最終決戦前(2)

文字数 6,559文字

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 大切なことというのは、何でも、大人がみんなで集まって一番いい方法を決めるのだと思っていた。違うということを知ったのが、いつだったかは定かではない。知っただけでなく、思い知らされたのは、ミスリルが実際にコブレン自警団の団長の座に就いてからだった。大事なことは結局、リーダーが一人で決めるのだ。仲間はリーダーの決断を実現させるためにいる。だから、全ての責任はリーダーが負う。仲間が死んだのは、リーダーが死ねと命じたからだ。大きな作戦が失敗し、たくさんの団員が死ねば、それはミスリルが死ねと言ったからということだ。ミスリルが考え、決断する、それがつまり仲間に死ねと言っていることなのだ。
 ミスリルだけではない。
 これまで自警団を束ね、率い、継承してきた全ての団長がそうだった。
 団長の仕事部屋には、今はミスリルしかいない。ミスリルは右半身を窓に向け、壁と向き合い立っていた。窓は黒い厚手の布で覆われ、布目に外の光が滲んでいた。
 壁にはコブレン自警団の団旗が掲げられていた。
 壁龕(へきがん)に蝋燭が置かれている。その乏しい光を浴びて、金糸で旗に縫われた様々な名と頭文字が輝いている。
 もっとも新しい刺繍、この激動の時代をミスリルに受け渡した先代、『グザリア』、師であり父であるフーケ師の名を指でなぞった。指は震えていた。震えるほど怖かった。この指から全身へと、いつ恐怖と震えが広がってもおかしくはなかった。ただ、意志の力で抑えているだけだ。
 いつか自分が団長の座を継ぐかもしれないことは少年の頃から考えていたが、候補には挙がるかもしれないという程度の認識で、少なくともそれは四十歳くらいになってからだろうと思っていた。それに、少し前までミスリルより年長の団員たちがたくさんいた。だが、ミスリルは二十五歳にして団長の座に就いた。相応しい年齢まで待つことは、状況が許さなかった。嬉しくはなかった。誇りなど微塵(みじん)も感じなかった。むしろ吐き気さえして、逃げ出したいほどだった。
 拒否することもできた。
 自分を選び指名した武術師範たちを裏切り、何があっても支えると約束してくれたアエリエとテスを裏切り、ミスリルが適任だと言い切った仲間たちを裏切り、死んだフーケ師の期待を裏切り、逃げることもできただろう。だがミスリルは、そんな意気地なしではないと自分を信じた。
 それがどうだ。毎日むっつりと考え込んで、アエリエが言うような怖い顔をして、そのくせ震え出しそうなほど怖がっている。
 背後に、何か濃い気配が煙のように立ち上った。それが一カ所に固まって、何か人のようなものになるのを感じた。
 ミスリルは息をのんだ。
 指が旗から離れる。
 後ろを振り向きながら、ミスリルは声を聞いた。
『一人じゃない』
 耳ではなく、頭の中に優しく聞こえ、まるで自分自身が考えたかのようだった。
『お前は一人じゃないぞ』
 振り返ったとき、そこに人はなかった。
 フーケ師の声だったが、フーケ師は故人であり、部屋にいるのはミスリルだけだった。振り向いた先には部屋の戸があり、それが外から押し開かれて、天籃石の白い光が人影を伴って入ってきた。
 アエリエだった。
「団長?」色白の肌を光で更に白く染め、青い目を輝かせながら、彼女は後ろ手で戸を閉めた。「そろそろお休みになられては?」
「ああ」
「考えごとをしてらしたのですね」
 ミスリルは肩を竦め、アエリエに歩み寄った。アエリエの優しい目を間近で見下ろす。アエリエが拾われてきた頃は、彼女のほうが背が高かった。
「俺はたまに、自分がきれいごとばっか言ってるんじゃないかと思うのさ」
 守るべきコブレン市民は、自分たちを捨て子や浮浪児にした人々だ。
「空回りして、的外れなことをしているんじゃないかってな」
