運命は過酷なだけじゃない

文字数 4,388文字

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 二十二時。
 四時間もすれば、酔客たちもあらかた酔い潰れるなり疲れるなりして店は静かになった。起きている者たちはぽつりぽつりと逝った仲間の思い出を語り、ようやく追悼会らしい雰囲気となった。店主が大量の皿を洗う音が続いていた。
 リレーネはリージェスの隣で椅子に掛けたまままどろみ、こくりと頭を下げ、その揺れに驚いて目を覚ました。この追悼会のために変な時間に寝て起きたため、体のリズムが狂っているに違いない。
「リレーネ」もっと目が覚めるよう、リージェスが呼びかけた。「ホテルに戻るか?」
 だが、別れが惜しいのだろう。「いいえ」と笑顔を見せた。
「少しだけ……三十分ほど、外の空気を吸いに行ってもよろしいかしら」
 店内は酒と料理の臭いに染まった空気が充満しており、気分が悪くならない方が不思議だった。
「ああ。そうしようか」
 すると、ミズルカが一緒に椅子を引いて立ち上がった。
「俺が一緒に行く」
 零刻前、街はまだ無法者の時間だ。二人だけで外に出すのはまずいと判断したのだろう。リージェスは拒否しなかった。
 店主に断って、三人はシオネビュラの街路に出た。相変わらず霧は続いていた。辻にガス灯の影が黒く滲み、その先は見えない。
 特に話題もなく、リージェスとミズルカがリレーネを挟む形となって三人は歩いた。もとから仲がよかったわけではなく、聞きたい話やしたい話は十分にし尽くした後だった。だが、特に沈黙が気まずいわけではなく、リレーネとリージェスも、ミズルカを邪魔だと感じていなかった。心地よい沈黙と、白い霧の中で、三人の足音が、どこかこもったように鳴る。世界に自分たち三人しかいない気分だった。
「メリルクロウ少尉」
 静けさを破らぬよう、ミズルカはそっと呼んだ。
「何だ?」
「前線に戻る気はないのか?」
「どうだろうな」
 リージェスは罪悪感をくすぶらせていた。護衛対象と一線を越えてしまったのだから。護衛対象を愛したりなど、いちいちそんなことをしていては、とても務まるわけがない。リレーネと別れ、その後は、要人付き護衛を続けられるだろうか?
「全くないとは言えないな。個人的にも……状況的にも。航海にあわせて人事刷新が行われるだろう」
 ミズルカは、そうだな、と言っただけだった。
 なめし革製品の工房を通り過ぎた。
 シオネビュラで初めて自由時間を得たとき、ミズルカが真っ先にしたことは、ヨリスのサーベルの鞘を作ってもらうことだった。依頼した鍛冶屋が下請けに出したのが、この工房だった。
 思い出しても涙は出なかった。それまでは泣いてばかりだった。フクシャの戦いの後、戦死した大隊の兵士たちの名に赤線を引いては泣き、ヨリスの名に赤線を引くことがどうしてもできず泣き、崩壊した宿営所のホテルから奇跡的にヨリスの私物を見つけて泣き、桜が散っていくのを見てはやはり涙が止まらず、しかも全員無事だった家族と再会して別れる際に、泣き虫な性根が全く変わっていないことがバレてしまったのだ。
 一度だけ、ヨリスの夢を見たことがある。フクシャを発つ日のことだ。全体的には曖昧な印象しかないが、最後にヨリスが宿営所のホテルで、『そんなものは捨てろ』と言ったことだけは覚えている。どこか呆れた表情で、しばしば生前のヨリスはミズルカを見たものだ。そんなもの、というのが何を指すのか思い出せないが、とにかくその夢を見て以来、ミズルカは泣かなくなった。
 リレーネが控えめに提案した。
「海のほうへ向かいませんか?」
 リージェスは、自分より背の低いリレーネを見下ろし、目を合わせた。
「北方領の都は、海からうんと離れているのです」
 ああ、と頷いた。折りよく左手に、海へと下る長い階段が現れた。煉瓦造りで、手摺りはなく、狭い。階段を埋める形で、リージェスとリレーネが前に立った。ミズルカが後ろに続く。
「晴れていればよかったな」
 階段の終わりは見通せず、下りきった先に広がる海も堤防も、乳白色に閉ざされている。だが、風が吹く度に霧が薄れつつあるようだった。
 階段を下りきる頃には幾分見通しが良くなっていた。横たわる道を挟んですぐ堤防があり、その向こうには海の気配。リレーネがそわそわしだした。この先の公園に着くのが楽しみなのだろう。
 あ、とリレーネが声を上げた。何かと思えば、堤防の向こうに鉛色の漣の広がりが見えていた。驚くべき勢いで霧が晴れていく。
 顔を前に戻せば、五本の棕櫚(しゅろ)の木に飾られた小さな公園が見えていた。公園では、二つの人影が寄り添いあい、海に張り出したテラスの手すりの前に立ち、リレーネ同様霧の消滅を待っていた。海がにび色の腹を広げていき、水平線の真上の太陽が真円に見えていた。
 三人の内、公園に佇む人物に最初に声をかけたのは、リレーネだった。
「シルヴェリア様!」
 シルヴェリアとフェンが、同時に三人を振り向いた。その間にも霧は薄れ続け、二人の表情が見て取れるほどになった。リレーネは素早くリージェスと手を繋ぎ、引いて駆け寄った。
「おお、おお!」シルヴェリアも手を差し伸べた。「リレーネではないか。久しぶりじゃのう」
