死をもたらす黒い星

文字数 11,956文字

 2.

「君は最後まで引っ掻き回してくれたね、マグダリス君」
 キャトリンが嘲りをこめて城壁から声を発した。
「本当なら、昨日伏兵が強攻大隊を拘束している間に背後から撃破して、とんぼ返しで弓射連隊を叩き、新総督軍を北トレブレンに引き入れるつもりだった。見破っていたとはね」
「オウムの仕返しか?」ヨリスは低い声でも届くよう、腹に力をこめて言った。「だとしたら度が過ぎるな」
 ヨリスの眼前では、副官が剣を構えながらがくがく震えている。腰が引けている。真っ先に殺してくれと言っているようなものだ。
 キャトリンは少しの間黙ってから笑い始めた。
「まさか君がそんな事を覚えていたとはね。そういうわけじゃない……ただ、君には一度思い知らせてやらねばと昔から思っていた」
 ヨリスは少しも動揺せず、肩を竦めた。キャトリンの声に苛立ちが混じる。
「今、ミルト中佐の第三大隊は、第二大隊の猛攻を受けているよ。東の丘では間もなく第一弓射連隊が撃破され、新総督軍が私の大隊と合流する。君と君の大隊に救けが来るとは思わない方がいい」
「アレン中佐も同じ穴の(むじな)か。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。無能は無能を呼ぶらしい」
「取引をしよう、ヨリス少佐」
 苛立ちを堪えながらキャトリンはまくし立てた。
「君の首一つで強攻大隊の全ての将兵の命を保証する、と言ったら?」
「検討する価値もないな。貴様の腐った脳みそで思いつくのはその程度の事か」
「黙れ!」ついに声を荒らげた。「自分の立場もわからん愚か者めが! 剣を抜け!」
 城壁の前で、キャトリンの配下の将兵たちが一斉に抜剣した。
「ほう? 俺を殺すか? ダリル、君が? 面白い」
 ヨリスは声を出して笑った。ほんの少し――喉の奥から漏らすような微かさだが、それでも確かに声に出して。あまりにも珍しい事だった。護衛の兵士たちが驚いて、横目でちらりと見た。その時には真顔に戻っていた。
 いつもの無表情ではない。漆黒の目にありありと、怒りと闘志が満ちていた。
「よかろう……ダリル・キャトリン。ならば私が相手だ」
 ヨリスはサーベルの柄に手を置いた。白い刀身は、鞘から引き抜かれ、少しずつ姿を現しながら、ちりちりと火花を散らすようであった。根本が鋸刃になった特注品だ。
「兵を裏切る指揮官など、腐ったイチジクほどの価値もない事を教えてやる」
 鞘から完全に抜くと、袈裟切りに空を切り、振り下ろした。それが合図だった。キャトリンが甲高い声で城壁から命じた。
「殺せ!」
 ヨリスはまず真っ先に、目の前のミズルカの肩を左手でつかんだ。ぐいっと後ろに引き、体を入れ替える。
「下がれ」
 前に出た。後ろでどさっとミズルカが尻餅をついた。手柄を狙った第一大隊の兵士の剣が眼前に迫ってくる。ヨリスは紙一重でそれを避け、足を大きく前に踏みこんだ。体を左方向に四分の一回転させながら、剣を突き出したままの兵士の無防備な腋の下を斬り上げた。たちまち夥しい血が溢れ出て、兵士は剣を落とし跪いた。体を、そのままもう四分の一回転させながら、今度は斜めに斬り下ろす。軽い手応え。背後に回りこんでいた敵兵が、首筋を裂かれてくずおれる。そのまま城壁に駆けて行くヨリスを追いながら、護衛の一人が叫んだ。
「大隊長殿を掩護しろ!」
 護衛たちは勇敢だった。数の不利をものともせず、前方の敵をすすんで引きつけていく。
 行く手の正面には第一大隊の小隊長と三人の兵士が待ち構えていた。兵士たちがほぼ横並びの一列になって向かって来る。
