開かれし門

文字数 4,600文字

 2.

 彼方に緋。恥じらうような桃色と、若々しい黄色。黄色は白く濁った蒼と混ざりあい、蒼は紫に変じる。紫から藍へのグラデーションの下に、『我々の緑の島』はあった。港に立つシンクルスたちの頭上では、空の色は西に向かって暗くなる。天球儀の白い輝きは、西方ほど眩しく、東の夜明けに迫るにつれてはかなく透きとおり、彼方の緋色の色彩の中にはもう、見ることもできない。
 千年以上も昔には、無数の物資輸送船が停泊したこの港は、今でも造られたときのまま変わっていないように見えた。白い舗装は一点の汚れもなく、また欠けもなく、波による磨耗すらなかった。島に降り立ったシンクルスは、まず腰を屈めて舗道を撫でてみた。ざらざらしており、土を固めた素材のようでもあるが、それほど脆いものではないはずだ。
 神官団の船へと戻り、折り畳み式の槍を抜く。それを伸ばすと柄の先を海につけ、舗装の表面に水を垂らした。水はたちまち未知の舗装の表面に吸収され、乾いた。
「シンクルスさん、何をしてるんですか?」
 レーニールがアセルに尋ねた。
 ずた袋に入れた二重天球儀を抱えるアセルとレーンシー、そしてレーニールは、この先の診療所へ向かう坂道の手前にいた。シンクルスはというと、仲間たちに置いていかれそうになっていることに気付いていないのか、作業をしている神官を呼び、何か言いつけていた。
 呼ばれた神官が甲板に残っている神官に何事か叫んだ。間もなくその神官が、持ち手つきの桶を下に投げ落とした。受け取った神官からシンクルスへと桶が渡ると、シンクルスはそれで海の水を汲んだ。そして、水を舗装にぶちまけた。
「ああ、あれは……」アセルは呆れ、黙った。それから仕方なしに言った。「何か一つ興味を持つとアレだ。周囲が見えない」
 桶いっぱいの水を、舗装はすぐに吸収してしまった。シンクルスの興奮してはしゃぐ声が聞こえた。
 まさか彼の部下たちの前で「何をしているのだ馬鹿者」というわけにいかず、アセルが渋面を作っていると、神官が控えめに、シンクルスに何事か伝えた。アセルたちが遠くから見守っているのに気付いたシンクルスは、慌てて彼らのもとへと駆けてきた。
「シンクルスさんって……」近付いてくるシンクルスを前に、レーンシーは言葉を探した。「その……純真な方ですね」
「物は言いようだな」と、アセル。
 港を横切り坂道の下へとたどり着いたシンクルスは、頬を紅潮させ、急かすように歩き始めたアセルに身を乗り出した。
「面白いことがわかりそうだぞ、中佐殿」
「くだらんことだったら怒るぞ」
 シンクルスもつられて歩き出す。双子も後ろに続いた。
「あの港の地面の舗装に使われる素材だが、信じられぬほどの吸水性だ。俺は思うのだが、あれは雨水や海水などを濾過していずこかに溜め込み、生活用水として使用しているのではないかと――」
 アセルの目つきが鋭くなっていくので、シンクルスは慌てた。
「くだらぬ話ではない! 中佐殿、いずれ宙梯への大航海の暁には、水の確保は重要な課題となる。もしあの素材を大量に切り出すことができれば……」
 だが、アセルの目つきが変わらないので、だんだん声が小さくなっていき、消えた。
「……いや、この話は後にしよう」
 空が曇り始めた。
 坂の上に、いよいよ地球人のための療養所を囲む壁が灰色に見えてきた。たどり着いてみると、壁はベージュ色で、ちょうど坂の正面に、入り口が存在した。その作りを見ると、長く平和が続いた時代に建てられたものなのだとわかる。門扉の前にはいかなる障害も存在しなかった。壁も、腕を伸ばして飛び上がれば手をかけられる高さだ。ある程度の運動神経さえあれば、乗り越えられそうに見える。壁の素材は港の地面を舗装していたものと、少なくとも外見は同じだった。
