった。もはや戦場以外の場所で殺生を行う衝動は、ハルジェニクの中より失せていた。
はじめは自分の体を切り、血を啜った。それでは駄目だった。吐き気を堪えて自分の指の肉を少し切り、食ってみたものの、吐き気を堪えきれなくなっただけに終わった。
「肉が欲しい」貸してもらった服に着替え、ハルジェニクは寝言のように呻いた。「肉……肉……」
「うるせぇな、だから今用意してやってるだろうが!」
地主は苛立ちながら、ほとんど怒鳴りつけるような勢いで言い放った。
ハルジェニクは地主の家の食堂にいた。
質素な暮らしをする人々で、食堂は台所と続きになっており、内装にも家庭的な温かみがある。食堂には地主と顔を洗ったハルジェニク、そして地主の弟夫妻とその息子がいる。地主の妻は台所におり、召使いの娘と料理をしながら和気藹々と語らう声が食堂にまで聞こえてきた。ハルジェニクは地主に与えられた新しい服を着ており、弟夫婦の息子にじゃれつかれていた。年は七つか八つといったところで、小生意気そうな目つきではあるが、今は何が嬉しいのか、「わーいわーい」と言いながらハルジェニクの両手をぱちぱち叩いている。
膝の上で両手を上に向け、手を叩きあいたがる子供につきあっていたハルジェニクは、怒鳴られたのをきっかけにひどく情けない気分になった。
泣きそうな顔になる。
「腹が減ってんだよぉ……」
「まぁいいじゃないか兄貴」ランチョンマットの上で指をくみながら、地主の弟が大らかに笑う。「よっぽど腹が減ってたんだよ、な? 生で鶏食うとかただごとじゃないだろう」
「そうよねえ。どうせ生で食べるならまだ卵のほうがマシですものねぇ」と言うのは弟の妻。どことなく野菊を思わせる女性である。
地主が絞り出すように言った。
「そういう問題じゃねぇだろう……」
「でもさぁー、兄ちゃんさぁー」と、息子。「伯父さんがさぁー、頭おかしいひとがいるって言って駆けこんできてさぁー。よかったじゃん。頭おかしくなくってさぁー」
惰性で手を叩き続けている。
「別に頭はおかしくない」と、ハルジェニク。「ていうか、手が痺れた」
「じゃあさー、兄ちゃん、あとで一緒に遊ぼうよ」
子供は苦情を受けてハルジェニクの手を叩くのをやめた。
「何して遊ぶんだ?」
ハルジェニクは、実は子供は嫌いではない。
子供ははしゃいで叫ぶ。
「豚の屠殺ごっこ! おれ豚の屠殺ごっこすげぇ好き!」
「お、おう」
「兄ちゃん豚の役ね!」
ハルジェニクは豚の生き血と生肉が好きだった。
台所から地主の妻が入ってきた。シチュー皿を載せた銀盆を手にしている。
「はい、お待ち遠さま。まだパンが焼けていないから、とりあえず昨日の残りで我慢してちょうだい」
笑顔をくれぬのは、ハルジェニクによる鶏一羽の損失について納得しきれていないからだろう。
ハルジェニクにはまだ少々の空腹感が残っていたが、香りよいシチューをランチョンマットに置かれても、全く食欲がわかなかった。シチューの中にはよく火の通った鶏の肉が入っている。
呟くように礼を言い、匙でシチューをすくった。人間らしい食事はこの体になって以来初めてだ。
シチューを口に含み、鶏肉を噛みしめる。
途端に吐き気がこみ上げて、ハルジェニクは慌てて椅子を引くが、間に合わず膝に吐いた。
「おいおいどうした」地主の弟。
「あらあら大変」弟の妻。
もはや人間の食事はこの身に受け入れられぬのだと思い知るさなかにも、よく似た喋りかたをする夫婦だと妙な感心を覚えた。
地主の妻はますます不機嫌そうになり、拭くものを取りに台所へ戻っていった。
「うーわ、きったねぇ!」
顔を上げ、子供を見たハルジェニクは、その子供の額と頬から緑の茎が生え、白い花が開いているのを見た。
「ロイ、病気のお客さんにひどいことを言うもんじゃない」
そういう地主の弟は、喉仏から生える茎と白い花に隠れ、顔が見えない。
「そうよぉ、何もウンチやおしっこを漏らしたわけじゃないんだから」
地主の弟の妻の白い花は二つの鼻の穴、そして二つの耳の穴から。
そして地主は、ぎっしりと咲く小さな白い花で埋め尽くされた上唇と下唇を動かした。
「だからそういう問題じゃないっての」
ハルジェニクは今度こそ涙を流し、両手で顔を覆った。頭の中で女の哄笑が聞こえた気がした。
「俺、もう気が狂いそう……」
地主が応じる。
「もう既に……」
とにかく、ハルジェニクはまたも新しく服を借り、別室へと移動させられた。
「ねえ、おばさん。このシチューおれが食べてもいい?」
という子供の声と、地主の弟の妻の声が聞こえてきた。
「かわいそうに。よっぽど胃腸が弱ってたのね」
ハルジェニクが通されたのは、板張りの床の細長い部屋だった。窓辺に作業机があり、針が刺さった針山や、鋏の類が出たままになっている。近くの棚には布地が収納され、木や紙で作られた工芸品の人形が、その棚を飾っていた。