 そして、リレーネの空いているほうの手を両手で包み、温めるように撫でさすった。リージェスには不思議なのだが、シルヴェリアは、彼女自身とはおよそ真逆の性質のリレーネを、妹のように可愛がっていた。理由は単純で、シルヴェリアは同性の年下に関して言えば、お人形のように愛らしい、よく躾られた娘が好みなのだ。つまり下心なのだが、それを知るのは本人の他にフェンだけだった。
 リレーネはフェンにも晴れやかな笑顔で一礼し、またシルヴェリアと向き合った。
「シルヴェリア様、フクシャでの戦と長旅でお疲れのことと存じます。ご無事で何よりですわ。最後にもう一度お会いできて、嬉しく思います」
「最後に?」シルヴェリアはリレーネの手を握りしめたまま、両手を腰の高さまで下ろした。「そうか……明日であったな」
 今日は残り二時間を切っている。
「はい。明日の一時から二時の間に、私の身柄は西方領外交団に預けられますわ」
「南西領はもとより……」そして、シルヴェリアは手を離した。「西方領の領土内は、無事通過できるじゃろうて。西方領陸軍は規律正しく、極めてまともじゃ。そなたの北方領の軍隊と同じようにな」
「北方領は、この度の戦で中立を貫きました」
 リレーネは微笑みながら続けるが、シルヴェリアの温もりを失った手は、寒さから守るように軽く握っていた。
「ですので、南西領陸軍の方々の勇姿を私が故郷で語ったところで、罪には当たらないでしょう。私が知るだけでも、シルヴェリア様、ユヴェンサさん、アイオラさん……アウィンさん……ヴァンさん……ヨリス少佐」そして、リージェスと繋いだままの手に少し力を込めた。「リージェスさん」
 自分との関係を隠そうとしないことにリージェスは困惑した。シルヴェリアの後ろに控えるフェンはニヤニヤしている。一方ミズルカは、そういうことに気がつかぬたちらしい。
 微笑むシルヴェリアの、量が多くて長い睫毛が、少しだけ水色の目に影を落とした。
「惜しい部下たちを失くした」
「航海への道を切り開いてくださった方々ですわ」
「航海」味わうように、その一語を繰り返す。「そう。航海」
 シルヴェリアは海と向き合った。白く煙る霧の、一つ一つの粒子が光に染まっている。
「我々が入手した航路図は、全く未知の海路を示しておる。食糧も、水の確保も間に合っておらぬ」
「シルヴェリア様?」
「船は足りず、難民の数は多い。戦と同程度の苦しみが待ち受けておるやも知れぬ」
「ですが、シルヴェリア様」リレーネが彼女に歩み寄りながら言った。「お顔は自信に満ちておられますわ」
「なに。未来は明るいと信じるのは生きている者の務めじゃ。私は恐れぬ」
 そう答えながら、サーベルに右手をかけた。鞘と刀身がこすれあう。シルヴェリアは抜剣した。しなやかな腕が動き、切っ先をまっすぐ海に向けた。
 戦場で鍛えた高らかな声で、シルヴェリアは海に宣告した。
「いざ行かん! 我ら、苦難の海へ!」
 すると、海に光が差し、白い靄状の視界が完全に明瞭になった。太い柱のように思われた光はたちまち海面に裳裾を広げ、白金の真円に見えていた水平線の太陽が、茶褐色の肌をしたシルヴェリアの頬に薔薇色の彩りを加え、目の輝きを強めた。空は清純ながらも情熱的な桃色で、夜の王国では常に灰色がかって見えていた雲も、桃色に染めあげられていた。
 フェンが含み笑いをしつつ窘めた。
「恰好をつけすぎですよ」
 光を浴びたシルヴェリアは、ぎこちなくサーベルを下ろした。鞘に収め、少し後ずさると、気恥ずかしげにフェンに笑いかけた。シルヴェリアも、そんな表情をすれば、年相応の娘のように見えた。
 言語生命体を死に至らしめるという直射日光の中で、五人は立ったままでいた。黎明はただただ美しいばかりで、さほど恐ろしくなかった。それでも今は夜へ向かうのだ。言語子の(くびき)がある限り、全ての思い出を置いて、行かなければならない。ミズルカは思った。このシオネビュラが、故郷フクシャが、再び夜の領域となるまで何年待てばいいだろう。
 十年経てば、フクシャで死んだ上官と自分が同い年になることに思い至る。ヨリス少佐と同い年になり、また、それよりずっと年上になっても、敬い慕う気持ちはずっと変わらないだろう、とミズルカは思った。
 少佐はここに残るのだ。もう死ななくていい存在となり、地上から同胞たちが姿を消し、再び戻ってくるのを見る。言語生命体たちの、死と復活の証人……。
 運命は過酷なだけじゃない。俺はヨリス少佐と出会った。
 ミズルカは、心に浮かぶ言葉を冷静に読んでいった。
 夜の王国での最後の二年間、ヨリス少佐と一緒に過ごせたことは、運命が用意した奇跡だった。だから書かなければならない。ヨリス少佐にとっても、俺と出会えたことが、何か少しでも良いことであるように。
 ミズルカは心を読み続ける。。
 そして、俺が書くものが、アースフィアで最後に書かれる戦記になればいい。あの戦争が、ヨリス少佐の死によって終わった戦争が、アースフィアで行われた最後の戦いであればいい。
 平和のために努力しよう。
 できる全てのことをしよう――。
 その時、ミズルカは自分の戦記のタイトルがわかった。考えたり、思いついたのではない。わかったのだ。ずっと昔から知っていたことを思い出した感覚に近かった。
 ノートを出してメモをする必要はなかった。そのタイトルは心に深く刻まれた。

『最後の戦記』



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