 入り口はというと、壁と同じ素材の一枚板が塞いでいる。
 アセルが眉を顰めながら口を開く。
「オレー前神官大将はこの島に地図を隠したと言ったが、探すとなると何日かかるかね」
「そうわかりにくい場所に隠したとは思えぬ。この診療所の周辺に違いあるまい」
 そのシンクルスの見立てに、レーンシーが首を傾げた。
「中ではなく、周辺ですか?」
「オレー大将は俺に何も告げぬまま暗殺ないし処刑されることを予想していたであろう。事実そうなった。そして、聖遺物について詳しいことを何も知らぬ中佐殿が俺とともにここに来る際、中に入るための『鍵』を入手せずに来る事態も想定したと思われるのだ。なのでまず施設の周辺を探し、見つからなければ『鍵』を用いて中に入ろう」
「鍵がなくても簡単に乗り越えられそうじゃないか」
 アセルが言い、シンクルスは真剣な目を彼に向けた。
「いいや、火器が備えられている。『鍵』なくして侵入は不可能だ。だからまずは、皆で手分けして周辺を――」
「ありました」レーニールが嬉しそうに声をあげた。「あれではありませんか?」
 全く、わかりにくい場所には隠すまいという見立て通りだった。
 見つけてしまうと、何故最初に目に入らなかったのかと思えるほどだった。門扉の横の旗立てに、大判の図面を収容するための、筒状の革のケースが差されていた。ケースの表面には、雨をはじくよう蝋が塗られている。
 代表して、シンクルスがそれを旗立てから抜き取った。地面に両膝をついてしゃがみ、ケースの留め具を外す。
 中から二枚の、大判の紙が現れた。
 一枚は、明らかに地球文明の物とわかる紙だった。水のような質感で、よくしなり、皺一つつかない。広げてしまえば、丸めた形状さえもう残っていなかった。染料はというと、まるでつい今し方描かれたかのようで、褪せても滲んでもいない。紙自体にも、まったく傷みはなかった。
 もう一枚はシンクルスにも馴染み深い羊皮紙で、こちらは長い間丸められていたせいでそのくせがついており、端々が折れ、また、やはり雨の影響を受けたとみえ、インクが滲んでしまっている。
 どちらも、航路図に違いなかった。
 ミナルタ、デナリ、そしてシオネビュラから、海上の灯台のような印へ続く航路が記されている。羊皮紙のほうは、精巧な写しだった。
 シンクルスの鼓動が早まっていく。
 だが、どこか冷めた気分の自分がいた。
 思ったほど感慨がわかないのは、この地でもう一つ、航路図の入手と同じくらい重要な仕事があるからだ。
 二枚の航路図を丸め、元通りケースに収めた。紐を巻き、留め具をかける。
「中佐殿、二重天球儀を」立ち上がり、ケースの大きな持ち手を左肩に掛けた。「……療養所へ」
 ああ、と頷いて、アセルはずた袋のなかに手を入れた。
 二重天球儀が露わになった。
 白い石のような物体でできた大小二つの球体で、大きい球体が小さい球体を中に収めている。外側の球体はアセルの掌にちょうど収まる大きさで、地球人にとっての天球儀、つまり地球から見える星々が透かし彫りになっている。内側の球体は、その彫刻の間から覗き見ることができた。それはアースフィアの天球儀。何も彫り込まれていない、空にまつわる何の文化も持たないまっさらな球体。外側の球体の内部の空間、その中央にぽっかり浮いた状態で、内側の球体が、くるくると下方向への回転を続けている。
 どのような仕組みと力が、物質にそのような運動をさせているのか散々考えたが、考えるほどわからなくなるばかりだった。
「で、これをどうすればいいんだ?」
 レーンシーが門扉に触れた。
