桟橋の戦闘

文字数 9,820文字

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 同じ頃、シンクルスとアセルも、リアンセたちとは引き離されてしまったことに気付いていた。二人はタルジェン島行きの定期連絡船が出ている町にたどり着いていた。シンクルスは顔なじみの船主を捕まえて、無理矢理にでもタルジェン島行きに協力させるつもりでいた。強引な手段に出るなど全く気が乗らないが、他にどうしようもないのなら、そうしようと覚悟していた。
「ここは静かだな」
 アセルが呟く。
「そうであるな、中佐殿。恐らく離島からの避難民が来ておらぬのだ。疎開できる状況ではないか、禁じられているか……」
 シンクルスはヴェール付きのフードをすっぽりかぶったまま答えた。もし自分を狙う暗殺者が潜むなら、この町だろう。自分がタルジェン島に戻ることを、暗殺者たちが予測しているとしても不思議はない。
 一方で、アセルと合流して以来、一度も刺客に出くわしていないことが不思議でもあった。単なる幸運だろうか? 刺客を雇ったのは南東領の、アーチャー家の男だとシンクルスは聞かされた。思い当たる人物は二人いる。
 一人はミカルド・アーチャー、南東領ソレスタス神殿正位神官将。西方領神官大将の長男で、アーチャー家の南東領での足場を固めるために赴任している。ライトアロー家没落に関わる陰謀の首謀者の一人だ。
 もう一人は、ミカルドの一人息子ハルジェニク。ミカルドよりも、連合軍に加わり南西領入りを果たしている彼のほうが刺客を雇いやすい。
 暗殺者の仕事のしかたをコブレン自警団から聞いておけばよかったと、シンクルスは遅い後悔をした。教えてくれるなら、だが。最初の刺客が撃退された場合、直ちに二度目の襲撃を行うだろうか? それとも雇い主に何らかの相談を持ちかけるだろうか? または、リアンセが入手した書状の情報が正しければ、ハルジェニクと暗殺者たちの間で連絡が取れなくなったため、シンクルス殺害の計画については打ち切りになった可能性もある。もしそうであればこんな暑苦しいマントは脱ぎ捨てて、面倒な染髪もやめてやるのに。
「万一のことを考えれば、仲間は多いほうがいい」と、アセル。シンクルスはヴェール越しに、アセルの真顔に目を注いだ。アセルも鋭い目をヴェールに隠されたシンクルスの目に向けた。「だが、今はタルジェン島行きを優先しよう。異存はないな」
「無論だ、中佐殿」
 木造の粗末な家が並ぶ細い坂道を下り、二人は船着き場を目指した。途中で足を止めたり、緩めたりはしなかった。
 船着き場は、町を南北に貫く坂を下りきった場所にある。石垣と石の階段の下に港があり、そこから船が出ていた。
 石垣にたどり着くと、いきなりアセルがシンクルスの二の腕を掴み、建物の陰に引きずりこんだ。シンクルスは息をのみ、アセルがどのような危険を察知したか探った。
「何か光った」アセルが、教会堂の尖塔を指さした。「弩のやじりだ」
 教会堂は石垣のすぐ手前、船着き場を見下ろす場所にある。やじりの光った位置から、それが描くであろう軌道を推測し、アセルが尖塔から船着き場へと指を動かした。
 (はしけ)の上に、三人の人物が見えた。一人は肥満気味の老人、あとの二人は、篝火の明かりだけではよく見えないが、雰囲気からして恐らく若い。
 あの三人の内の誰かが狙われているのだ。
 シンクルスは石を拾い上げた。アセルに止める間を与えず、大きく振りかぶって艀に投げつけた。
 放物線を描いて飛んだ石は、三人には届かなかったが、大きな音を立てて艀の上に落ちた。シンクルスは立て続けに石を投げた。驚いた三人が、石を避けようと艀の端に避難した。
 すると、弩の矢が、つい先ほどまで彼らがいた艀の中央に突き刺さった。女の短い悲鳴が聞こえた。アセルがシンクルスの左の二の腕を後ろから掴んだ。
「余計なことを」
 アセルはそのまま、半ば引きずるようにシンクルスを路地の奥に連れこんだ。
「余計なこと?」シンクルスは反論の言葉を探した。「艀の上の人物を殺害した後は、俺たちを殺すつもりだったかもしれぬではないか」
