もう泣くな
文字数 1,826文字
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カルナデルが旅籠に戻ったとき、リアンセはひどく打ちのめされた表情で、まだ机上の地図を見つめていた。考えつくあらゆるルートでの日数を試算し尽くした上でその顔をしているのなら、アセルとシンクルスがタルジェン島へと渡る前に合流する望みは、恐らくないのだろう。
「リアンセ」
顔を上げたリアンセは、戻ってきたカルナデルがどこかぎこちなく、緊張を隠した様子でいるのを感じ取り、彼と同じように心を強ばらせた。
「どうしたの?」
「これ……」
と言いかけながらも、カルナデルはすぐには何かを見せたり告げたりしなかった。椅子を引いてリアンセの隣に座り、上着のポケットに手を突っこむと、何かを握ってその手を出し、おもむろに開いた。
靴下留めだった。銀でできており、よく磨かれていて、高級そうではあるが、珍しいものでもなさそうだ。
顔を近付けたリアンセは、それに彫りこまれた小さな紋章に気がつくと、呼吸を止めて硬直した。
聖別された樺の木。
ホーリーバーチ家の家紋。
リアンセは小さく開けた口から息を吸いこんだ。鋭く高い音が鳴った。
「どこで手に入れたの?」
「難民が拾って売ってたんだ。フューリー河に大量に鎧やなんかが打ち上げられてるって」
「特注品よ」素早くリアンセの口が動いた。「姉さんと注文したの。父上の誕生日に――」
カルナデルは安堵しながら、腕を突き出して靴下留めを受け取るよう促した。
「大事な物だったんだな」
自分のしたことは間違っていなかったのだ。これはリアンセの手許に帰るべき物だった。どことも知れぬ誰かの手に渡るより、ずっとよかった。
「いや!」
だが、リアンセは飛び上がるほどの大声をカルナデルに叩きつけた。
「私にはもう関係ない! そんな物、関係ない!!」
「リアンセ――」
「捨ててきて!」彼女は机を手で叩き、叫んだ。「そんな物、持っていたくないわ。今すぐ捨ててきて!」
「落ち着けよ」
カルナデルは靴下留めを握りしめ、取りあえずリアンセの目に入らないようにした。
「わかった。元の場所に返してくる。でもそれで本当にいいのか?」
「いや」リアンセは、眉間に深い苦痛の皺を寄せながら、半ば呻くように答えた。「捨てるなんて、やめて」
「リアンセ」
「持っているなんていやよ。だけど捨てるのもいや。でも持っていたくもないの! どっちもできるわけないわ。どうしてあなたは余計なことをするのよ!」喋りながら、リアンセは机に両肘をついて頭を抱えた。「私にどうしろって言うの!?」
地図上に、ぽたりぽたりと涙の粒が落ちた。
そのまま無言の時が過ぎた。窓の外を行き交う人の声だけが、時を示した。きのこ売りの娘が西から東へ通りを渡っていった。その声が聞こえなくなるまで、カルナデルは思考を止めていた。
「わかった」
カルナデルは一つの閃きを得て、口に出した。
「じゃあ、これはオレが持っておく。いつまでも持っててやるよ。もう話題にしない」
言いながら、靴下留めを握りしめた手を一度強く揺すった。
「見せて欲しくなったら見せてって言えばいいし、欲しくなったら頂戴って言えばいいだろ? そしたら渡す! それでいいだろ!」
リアンセは涙も拭かずに顔を上げた。
これほど痛々しい目を見たことがなかった。
リアンセは家も家族も捨てたのだ、とカルナデルは察した。だから南西領にいる。理解しきれない重みだった。カルナデルは家族と適切に距離を置いているが、それは自分がもう一人前の男だという自負があるからだ。捨てたわけではない。両親と妹のことは変わらず愛している。
だから、家族を捨てるという決断が、一人の人の中でどのように導き出されるのかわからなかった。単に、もういらないから捨てたというものでは決してあるまい。分かるなどと、決して軽々しく言ってはならないはずだ。
リアンセの痛みを共有してやれないことが、彼を居たたまれなくさせた。
「だから、もう泣くなよ」
そして、女の泣いている顔など見たくなかった。
リアンセが手を動かした。靴下留めを握りしめたままのカルナデルの手に、細い指を持つ自分の手を重ねた。指を広げ、隠された靴下留めを掴み取ろうとするような形をした。
「カルナデル」
その手に少しだけ力をこめた。
そして離した。