 一列になっていた三人の内、真ん中の一人が怖気づき、遅れがちになった。
 距離が十分に縮まる。
 向かって右の兵士が、掛け声と共に剣を振り上げた。ヨリスは遅れがちの中央の兵の眼前に立ち、右側の兵の剣をかわす。中央の兵が怯えながら突きを繰りだしてきた時にはもう、二人の兵士の間をすり抜けていた。
 すり抜け様に、中央の兵の、胸鎧(きょうがい)で守られていない脇腹に深く斬りつけた。右側に立っていた兵の背後を取る。そのまま振り向き、相手の両膝の後ろをなで斬りにする。ついて来た護衛が背中合わせに立ち、一番左側にいた兵士の剣を自分の剣で受けた。激しい剣戟の音が響く。
 ダリルを除くただ一人の将校――小隊長の腕章を付けた男がすぐ横手に迫っていた。
 首筋目がけて閃く剣を、ヨリスは顔の前で、サーベルの鋸刃の部分を使い受け止めた。素早く手首を返す。小隊長は絡め取られた剣を手放すまいとして無理に柄を掴んだ。咄嗟の判断だが、それは間違いだった。剣に加わる力に引きずられ、大きく姿勢を崩した。小隊長の腹を蹴って突き飛ばす。仰向けに倒れた小隊長の下腹部にサーベルの刃を滑りこませ、すぐに抜いた。
 城門ががら空きになった。北トレブレンへ通じる真っ暗な門に飛びこむ。門内部の階段の下にいた二人の兵を不意打ちし、内一人を、顔をひきつらせて硬直している間に斬り殺した。もう一人も素早く首をなで斬りにする。二人とも声を上げなかったが、二人目の首の傷口が笛のような甲高い音を立て、断末魔の叫びの代わりに城門内に響き渡った。
 固い石の階段を駆け上る。上から様子を見ていたはずの兵士が、愚かにも狭い通路を縦一列になって下りて来た。ヨリスはそれを一人ずつ殺した。狭い階段ではろくろく戦闘にもならず、第一大隊の兵たちは血しぶきを上げながら転がり落ちていく。
 城壁の上に出た。
 出るなり、出入り口の壁際に身を潜めていて兵士が剣を振りかぶり、鬨の声を上げて斬りかかってきた。ヨリスは素早く振り向くと、下段の構えからその剣をはねのけた。
 もう一人、反対の壁際に潜んでいた。気配で察し、再び階段へと身を引く。二人は相打ちになり、勢い余って共に低めの胸壁にぶつかり転倒する。それを一人ずつ刺し殺した。
 ものの数秒で、城壁には呆けた顔で硬直するダリル・キャトリンと、連弩を手にした残すところ一人の護衛、そしてヨリスの三人が立つのみとなった。
「ダリル」
 不気味に穏やかな声で呼んだ。
 ヨリスは血まみれだった。髪もマントも血を吸って重たげだ。目は静かだった。内なる感情を隠し、外から向けられる如何なる感情をも吸収してしまう漆黒。その黒さに胸壁の松明の炎だけを浮かべながら、ヨリスは無言の威圧をこめてダリルと向き合った。あれほど激しい戦いの後に呼吸を乱しもせず、身を守る鎧の類も着けず、サーベルからは血が滴り、石の床に筋を描いている。
 ヨリス。
 死をもたらす黒い星。
 黒曜石の星。
 サーベルを構えた。右足を踏みこみ、ダリルの体に対してほんの一度の狂いもなく、サーベルをまっすぐ精確に突きつける。ダリルは呼吸を忘れた。恐ろしい構えだ。このように構えられたら、相手のサーベルの刀身は正面からは点にしか見えず、間合いを測れない。二十歩ほどの距離を挟んでいながら、ダリルは気迫に圧されて後ずさり、ヨリスから更に離れた。弩兵もヨリスに狙いをつけたままそれに倣う。
 ダリルも兵も、顔は引きつり、目に浮かぶ恐怖と悔悟を隠そうともしなかった。
「さっきの余裕はどうした?」
「……殺せ」
 ダリルは後ずさるのをやめ、弩兵の背中を軍靴で蹴った。