 だが、後付けの理由にすぎないことはアセルに伝わっていた。
「そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれん。いずれにしろ、今となってはやるしかあるまい。クルス!」アセルは教会堂がある方向を顎で示した。「君は正面から攻めろ。私が囮になる」
 そして、シンクルスの背を押した。シンクルスは表通りを目指して走り出した。角を曲がるとき、振り返ると、アセルが木の柵を足がかりにして、低い屋根によじ登っているのが見えた。
 軒を連ねる商店と石垣の間に横たわる、砂の打たれた表通りに出た。通りに人影はなかった。教会堂に正面から入りこむ。小さなエントランスを挟んですぐ目の前に礼拝室の扉があり、その向こうから、よく通る声の神官の説教が聞こえた。
 扉の前を素通りし、階段室に入る。
 階段室は暗かった。階段の屈折点に小窓があるが、十分な光は入らない。シンクルスはマントのフードを脱ぎ、少しでも目に光が届くようにした。気配を殺して階段をゆっくり上りながら、折り畳み式の槍の鞘を外す。柄を長くして、できるだけ音を立てないように二カ所の連結点を固定した。
 二階を過ぎた。シンクルスは息を詰め、一歩、また一歩と、足音をたてないように慎重に上っていく。
 階段が終わり、引き戸が現れた。ほとんど右耳をくっつけるようにして中の様子を窺えば、カシャカシャという、連弩から矢を発射する音が聞こえてきた。
 引き戸に指をかけ、そっと右に滑らせた。
 思いの外なめらかに動いた。細く開いた隙間から、そっと中を覗くと、鎧戸の外された窓に向かって、小柄な体格の暗殺者が矢を放ち続けていた。シンクルスには背中を向けており、性別も年代もわからない。腰丈のマントを着ており、頭にはフードをかぶっている。
 じれる気持ちを押し殺しながら、少しずつ引き戸を右にずらしていく。ようやく体が入るだけの隙間が開いた。
 その隙間に体を差しこんだ。
 暗殺者は窓の外に集中したままだ。
 研ぎ澄まされた槍の穂先が、戸框(とがまち)にぶつかった。
 音を立て、戸框の木が削れる。
 暗殺者が素早く振り向いた。その両目に宿る光が、一直線にシンクルスに飛んできた。シンクルスは一気に引き戸を開け放ち、駆け寄りながら、声もなく槍を振りかざした。
 暗殺者が、弩をシンクルスに向けた。
 考えるより早く、腕が動いた。
 槍の穂先で弩の先を払った。矢が放たれ、シンクルスの顔をかすめて天井に刺さった。狙いを逸らされた勢いに発射の反動が加わり、暗殺者は跪いた姿勢のまま大きく左に傾いた。
 窓の外から逞しい腕が伸びて、暗殺者の襟首を掴んだ。アセルが屋根を足場に姿を見せ、窓枠越しにダガーで暗殺者の首を刺した。窓から転がりこんでくる。
「何をぼんやりしている! 壁際に隠れろ!」
 シンクルスは慌てて指示に従った。アセルも暗殺者の死体を壁際に引きずりながら窓から離れた。首に刺さったダガーを抜くとき、マントのフードが脱げて暗殺者の顔が露わになった。
 少女だった。
 シンクルスは嫌悪から顔を背けた。
「クルス」アセルがダガーの血を拭きながら窓を見やった。「さっき、窓からもう一人出ていった」
 シンクルスは壁に背をつけたまま、少女がアセルを狙い撃ちしていた窓から外を窺った。屋根が連なるばかりで人影は見えない。部屋にはその窓と向かい合う形で、もう一つ小窓があった。そちらの窓に近付いた。
 船着き場と住宅地とを隔てる石垣、そして海が見えた。
 遠く女の悲鳴が聞こえた。
 シンクルスは、部屋から階段室へと飛び出した。アセルが舌打ちし、窓から屋根に飛び出し、後を追う。教会堂を出たシンクルスは、石垣に飛び乗りその上を走った。船着き場へ下りる階段を見つけ、段とばしで駆け下りる。マントが風を含みはためく。シンクルスは襟元の留め具を外し、マントを脱ぎ捨てた。
 石垣の上からアセルが叫んだ。
「伏せろ!」
 反射的に体を前に倒し、伏せて砂の上を滑った。矢が頭上を通り過ぎて石垣にぶつかり、欠けた石を散らした。
 斜め左前に、狙撃者の影が見えた。桟橋の陰にいる。アセルが上からダガーを投げつけると、狙撃者は桟橋の下に姿を隠した。シンクルスは立ち上がり、桟橋に向かった。