そして、三枚の肖像画が壁にかけられていた。
代々の農場主と思われる中年、または老人となった男たちだ。他に見る物のないハルジェニクは、左から右へと三枚の肖像画を順に見、また一番左の肖像画に目を移した。
すると、その肖像画の人物が、ロザリア・ホーリーバーチに変じていた。
つやめく薄紅の髪に、瑞々しく滑らかな肌。未だ何者にも汚されず、痛めつけられておらぬロザリア。
俺はロザリアを汚してなどいないのだ。
ロザリアを前にして、ハルジェニクはそう信じようとした。己を守るために。
硬直するハルジェニクを見、十六歳の乙女は意外そうに目を丸くした。首を傾げる。
「あなた、もしかしてハルジェニク?」
声も、あの事件当時のままだった。この体に組み敷かれ、叫び、悲鳴をあげ、罵り、呪った声。
ロザリアが吹き出した。ハルジェニクは、今の自分がどのようなひどい表情をしているか想像しようとした。目は瞬きをできず、口は閉じられない。ロザリアは形のいい顔を上げ、高らかに笑い出す。
「ご冗談でしょう? あなたが……アーチャー家の御曹司のあなたが……みすぼらしくて……痩せこけて」もはや二度と傷と恐怖を受けぬ世界から、ロザリアはまたハルジェニクを直視した。「垢だらけで、臭くて、なんて不潔なの。泥から出てきたミミズのほうが、まだ小ぎれいってものだわ。シンクルスが見たら、なんて言うことかしら」
勘弁してくれ、とハルジェニクは言おうとしたが、唇の震えが大きくなるだけで、掠れた呻き声しか出なかった。ただ心の中で続けた。どうして君まで俺とあいつを比べるんだ? 確かにあいつは顔はいい。だが、だが……。
「顔だけではなかろう、ハル」
第二の声が言った。
素早く声がしたほう、中央の肖像画に目を向けた。そして、見たことを後悔した。見ずにいられなかったとしても。
そこに、十六歳のシンクルスが描かれていた。
「顔でも頭でも技芸でも、一つとして俺に勝るものなどなかったではないか。せいぜい三年先に生まれた分、武芸が強かっただけ。それとて今はどうだか」
襟のブローチは、宝石で飾られたライトアロー家の家紋だ。この世から永久に消し去られたはずのライトアロー家。
そのただ一人の末裔が、最後に見たときの姿のままそこにいる。瑠璃色の目には嘲りが浮かび、彼はそれを隠そうともしない。
「そなたが得意で、かつ俺に勝てるものなど、せいぜいお絵かき程度しかなかったではないか。そなたの父ミカルド殿の失望たるや、さぞ……」
先頃のロザリア同様、少年の声で高らかに哄笑を始めた。
第三の声が続く。
「そうだよね、ハルジェニク、すっごく絵を描くの上手だったよね。それ『だけ』」
右端の肖像画は十一歳の少女になっている。プリシラだ。恐怖と惨い仕打ちにより、知能が退行する以前の。
「ねぇ、ロザリア姉さん! 私、すっごく覚えてるよ! ハルジェニクがもらったお小遣いで画材セット買ってたこと」
「あら、そうでしたっけ?」
と、左端の肖像画のロザリア。
「そうそう。それでね、ハルジェニクのご両親がものすっごく怒ってさ。『絵なんか描けて何になるんだー!』って!」
その言葉が、厚い無感動の皮膜を突き破り、今の今まで無きものとして忘れ去っていた傷跡を一撃した。
『せっかく寄越した金をどうしてどぶに捨てるんだ! 馬鹿じゃないのか!』
父ミカルドの声が頭の中に鳴り渡る。絵筆も絵の具の粉末も、全てこの手で捨てさせられたのだ。
「やめろ」
ようやくものが言えた。
「それにしても、そう考えれば俺たちは実に珍しいものを見たことになるな」中央のシンクルスの表情は、残酷な楽しみを味わう恍惚に満ちている。「レイプ魔とはあのような教育で生まれるのだと。これぞ反面教師ではないか」
「全くそうですこと」ロザリアが相槌を打つ。「面白い見せ物になってくれてありがとう、ハルジェニク。お陰でレイプ魔がどうやってできあがるのか、よくわかったわ」
「違う」
背中が何かにぶつかった。手で確かめ、肖像画の向かいの壁とわかった。知らず後ずさっていたのだ。もたれるものに行き当たった途端、全身が脱力していくのを止められなくなった。
目をロザリアの冷たい笑みから離さぬまま、ずるずる座りこむ。
「違う、違う」
「何も違わないじゃない!」プリシラが、さも驚いたとばかりに大声を出す。「ロザリア姉さんを殺したじゃない!」
「そうよ。まさか忘れたとは言わせないわよ?」
「そうだ。ハル、そなた、俺が牢におるとき、ロザリアに手を出そうとしたな」シンクルスはまだ薄笑いを浮かべたままだった。「その間のことであろう」
ハルジェニクは恐ろしすぎて笑えてきた。
「レイプ魔!」
ロザリアが叫ぶが、糾弾の響きではない。
「レイプ魔!」
プリシラも叫ぶが、悲痛の響きではない。
「そなたはレイプ魔だ!」
シンクルスとて同じこと。