 守るべき都市コブレンは、捨て子を生み出し、手を血で染めた者たちにそれを育てさせるシステムを生み出した。
 ミスリルたちは、コブレンの富を掠め取って生きる存在だ。汗と労働によって生み出され、生み出した者の手からはかなくこぼれ落ちた富。都市の裏の世界でその富を奪い合い、組織を維持し、後継者を集め、並みの市民には手が届かぬような高度な教育を施し、各組織内で医師や武器の製造者などの専門職を育成する。
 都市の裏側で大量の金が動き、表の世界で真っ当に生きる人々の困窮は改善されず、また子供が捨てられて、それを殺し屋たちが拾い、また裏の世界の金で教育する。
 負の循環だ。
 だから、ミスリルたちはコブレン市民に奉仕しなければならない。しなければ、都市の寄生虫になってしまう。
「守るべきものにどれだけの価値があるのか、昔はよくフーケ師を問いつめてた。覚えてるだろ?」
「ええ」
「ガキの頃に戻ったみたいだな」
 妙な照れくささを、ミスリルは下手な笑いで誤魔化した。アエリエは、微笑みながら「いいえ」と首を振る。
「団長、あなたは子供ではありません。あなたは言うだけです。迷ってなどいないのでしょう?」
 ミスリルは笑うのをやめた。
「ああ」
「あの頃のあなたの葛藤を、かつて私も同じように抱えていました。私はこの都市で浮浪児になって経緯を覚えていますし、忘れられるものではありません。しかも私をその境遇に追いやった親族がまだこの都市にいて、それをも守らなければならないのですから」
 黙って頷く。アエリエは続けた。
「私たちはたまたま都市と人の暗部を見続けてきました。ですがそれだけではなかった。明るいほうを見続けるという選択肢は失われていません。そうですよね?」
「生易しいことじゃないな」
「でも、できます」
 もう一度ミスリルの顔に微かな笑みが浮かんだとき、先刻のぎこちなさはなかった。
「ああ。そうさ」
 アエリエはにっこりした。
「団長、もしまだ起きておられるおつもりでしたら、皆の様子を見回ってあげてください。励みになると思います」
 ミスリルは火の気のない寒い室内でマントを手に取り、アエリエを伴って拠点を見て回ることにした。
 拠点は静まり返っていた。
 コブレン自警団の非戦闘員は全員、今日、コブレンから脱出させた。シオネビュラに向かわせている。判明している事態と窮状についての最後の訴えを、シグレイの反乱軍とシオネビュラ神官団に対し行うためだ。コブレン自警団が作戦に失敗したら、後は外部に託すしかない。
 残っているのは戦闘に加わると意思表明した団員だけだ。一度は引退した高齢の者もいるし、ごく基礎的な訓練しか受けていない非戦闘員もいる。十才以上の見習いは、全員戦わせる。
 十三歳の見習いのレンヌが、彼の兄弟子ラザイと階段下のホールで話し込んでいるのに出くわした。
「レンヌだってラザイの世話焼いてあげるもん!」そのホールには可動式のストーブがあり、温かいのだ。「アエリエさんみたいに、世話してあげるもん」
 俺はアエリエに世話を焼かれているらしい、とミスリルは思った。女の子は残酷だ。足音をたてずに階段を下りていくと、ホールにはオーサー師とテスもいて、階段を見上げてきた。だがレンヌとラザイはまだミスリルたちに気付いていない。レンヌは誇らしげだ。
「アエリエさんだって、ミスリルさんと二つ離れてるでしょ? 同じじゃない」
「いいよ、僕は自分のことは自分でできるし……」
 レンヌは六歳の頃、コブレン自警団に拾われてきた。母親が男と会っている間、彼女は外に放り出されていた。母親が男と会っていない間、彼女は殴られていた。ここに来たとき、レンヌは心を閉ざしていた。
 調毒のための複雑な計算を難なくこなすから、頭はとてもいい。だが、心を閉ざしていた時間が長い分、精神的な成長が遅れている。ミスリルはそのことを、痛ましく思っていた。
「それに、アエリエさんはミスリルさんより二つ年上だし、君は僕より年下だし……」
