優しい人だと知っていた

文字数 1,889文字

 3.

「リアンセ!」宿舎として使われる建物へと、足早に向かっている途中だった。後ろから呼ばれた。「おい、リアンセ!」
 ああ、シンクルスじゃないのね、と、リアンセは乾いた心で思った。カルナデルの声だ。四角形の敷地の西の一角、石造りの四階立ての建物の角で、リアンセは振り返った。天籃石のランプを掲げたカルナデルが、十歩ほど離れたところで立ち止まった。だが、夜の闇はほどけていて、ランプは必要なかった。習性で持ち出したのだろう。薄紫から山吹色に変じつつある空は雲が覆い、春の雨が降り出しそうだった。
 カルナデルは小走りで来て、残りの距離を詰めた。
「お前さ……」
 言葉に迷っているようだ。リアンセの真意が、リアンセにあのような振る舞いをさせた原因の根深さが、彼には見極められないのだ。
「お説教ならしないで」リアンセは棘のある声で言い放つ。「私が悪いってことくらい、自分でわかってるわ」
「悪いとか、そういう……」
 カルナデルはふと目を下にやり、自分の右足を見、更に左足を見た。
「……悪いとか、悪くないとかじゃねえよ。放っておけないだろ? オレだってそりゃ、やっぱり何にもわかってないんだろうけどさ……」
 まるで、リアンセに喋る必要はないと示すかのように、口をもごもごさせながら、続く言葉を考えている。
 リアンセは左手を腰に当て、鼻で溜め息をつき、続きを待った。
「……なあ、知ってるだろ? オレにだって妹がいるんだ」
「何を言い出すかと――」
「だから!」と、遮った。「だから……オレは何もわかってないんだろうけど、想像はできるんだ! もしオレの妹が、お前の妹がされたのと同じ目にって思うと、考えるだけで憎いぜ。そのハルジェニクとかいうクソ男、いいか、無関係のオレですら憎んでる。(はらわた)が煮えくり返る思いだ」
「どうしてあなたが」
「いいか」カルナデルの声の真剣さに、リアンセは言葉を続けられなくなった。「想像はできるんだ」
 だんだんと、体の力が抜けていく。腰に当てたリアンセの左手が、だらりと体の脇に垂れた。悄然とうなだれる。だが何か返事をしなければならなかった。
「わかってるわ。レーンシーは何も悪くないって」目は靴の爪先を向いているが、何も見えていなかった。「止められなかったの」
「オレはいいと思うぜ? わかってさえいれば」カルナデルは頷いた。「謝れとか仲良くしろとか、そういうこと言わないし。いいと思うぜ?」
 リアンセは顔を上げ、カルナデルの上背を見上げた。
 茶褐色の肌と、逞しく健康的な体躯。
 シンクルス以外の男はみんな嫌いだった。ずっと恐れていた。体が大きく、力が強い。そんな理由で。
 なのにどうしてカルナデルと旅をしてこれたのだろう? よりによってこんなに体の大きな男と。リアンセは不思議に思った。だが、目線をカルナデルの顔にまで上げれば、理由がわかった。
 目だ。
 自分を害する恐れのない人だとずっとわかっていた。思いやりのある人だと。自分がそれを認めようとしていなかっただけだ。
 建物の角から、足音もなくテスが出てきてカルナデルの後ろに立った。リアンセの目の動きで、カルナデルもテスを振り向いた。
「戻ろう」テスは優しく声をかけた。「ここだって、安全じゃないから」
 テスはカルナデルを追い抜き、リアンセをも追い抜いて、二人の前に立った。彼がひどく薄着でいることに、リアンセは気がついた。長袖のシャツとチュニックと、ゆったりしたズボンだけだ。腰にはいつでも武器を帯びている。
「テス」
 二人を先導して歩きだそうとするテスに、リアンセは呼び掛けずにいられなかった。
「何だ?」
「あなた、寒くないの?」
「ん?」と、振り返る。「……リアンセは、寒いのか?」
「寒いわよ。でも大丈夫。耐えられないほどじゃないわ。あなたはどうなの?」
「慣れてるから大丈夫」
「強いのね」
「ずっとここで暮らしてるから」
 ゆっくり喋りながら、テスは歩きだした。
「後で、生姜湯を作ってやる」前を向き、背中と後ろ髪を見せた。「結構、温まる」
 そのときだった。
 どこかで、土嚢が落ちるような重い音がした。前を歩くテスがいきなり立ち止まった。
「テス?」
 息を詰め、曲がりくねって見通せない道、視界を遮る建物という建物、その上に等しくのしかかる、黄色い光を帯びた雨雲を見上げた。
 何か、見えないものをじっと見ていた。
「テス――」
「部屋に戻れ」
 言うが早いか、両手に半月刀を抜いた。
 風のように早く、彼はどこかへ駆けていった。


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