激突

文字数 5,650文字

 ※

 鉤付きの縄でよじ登ったキャットウォークの上から、ミスリルは戦場と化した〈タターリス〉本部を見下ろしていた。口はまっすぐきつく結ばれ、何の表情もなく、目は冷ややかであった。縄は輪を描くように束ねてベルトに通し、右手には三節棍の三本の棍を、まとめて握りしめていた。下から戦いの声、悲鳴や呼び子の音が聞こえてきた。知っている声もあり、知らない声もあった。だが、霧のせいでなにも見えなかった。ミスリルはゆっくりと歩きだした。細い足場も、この先の戦いも、何も怖くなかった。
 一人ではなかった。
 仲間がいた。師が、父なる者が、そばにいる気配があった。生きて肉の体を持つ己と重なりあい、共にいるのを感じていた。歩いていく。目を半眼に開き、白いチュニックの首もとから、紐を通して首にかけた陶片を引き出した。口付ける。この天球に命を預け、その摂理に命を受け渡し、歩き続けながら目を閉じた。キャットウォークは霧に濡れていた。足を踏み外せば死んでもおかしくない。少なくとも大怪我は免れない。
 足を踏み外したりはしなかった。
 もう一度半眼になり、陶片の護符を握りしめた左手を胸に当て、祈りの句を微かな声で唱え始めた。
()は恐れぬ者なり。吾は大地、吾は摂理、吾は天命を(おそ)れる者なり。吾は天球に命を預ける者なり」
 三節棍の両端の(おもり)が微かに揺れている。
「吾は人の内なる神を尊ぶ者なり。吾が神なる人の命を奪うが天命ならば、生によりて吾を慈しみたまえ。許されざる悪逆ならば、死によりて吾を慈しみたまえ。吾が魂を抱擁したまえ。死の長大な影に堕ちたるときも、吾が共にありたまえ。あらゆる恐怖を除きたまえ。あらゆる祈りが光となりて絶えぬことを……」
 それから目をしっかり見開いた。交差する一段下のキャットウォーク、その下にジェノスの姿を見つけたのだ。護符から左手を放し、服の中に隠した。
 ジェノスもミスリルを見つけていた。立ち止まっている。
 ミスリルは祈りを唱えたままほんの少し口を開いていたが、元通りまっすぐ唇を結んだ。相変わらず恐れはなかった。緊張もなかった。
「ジェノス」
 その声は届いているはずだ。ジェノスはミスリルを見上げており、微動だにしない。
 ミスリルは告げた。
「お前を殺す」
 キャットウォークから身を投げて、ミスリルは身長ほどの高低差がある、一段下のキャットウォークに飛び降りた。ジェノスとは二十歩ばかりの距離があった。
「ジェノス!」
 もう一度だけ呼んだ。
 ジェノスが堂堂たる動きで腰の両手剣を抜く。
 もう話している余裕はなかった。
 走り出す。
 ただ、心の中で続けた。
 ジェノス。お前の内に神なるものがあるならば。まだその輝きが汚されず、僅かなりとも残っているのなら。
 今ここで、死ぬがいい。
 ミスリルは息を止めた。
 左手で左端の棍を握り、大きく左に振った。ジェノスの剣がそれを弾いた。中央と右端の棍が戻ってくる。ミスリルは右端の棍を右手で握った。更に繰り出されてきた剣の突きを、三角形の構えで捕らえ、防ぐ。
 ジェノスが肘を引き、剣がからめ取られるのを防いだ。
 ミスリルは右手を中央の棍に移した。
 射程を伸ばし、右端の棍の錘で剣越しにジェノスの頭を打ち据えようとした。
 今度はジェノスが、半円を描くように大きく両手剣を振った。棍が大きく押し退けられる。歩幅ぎりぎりのキャットウォークの上で、ミスリルの体が大きく左に傾いた。
 落ちる。