 暗殺者は、桟橋の下の小舟に乗って、巻き上げ機を用いて次の矢をつがえていた。
 その矢をシンクルスに向ける。
 誰かがその暗殺者に石を投げた。距離からしてアセルではないはずだ。石は暗殺者に当たらなかったが、一瞬気をそらせる効果があった。
 シンクルスは桟橋から小舟に飛び降りた。
 槍をかざし、穂先で暗殺者の喉を掻き切ろうと狙う。
 弩で払われた。
 腹を狙って突きを繰り出す。
 今度はもっと強く払われた。バランスを崩して横によろめく。つがえられた次の矢が、隙だらけのシンクルスに向けられた。
 その時、誰かが小舟に飛び降りて、暗殺者の後ろに立った。天球儀の光を跳ね返す短剣の輝きが、シンクルスの目を刺した。
 その短剣が、暗殺者の背を刺した。
 短い声を上げ、暗殺者が膝をつく。
 その後ろから、一人の青年が姿を見せた。
 怜悧な顔立ちの青年だった。二十歳前後といったところだろう。短剣を握りしめ、緊張と戦闘の興奮に顔を強ばらせている。過呼吸気味になりながら、彼は暗殺者の死体を見下ろした。そして、脱力して血溜まりに座りこんだ。
 誰かが岸を歩いてくる。
 長い髪をなびかせた女のシルエットだ。女は岸に膝をつき、息をのんだ。
「大丈夫だよ、姉さん」青年が声をかけた。女の顔はよく見えない。その後ろから、今度はアセルが歩いてきた。青年が続ける。「この人が助けてくれたんだ」
「まだ助かったという保証はない」アセルが女の横に立った。「取りあえず上がってこい」
 アセルの手を借りて桟橋にあがり、岸に戻って、シンクルスはようやく至近距離で二人の男女の顔をよく見た。一目で双子とわかる顔をしていた。どちらも端正な顔で、賢さを窺わせる目を持っていた。
「助けていただいて――」
 女のほうが何かを言いかけて、言葉を切った。シンクルスの顔を凝視する。そして、目を大きく見開いて、手で口を押さえた。男のほうも同じ反応をした。
 シンクルスは困惑し、尋ねようとした。
「何か――」
「シンクルスさん」女の声に、心臓が止まる心地がした。「ですよね? あなたはシンクルス・ライトアローさん、そうでしょう?」
 シンクルスは首をかしげ、双子の顔を交互に見た。
「どこかで……」
 確かに、何となく覚えのある顔だ。だが、記憶の底のぼんやりした印象と、目の前の顔がどうにも一致しない。
「こんなところで話しこむな、馬鹿者。早くこっちに来い」
 アセルの声で我に返る。
「そうだ。まだ曲者が残っておるやも知れぬ。身を隠そう」
「ええ……」
 シンクルスは後ろに双子を連れて、アセルの後ろを歩いた。
「大丈夫? ふらついてるわ」
「うん、姉さん……」足音が一つやみ、続けてもう一人の足音も止まる。
 かと思いきや、どちらかが海に向かって走りだした。振り向くと、青年が、海に身を乗り出して嘔吐し始めた。仕方なくシンクルスとアセルも足を止めた。
「人を……」青年はひとしきり吐くと、涙混じりの声を振り絞った。「人を殺したんだ……姉さん……僕、覚悟してたのに……」
「仕方がないわ。仕方がなかったのよ」と、姉が弟の背を撫でる。「私も覚悟していたわ。でもそんな日はこなければいいと思ってた。うまくいかなかったのよ。ええ、ちょっとうまくいかなかっただけ。だから大丈夫よ。ね、レーニール」
 今度はシンクルスが驚く番だった。
 口だけが勝手に動いた。
「レーニール・アーチャーか」
 双子が振り向く。シンクルスは続けた。
「では、そなたはレーンシー・アーチャーだな」
 強い負の感情の波が押し寄せて、シンクルスは喋れなくなった。混乱であり、恐怖であった。遅れて怒りがきた。
 あの双子は、両親と祖父の仇である男の甥と姪だ。
 恋人を辱めて殺した男が、いたくかわいがっていた従兄弟だ。
 それを助けたのだ。そのために命を賭けてしまったのだ。
 顔を見てすぐにわからなかったのは、最後に会った時にはまだ二人とも子供だったからだ。何度も会ったことがある。アーチャー家とライトアロー家に、親族ぐるみの付き合いがあった頃、何度も……。
 アセルが服の袖を引っ張った。