加害することによって、ハルジェニクは被害者となった。自分自身の被害者となった。
どこか遠い世界から、弱く卑しい者として、三人はハルジェニクを嘲弄する。
「レイプ魔! レイプ魔!」唱和はすぐに単純なリズムを得た。「レーイ・プ魔! レーイ・プ魔!」更に手拍子が加わった。
パン。パン。パン。パン。
「レーイ・プ魔! レーイ・プ魔! レーイ・プ魔! レーイ・プ魔!」
食堂では地主の一家の食事が整えられようとしていた。それとは別に、胃腸が弱っていると思われるハルジェニクのために塩のスープが作られ、地主とその妻は、器に盛って彼を休ませている小部屋に持っていった。
部屋の戸を開けた地主は、ハルジェニクが何をしているのかはじめわからなかった。ベンチや椅子があるにも関わらず、ハルジェニクは床に座り込んでいた。何かを両手で抱え込み、作業をしているように見えた。床には妻が趣味で作ったぬいぐるみや紙の人形、土産にもらった木彫りの人形が散乱し、ハルジェニクの膝の隣には、黒いインク壷が蓋を取られて置かれていた。
全ての人形の両目が黒く塗り潰されているのを見、さっと地主の顔から血の気が引く。
人形のみならず、三枚の歴代農場主、別にさほど大切に思っているわけでもないが、やはり他人に傷を付けられたくはない父祖たちの肖像画も、両目を黒く塗り潰されていた。
気付くに及び、地主は怒りというよりも、恐怖と困惑によって叫んだ。
「何やってんだお前ー!!」
ハルジェニクは血走った目で何事かを夢中で呟きながら、今また一つのぬいぐるみの目に、壷に浸した指でインクをなすりつけているところだった。
「俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない――」
妻が悲鳴をあげた。それを聞きつけ弟夫妻が駆けつけてきた。足音で、子供も騒ぎに便乗して駆けつけようとしたのがわかったが、召使いが止める声がした。
手からぬいぐるみをもぎ取られるのを感じ、ハルジェニクは右手を伸ばして地主の右手首をつかんだ。左手でぬいぐるみを取り返そうとし、地主もまた、左手でハルジェニクの手を振り払わんとした。
揉みあうさなか、質問を受けたことをハルジェニクは理解した。
「何をしているかだと?」
地主を、地主の妻を、地主の弟を、大きな目で瞬きを繰り返している地主の弟の妻を、ゆっくり順番に睨みつけた。
「ふざけるな! 何をぼやぼや突っ立ってるんだ! 早く隠せ!」
「何を!」
「目があるものは全部隠せ!」
叫ぶハルジェニクの頭を地主が拳骨で叩いた。
「何でお前に命令されなきゃならないんだよ!」
「俺は!」ハルジェニクはぬいぐるみを奪おうとするのをやめ、殴られた頭を掻き毟る。「西方領神官大将の嫡孫ハルジェニク・アーチャーだぞ!」
「そんなわけねぇだろう! もう放り出せコイツ!」
地主の叫びに、その弟がのんびり答えた。
「ええ? 兄貴が放り出せよぉ」
ハルジェニクは深い疲労を覚え、叫ぶのも髪を掻き毟るのもやめた。両手で顔を覆い、床に両膝をついたまま背中を丸め、うずくまる。
疲れている上に、惨めだった。何故こんなに惨めな気持ちでいるのか、考えたくもなかった。
顔に爪を立てて、誰にともなく訴えた。
「もう気が狂いそうなんだよう……」
律儀にも地主は答える。
「いやだから、お前もう……」
「コブレンに連れていってくれ」
とにかく意味の通じることを言わなければならぬと思い、ハルジェニクは努力した。努力の結果、要求した。
「いや、近くの町まででいい……丘の先の、街道の町」
「そこに行く途中だったのね?」
弟の妻の問いかけに頷く。
地主はほっとしたようだ。
「いいぜ。っていうか、もうどっか行ってくれるんだったらそれでいい」
そうして、地主の一家の馬車が用意された。二人乗りの馬車で、個人で馬車を所有できるとなるとかなり富裕なはずなのだが、馬車には何の飾りつけもなく豪奢でもなかった。ただ整備はきちんとされている感じがし、倹約家の一家のしっかりした価値観と暮らしぶりが窺われた。
覆いのかかった座席の右側にハルジェニク、左側に付き添いの地主が座った。御者の背中を見ているうちに、ふと、背後の気配に気がついた。何かが馬車を追ってくる。
ハルジェニクは身を乗り出し、覆いの後ろを窺った。
地主の家から、馬車道を、三つの人影が駆けてくる。ふざけて大袈裟な動作で走り、転びそうになりながら、転ばずついてくる。
ロザリアと、シンクルスと、プリシラだった。
血まみれで笑っている。
責めるためでもなく、嘲弄するためにくるのだろうか? 罵倒するために? または、ロザリアもシンクルスもプリシラも、あのようなことは思っておらず、全て自分の劣等感からくる被害妄想でしかなかったとしたら……ああ、そのほうがよほど耐えられない!