 右足をバネにして、大きく後ろに飛び退いた。両手剣の射程から外れ、爪先立ちになる。左手で三節棍を振りながら、くるり、くるりとその場で回転した。バランス感覚を取り戻すためであり、威嚇を込めた動作でもあった。動きを止めると、三本の棍が体に巻きついた。右端の棍を掴んで体の前に戻し、両手を中央の棍に移す。
 棍を、体の前で回転させていく。回転はすぐに目にも止まらぬ早さとなり、ミスリルを守る丸い大盾になった。両端の錘が金属のキャットウォークにぶつかり、恐ろしいリズムを刻む。三節棍を回転させながら、体の左、右、また左と動かした。
 体の正面ががら空きになった何度目かの機会に、ジェノスがミスリルの喉へと突きを繰り出した。
 ミスリルが腰を九十度曲げる。
 そうしながら、背中の上で棍を回転させ続けた。ミスリルの背と三節棍の上を、ジェノスの剣が通過する。すぐに両肘を引き、ジェノスは次の構えを取った。ミスリルは素早く腰を伸ばし、棍を右上から左下へと振り下ろした。今度はジェノスが屈んで回避する番だった。
 棍を左手に持ち替え、今度はジェノスの足を狙って、低い位置で左から右へ振る。
 間に合わなかった。ジェノスは跳んで回避した。低すぎたせいで、革の靴を履いたジェノスの足には掠りもしなかった。ジェノスはミスリルから間合いを取り、後方に着地した。
 左手で左端の棍を握ったまま、左足でくるりと回転する。勢いを得た右端の棍と錘が、今度はジェノスの左の側頭部を狙う。
 弾かれた。
 顔の前に両手剣をかざしたジェノスの前で、ミスリルはもう一度回転した。
 ジェノスが素早く前に出る。
 その斬撃を回避できたのは、幸運か、偶然かもしれなかった。そのときミスリルが何も考えておらず、ジェノスの剣の太刀筋も見えていなかったことだけは確かだった。
 気付いたときには両端の棍を両手で握り、交差させ、ジェノスの剣をがっちり捕らえていた。
 ミスリルは両腕を左に倒す。
 ジェノスは剣と三節棍に引きずられ、体を大きく傾けた。
 ミスリルは飛び上がり、右足をジェノスの顎に蹴りこんだ。
 ごっ、という、呻きとも叫びもつかぬ奇妙な声を上げ、ジェノスの体がキャットウォークから消えた。黒い衣服がひらめきながら霧の底へと小さくなっていき、ある瞬間見えなくなった。そして、墜落音が響いた。ミスリルは顔色一つ変えなかった。まだ勝っていない。ジェノスは言語活性剤を摂取している。テスが切り落とした右手がくっついていることからわかる。完全に存在を消滅させなければならない。
 キャットウォークを駆ける。飛び降り、鉄骨を掴み、それを支えに更に下のキャットウォークへ身を投げる。着地し、そこから近くの建物の屋上に身を投げた。転がって衝撃を吸収しながらまた着地。屋上から階下のテラスに飛び降り、テラスの下の屋根におり、その屋根から地面に降り立った。
 ジェノスはいた。
 コブレン自警団の二人の死骸の間で這い蹲り、それを貪り食っていた。
「イーニッド!」
 ミスリルは死んだ仲間の名を叫ぶ。
「アレスター!」
 その最後の母音が長く伸び、そのまま憎悪の咆哮に変わった。ジェノスが血まみれの顔を上げる。
 ミスリルの叫びから、憎悪の色が消えていく。怒りも、戦闘の興奮も消え、ただ声が長く続くだけとなった。
 声から感情が消えた。透明な声でミスリルは叫び続けた。
 武器を振りあげる。
 無心だった。
 感情はなかった。
 ただ、体は動くのだ。ミスリル一人の物ではないように。
 いつか、技も体も心を越える。
 剣と棍が再び激しくぶつかった。