「何をぼうっとしているんだ! 早く奴を殺せ!」
 連弩から一発目が放たれた。
 ヨリスの腕が反射的に動く。
 矢はサーベルに叩き折られ、くるくる回りながら城壁の外へ飛んで行った。
 ヨリスは無情に距離を詰め、しかも次第に歩調を早くしていく。
 弩兵はダリルと共に後ずさり、息を弾ませ、体を恐怖で戦慄(わなな)かせながら二発目の矢を放った。またも矢が叩き割られる音が響き、今度は足許に落ちた。ヨリスの足がそれを大股に跨ぎ越す。
 三発目の矢が至近距離で放たれた。その矢を折るサーベルの切っ先が弩兵の鼻先を掠めると、兵は耐えきれず悲鳴を上げた。連発弾倉にまだ十分な矢が残されているにも関わらず、弩を(なげう)ち、尻餅をついて四肢で後ずさり、ようやく立ち上がってダリルの隣を通り抜ると、背を向け闇に消えて行った。
 ヨリスはようやく足を止めた。折しもそこは城壁の北面と東面を結ぶ小塔の上で、少し開けていた。
「き――君には」
 消え入りそうな声で、ダリル。腰が大きくひけているものの、手を剣の柄に置いた。
「い、いつか――思い知らせてやらねばと――」
「できそうか?」
 ヨリスは声もなく笑った。口の周りを覆う血を、同じく血で濡れた手の甲で拭う。顔に長い血の筋が引かれた。ヨリスが手を下ろす前に、ダリルは剣を抜いた。顔の横で剣を構えて切っ先を相手に向ける、横構えの姿勢を取る。ヨリスもサーベルを構えた。ダリルと同じく横構えに。
 どこまで馬鹿にするのかと言わんばかりにダリルの口許が引き攣った。ダリルは何かを言うかもしれないと、ヨリスは待った。何か言い訳を。だが言わなかった。声を上げて踏みこんでくる。
 繰りだされる切っ先をサーベルで払いのけ、その勢いで仰け反るダリルの鎖骨の間の真上にサーベルを突きつけた。
 そこで一度動きを止めた。
 別れを告げるために。
「覚悟」
 それから一気に突いた。刃を横に滑らせる。皮膚と脂肪と肉の層を破り、サーベルの刃がダリルの体内に滑りこみ、心臓から伸びる太い血管を裂いた。
 ダリルの両目がカッと見開かれ、目玉が大きく飛び出した。口からは棒のように舌が突き出す。鼻の穴が大きく開く。この二十年というものしょっちゅうしょっちゅう、それこそ毎日のように見てきた顔、好む好まざるに関わらず日常の一部になっていた顔が、殺される者の顔になる。ヨリスは覚悟の光を宿す目を、殺される者の顔から離さない。そのストレスに、殺す者の全身は声なき悲鳴を上げる。血が燃え上がり、狂ったように体内を駆けめぐる。顔が熱くなり、こめかみが、喉許が、激しく脈動する。耳鳴りがし、視界が明るくなり、殺される者の死に顔が脳に焼きつけられる。眩暈がし、それから一転して視界が暗くなっていく。耳鳴りが収まり、世界が四隅から狭まり、貧血を起こしたように吐き気がしてくる。呼吸が早くなり、力が抜け、喘ぐような息をしながら……ヨリスはダリルが死に、膝から崩れ落ちるのを感じた。
 ヨリスは城壁に一人立ち、サーベルを振って血飛沫を払った。鞘に縫い付けた布で刀身を拭う。
「……話にならん」
 身体の変調は、鞘に収めたサーベルの柄から手を離すまでに去った。あまりの呆気なさに拍子抜けしながら、城壁に掲げられた第一大隊の大隊旗へと歩み寄る。据え付けられた松明を抜き、大隊旗に近付けた。旗はたちまち燃え上がった。
 その時、背後で音がした。
 金属の篭手が石の床をこする音。ヨリスは素早く振り向いた。
 ダリル・キャトリンの死体が呻きながら、四肢を体に引き寄せた。だるそうな声と共に、腕で体を起こす。血がぼとぼとと零れた。ダリルが胸の傷口に手を当てると、血が止まった。
