脱出

文字数 4,439文字

 2.

 貧者の地区に盗みは絶えない。
 かつて実業家の邸宅だった屋敷の屋根裏の窓が開き、白い手と、一羽の鳩が出てきた。しなやかな指は鳩を解き放った。鳩は庭の天使像に糞を落とした。天使像は掲げる剣から瑪瑙の装飾を盗まれ、盾からは玉随を盗まれていた。胸からは翡翠を盗まれ、天使それ自体は、恋人たちや若いごろつきの落書きによって品位を盗まれていた。鳩は脚にくくりつけた小さな筒を気にもせず天使の頭上を通り過ぎ、高度を上げていく。白い手は窓の奥に消えて、窓は閉ざされた。
 アズレラ・アスナニは窓に鍵をした。屋根裏部屋の真ん中ではたった一つのカンテラを挟んで、ブレイズ・アスナニ軍曹とリージェス・メリルクロウ少尉が顔を突き合わせている。いずれも不機嫌で、隙あらばカンテラの明かりさえ相手から盗んでやりたいと思っているようだ。
 ここでは何だって盗まれる。
「何だ? 小僧」
 ついぞブレイズが口を開き、剣呑な目でリージェスを睨んだ。こめかみにはリージェスにつけられた痣が浮いている。今度はリージェスがまともに睨み返す。
「そっちこそ何だ」一方のリージェスは、首に痣をつけている。「俺は何も言っていない」
「言ってるな。口に出さなきゃ伝わらないと思ってるなら大間違いだぞガキ」
「小僧だ、ガキだと階級の違いもわからない奴に言われる筋合いはないな」
「何を生意気な。俺が何年陸軍にいると思ってるんだ? 俺ら下士官連中に言わせりゃな、士官学校ぽっと出の少尉殿なんぞ仕事を教えてやらにゃ生き残れないオムツの赤ん坊なんだよ」
「オムツの赤ん坊に命を預ける身で、よくでかい口を叩けるな」
「俺はお前の指揮命令下にはねぇぞ?」
「少し黙ったら?」アズレラは肩を竦める。「っていうか、黙ったほうがいい。というよりは黙って欲しい。っていうか」二人に歩み寄ってがたついたスツールに座り、「黙れ」
 アズレラとブレイズは三十代の夫婦だった。ブレイズは陸軍情報部の下士官で、アズレラは神官。ヨリスタルジェニカ〈灰の砂丘〉神殿に所属していたが、休暇を取り、今は妊娠中だ。まだ見た目にはわかりづらいが、ゆったりした衣服をまとう小柄な体は、下腹部がふっくらと丸く突き出ている。ブレイズとは幼なじみで、同郷の出だった。夫の事はもちろん誰より愛しているが、彼はたまに腹が立つほど子供っぽいのだ。
 アズレラは、鋭いが狭いカンテラの光の輪から外れた場所にいるリレーネを見やった。一時間前に別室で話をしたのだが、今は疲れた様子で木箱に掛け、長い髪で横顔を隠している。
 彼女との会話によって受けた衝撃から、アズレラは抜け出せていなかった。異なる宇宙のアースフィアから来たという戯れ言を信じるつもりはない。問題は彼女が数々の禁識を正しく知っていたという事だ。生々しく語られる、失われた技術、文明、聖遺物。更にはシンクルスに協力したいとまで言い出した。ヨリスタルジェニカの正位神官将。今は役職を解かれ、姿を隠している。大っぴらに口に出す事の憚られる名前。
 リレーネが、さっと髪を払って顔を上げた。如何にも思い余った動作なので、アズレラはある種の覚悟を決めた。とんでもない事を言い出すに違いない。そして優しく尋ねた。
「どうしたんだい?」
 リージェスも、ブレイズも、振り向いてリレーネに注目した。
「私……」ぼんやりとしか明かりの届かない場所で、ぱちぱちと瞬きする。「私は、どの程度連合側に顔を知られているのでしょうか」
「どうしてそんな事を聞くんだい?」
