預言者キシャ

文字数 2,726文字

 1.

 他に航行する船はなかった。
 ヨリスタルジェニカ神官団の船が一艘、灰色の海を行く。シンクルスは甲板に立っていた。水平線には燃える黎明。その手前に、離島群の黒い島影が、石のように転々と転がっている。
 誰かが甲板に出てきた。船室の戸を閉め、足音を立ててメインマストの横を通り過ぎ、シンクルスの後ろに来る。
「あの一つか?」アセルの声だった。「『我々の緑の島』というのは」
 シンクルスに並んで甲板の縁に立つ。シンクルスはアセルを見た。予期せずいきなり目があった。色の薄い金髪が、風を受けてなびいている。灰色の目は天球儀のように透き通り、黎明のように激しかった。
「ああ」シンクルスは頷いた。「いよいよだな、中佐殿」
 二人はしばし、黙って前を見ていた。島影を見て、黎明を見た。何かを共有するような沈黙ののち、再び口を開いたのはアセルのほうだった。
「君は本当のことを知っているのではないか?」
 シンクルスはアセルを凝視する。
「何についてであろうか?」
「いくつかのことを。青い光。東方領で観測され、かつては古の都を滅ぼしたというそれだ。それに、天球儀の乙女。古の都にいたという女だ。本当に神話上の人物なのか?」
 シンクルスは眼差しを海に戻す。
 禁識を語ることに、もはや躊躇いはなかった。
「勤続十五年以上、または三位神官将補以上の神官が閲覧できる資料の記述だ」
 目の前を、何も知らないイルカの背鰭が通っていった。
「南西領の古の都は、千年前に滅亡するまで深い谷間にあった。天を衝く威容の言語の塔を擁し、山と山の間には開閉自在の天蓋があった」
「都市を守るためのものか?」
「そうであるな。つまりは要塞だったのだ。その天蓋は現在、聖地の地面となっている」
「千年以上も前には、そんな大がかりな要塞が必要だったのか?」
 シンクルスは頷いた。
神界(ガイア)戦争。言語生命体は地球人の代理戦争を戦わされていた」
 その戦争は、地球人からの独立を求めた言語生命体の武装蜂起を指す。その愚かな反逆を悲しんだ地球人が制裁を加えるために行われた戦争だと伝えられるが、実態は違う。
 太陽の王国に住む地球人たちが、夜の領域に全ての言語生命体を放逐するべきかを巡って行われた地球人同士の戦争だ。
 太陽の王国に、労働力として言語生命体を残すべきか。
 地球人との混血はどうすべきか。
 言語生命体の完全放逐を望む地球人たちは、家族という単位すら無視し、引き裂き、夜の領域に送り込んだ。
 言語生命体の存置を望む派閥の地球人は、言語生命体たちの嘆きにつけ込み、武力による反乱を煽った。このことは、文明退化の促進に当たり、まず真っ先に火器銃砲が規制された原因となる。
「天球儀の乙女として知られる女性は、戦争調停のために派遣された地球人だった。だが、古の都が惨禍に見舞われることを事前に知らされ、言語生命体たちをおいて撤退したのだ」
「どうやら、伝承で語られるような聖人ではなさそうだな」アセルは呆れを顔に浮かべた。「神界戦争は……確か、文明退化指導期間中の出来事だろう」
「ああ」
「天示天球派の教典の中で、キシャ・ウィングボウは『天球儀の乙女』とほぼ同一視されているな。キシャが死ぬのは『天球儀の乙女』が撤退してから何年後のことだ?」
「キシャが死に、ウィングボウ家が滅亡したのは今よりおよそ八百年前。『天球儀の乙女』が夜の王国から撤収し、太陽の王国からの全ての言語生命体の追放が決定された、三百年後のことだ。そして地球人の夜の領域からの完全撤退より二百年後」
 シンクルスは少し遠い目をして、頭の中で話の順序を組み立てた。
「二百年を経てもまだ、地球人の恐怖や神界戦争の傷跡から、言語生命体は立ち直りきっていなかった。地球人が完全に神格化されるには、時が浅かったのだ。加えて、多くの地球人たちが信奉していた宗教を奉じる言語生命体もまだ多く残っていた」
 後の世、数々の異端宗派の原型となるその宗教の信奉者は、『唯一神の前の平等』を高らかに主張した。この『唯一神』は、もちろん地球人のことを指しているのではない。万物の創造主の前に、地球人も言語生命体も等しい存在であるはずだと。
 その主張を支持したのは、盟約御三家の弓の家、すなわちウィングボウ家。そして、独立と引き替えに、唯一地球人のみを神として信奉するという地球人との盟約の維持を貫いたのが、アーチャー家とライトアロー家だった。
 ここまでは一般教養としての歴史だ。
 盟約御三家の分裂で、人々もまた二分された。町では隣人同士で密告しあい、密告を恐れて殺しあい、人心は乱れた。次々と自称預言者や救世主が現れた。異端宗派がひしめき合った。神官の独立性や、御三家の名誉さえ、地に墜ちようとしていた。規制強化と厳罰化ばかりが押し進められ、処刑の行われぬ日はなかった。
「そんな中で、死後人々の間で神格を持ち得た数少ない自称預言者の一人がキシャ・ウィングボウであった。キシャは生きている間、自分たちの土地を地球人の代理人たる神官や王に奪われ、剣を取った人々を集めたのだ」
 シンクルスは話を続けた。
 キシャを神格化したものは、ウィングボウ家の家柄、処刑に至るまでの悲劇的な経緯、そしてまだ十六歳の少女であったということと、彼女を神格化するべく努力を続けた弟子たちの血と汗だ。
 キシャは清らかな聖女であり、愛と平和と平等を説くべく地上に降り立った。そのような人物であり続けるためには、革命の熱気や血生臭さとは無縁の人物でなければならなかった。そして、神の子である彼女が起こしたとされる、数々の奇跡の物語が教典に記述された。
「人々に神の教えを説くべく南西領の古の都に舞い降り、失望して去っていったという『天球儀の乙女』の物語と、意図的に似せようとしたのかもしれぬ。いずれにせよ、人為的にキシャと『天球儀の乙女』が同一視されるよう仕向けられていたことは確かだ。何せキシャ自らが……この地を言語生命体の地として守護しようとした……とされる『天球儀の乙女』の代理人と称し、悪への報復を煽ったとされているのだから」
「天示天球派においてキシャと『天球儀の乙女』が同一される理由はわかった」話が切れたとき、アセルが言った。「だが……何故こじつけの対象に『天球儀の乙女』を選んだんだ? 何でもよかったのか、それとも深い意味があるのか……」
 質問に答えかね、アセルから前方へと目を移したシンクルスは、島影がさきほどよりずっと大きくなっていたので驚いた。
 いよいよだ。
 長い旅の目的に、いよいよ着く。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み