『化生の軍隊を』
 耳もとで喋っているかのように、ミルト中佐の声が脳裏で蘇った。
『言語崩壊がもたらす人体への変異を有効に操作し、強化すると――』
 ダリルの手が彼の剣に延び、柄を掴む。彼は何かを呟いていた。最後の一言だけが聞こえた。
「こういう事か――」
 ヨリスは松明を投げ捨てた。
「――ダリル。君はいつから化け物になった?」
 太い咆哮が天を衝いた。ダリルの四肢がバネのように弾け、一瞬でヨリスへと距離を詰めた。サーベルを抜きながら左に身をかわす。空を切ったダリルの剣が、勢い余って床につき、カチリと音を立てた。ヨリスは無防備になったダリルの右肩の後ろを縦に深く斬った。
 その傷口が盛り上がる。
 軍服の布地が捲れあがり、見えない糸で縫うように、裂けた肉が癒着していく。
「これだ! これが奇跡の力! これが教団の力!」
 ダリルは踵を返し、再び剣を振り上げた。
「これが、神が我ら言語生命体に与えたまえし奇跡だ! 俺は死なんぞ! マグダリス! 俺は貴様とは違う!」
 ダリルは踵を返し、再び剣を振り上げた。下ろされた剣の切っ先を、ヨリスは鍔で受けた。ダリルの剣を鍔で捉えたまま左足を踏みこみ、同時に柄を目と同じ高さまで持ち上げる。斜めになったサーベルの刃がダリルの胸に狙いを定め、胸に深々とサーベルを刺して、二度目の致命傷を与えた。ダリルはよろめき、後ずさる。だが倒れなかった。ヨリスはサーベルをダリルの胸から引き抜いた。
「マグダリス――ああ、やめよう、こんな呼び方は――ヨリス少佐――私は奇蹟を目にしたのだ、王領で――」
 胸に空いた穴からふいごのように空気の音を漏らしながら、ダリルは話し続けた。ヨリスはサーベルの血を振り払う。
「奇蹟だと?」
「ダーシェルナキ夫人が」ダリルは息が荒い。顔は蒼白で、目は瞳孔が拡大している。「特別な権利をお与えくださった」
「あの女か。しょっちゅうクソつまらん園遊会を開催していたな」上官の命令で嫌々参加した事がある。「俺を差し置いて君を味方に引きこむとは、ある意味で見る目がある」
「ダーシェルナキ夫人は王領の素晴らしい方々との繋がりがあった、当家の当主である兄ともな。だから私は目をかけていただき――」
 生前より遥かに素早い動作で再び踏みこんできた。
「出自の違いだ! 私と君では所詮、生まれつき格が違うのだよ!」
 サーベルを横にかざし、振り下ろされた剣を鋸刃を使って受け止める。生者と生ける死者との間に青い火花が散った。鋸刃でダリルの剣を引っかけたまま、手首を返す。ダリルの腕が太く盛り上がった。剣はぴくりとも動かなかった。
 このままでは力負けする。
 ヨリスは察し、口を開いた。
「……ダリル、君も知っていると思うが、言語崩壊は我々の体内の言語子の働きによって引き起こされる現象だ」
「それがどうした?」
「その言語子は無限に体内にあるわけでもなく、外部からエネルギーを摂取せず働き続けるわけでもなかろう。君は奇蹟を与えられたのではない。要らぬ苦痛を感ずる時間を与えられたのだ。死んでも死にきれぬ体で、完全に言語崩壊しきるまで使い捨てられるさだめだ。所詮は甘い夢……。楽しかったか?」
 ダリルが圧力をかけてきた。サーベルを支える腕に震えと痛みが走る。限界だった。それでも叫んだ。
「悔やめ、ダリル! 己が浅慮と無力を悔やむがいい! せめて人間として殺してやる!」