「神官兵が追ってくるかもしれませんわ。私、その、アズレラさん、先ほどあなたに言われるまで、ここでは色々な事が禁識に指定されている事を知らなくて……」
 唾を飲む。
「私、何にも知らなくて、第一師団のシルヴェリア様に知ってはいけない事を話してしまいましたわ!」
 リレーネの声は震えているが、アズレラは内心、そんな事かとほっとした。危急の要件ではない。
「シルヴェリア様は処刑されてしまうのかしら」
 アズレラは首を横に振る。
「そんなの、私たちが黙っておけばいい話じゃないか」
 ブレイズがため息をつく。
「俺は何にも聞いてない」
 リージェスも、
「俺も処刑されたくはないからな」
 だがリレーネは全く安堵せず、身じろぎした。
「それだけじゃないんです」
「何だい。言ってごらん?」
「私、絵を習っておりまして……トレブレニカでも色々な絵を描きました。懐かし場所や、懐かしい方々……」
 彼女は大きく息を吸った。
「私、禁識を描いてしまったんです! スケッチブックに南東領の神殿や聖遺物を描いて、トレブレニカの幽霊館に置いてきてしまいました! あれを見つけた神官は決して私を放っておきませんわ! ねえ、そうですわよね?」
 部屋中が静まり返った。リージェスとブレイズが散らしていた嫌悪の火花も消えて、部屋にはリレーネの焦燥が満ちるのみとなった。同じ焦燥が、彼女を見つめる他の三人の胸にも沸いてきた。
 ブレイズが角刈りの頭を音を立てて掻いた。スツールから立ち上がり、窓の外を窺う。アズレラがその背中に声をかけた。
「……まずトレブレニカに連合軍のどの部隊が宿営するかだよ。運悪く神官兵団が支配して、運悪く幽霊館を調べ尽くそうという気を起こして、それからこの地区まで神官兵が来るとしたら後どれくらいだろうね」
「今だ」とブレイズ。「来た」
 リージェスは耳を澄ませた。閉じた窓や厚い壁、木立や地区の幾筋もの通りを挟んで軽鎧の触れあう音が聞こえる。聞き慣れた、馴染み深い音。リージェスは舌打ちした。
「来なくていいのに」
 立ち上がる。足に隠したナイフを鞘から抜いた。リレーネも立ち上がる。アズレラも腰を上げた。
「アズレラ、家に戻れ。お前ら二人はさっきの宝石店まで走れ。俺が手信号送る」
「宝石店に行ってどうするんだ?」
 ブレイズがリージェスに歩み寄り、耳に素早く囁く。リージェスは頷いた。
「わかった」
 まず、アズレラが出た。リージェスは緊張で汗を掻きながら自制をきかせ、ブレイズがよしと言うのを待つ。アズレラが、通りに人目がないかを確認し、合図をくれるのだ。
「よし。行け」
 声を出さずに頷き、跳ね戸から邸宅の二階におりる。ありとあらゆる物が盗み出されたがらんどうの邸宅を出て、天使像の下に立つ。
 ブレイズが合図を送った。まだ兵士たちが展開しない道筋を手の動きで示す。リージェスは右手にナイフを握りしめ、左手でリレーネの手首を掴んだ。それから青く錆びたアーチ型の門に向けて走り、通り抜けた。門の閂と鍵も盗まれていた。
 リージェスの注意がそれた時、リレーネがリージェスの手を振りほどいた。何をする気かと焦ったが、振り向く前に手と手をつなぎ直してきた。手首を掴まれたままでいるのが嫌だったらしい。それもそうだろうと、リージェスは何となく思った。
 別の足音が聞こえ、リージェスは足を止めた。道の先で交差する、別の裏道を通ってくる。足音はすぐ止まった。ごそごそと衣服をいじる音が続く。リージェスは家の壁に身を寄せ、慎重に、しかし素早く、角から様子を窺った。
 兵士が一人、ズボンを下げ、壁に放尿していた。ナイフを持つ手に力をこめ、殺害のリスクを計算する。どう考えても得策ではない。何より護衛対象の少女が流血を見て悲鳴をあげる恐れがある。