 そう答えるラザイは、テスが拾ってきた。十歳の頃、テスが遠い目をして街の彼方を見ていた。ぼんやりしているのかと思いきや、「呼んでる」と言い残し、マントを着込んで出ていった。そして、籠を引きずって帰ってきた。その籠に入っていたのがラザイだった。
「第一、アエリエさんは美人だよ」
 少年も残酷だった。
「その辺にしとけよ」
 レンヌが言い募る前に、ミスリルが声をかけた。階段を下りきり、アエリエに目をくれると、一人でテスのところに行き、声をかけた。
「話がある」
 壁際で弟弟子と妹弟子を見守っていたテスは、少し口を開け、小首を傾げた。そして、ゆっくり一つ瞬きすると、頷いた。
 オーサー師は、テスとミスリルが近くの部屋に入っていくのを見ながら苦い思いを抱いた。
 自分なら、テスの願いを叶えてやることができるだろう。要らぬとさだめられた命を燃やし尽くし、戦い抜くことを。それを己の存在の証とすることを。先日の戦いのように、手負いの弟子に武器を突きつけて、まだ戦えと要求できる。自分にはできる。
 テスを名付けたのはオーサー師だ。
 名を付けるということは、大いなる苦痛を与える。名付けは大きな欲望だ。目の前のひ弱な存在に、自分の全てを注ぎ込みたい。特別な存在として育てたい。それは子のない武術師範にとって耐え難いほどの誘惑だ。それでも名付け役を買って出たのは、自分が拾ってきたのだという責任感からだけではない。当時四十五歳だったオーサー師は、自分が七人いる武術師範の中で、最も冷徹な人間だと思っていたからだ。
 マリステス。信仰が正しいがゆえに、大地が自分に息子を恵んでくださったなどと考えてはいけない。それは傲慢という罪だ。ただ名付けたというだけで、愚かにも、今でも罪を犯している。マリステス。マリステス。
 戸が閉まり、テスとミスリルの姿が見えなくなった。
 ミスリルというのは金属の名だ。遙か昔にコブレンで製造されていたのだが、その出典は地球人たちの古い文学作品らしい。ミスリルの親は鉱山や金属の歴史に詳しい人物かもしれない。名前の通りに生きればいい。強く美しく。
 彫刻作品を収納しておく大理石の床の部屋で、ミスリルはテスと向かい合った。テスが手に持つ天籃石が、彼のぼんやりした目に光を与えている。強い心を持っているのに、いつも遠くを見ているせいで心がないように見える、そんな目だ。だが今は、どこか思い詰めた様子だった。
「どうしたんだ?」
 テスが目線を上げず尋ねた。喉首に残る痣をチョーカーで覆っているが、隠しきれていない。
「お前の調子はどうかと思ったのさ」
 沈黙が流れた。
 ミスリルは、テスのほうから何か言いたいことがあるかもしれないと思い、話さずにいた。だがテスは何も言わない。思い詰めた目のまま口をつぐんでいる。いつもこうだ。ミスリルは、テスやアエリエが相手なら、気安く愚痴を言ったり、不満を言ったり、弱いところを見せたりもする。だがテスは、そうはしない。ぽっきり心をへし折られるまで一人で耐えるのだ。自分の限界がわかっていないのではないかと思う。
 ふと遠い記憶が蘇った。かつてベッドに突っ伏して大泣きしているテスに寄り添い、頭や背中を撫でたことがある。テスが疲れて眠り込むまでそうしていた。九歳のときだった。あのとき、何がそこまでテスを追い詰めていたのか、ミスリルは未だに知らない。ミスリルは、テスのそういうところを恐ろしく感じていた。ある日突然ふらりと違う世界に旅立ってしまいそうな危うさを感じるのだ。
「俺なら、大丈夫」ゆっくり答えた。「体も、どこも悪くない。ミスリルのほうこそ用事があるんじゃないのか?」
「お前に言いたいことがあるなら今のうちに聞いておこうと思ったのさ。それが用事」
「他は?」
 心臓が高鳴り、ミスリルは奥歯を噛みしめた。俺は何をしてるんだ? 言うべきことを、自分で言わず、テスに言わせようとしている。卑怯だ、と、ミスリルは、自分に対し思った。
「頼みがある」
 唾をのみ、切り出した。テスが先に答えた。
「嫌だ」