「来い」
 シンクルスは双子に背を向けた。彼らに対し何も言いたくなかった。行く手に小さな倉庫が見えてきて、話くらいは聞いてやってもいい、と考え直した。もしかしたら、ハルジェニクの居場所を知っているかもしれない。
 がたついた戸を開けて、アセルとともに倉庫に入った。双子も後からついてきた。
 明かりを採るために、戸は開けたままにした。シンクルスとアセル、レーンシーとレーニールは、狭い倉庫の中で、改めて向かい合った。
 シンクルスは双子のどちらかが話し始めるのを待ったが、どちらも口を開かなかった。緊張し、体を強ばらせている。すぐその理由に気がついた。二人を見る自分の目が、すっかり冷たくなっているから、相手は怯えているのだ。一旦、目を閉じた。あの忌まわしい事件があった当時、二人は十二歳だった。ロザリアの死にも、ライトアロー家の凋落にも、彼らはなんら関与していない。そう己に言い聞かせるが、感情はなかなか思考に従わなかった。
「あの、改めまして」レーンシーの声が言うので、シンクルスは目を開けた。「ありがとう――」
「レーンシー・アーチャー」アセルの低い声がそれを遮った。「ここで何をしていた?」
「タルジェン島に行くところだったんです」萎縮してしまった姉に代わり、レーニールが答えた。「シンクルスさんに会わなければならなかったんです。昔の知己として……」
「シンクルスは死んだことになっている。誰から彼のことを聞いた」
「パンネラ・ラウプトラ。王の愛人。南西領の元総督夫人です」
 アセルとシンクルスは、黙って信憑性を吟味した。アセルが質問を続けた。
「君たちとパンネラの関係は?」
「その前に、あなたのお名前をお聞かせください。まだ伺っておりません」
「正体を明かすのは、君たちの話を聞いてからにさせてもらう」
「彼は俺の協力者だ」シンクルスはごく静かな声で割りこんだ。「引き続き事情を聞かせていただきたい。何故俺に会おうとした?」
「オレー前神官大将が生前、あなたに何か特別なことをお命じになっていたことを、ウージェニー・アーチャー新神官大将が話しておりました」
「もちろん新神官大将は私たちの親族です。ですが、私たちには新神官大将に協力することはできません」
「それで、何故俺のもとに?」
「僕たちは『鍵』です」と、レーニール。「人間としての『鍵』です。同行を許可してくだされば、必ずやお役に立ちます」
「確かに我々は、『鍵』を必要とする場所に行かねばならない」シンクルスは、声が冷酷にならぬよう、ゆっくりと喋った。「だが、そのために必要な『鍵』は既に入手している。せっかくのお申し出だが、協力は必要ない。ましてアーチャー家の人間と手を組むわけにはいかぬ」
 最後の一言で、双子がひどく傷つき動揺するのがわかった。シンクルスは付け足した。
「理由を伝えておく必要があるな。俺もまた、一月ほど前にアーチャー家の人間に命を狙われたばかりなのだ。先ほどのそなたらと同じように、刺客に狙われた。協力者の到着があと少しでも遅れていたら、ここで息をしてはいない。だから、すぐにそなたらを信用するというわけにはいかぬのだ」
 レーンシーが、目を合わせようとせずに呟いた。
「アーチャー家の? 誰が……」
「恐らくは、ハルジェニク」
「兄さんが?」
 シンクルスは頷いた。
「それに、彼が九年前に起こした事件についてはよくご存であろう」
 双子は目配せをしあい、同時に俯いた。レーンシーが顔を上げると、レーニールもそれに続いた。
「兄さんが……。私たちのいとこがあなたの恋人に何をしたか、知っています」レーンシーの声が潤む。不意に泣き出しそうな気配を放った。「ですが……ええ、確かにあの人は、自分勝手なところがあるし、衝動性も強いし、それは否定しません。ですが、私たちにとっては優しい兄みたいな人でした。課題研究を手伝ってくれたり、観に行ってはいけないと言われた舞台を観に行けるよう手配をしてくれたり……」
 それがどうした? シンクルスは喉まで出かかった言葉を飲み干した。彼が根っからの悪人ではないことくらい、幼なじみとしてよくわかっている。だがそれが、失われた命に対して何になると言うのだ?