 ※

 憎んでいた男。
 殺してやりたいと思っていた。
 牢にいる間、心の支えとしていた恋人のロザリアに、屈辱的な死を与えた男。何の罰も受けず、のうのうと恵まれた暮らしを続けてきた男。シンクルスがシグレイとオレー大将の影に隠れ、僻地の神殿でひっそりと神官としての実績を積むしかなかった一方、堂堂と南東領の神殿に三位神官将として着任した。そして、過去を省みることもなく、今は結婚しているという。家庭を持つのだ。シンクルスから奪われたものを。それを奪っておきながら……。
 シンクルスは強ばった顔のまま立ち尽くしていた、憎悪が足の指先から頭のてっぺん、そしてすべての頭髪の毛先にまで浸透し、何も考えられなかった。
 このような再会があるとわかっていれば、すぐにでも殺し合いに発展していただろう。ハルジェニクもまた驚いているようだが、反応が早かったのは、ハルジェニクのほうだった。両目に宿る狂気の閃光が和らいだ。
 頬がゆるみ、彼は笑った。
 そして大声ではしゃぎ始めた。
「シンクルスじゃないか! 誰かと思ったぞ。久しぶりだな!」
 久しぶり。
 シンクルスはまだ動けなかった。頭では理解していた。狂っているのだ。狂っている……。
「一ヶ月ぶり、いや、一週間ぶりだな」
 九年ぶりだ、とシンクルスは思った。
「ああ。そうだ。一週間ぶりだ、シンクルス。俺は何を言っているんだ?」
「ハルジェニク――」
「先週本を借りたもんな。画集……違う。デッサン……いや、それは返したな」頷き、続ける。「思い出したぞ。『塗りの基本と応用』だ。そうだろ?」
 そういえば、本を貸したことがあったかもしれない。
 青ざめながら、シンクルスは辛うじて答えた。
「あれは先週ではない」
 声は上擦り、震えていた。
「いや、先週だ」ハルジェニクは言い張った。「ロザリアの十四歳の誕生日だったろ? だったら先週じゃないか。そのときのパーティーに本を持ってきて……」
 ロザリアの名がシンクルスの硬直を解いた。槍が唸りをあげ、穂先は地面を向き、柄の先端がハルジェニクの側頭部を強打した。
 ハルジェニクは喋っている途中だったため、舌を噛んだ。転倒する。
 横様に倒れた姿勢のまま、呆気にとられてシンクルスを見上げてきた。やがて肘をついて体を起こそうとしだした。口の端から血が流れている。シンクルスを見上げる目は、酷く傷つき、動揺していた。喉に槍を突きつけると恐怖の目に変わった。ハルジェニクは動きを止めた。
「シンクルス……何をするんだ?」
「そなたは十七歳ではないし」シンクルスはもう一度殴ってやろうと、槍を振り上げた。「俺とロザリアは十四歳ではない!」
 だが、それをして何になる? 罪の記憶がない人間に、どうやって、自分が殺される理由をわからせることができる?
「やめて!」
 レーンシーが叫び、ハルジェニクの目が彼女へと動いた。
「レーンシーじゃないか」肘と足で後ずさり、槍の穂先から遠ざかると、ハルジェニクはようやく立ち上がった。「どうしてここに?」
 どさっ、と砂袋が倒れるような音がした。シンクルスは素早く振り向いた。
 黒服の男が階段の下に倒れていた。その体から血が流れ出て、いびつな円形に広がっていく。広場の地面は平坦なようで僅かな傾斜があるらしく、血は手を伸ばすようにシンクルスたちへと流れてくる。
 だがハルジェニクは意に介さずだ。
「レーンシー」不意にその声が思考の気配を帯びる。「ああ……行方不明になったはず。レーンシー、レーニールはどうした?」
「直近の記憶はあるようね」
 倒れた男の後ろには、リアンセが立っていた。血に濡れた片手剣を握りしめている。
「どうして一番大切なことは忘れてしまったの?」
「リアンセ」
 シンクルスが口を開くと、リアンセが先回りして答えた。
「追いかけてきたのよ」
 ピンクゴールドの髪は丸めて詰め、耳を人目にさらしている。ピアスをつけていた。丸いラピスラズリで、リアンセがその石に何らかの執着を抱いていることをシンクルスは知っていた。
「カルナデルはどうしたのだ?」
「置いてきた」
 そして、半ばシンクルスを押し退けるようにハルジェニクの前に出た。優しく微笑んだ。彼女本来の優しさ、心からくる優しさではない。
 情報士官の学科訓練、そして実戦で身につけた、偽の優しさだった。
「本のことなら覚えてるわ。つい先週のことですもの」
「その血はどうしたんだ?」
 ハルジェニクの質問を無視する。
「あなたは立派な画材セットを買って、気分が高揚してたわね」
「画材」
 一瞬嬉しそうに笑い、直後、ぎくりと固まった。
「そう、画材」リアンセは頷く。「あなたのお父様が、全部、あなたの手で捨てさせた」
 呻くような声が、ハルジェニクの喉から漏れた。
「あなたはそのことで、姉さんや私があなたを馬鹿にするんじゃないかって思ってた」
「俺は」喉仏を上下させ、唾をのむ。「ロザリアに、描いてやるって約束してたんだ」目線はリアンセの顔に釘付けになっていた。「リアンセ、君も。シンクルス、君もだ。ただ果たせなくなってしまって――」
「覚えてるわ。約束を破って」
「仕方がなかったんだ」
「ええ、仕方がないことでしょうとも。シンクルスが投獄されてしまったものね。それじゃあ、モデルにできないわ」
「投獄」
 シンクルスは、リアンセに言わせるままにした。ハルジェニクは思い出すだろう。
 必ず思い出す。
「でもあなたは、姉さんを描いてあげるって約束を守ることはできたはずよね」
 ハルジェニクは黙っている。
「できた」リアンセは畳みかける。「あなたは約束を守りに行ったわ」
「ロザリアを描いてない」
「でも、会った。姉さんに会いに行ったのよ」
 リアンセの微笑は、張り付いたまま動かない。
 ハルジェニクの呼吸が震え出す。震えは唇に、次いで頬に移り、頭へ、体へ、そして両足へと波のように広がる。
「ロザリアに……」
 指も震えていた。後ずさる。切り傷が残るその顔は、霧のように白かった。唇が震え、うまく喋れないようだった。だが言った。
「会……った」
 リアンセの笑みが色を変えた。作り物の笑顔から、心の底からくる本物の笑顔になった。
 残忍な笑顔だった。
 彼女は本心を口にした。
「思い出してくれて嬉しいわ、ハルジェニク」
 遠く、霧の向こうで、獣の咆哮が響いた。
 怒りに満ちた叫びだった。餌にありつけなかった行かれる獣。
 それが、〈タターリス〉本部があるこの地区に戻って来つつあった。


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