ちょっと指揮所に来い

文字数 5,150文字

 1.

 窪地で、兵士たちが軍服の洗濯に勤しんでいた。輸送部隊の手で運びこまれた巨大な鍋が火にかけられ、中には湯が煮えたぎっている。鍋の縁にはしごを掛けた兵士が、一度川で洗われた服を手際よく鍋に投げこんでいく。梯子の上の兵士はもちろんのこと、架台の近くで梯子を支える兵士も、火にあぶられて汗だくだ。彼らは交代で鍋と火の番に当たっていた。
 近くを流れる川では、他の兵士たちが横一列になって、可能な限り血や汚れを落とそうとしていた。洗濯場の周りには何とも言えない生臭さがたちこめ、気分が悪くなる。
 臭い。
 臭いとはどのように表現されるべきだろう?
 ミズルカ・ディンは低い崖の上から洗濯の様子を見下ろしながら考えた。彼は鼻と口をタオルで覆っているが、気休め程度にしかならない。一方、ずっとその場にいる兵士たちはとうに慣れたようで、軽口を叩いては隣にいる相手を肘でつついて笑っている。ミズルカはふと思い出して、図嚢からノートを取りだした。ペンで走り書きをした。
『血の臭いにつられて熊が出るかもしれないと大隊長が言った』
 私物のノートは前のページから従軍の記録が書き記されており、後ろのページからはメモが書き記されていた。ペンにキャップをし、足を早める。熊のことを思い出したからだ。
 幸い目的地は遠くなかった。
 大隊本部のテントの前に立つ。足音は聞こえているはずだ。指揮官のヨリスが書類仕事をこなしながら声かけを待っている様子を想像し、ミズルカは呼びかけた。
「ヨリス少佐、ディン中尉でございます。入室してもよろしいでしょうか」
 ああ、入れ、と聞こえた。
 ヨリスは書類仕事はしていなかった。丈夫な金属のカップでコーヒーを飲み、一服しているところだった。ミズルカは油断なく、ヨリスが何の書類をしていたか確かめた。聖地〈南西領言語の塔〉に到着後、追っ手の連合軍と睨み合いになった際の防御案の草稿が、一番上にあった。二種類あるはずだ。連合軍に聖地への侵攻許可がおりた場合とおりなかった場合と。スケジュールでは五時間後には連隊本部に上程しなければならない書類だ。明日一番の師団本部での会議に諮るために。
「ご休憩中でしたでしょうか」
「構わない。かけるがいい」
 報告すべき事柄は少なかった。幸いにも、トレブ高地の戦いで強攻大隊は戦死者を出さず、戦傷者も僅かな数で抑えられたからだ。彼らの傷が悪化することはなく、長くても全員三日以内に大隊に復帰できる見込みだった。その報告に続けて現在は洗濯作業が滞りなく行われ、定刻通りに終わる見こみであること、兵士たちが活発な様子であることを報告した。ヨリスは頷きながら、くつろいだ様子で聞いていた。何も目立った問題が起きていないことを、ミズルカは嬉しく思った。
「君の書き物の首尾はどうだ?」
 いきなり何を言い出すのかと、ミズルカは真意がわからずヨリスの顔を見つめた。ヨリスは無表情に続ける。
「戦記を書いていただろう」
「あれは……」ミズルカは口ごもった。「あまりうまく、その……いえ。進んでおりません」
 実のところ、まだタイトルさえ決まっていないのだ。
「今まさに行われている戦いについて書いているのだろう」
「はい」
「では、私も書かれているのか?」
 ミズルカは急に恥ずかしくなり、心臓が強く脈打ち、顔が熱くなるのを感じた。
「はい。恥ずかしながら」
「それは是非読んでみたいものだな」
 気付いた時には、ミズルカは無言のまま激しく首を横に振っていた。
「何故だ? 本になればいずれ多くの人に読まれるだろう。なのに私が読むのはいけないのか?」
「いいえ! ヨリス少佐が読んではいけないなどと、そのようなことは決して……」
 ミズルカは恥ずかしさを誤魔化すためにへらへら笑い、そんなことをする自分が嫌になった。
 驚いたことに、ヨリスは僅かに口角を上げて微笑んだ。
「君が嫌がるのなら、この話はやめにしよう」
 そう言われると、ミズルカは急に自分が書いているものについて語りたくなったので驚いた。