「ですから、私たちが謝ります。彼の親族として――」
 シンクルスは強い嫌悪から語気を強くした。
「そなたらの謝罪など必要ない! 謝罪はハルジェニクがすることだ」
 レーンシーの目に涙が溜まる。アセルが会話を引き継いだ。
「話を戻そう。君たちはどうしてパンネラと知り合った」
「僕たちの祖父は、西方領の神官大将です。救世軍や、そのパトロンの一人であるパンネラと取り引きがありました」後ろに下がり、涙を流すレーンシーを庇うように、レーニールが落ち着いた口調で答えた。「僕たちは協定に基き、彼女が自由に使える『鍵』として、パンネラのもとに派遣されたんです」
「その女といれば、さぞ確度の高い情報が手に入るだろうな。で、その女のもとから逃げ出した理由は?」
「東方領ではひどいことが起きています。人間やその他の言語生命体が、次々と言語崩壊を起こして亡くなったり、自我をなくして融けかけた体でくっつきあい……黎明の進行の遅い地域でその形のまま固着し……いわゆる『化生』と呼ばれる存在になっています。救世軍は」
 レーニールは声を一段と落とした。
「体内の言語子を操作する薬剤を持っています。それを使って、適切に言語子を操作し、補給し続ければ、黎明を生き延びられると……それどころか地球人になれるとまで信じています。自分たちは選ばれた民だと。そのために他の人々を利用し、見捨てようとしている。そんな行為には荷担できない」
「パンネラのもとを去る直接のきっかけとなった出来事があるだろう」
「はい」レーニールは唾をのんで続けた。「パンネラが、南西領の聖地へ非公式にご旅行されたことはご存じですか?」
「ああ」
「聖遺物を用いて地球人と連絡を取り合うための『鍵』として、僕たちはそれに同行しました」
「地球人と連絡を?」
 思わず身を乗り出したシンクルスに、レーニールは頷いた。
「はい。ですが、応答はありませんでした。同行の神官が……南西領リジェク神官団の神官でした。その人が、最後に地球人との交信が行われた日時とその内容を割り出したんです」
「いつだったのだ?」
「八百年前です。キシャ・ウィングボウという人物に、一言伝えただけでした。内容は――」

《我々は消え去る》
〈どこへ?〉

「消え去る」シンクルスはしみじみ呟いた。「どこへ?」
 キシャ・ウィングボウ。ウィングボウ家。それはライトアロー家の歴史の暗い面を思い起こさせる名だった。盟約御三家、すなわち矢の家、弓の家、射手の家を成す名家だったが、およそ八百年前に、ライトアロー家とアーチャー家によって滅ぼされた。ウィングボウ家が地球人との盟約を破棄し、地球人崇拝に抵抗したからだ。
 キシャは十六歳の娘で、詩作の才に優れ、自らを預言者と称し、『亡国記』を著した。アースフィアとこの宇宙の未来を予知する内容だという。その書物はキシャが火刑に処せられた後、崇拝者であり後見人でもあったタターリス・エルドバードの著書『予言』と共に禁書指定を受けた。徹底した捜索と回収のうえ焚書(ふんしょ)に処せられたが、いくつかは捜索の手を逃れていたはずだ。
「あのキシャ・ウィングボウと同一人物であろうか? 『亡国記』の」
「恐らくは」
 今度はアセルが尋ねた。
「『亡国記』は写本されたものを救世軍幹部が所持していると聞く。本当か?」
「はい。本当です」
 別の噂も聞いたことがある。コブレンの暗殺派閥の一つが、八百年前の状態のまま所持していると。
「ただの偶然とは思えんが……しかし、いやに明確な回答だな」
「はい。僕はレーンシーと共に『亡国記』の実物を見ましたから。写本されたものですが。興味深いところがあって」