 ヨリスは左手をマントの下に差し入れ、右の腰に差したナイフの柄を掴んだ。抜きざまダリルの腹を真一文字に裂く。サーベルを持つ右手が圧力から解放された。反動で少しだけよろめき、すぐに体制を立て直すと、足を踏みこみサーベルを振り下ろす。首筋に斬りつけた。もう溢れてくるほどの血はなかった。後ろ向きによろめくダリルへと、身を翻しながら距離を詰め、ナイフで右腕に斬りつける。ダリルは剣を落とさなかったが、応戦すべく振り上げもしなかった。ヨリスはもはやどこにも向けられていないダリルの目をひたと見つめて囁いた。
「遊びは終わりだ」
 ヨリスは小塔の縁へとダリルを追い詰めていった。一歩ごとに、ひらりひらりと大小の半円形の軌跡を描き、ナイフとサーベルがダリルを斬り刻む。ヨリスの前に立つ限り、ダリルは刻まれ続ける運命にあった。一太刀浴びせるごとに手応えが軽くなり、ダリルの皮膚が黒ずんだ灰色に変色していくのをヨリスは感じた。
 色彩が消えるのだ。
 きっと次には輪郭が消える。
 最後に言語が。
 そんな事が頭に浮かんだ。強い直観であった。言語生命体の本能ゆえに悟った真実かも知れなかった。
 斬りつけた肩口から、血の代わりに黒い羽虫のような物が舞い上がり、空気中に散った。最後の一撃で、ダリルが小塔から転落する。ヨリスは小塔から身を乗り出して高さを見極めた。丘では護衛の兵士たちがまだ戦いを続け、第一大隊の兵士を追い散らしている。小塔の下に障害はなかった。
 飛び降りた。
 黒いマントが風を受け、音を立てて膨らむ。空中で体を捻り、足先から着地した。すぐに両膝をつき、横ざまに倒れて草地に背中をつけ、回転して衝撃を分散させる。
「ヨリス少佐!」
 ミズルカが上ずった声で叫び、駆けて来た。
「なんて無茶な事を! ご無事ですか!?」
 それには答えず、着地の衝撃が抜けきる前に立ち上がり、ダリルを探した。
 ダリルはいた。
 兵が立ち尽くしている所、第一大隊の兵も、強攻大隊の護衛兵も、戦いをやめて立ち尽くし凝視する一点。そこにいた。
 蹲り、何かを両腕に抱えこんで、汚い音を立てながら、口で啜っている。
 ミルト中佐の話が本当なら、言語子を補っているのだ。
 第一大隊の兵士の亡骸が、ダリルだった灰色の肉塊に抱えこまれていた。
 肉塊。それはもうダリルではない。ダリルを原材料とした別の何かだった。生き物ですらない、分類不能な何か。兵の死体の大きく裂けた首筋に唇を当て、耳障りな音を立てながら、夢中で血を吸っている。その姿にダリルの面影はなかった。ただ、激しく斬りつけられてなお二の腕に残っている大隊指揮官の腕章だけが正体を教えていた。
 ずたずたになった軍服が切れ目から捲れあがり、体が膨張する。
 化け物だ、と、強攻大隊の兵士が呻いた。もはや敵味方の別なく、兵士たちは草の音を立ててすり足で後ずさる。ヨリスはむしろ歩み寄った。
「ダリル?」
 サーベルを突きつける。
「まだ斬り刻まれたいのか?」
 ダリルだった化生が、兵士の首筋から顔を上げる。憐れな兵の首の筋肉の中に、抜け落ちたダリルの前歯が二本食いこんでいた。
「マグ」口を開けた。真っ黒く血生臭い口が、風の洩れる音を立てる。「ダリス君、マグダリス、君、マグ、マグダ、マ、マ、マグダやめて、マグやめて、マグやめ」
 ヨリスはサーベルを振って、一撃で化生の首を落とした。胴体から離れた頭は地面に当たると砕け散り、跡形もなく黒い砂のようになって草の中に消えた。
 第一大隊の兵士らが悲鳴をあげて逃げ出した。
 ばちん、と音を立てて、化生が纏う軍服が破れ弾けた。四肢と胴体は膨らみ、膨らみ続けながら、黒い砂を吹き上げる。
 言語子だ。
 ヨリスはこの存在を分類しうる言葉を見つけた。暴走する言語子の塊。