 リージェスは意を決して口に手を添え、声音を変えて兵士に叫んだ。
「おい、早くしろよ!」
 兵士が振り返らずに叫び返す。
「はい! ただいま戻ります!」
 そして、あたふたとズボンを上げて、ボタンを閉めながら走り去って行った。
 宝石店は兵士が立っていた壁のすぐ向こう側だ。飛び上がって塀を乗り越え、狭い庭から裏口の閂を外す。リレーネはすぐに狭く開いた門から身を滑りこませてきた。直後、足音を響かせながら、連合軍のどの小隊かは知らないが、兵士たちが裏通りにやってきた。
 リージェスは教えられた通りに宝石店の裏側の住居の戸を叩いた。素早く五回。
 少しして、男の声が扉越しに低く囁いた。
「誰だ」
「メリルクロウ少尉だ、先ほどの。アスナニ軍曹に言われてきた。井戸を使わせてくれ」
 同時に、表の店舗の入り口で呼び鈴が鳴らされた。住居のドアが開く。店主は二人を招じ入れるとすぐに鍵をかけ、仏頂面のまま驚くほど愛想のいい声で叫んだ。
「はぁい、ちょっと待っててくださいねぇ!」
 それからリージェスを振り向く。
「廊下の右の洗濯場だ。この家屋を正面に見て井戸に飛びこめ。そしたら一旦水に潜ってそのまま正面の壁を探れ。水中に古い時代の抜け道がある」
 男は分厚い掌でリージェスの肩を押した。
「待ってくれ」
 リージェスは店舗に向かう男を呼び止める。二人は目を合わせた。
「あんたの名前を教えてくれ」
 男は肩を竦めた。
「ウィーグレーだ」
 リージェスは頷く。
「わかった」
 ソレスタス神官団の神官兵たちは、手際よく住人たちを地区の一ヶ所に集め、その間にすべての住居を調べ回った。宝石店の店舗と住宅を兼ねた建物も例外ではなかった。神官たちは隠れる場所のない洗濯場を素通りした。
 勘のいい一人がふと足を止め、井戸を覗きこんだ。
 井戸には水面の揺れさえ見当たらなかった。
 リージェスは秘密の抜け道をとうに見つけていた。抜け道は上方向に傾斜しており、すぐに水面から顔を出せる作りになっていた。井戸に戻ってリレーネにも飛びこむよう命じ、勇気を奮って身を投げたリレーネが立てる水飛沫を浴びた。そしてリレーネを先導し、もう一度抜け道に入った。
 抜け道には当然明かりなどなかった。しばらく這って進むのち、立って歩けるようになる。リージェスは暗闇の中でリレーネと手をつないだ。湿り、カビでぬるぬるする土壁に左手をつき、時折虫を掻き落としながら進む。一本道のはずだ。ウィーグレーの言う古い時代、というのがどの年代を指すかわからない。文明退化の深度によって、通路の頑丈さも変わるだろう。この通路ができればかなり古く、すなわち頑強で、途中で崩落などしていない事をリージェスは切に願った。
 リレーネが震えているのに気がついた。
「恐いのか?」
「いいえ。寒いのですわ」
「……恐くないのか?」
「平気です。私、耐えられます」
 リージェスは少しだけ気が安らぐのを感じた。そう、少し。少しだけならこの娘に優しくしてもいいという気を、彼は起こした。
「貴族のお嬢様にしては我慢強いな」
「いいえ。私は、もともとこうした事に耐える我慢強さは持ち合わせておりませんでした」
「じゃあ、どこで強さを手に入れた?」
「その話をあなたは聞きたくないはずですわ」
 息が震える。リージェスも寒いのだ。
 二人はそれからずっと、黙って歩き続けた。


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