リアンセは立ち上がり、窓辺に寄って背を見せた。
「ありがとう」
微かな声で言った。
カルナデルが旅籠に戻ったとき、リアンセはひどく打ちのめされた表情で、まだ机上の地図を見つめていた。考えつくあらゆるルートでの日数を試算し尽くした上でその顔をしているのなら、アセルとシンクルスがタルジェン島へと渡る前に合流する望みは、恐らくないのだろう。
「リアンセ」
顔を上げたリアンセは、戻ってきたカルナデルがどこかぎこちなく、緊張を隠した様子でいるのを感じ取り、彼と同じように心を強ばらせた。
「どうしたの?」
「これ……」
と言いかけながらも、カルナデルはすぐには何かを見せたり告げたりしなかった。椅子を引いてリアンセの隣に座り、上着のポケットに手を突っこむと、何かを握ってその手を出し、おもむろに開いた。
靴下留めだった。銀でできており、よく磨かれていて、高級そうではあるが、珍しいものでもなさそうだ。
顔を近付けたリアンセは、それに彫りこまれた小さな紋章に気がつくと、呼吸を止めて硬直した。
聖別された樺の木。
ホーリーバーチ家の家紋。
リアンセは小さく開けた口から息を吸いこんだ。鋭く高い音が鳴った。
「どこで手に入れたの?」
「難民が拾って売ってたんだ。フューリー河に大量に鎧やなんかが打ち上げられてるって」
「特注品よ」素早くリアンセの口が動いた。「姉さんと注文したの。父上の誕生日に――」
カルナデルは安堵しながら、腕を突き出して靴下留めを受け取るよう促した。
「大事な物だったんだな」
自分のしたことは間違っていなかったのだ。これはリアンセの手許に帰るべき物だった。どことも知れぬ誰かの手に渡るより、ずっとよかった。
「いや!」
だが、リアンセは飛び上がるほどの大声をカルナデルに叩きつけた。
「私にはもう関係ない! そんな物、関係ない!!」
「リアンセ――」
「捨ててきて!」彼女は机を手で叩き、叫んだ。「そんな物、持っていたくないわ。今すぐ捨ててきて!」
「落ち着けよ」
カルナデルは靴下留めを握りしめ、取りあえずリアンセの目に入らないようにした。
「わかった。元の場所に返してくる。でもそれで本当にいいのか?」
「いや」リアンセは、眉間に深い苦痛の皺を寄せながら、半ば呻くように答えた。「捨てるなんて、やめて」
「リアンセ」
「持っているなんていやよ。だけど捨てるのもいや。でも持っていたくもないの! どっちもできるわけないわ。どうしてあなたは余計なことをするのよ!」喋りながら、リアンセは机に両肘をついて頭を抱えた。「私にどうしろって言うの!?」
地図上に、ぽたりぽたりと涙の粒が落ちた。
そのまま無言の時が過ぎた。窓の外を行き交う人の声だけが、時を示した。きのこ売りの娘が西から東へ通りを渡っていった。その声が聞こえなくなるまで、カルナデルは思考を止めていた。
「わかった」
カルナデルは一つの閃きを得て、口に出した。
「じゃあ、これはオレが持っておく。いつまでも持っててやるよ。もう話題にしない」
言いながら、靴下留めを握りしめた手を一度強く揺すった。
「見せて欲しくなったら見せてって言えばいいし、欲しくなったら頂戴って言えばいいだろ? そしたら渡す! それでいいだろ!」
リアンセは涙も拭かずに顔を上げた。
これほど痛々しい目を見たことがなかった。
リアンセは家も家族も捨てたのだ、とカルナデルは察した。だから南西領にいる。理解しきれない重みだった。カルナデルは家族と適切に距離を置いているが、それは自分がもう一人前の男だという自負があるからだ。捨てたわけではない。両親と妹のことは変わらず愛している。
だから、家族を捨てるという決断が、一人の人の中でどのように導き出されるのかわからなかった。単に、もういらないから捨てたというものでは決してあるまい。分かるなどと、決して軽々しく言ってはならないはずだ。
リアンセの痛みを共有してやれないことが、彼を居たたまれなくさせた。
「だから、もう泣くなよ」
そして、女の泣いている顔など見たくなかった。
リアンセが手を動かした。靴下留めを握りしめたままのカルナデルの手に、細い指を持つ自分の手を重ねた。指を広げ、隠された靴下留めを掴み取ろうとするような形をした。
「カルナデル」
その手に少しだけ力をこめた。
そして離した。
リアンセは立ち上がり、窓辺に寄って背を見せた。
「ありがとう」
微かな声で言った。