 あの出来事を、この出来事を、どのように解釈して書いているか。それらの出来事にいたるまでの筋道を、本筋にどのように効果的に散りばめているのか。兵士たちを、上官たちを、自分はどのように見ているのか。筆が乗っているときの、完成された文章が次々流れ出てくる快感。逆に難しい場面で、どのように書いても納得がいかないむず痒さ。どのように書き始めたのか。何故書こうと思ったのか。何故書けると思ったのか。これまでどのような本を読んできたか。それらの本がどれほど素晴らしいか。既に幾つも素晴らしい戦記本がある中で、自分が戦記を書くということがどうあるべきなのか……。
 それらの思いが全て一瞬にして意識に上ってきたので、ミズルカは混乱に陥りかけた。
 ヨリスはカップを口に運び、音を立てずにコーヒーを飲んだ。
 素晴らしい指揮官。大切な指揮官。命に代えてでも守りたい、役に立ちたいと思うほどの。
 恥ずかしくなった理由を理解した。書く対象を客観視できていないからだ。書物に記された数々の名将、指揮官、英雄。それらを書くように、ミズルカはヨリスを書いている。ミズルカは急に気が落ちこむのを感じた。俺は少佐のどこを見ているのだろう? 史料を見ながら書いているんじゃない。本人を見ながら書いているのに。そう思うと、突然改善すべき点や改善方法が頭に閃いた。自分が書いているものを、自分は最善だと思っていない。だから恥ずかしくて見せられないと感じたのだ。
 同時に、ある痛切な思いに胸を貫かれた。
 戦記を読んでいると、この人は死にたかったのではないかと思えるような指揮官がいる。彼らはどのような状況にあっても決してあきらめず、強大な敵に対して足掻き、戦い、激しく散る。そのような敗死は戦士の魂に、消えゆく生命の灯に代えて不滅の輝きを与え、星の高みに押し上げる。そうして優れた戦士は高く清らかな存在に――神に近いもの、あるいは多神教の神そのものに――なるのだ。彼らは記述の力で翼を得る。意志と知性の翼を広げて星になるのだ。
 ミズルカは感動した。
 ほんの少し、書かれる者と会話をしただけで、何故書いているかわかった。深い理由がわかったのだ。それは高揚と同じ程度の痛みをもたらした。
 ヨリスに死んでほしくなかった。戦いの中で死にたいなどと、ほんの僅かでも思っていてほしくなかった。
 自分の命とこの上官の次に大切な執筆用のノートが、不意に図嚢の中で重みを増した気がした。ミズルカは自分に強く言い聞かせた。ヨリス少佐はそんこと思っちゃいない。死にたい人間が婚約者と同居したり、婚約指輪をかわしたりするものか。だが、そのような言い聞かせは自分でも到底信じられなかった。
 静けさがテントを流れた。
 そこに、テントの裏の森で休んでいるらしい兵士たちの声が聞こえてきた。
「あの耳クソ伍長、マジ有り得ないよな!」
 すると二人目が「今日はどうしたんだよ。また耳ほじくった後洗ってない手で籠のパン取ったのか?」
「そんなのはいつものことだよ。耳ほじくった後洗ってない手で大隊長にお出しするコーヒー淹れてたんだよ」
 ヨリスの目が机の上のカップへと動いた。
「そんなの大隊長に知られんようにしとけば大丈夫大丈夫! 熱湯消毒だって! お湯注いだんだから大丈夫!」
「そういう問題かぁ?」
「ディン中尉」
 ヨリスがごく静かに口を開いた。
「……はい」
「後で行って、丸聞こえだと教えてやれ」
「いいえ」ミズルカは椅子を引いて立ち上がった。「今言って参ります」
 副官が出ていくと、ヨリスは三分だけ眠ることにした。椅子に深く腰を掛け直して腕を組み、目を閉じる。すると瞬時に意識が落ちた。同じくらい瞬時に意識が戻り、ぱちりと目を開けた。ぴったり三分だという自信があった。ごく短時間だが、深い睡眠だった。頭がすっきりしている。カップのコーヒーはまだ湯気を立てていた。
 二人分の足音が戻ってくるので、ヨリスは書類に伸ばしかけた手を下ろした。
 ミズルカは兵士を連れてきた。見ない顔の兵士だった。ということは、第一、もしくは第二大隊に在籍していた兵士だろう。北トレブレン撤退の混乱が落ち着いた後、大急ぎで第三、第四大隊に編入されたのだ。そうした兵士たちをまだ、ヨリスは把握しきっていなかった。