後ろを見るのをやめ、ハルジェニクは座り直した。腰を大きく曲げ、膝の上に置いた両腕に額をくっつけた。
正気を保つ努力以外にできることはなかった。
町に着いた。
ハルジェニクはもっとも不景気な区画で下ろしてもらった。開発から取り残された地区で、娼窟と阿片窟と陋屋 がひしめき合い、生臭さが道を漂っている。道には浮浪児がたむろして娼婦を卑猥な言葉でからかい、娼婦は浮浪児を蹴りとばす。そばにいる浮浪者は、生きているのか死んでいるのかわからない。血のついた布団が捨てられ、黒いどぶ川を見下ろせば、ごみや汚物に混じって堕胎された胎児が浮いている。
ハルジェニクは川に渡された板を慎重に渡った。転落することを考えたら全くぞっとする。
板を渡った正面にある酒場の戸を開けた。崩れかけた建物のくせに、やけに重い戸だ。
刺激臭が鼻を刺した。カウンターで、片目が潰れた白髪の老人が店番をしていた。ハルジェニクは無言で歩み寄り、ニーデル貨をカウンターに置いた。
老人はすぐには酒を用意せず、辛うじて開いている片目でハルジェニクを見定めた。
「見覚えのある観光客さんだね」
「そういうことにしといてくれ」自分でもわかるほど窶 れても、まだ人相は見極められると知り、ハルジェニクは安堵した。「蛇はいるか?」
「呼んでやろうかね」
「頼む」
「この前の席で待ちな」
ハルジェニクは店の奥、一番左の端の席にかけた。少し離れた席では二人連れが噂話に興じており、思考せぬ頭にその話を流し込んだ。どこでもそうであるように、ここで交わされる噂話も戦局にまつわるものだった。
彼らによれば、シオネビュラ市で化生を繋ぎあわせて作られたえげつない化け物が目撃されたそうで、それをまた何ともえげつない反乱軍の士官が独力で討ち取ったそうだ。
話を聞く限り、その化け物は人一人の手で倒せるものではなさそうなので、化け物に関する話か、士官に関する話か、またはその両方が間違っているのだろう。座って休んでいるうちに、次第に思考力が回復してきて、ハルジェニクはこう思った。もしそんな化け物を一人で倒せる奴が本当にいたら、『一人軍隊』とかいうあだ名をつけてやる。
道中の恐怖があらかた薄らぎ、頭の中で軽口を叩く余裕ができた頃、蛇と呼ばれる男が入ってきた。血がしみついたエプロンを着て、腰紐には血がついたタオル。肉屋の親父が仕事を抜け出してきたといった風情だ。年は六十手前ごろで、背は低いが太っているので大きく見えた。よくない業がしみついた、どす黒い顔をしており、目の光は油のように重い。
男はエプロンを脱ぎながら歩いてきて、ハルジェニクの前に立った。そして椅子を引き向かいに座ると、いきなり唇を片方だけ上げ、声もなく笑った。
「終わったな」
ハルジェニクは蛇を見返す。
「何が?」
「お前、狂ってるよ」
「まさか」できるだけ嘲りを込めて冷ややかな笑みを返した。悪い確信をごまかせるように。「俺は自分で考えられるし、自分で動けるね」
「どうだかね。俺はお前さんみたいのをこれまで何度も見てきたよ。自分のなりさえ自分で見れん奴らをな。お前、自分の顔がわかるか?」
「疲れてるんだ。窶れもするさ」
男は低い忍び笑いをするだけだった。ハルジェニクは今度は急激に苛立ち、怒鳴りつけたくなった。情緒が安定しないのはもはや当たり前のことだった。
声を荒らげたいのをこらえ、不機嫌に吐き捨てる。
「調子に乗るなよ、殺し屋風情が」
「前にその殺し屋風情に仕事を持ち込んだのは誰だったかね」
「仕事をできていないじゃないか。知ってるぞ。シンクルスが生きていることは」
蛇が口を開くのを、ハルジェニクは顔の前で手を振り遮った。
「だがその件じゃない。それはひとまず置いておこう……」
「じゃあ何だ?」
「俺をコブレン市内に入れてくれ」
表情を消す蛇に、続けて言う。
「言語活性剤について聞きたい」
蛇は黙り続ける。すると、その厚い唇を強く結んだまま椅子を立とうとする素振りを見せた。
「俺はそれをのんだんだ」
大声にならぬよう興奮を抑え、ハルジェニクは訴えた。
蛇は動きを止めた。
ややあって、浮かせた腰を座面に戻した。
話を続けなければならなかった。だが、言葉にできなかった。己が身の惨めさが、言葉にして人に訴えた途端に耐えがたく感じられたのだ。それゆえに言葉を恐れた。
蛇がテーブルの向こうから身を乗り出す。
「お前、何で――」
「救世軍とつるんでた奴ら」質問は無視した。「お前らのお仲間。殺し屋仲間。あいつらのところにつれて行け。お前はあの薬剤を知っているな。そうだろう。お前のお仲間も知ってるんだろう」
「黙れ」蛇が制する。「大きな声を出すな」
いつの間にか声が上擦っていた。ハルジェニクは深呼吸を繰り返す。だが動揺は静まらない。ようやく再び出した声は、一層震え上擦っていた。
「とにかく……俺をコブレンに連れていけ」