 青い光の幕が門扉を覆い、光の中に、日常決して目に入ることのない地球の文字が表示された。
「レーンシー、レーニール、文字の読み方はもう習っておられるな?」
「はい」
 文字は来訪理由を尋ねており、いくつかの選択肢が示された。レーンシーは『保安点検のため』という選択肢に触れた。
 微かな光が放たれて、四人を包みこんだ。肌がちりちりするような感触が残った。
 文字の表示が変わる。
「これは暗号なのか?」
 アセルがシンクルスに尋ねた。
「地球人の文字だ」
「文字? これが?」
「左様」
 千年ほども単一言語を用いてきた言語生命体には、神官職でもない限り、言葉が通じないという発想がない。
「今はなんて書いてあるんだ?」
「二人は……レーンシーとレーニールのことは、地球人として認識したようであるな。残る二人は誰かと質問されている」
「点検作業員と答えてよろしいでしょうか」
 レーニールが尋ねた。
「構わぬ」
 レーンシーの華奢な指が、光の中の文字を巧みに操った。やがて、すべての文字が青い光の幕の中央に集まった。白い光の正方形ができる。
「二重天球儀を貸してください」
 アセルがそれをレーンシーに渡すと、彼女は二重天球儀の表面を、白い正方形に押しつけた。
 光の幕が消えた。レーンシーが二重天球儀をアセルに返すと、門扉に横一直線に割れ目が走り、上下に分かれ開いた。
 四人の前に、療養所の前庭が姿を現した。
 シンクルスが先頭に立って足を踏み入れた。
 前庭に、植木や花の類はなかった。計算され尽くした幾何学模様の花壇には黒っぽい土があるだけで、雑草一つ生えていない。噴水は水を失い、乾いて久しいようだった。なめらかな、磨きあげられた置き石のような白い物体が、土の上を自動で走っていた。後ろのアセルが体を固くし、身構えるのを感じた。
「中佐殿、あれは環境維持装置の一つだ。恐れるものではない」
「あれを動かしているのは誰だ?」
「太陽の王国にいる地球人ということになるな。療養所は機能を維持しているようだ」
 よく見れば、同じ装置が前庭のそこここで動いていた。庭の清掃をしているのだろう。雑草がはびこらぬようにという命令が生きているらしかった。
 前庭の中央に、緑の光の幕が立ち現れた。レーンシーの背丈と同じ大きさの、療養所の見取り図だった。
 正面の建物は、病棟の一つだとわかった。円形の塔を中心に左右に(よく)が延びている。海に向かって百八十度開けた病棟になっているようだ。
 塔の形にあわせた、半円形の大きなガラスの一枚板の窓がシンクルスを魅了した。あのようなガラスを作る技術は、もはや夜の王国にはない。または、地球人の驚くべき文明力を思えば、あれはガラスではないのかもしれない。
 建物の入り口には扉はなく、青い光の幕が下りていた。レーンシーが近付くと、幕は消えた。建物内から白色光が溢れてきた。
 エントランスは高い吹き抜けで、アーチ状の天井と床の中間に、オレンジ色の光を放つ球体が浮かんでいた。半円形のガラスの窓からは、夜闇が濃かった頃にはさぞ美しい星が見えたことだろう。
 エントランス正面が案内所で、近付くと、前庭にあったものと同じ緑の光の幕が現れた。今度の幕はずっと大きく、四人が腕を広げてもまだ足りぬほどの横幅があった。
 レーンシーが光の枠に歩み寄った。
「網膜情報より、前回のアクセス記録を復元しなさい」
 緑の幕が、頷くように点滅する。それにあわせて屋内の白色光が弱まり、緑の幕が見やすくなった。
「いよいよです」
 囁くレーンシーの声は、緊張で上擦っていた。
「南西領〈言語の塔〉へのアクセスを開始します」


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