 兵士はおどおどしており、目を合わせようとしなかった。
「どうした?」
「テントの付近に一人でおりましたので、何か言いたいことがあると思い連れて参りました」
 連れてこられた兵士は痩せており、まだ兵士の体になりきっていない。徴集されたての兵士だとわかる。ヨリスは立ち上がり、机を迂回してその兵士の前に立った。兵士は緊張で体を強ばらせている。
「何があった?」
 小隊長と中隊長をすっとばして自分の所に来たということは、よほどの事情だろう。だが兵士は優柔不断で、あの、と言ったきり、口ごもるばかりだった。
「ここまで来て迷うことはあるまい。言ってみろ。名前と所属は?」
 彼は第一中隊の二等兵で、北トレブレンではダリル・キャトリンの第一大隊にいたと言う。ヨリスが何の気なしに体を動かすと、慌てて左腕を庇う仕草を見せた。
 ヨリスは何も言わずに兵士の左手首を掴んだ。服の袖をたくし上げる。
 そこには何度も棒で殴りつけたような青痣が隠れていた。
 用件はこれだと、ヨリスもミズルカも理解した。
「誰にされた?」
 間もなく、大隊指揮所のテントからヨリスが出てきた。険しい空気をまとっている。ミズルカも緊張した面もちで後に続いた。一番最後に兵士が続いた。
 ヨリスはまっすぐ第一中隊の宿営地に向かった。立ち並ぶテントの一番奥へと歩いていく。窪地に屋根覆いのない天幕が張られ、木剣を打ち合う音がその中から聞こえた。
 いつも通りの訓練が行われているはずだった。
「立てよ!」
 殺気だった怒鳴り声が、日常が既に壊れていることを物語っていた。やんやと囃したてる声や、嘲る声が後に続く。再び木剣を打つ音が聞こえたが、一度でやんだ。どさっと人の倒れる音。
「情けねぇぞ! 裏切り野郎!」
 ヨリスは天幕を下から持ち上げ、中へと潜った。予想通りの光景が広がってた。
「お前、その様でウジ虫野郎の親衛隊やってたのかよ?」
 兵士たちが取り囲む円形の空間に、新兵教育担当の軍曹と、一人の兵士がいる。兵士はうずくまり、肩を震わせている。勘弁してください、と兵士は呻いた。もう許してください、と。
 近くの兵士をヨリスが腕で押しのけると、兵士たちの一部がヨリスに気がついた。彼らの顔が硬直する。自然に道が開いた。
 軍曹が木剣で兵士の顔をつつく。
「甘ったれたことを抜かすな! 強攻大隊はあのクズの大隊ほど甘かねぇんだよ! 立て! おら!」
 もはや囃したてる声も聞こえないというのに、軍曹は異様な空気に気付いていないようだ。兵士を打ち据えるべく、彼は木剣を振り上げた。
 ヨリスはその手首を後ろから強く掴んだ。
 軍曹が怒りをこめて振り返る。
 そのまま凍り付いた。
 誰も喋らなかった。身動き一つしない。ミズルカが後を追って円形の空間に入ってくる足音だけがした。
 瞬きすらできず、その目に恐怖すら浮かべている軍曹に、ヨリスは無感情に言った。
「セントル軍曹。体罰は禁止している」
 軍曹は二度瞬く。言葉はない。
「これはどういうことだ?」
 ヨリスは答えを待たずに手を離し、座りこんだままの兵士に歩み寄った。うなだれて震えている。
「大丈夫か」
 兵士もまたも答えなかった。
「顔を上げろ」
 だが、動こうとしない。ミズルカが歩み寄り、兵士の横に屈んだ。
「大隊長殿がお命じだ。顔を上げないか」
 その諭すような口調に観念してか、兵士はやっと顔を上げた。怯えた目でヨリスを見上げる。ヨリスは息をのんだ。今度の兵士の顔には見覚えがあった。
 北トレブレンの城壁の上で、最後までダリルのもとにいた弩兵だった。ヨリスに向けて矢を放ち、その後逃走した……。
「ディン中尉」
「はい」
「この兵士を衛生兵の所に連れていって、傷を見させてやれ。それから三十分後にリッカード中尉とユン上級大尉を指揮所に連れてくるように」
「了解しました」
「セントル軍曹」
 ミズルカが立ち上がるのを見届けて、ヨリスは天幕から出ていこうとする。途中で振り向いた。棒立ちの軍曹を見るヨリスの目の表面を、鋭い光が覆った。
「ちょっと指揮所に来い」


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