リジェク市で一度死んで以来、ハルジェニクの体は生き血と新鮮な生肉以外受け付けなくなっていた。人を殺す気はなかった。もはや戦場以外の場所で殺生を行う衝動は、ハルジェニクの中より失せていた。
はじめは自分の体を切り、血を啜った。それでは駄目だった。吐き気を堪えて自分の指の肉を少し切り、食ってみたものの、吐き気を堪えきれなくなっただけに終わった。
「肉が欲しい」貸してもらった服に着替え、ハルジェニクは寝言のように呻いた。「肉……肉……」
「うるせぇな、だから今用意してやってるだろうが!」
地主は苛立ちながら、ほとんど怒鳴りつけるような勢いで言い放った。
ハルジェニクは地主の家の食堂にいた。
質素な暮らしをする人々で、食堂は台所と続きになっており、内装にも家庭的な温かみがある。食堂には地主と顔を洗ったハルジェニク、そして地主の弟夫妻とその息子がいる。地主の妻は台所におり、召使いの娘と料理をしながら和気藹々と語らう声が食堂にまで聞こえてきた。ハルジェニクは地主に与えられた新しい服を着ており、弟夫婦の息子にじゃれつかれていた。年は七つか八つといったところで、小生意気そうな目つきではあるが、今は何が嬉しいのか、「わーいわーい」と言いながらハルジェニクの両手をぱちぱち叩いている。
膝の上で両手を上に向け、手を叩きあいたがる子供につきあっていたハルジェニクは、怒鳴られたのをきっかけにひどく情けない気分になった。
泣きそうな顔になる。
「腹が減ってんだよぉ……」
「まぁいいじゃないか兄貴」ランチョンマットの上で指をくみながら、地主の弟が大らかに笑う。「よっぽど腹が減ってたんだよ、な? 生で鶏食うとかただごとじゃないだろう」
「そうよねえ。どうせ生で食べるならまだ卵のほうがマシですものねぇ」と言うのは弟の妻。どことなく野菊を思わせる女性である。
地主が絞り出すように言った。
「そういう問題じゃねぇだろう……」
「でもさぁー、兄ちゃんさぁー」と、息子。「伯父さんがさぁー、頭おかしいひとがいるって言って駆けこんできてさぁー。よかったじゃん。頭おかしくなくってさぁー」
惰性で手を叩き続けている。
「別に頭はおかしくない」と、ハルジェニク。「ていうか、手が痺れた」
「じゃあさー、兄ちゃん、あとで一緒に遊ぼうよ」
子供は苦情を受けてハルジェニクの手を叩くのをやめた。
「何して遊ぶんだ?」
ハルジェニクは、実は子供は嫌いではない。
子供ははしゃいで叫ぶ。
「豚の屠殺ごっこ! おれ豚の屠殺ごっこすげぇ好き!」
「お、おう」
「兄ちゃん豚の役ね!」
ハルジェニクは豚の生き血と生肉が好きだった。
台所から地主の妻が入ってきた。シチュー皿を載せた銀盆を手にしている。
「はい、お待ち遠さま。まだパンが焼けていないから、とりあえず昨日の残りで我慢してちょうだい」
笑顔をくれぬのは、ハルジェニクによる鶏一羽の損失について納得しきれていないからだろう。
ハルジェニクにはまだ少々の空腹感が残っていたが、香りよいシチューをランチョンマットに置かれても、全く食欲がわかなかった。シチューの中にはよく火の通った鶏の肉が入っている。
呟くように礼を言い、匙でシチューをすくった。人間らしい食事はこの体になって以来初めてだ。
シチューを口に含み、鶏肉を噛みしめる。
途端に吐き気がこみ上げて、ハルジェニクは慌てて椅子を引くが、間に合わず膝に吐いた。
「おいおいどうした」地主の弟。
「あらあら大変」弟の妻。
もはや人間の食事はこの身に受け入れられぬのだと思い知るさなかにも、よく似た喋りかたをする夫婦だと妙な感心を覚えた。
地主の妻はますます不機嫌そうになり、拭くものを取りに台所へ戻っていった。
「うーわ、きったねぇ!」
顔を上げ、子供を見たハルジェニクは、その子供の額と頬から緑の茎が生え、白い花が開いているのを見た。
「ロイ、病気のお客さんにひどいことを言うもんじゃない」
そういう地主の弟は、喉仏から生える茎と白い花に隠れ、顔が見えない。
「そうよぉ、何もウンチやおしっこを漏らしたわけじゃないんだから」
地主の弟の妻の白い花は二つの鼻の穴、そして二つの耳の穴から。
そして地主は、ぎっしりと咲く小さな白い花で埋め尽くされた上唇と下唇を動かした。
「だからそういう問題じゃないっての」
ハルジェニクは今度こそ涙を流し、両手で顔を覆った。頭の中で女の哄笑が聞こえた気がした。
「俺、もう気が狂いそう……」
地主が応じる。
「もう既に……」
とにかく、ハルジェニクはまたも新しく服を借り、別室へと移動させられた。
「ねえ、おばさん。このシチューおれが食べてもいい?」
という子供の声と、地主の弟の妻の声が聞こえてきた。
「かわいそうに。よっぽど胃腸が弱ってたのね」
ハルジェニクが通されたのは、板張りの床の細長い部屋だった。窓辺に作業机があり、針が刺さった針山や、鋏の類が出たままになっている。近くの棚には布地が収納され、木や紙で作られた工芸品の人形が、その棚を飾っていた。