 目を真っ赤にしたままのレーンシーが、レーニールの隣で無言で頷いた。レーニールは続けた。
「『亡国記』にも、キシャと同時代の崇拝者が書いた『予言』という書にも、共通して子午線という言葉が何度も出てくるんです」
「子午線……」アセルがシンクルスを見やる。「そう言えば君も言っていたな。コブレンで」
「俺が? 子午線?」シンクルスは首を傾げる。「覚えておらぬ上に、思い当たる節もないが……」
「人口の移動、人口密度について話をしていた時だ。思い当たる節がないならなんで言ったんだ?」
「何か閃いたのであろう」シンクルスは困り果てて首を竦めた。「本当に分からぬのだ」
「人口密度」
 レーニールが身を乗り出してきた。アセルが目をレーニールに戻す。
「人口密度がどうした」
「夜の王国の三つの子午線上には、正に人口密度を測定する装置が設置されているんです。人民の大移動が起これば、地球人はアースフィアの裏側にいながらそれを知ることができます」
「『天球儀の乙女』が目覚めると」レーンシーがようやく再び会話に加わった。「私たちは〈南西領言語の塔〉に蓄えられた記録からそれを知りました。『乙女は子午線の悲鳴によりて目覚め、子午線を静める』。意味がおわかりですか?」
 シンクルスは首を横に振った。
「子午線が悲鳴をあげる。これは人口密度の異常を感知し、告げることだと解釈できませんか? 静める。これは警戒が無用となる状態にすることだと」
「警戒を無用に」
 地球人にとっての驚異は、言語生命体が何らかの事情で太陽の王国に押し寄せることであろう、とシンクルスは考えた。
「そうか。意図的に言語崩壊を起こさせ、促進させればよいのだな。人口の少なくなった場所で……東方領で……まずは警告の意味でそれを行い、最後に最も人口の多い場所でとどめを刺せばいい。言語生命体を言語崩壊によって皆殺しにすれば」
 シンクルスは身震いし、生唾をのんだ。
「そのような仕掛けがあるかも知れぬということだな」
「もし東方で起きたのと同じ惨事が降りかかれば、戦争に勝っても、船を集めても無意味になってしまいます。ですが、人間の『鍵』として地球人の残した情報に当たれば、破滅を避けられるかもしれない。だけど反乱軍側の誰を信じて協力を申し出ればいいのかわからなかった」
「だから、私たちはあなたを頼ったんです」
「それでタルジェン島に」シンクルスは静かにため息をついた。「ところでレーンシー殿」
「レーンシーと呼んでください。昔のように」
「レーンシー、俺がもうヨリスタルジェニカの正位神官将ではないことはご存じか?」
 双子は驚いた顔を見せ、同時に首を横に振った。
「そこまでの情報は……知りませんでした。どうして」
「事情があってのことだ。とにかく、俺も事情があってタルジェン島には行く。だがそなたらが期待するほどの行動が取れる約束はできない」
「同行させてください」レーニールの目に熱がこもる。「精一杯のことをさせていただきます。お願いですから――」
 シンクルスは、アセルと無言で視線を交わした。
 目的地、『我々の緑の島』は地球人のための療養所だ。地球人療養者向けの資料を当たれば、二人の話と、そこから導かれる予測の裏付けがとれるかもしれない。
 そして、資料の閲覧には、『人間としての鍵』が必要不可欠となる。
「私は構わん。君が決めろ」
 アセルがシンクルスに告げた。
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