 目を見開くミスリルに、口調を変えず言葉を重ねる。
「それはお前の仕事だ。自分でやれ」
「まだ何も言ってないだろ?」
「俺が死んだら、アエリエとみんなを頼む」淡々と続ける。「って言うつもりだったんだろ? 俺にわからないわけがない。違うか」
「いや、違わないけどさ」
「いつも俺がどれだけ心配してると思ってるんだ?」
「俺は団長――」
「団長の代わりはいても、お前の代わりはいない」
 やや早口になった。
「もし逆だったら、お前だったら、わかったって言うだろう。だけど俺はお前じゃない。ミスリル、俺には頷いてやることはできない」
「でもお前」
「嫌だ」きっぱり言い放つ。「死ぬなら一緒に死ぬ。一人で逝かせはしない」
 ミスリルはみっともないと思いながら、半開きになった口をなかなか閉じられなかった。テスの目をじっと見つめて瞬きし、テスの真意を図ろうとした。
 もしも立場が逆だったら、みすみすテスを手放すことができるだろうか? ミスリルには自信がなかった。同性で、同い年、実力も同程度、知性も同程度、感受性もどこか似通っていて、ずっと幼い頃から競いあい、高めあってきた。そんな相手を、ただ立場の違いだけを理由にどうして手放せる?
「甘えてるわけじゃない」テスの声音が低くなる。「死に別れる覚悟がないわけじゃない。でも、ミスリル、お前は俺が守る。お前が死ぬのは俺の後だ。ミスリルには俺を盾にする気はあるのか?」
「いや」これには、はっきりと答えられた。「ないな」
 テスは満足したようだ。思い詰めた光は、いつしか強い意志の光に置き換わっていた。
「それじゃあ、ミスリル……」
 ようやく頷いた。
「一緒に生きよう」
 テスから安心を得たいと思っていた。思っていたような安心は得られなかった。
 だが、十分だった。
「テス……お前そういうこと言うか」
「格好をつけるな」
 テスは目許の力を緩めたが、まだ何か言いたげなのが、声の消えかたでわかった。俯いてしまう。
「どうしたんだよ、テス?」それでも言いやすくはなったはずだ。「お前からも何か言いたいことがあるんだろ? 他の誰かは騙せても、俺は騙せないぞ」
 もう一度目線を下げ、テスは大理石の床を見た。口ごもる。
「……少し、考え事をしてた」
「だから、何を考えてたか言ってみろよ」
「ミスリルは……」
 また口ごもった。
「なんだよ」
「ミスリルは、もし」続く言葉は、全く思いも寄らぬことだった。「もし俺が死んでも、ミスリルは、俺のことを忘れないでいてくれるか?」
 これまでの関係性からして、理解し難い質問だった。理解しかねるがために、答えあぐねた。結局こう答えた。
「殴るぞ」
「本気で聞いてるんだ!」突然、テスの声が大きくなった。「俺が遠くに行っても、俺がお前を思い出せないくらい遠くに行っても――」
「なんでそんなこと言うんだよ!」
「殴ってくれてもいい。嫌なんだ、ミスリル、一人になるのが嫌だ。でもミスリル、お前が俺を覚えていてくれたら寂しくない――」
「わかった」ミスリルは手を上げ、右の掌をテスに見せた。「お前、不安なんだよ。そうだろ?」
「ミスリル」
「なんだって寂しいとか言うんだよ。いつ誰がお前を寂しくさせたんだ?」テスに続きを言わせはしなかった。「わけのわからないことを言うな。遠い世界とか、そんなのはお前の空想だ。お前はそんなところに行かないし、一人にも、寂しくもならない。いいか? ここがお前の世界で、ずっとここにいるんだよ」
 テスの張り詰めた心の力が、ふと弱くなるのを肌で感じた。
「一緒に生きるんだろ?」
 目を伏せ黙っている。
「テス」ミスリルは握り拳を作り、顔の高さに上げた。声をかける。「手を上げろ」
 ようやく目を上げ、ミスリルの右手を見ると、テスも右手で握り拳を作った。
 拳を軽くぶつけあわせると、テスの目が和らぎ、微笑んだ。
 ありがとう、ミスリル、とテスは言った。

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