そして、三枚の肖像画が壁にかけられていた。
代々の農場主と思われる中年、または老人となった男たちだ。他に見る物のないハルジェニクは、左から右へと三枚の肖像画を順に見、また一番左の肖像画に目を移した。
すると、その肖像画の人物が、ロザリア・ホーリーバーチに変じていた。
つやめく薄紅の髪に、瑞々しく滑らかな肌。未だ何者にも汚されず、痛めつけられておらぬロザリア。
俺はロザリアを汚してなどいないのだ。
ロザリアを前にして、ハルジェニクはそう信じようとした。己を守るために。
硬直するハルジェニクを見、十六歳の乙女は意外そうに目を丸くした。首を傾げる。
「あなた、もしかしてハルジェニク?」
声も、あの事件当時のままだった。この体に組み敷かれ、叫び、悲鳴をあげ、罵り、呪った声。
ロザリアが吹き出した。ハルジェニクは、今の自分がどのようなひどい表情をしているか想像しようとした。目は瞬きをできず、口は閉じられない。ロザリアは形のいい顔を上げ、高らかに笑い出す。
「ご冗談でしょう? あなたが……アーチャー家の御曹司のあなたが……みすぼらしくて……痩せこけて」もはや二度と傷と恐怖を受けぬ世界から、ロザリアはまたハルジェニクを直視した。「垢だらけで、臭くて、なんて不潔なの。泥から出てきたミミズのほうが、まだ小ぎれいってものだわ。シンクルスが見たら、なんて言うことかしら」
勘弁してくれ、とハルジェニクは言おうとしたが、唇の震えが大きくなるだけで、掠れた呻き声しか出なかった。ただ心の中で続けた。どうして君まで俺とあいつを比べるんだ? 確かにあいつは顔はいい。だが、だが……。
「顔だけではなかろう、ハル」
第二の声が言った。
素早く声がしたほう、中央の肖像画に目を向けた。そして、見たことを後悔した。見ずにいられなかったとしても。
そこに、十六歳のシンクルスが描かれていた。
「顔でも頭でも技芸でも、一つとして俺に勝るものなどなかったではないか。せいぜい三年先に生まれた分、武芸が強かっただけ。それとて今はどうだか」
襟のブローチは、宝石で飾られたライトアロー家の家紋だ。この世から永久に消し去られたはずのライトアロー家。
そのただ一人の末裔が、最後に見たときの姿のままそこにいる。瑠璃色の目には嘲りが浮かび、彼はそれを隠そうともしない。
「そなたが得意で、かつ俺に勝てるものなど、せいぜいお絵かき程度しかなかったではないか。そなたの父ミカルド殿の失望たるや、さぞ……」
先頃のロザリア同様、少年の声で高らかに哄笑を始めた。
第三の声が続く。
「そうだよね、ハルジェニク、すっごく絵を描くの上手だったよね。それ『だけ』」
右端の肖像画は十一歳の少女になっている。プリシラだ。恐怖と惨い仕打ちにより、知能が退行する以前の。
「ねぇ、ロザリア姉さん! 私、すっごく覚えてるよ! ハルジェニクがもらったお小遣いで画材セット買ってたこと」
「あら、そうでしたっけ?」
と、左端の肖像画のロザリア。
「そうそう。それでね、ハルジェニクのご両親がものすっごく怒ってさ。『絵なんか描けて何になるんだー!』って!」
その言葉が、厚い無感動の皮膜を突き破り、今の今まで無きものとして忘れ去っていた傷跡を一撃した。
『せっかく寄越した金をどうしてどぶに捨てるんだ! 馬鹿じゃないのか!』
父ミカルドの声が頭の中に鳴り渡る。絵筆も絵の具の粉末も、全てこの手で捨てさせられたのだ。
「やめろ」
ようやくものが言えた。
「それにしても、そう考えれば俺たちは実に珍しいものを見たことになるな」中央のシンクルスの表情は、残酷な楽しみを味わう恍惚に満ちている。「レイプ魔とはあのような教育で生まれるのだと。これぞ反面教師ではないか」
「全くそうですこと」ロザリアが相槌を打つ。「面白い見せ物になってくれてありがとう、ハルジェニク。お陰でレイプ魔がどうやってできあがるのか、よくわかったわ」
「違う」
背中が何かにぶつかった。手で確かめ、肖像画の向かいの壁とわかった。知らず後ずさっていたのだ。もたれるものに行き当たった途端、全身が脱力していくのを止められなくなった。
目をロザリアの冷たい笑みから離さぬまま、ずるずる座りこむ。
「違う、違う」
「何も違わないじゃない!」プリシラが、さも驚いたとばかりに大声を出す。「ロザリア姉さんを殺したじゃない!」
「そうよ。まさか忘れたとは言わせないわよ?」
「そうだ。ハル、そなた、俺が牢におるとき、ロザリアに手を出そうとしたな」シンクルスはまだ薄笑いを浮かべたままだった。「その間のことであろう」
ハルジェニクは恐ろしすぎて笑えてきた。
「レイプ魔!」
ロザリアが叫ぶが、糾弾の響きではない。
「レイプ魔!」
プリシラも叫ぶが、悲痛の響きではない。
「そなたはレイプ魔だ!」
シンクルスとて同じこと。
加害することによって、ハルジェニクは被害者となった。自分自身の被害者となった。
どこか遠い世界から、弱く卑しい者として、三人はハルジェニクを嘲弄する。
「レイプ魔! レイプ魔!」唱和はすぐに単純なリズムを得た。「レーイ・プ魔! レーイ・プ魔!」更に手拍子が加わった。
パン。パン。パン。パン。
「レーイ・プ魔! レーイ・プ魔! レーイ・プ魔! レーイ・プ魔!」
食堂では地主の一家の食事が整えられようとしていた。それとは別に、胃腸が弱っていると思われるハルジェニクのために塩のスープが作られ、地主とその妻は、器に盛って彼を休ませている小部屋に持っていった。
部屋の戸を開けた地主は、ハルジェニクが何をしているのかはじめわからなかった。ベンチや椅子があるにも関わらず、ハルジェニクは床に座り込んでいた。何かを両手で抱え込み、作業をしているように見えた。床には妻が趣味で作ったぬいぐるみや紙の人形、土産にもらった木彫りの人形が散乱し、ハルジェニクの膝の隣には、黒いインク壷が蓋を取られて置かれていた。
全ての人形の両目が黒く塗り潰されているのを見、さっと地主の顔から血の気が引く。
人形のみならず、三枚の歴代農場主、別にさほど大切に思っているわけでもないが、やはり他人に傷を付けられたくはない父祖たちの肖像画も、両目を黒く塗り潰されていた。
気付くに及び、地主は怒りというよりも、恐怖と困惑によって叫んだ。
「何やってんだお前ー!!」
ハルジェニクは血走った目で何事かを夢中で呟きながら、今また一つのぬいぐるみの目に、壷に浸した指でインクをなすりつけているところだった。
「俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない、俺はレイプ魔じゃない――」
妻が悲鳴をあげた。それを聞きつけ弟夫妻が駆けつけてきた。足音で、子供も騒ぎに便乗して駆けつけようとしたのがわかったが、召使いが止める声がした。
手からぬいぐるみをもぎ取られるのを感じ、ハルジェニクは右手を伸ばして地主の右手首をつかんだ。左手でぬいぐるみを取り返そうとし、地主もまた、左手でハルジェニクの手を振り払わんとした。
揉みあうさなか、質問を受けたことをハルジェニクは理解した。
「何をしているかだと?」
地主を、地主の妻を、地主の弟を、大きな目で瞬きを繰り返している地主の弟の妻を、ゆっくり順番に睨みつけた。
「ふざけるな! 何をぼやぼや突っ立ってるんだ! 早く隠せ!」
「何を!」
「目があるものは全部隠せ!」
叫ぶハルジェニクの頭を地主が拳骨で叩いた。
「何でお前に命令されなきゃならないんだよ!」
「俺は!」ハルジェニクはぬいぐるみを奪おうとするのをやめ、殴られた頭を掻き毟る。「西方領神官大将の嫡孫ハルジェニク・アーチャーだぞ!」
「そんなわけねぇだろう! もう放り出せコイツ!」
地主の叫びに、その弟がのんびり答えた。
「ええ? 兄貴が放り出せよぉ」
ハルジェニクは深い疲労を覚え、叫ぶのも髪を掻き毟るのもやめた。両手で顔を覆い、床に両膝をついたまま背中を丸め、うずくまる。
疲れている上に、惨めだった。何故こんなに惨めな気持ちでいるのか、考えたくもなかった。
顔に爪を立てて、誰にともなく訴えた。
「もう気が狂いそうなんだよう……」
律儀にも地主は答える。
「いやだから、お前もう……」
「コブレンに連れていってくれ」
とにかく意味の通じることを言わなければならぬと思い、ハルジェニクは努力した。努力の結果、要求した。
「いや、近くの町まででいい……丘の先の、街道の町」
「そこに行く途中だったのね?」
弟の妻の問いかけに頷く。
地主はほっとしたようだ。
「いいぜ。っていうか、もうどっか行ってくれるんだったらそれでいい」
そうして、地主の一家の馬車が用意された。二人乗りの馬車で、個人で馬車を所有できるとなるとかなり富裕なはずなのだが、馬車には何の飾りつけもなく豪奢でもなかった。ただ整備はきちんとされている感じがし、倹約家の一家のしっかりした価値観と暮らしぶりが窺われた。
覆いのかかった座席の右側にハルジェニク、左側に付き添いの地主が座った。御者の背中を見ているうちに、ふと、背後の気配に気がついた。何かが馬車を追ってくる。
ハルジェニクは身を乗り出し、覆いの後ろを窺った。
地主の家から、馬車道を、三つの人影が駆けてくる。ふざけて大袈裟な動作で走り、転びそうになりながら、転ばずついてくる。
ロザリアと、シンクルスと、プリシラだった。
血まみれで笑っている。
責めるためでもなく、嘲弄するためにくるのだろうか? 罵倒するために? または、ロザリアもシンクルスもプリシラも、あのようなことは思っておらず、全て自分の劣等感からくる被害妄想でしかなかったとしたら……ああ、そのほうがよほど耐えられない!
後ろを見るのをやめ、ハルジェニクは座り直した。腰を大きく曲げ、膝の上に置いた両腕に額をくっつけた。
正気を保つ努力以外にできることはなかった。
町に着いた。
ハルジェニクはもっとも不景気な区画で下ろしてもらった。開発から取り残された地区で、娼窟と阿片窟と
ハルジェニクは川に渡された板を慎重に渡った。転落することを考えたら全くぞっとする。
板を渡った正面にある酒場の戸を開けた。崩れかけた建物のくせに、やけに重い戸だ。
刺激臭が鼻を刺した。カウンターで、片目が潰れた白髪の老人が店番をしていた。ハルジェニクは無言で歩み寄り、ニーデル貨をカウンターに置いた。
老人はすぐには酒を用意せず、辛うじて開いている片目でハルジェニクを見定めた。
「見覚えのある観光客さんだね」
「そういうことにしといてくれ」自分でもわかるほど
「呼んでやろうかね」
「頼む」
「この前の席で待ちな」
ハルジェニクは店の奥、一番左の端の席にかけた。少し離れた席では二人連れが噂話に興じており、思考せぬ頭にその話を流し込んだ。どこでもそうであるように、ここで交わされる噂話も戦局にまつわるものだった。
彼らによれば、シオネビュラ市で化生を繋ぎあわせて作られたえげつない化け物が目撃されたそうで、それをまた何ともえげつない反乱軍の士官が独力で討ち取ったそうだ。
話を聞く限り、その化け物は人一人の手で倒せるものではなさそうなので、化け物に関する話か、士官に関する話か、またはその両方が間違っているのだろう。座って休んでいるうちに、次第に思考力が回復してきて、ハルジェニクはこう思った。もしそんな化け物を一人で倒せる奴が本当にいたら、『一人軍隊』とかいうあだ名をつけてやる。
道中の恐怖があらかた薄らぎ、頭の中で軽口を叩く余裕ができた頃、蛇と呼ばれる男が入ってきた。血がしみついたエプロンを着て、腰紐には血がついたタオル。肉屋の親父が仕事を抜け出してきたといった風情だ。年は六十手前ごろで、背は低いが太っているので大きく見えた。よくない業がしみついた、どす黒い顔をしており、目の光は油のように重い。
男はエプロンを脱ぎながら歩いてきて、ハルジェニクの前に立った。そして椅子を引き向かいに座ると、いきなり唇を片方だけ上げ、声もなく笑った。
「終わったな」
ハルジェニクは蛇を見返す。
「何が?」
「お前、狂ってるよ」
「まさか」できるだけ嘲りを込めて冷ややかな笑みを返した。悪い確信をごまかせるように。「俺は自分で考えられるし、自分で動けるね」
「どうだかね。俺はお前さんみたいのをこれまで何度も見てきたよ。自分のなりさえ自分で見れん奴らをな。お前、自分の顔がわかるか?」
「疲れてるんだ。窶れもするさ」
男は低い忍び笑いをするだけだった。ハルジェニクは今度は急激に苛立ち、怒鳴りつけたくなった。情緒が安定しないのはもはや当たり前のことだった。
声を荒らげたいのをこらえ、不機嫌に吐き捨てる。
「調子に乗るなよ、殺し屋風情が」
「前にその殺し屋風情に仕事を持ち込んだのは誰だったかね」
「仕事をできていないじゃないか。知ってるぞ。シンクルスが生きていることは」
蛇が口を開くのを、ハルジェニクは顔の前で手を振り遮った。
「だがその件じゃない。それはひとまず置いておこう……」
「じゃあ何だ?」
「俺をコブレン市内に入れてくれ」
表情を消す蛇に、続けて言う。
「言語活性剤について聞きたい」
蛇は黙り続ける。すると、その厚い唇を強く結んだまま椅子を立とうとする素振りを見せた。
「俺はそれをのんだんだ」
大声にならぬよう興奮を抑え、ハルジェニクは訴えた。
蛇は動きを止めた。
ややあって、浮かせた腰を座面に戻した。
話を続けなければならなかった。だが、言葉にできなかった。己が身の惨めさが、言葉にして人に訴えた途端に耐えがたく感じられたのだ。それゆえに言葉を恐れた。
蛇がテーブルの向こうから身を乗り出す。
「お前、何で――」
「救世軍とつるんでた奴ら」質問は無視した。「お前らのお仲間。殺し屋仲間。あいつらのところにつれて行け。お前はあの薬剤を知っているな。そうだろう。お前のお仲間も知ってるんだろう」
「黙れ」蛇が制する。「大きな声を出すな」
いつの間にか声が上擦っていた。ハルジェニクは深呼吸を繰り返す。だが動揺は静まらない。ようやく再び出した声は、一層震え上擦っていた。
「とにかく……俺をコブレンに連れていけ」