 化生がどのように危機を判断しているかわからない。ダリルとしての意思や思考が残っているとは思えぬが、それはなおもヨリスから逃げ出した。第一大隊と弓射連隊が戦いを続けている城壁の東の面へと、腕を振りまわしながら駆けて行く。ヨリスは召集の呼び子を鳴らし、兵士を集めた。
 護衛四人に副官一人。脱落者はいなかった。
 それから駆けだした。
 化生を追って城壁の東面に出る。第一大隊の兵士たちが丘を駆け上ってきた。
「大隊長殿――」
「突破する」
 敵兵と化した第一大隊の兵士は、人とも獣ともつかぬ物体が駆け抜けていくのを目にし、たじろぎ硬直した。ヨリスはその眼前を走り抜け、化生の背中に斬りつける。
 横手から敵兵が躍りかかってきた。サーベルで剣を受け、足を兵の横に踏みこみながら、脇腹をナイフで斬りつける。次は正面から。振り下ろされた敵兵の剣の鍔を、今度はナイフで抑えこみ、サーベルで反撃した。
 化生との距離が開く。
 ヨリスはその背中だけを見つめ、追い続けた。敵兵は次々押し寄せて来る。謀反に加担した者にとって、ヨリスは殺しても、捕らえても、大手柄に違いない。あるいはそんな打算すらなく、恐慌にかられ、破れかぶれになり、自分でもわけもわからず向かってきているのかもしれなかった。
 ピィン、と耳鳴りがした。
 それを機に一切の音が消え、頭の中が冴えわたる。
 雑念が消えた。
 戦いの極致にあってしばしば起きる現象だった。
 魂が自我を越え、本能が肉体を越える。
 全身が目になり、視界が灰色になる。
 背後さえ見えるかのよう。
 その中に、ただ敵兵の振るう剣の軌跡だけが、白く輝いて見えた。
 正面には黒い輪郭として、化生の姿を捕捉している。
 ヨリスは意志を持たず、ただ、サーベルとナイフを振るった。白い軌跡から身をかわし、弾き返し、赤い血の軌跡に塗り替える。
 戦の神というものがあり、ヨリスはその霊媒だ。行われる殺戮は、時代に捧げる剣舞(けんばい)だ。
 自意識の抑圧が消えて、無意識下に封印した過去の断片が浮かび上がってくる。神の容れ物、もはや自分の物ではない体の中で、マグダリス・ヨリスと名付けられた人格が、うっすらとそれを自覚する。
 耳もとで聞こえる男の声。二十年近くも前に浴びせられ、あまりに辛くて忘れようと努めてきた、それなのに鮮明な声。
『最悪だ。この野郎、返品されてきやがった……』
 肉体は戦う。剣を弾く。紙一重で躱す。
 けれど、見えているのは丸い天井の食堂で、そこでは子供たちが、テーブルについている。
 幼いヨリスはテーブルの間を縫い歩く。
(肉体は走りながら低く身構え、サーベルで斬り上げる。肉体は返り血を浴び、血飛沫の向こうに立ちはだかる敵を見る。肉体は地を蹴り、飛び上がり、腰を捻らせてそいつの顎に蹴りをお見舞いする。肉体はマントが風を含むのを感じる)
 今日はポトフだ。同い年の子たちが、ポトフに入ったソーセージの量をめぐって言い争いをしている。
(肉体は二人の兵士の間を風のように駆け抜ける。その時、両手のサーベルとナイフで、それぞれの脇腹と首筋を裂いている)
 ヨリスは小さな手に、草の根を包んだ紙を持っている。幾つも……。
『これ』
 紙包みを口論している子の食器の前に置く。もう一人の子にも。
『はい。これ……』
 その子は尋ねる。
『これ、なに?』
 ヨリスは暗い目で答える。
『毒だよ。のんだら死ぬよ』
 配って回る。テーブルの間を。一人一人に声をかけながら。食堂は静まり返る。ヨリスの足音と声だけが響く。はい。これ。毒だよ。のんだら死ぬよ。のまなきゃ駄目だよ……。
(肉体はサーベルで前方の敵を刺し貫く。肉体は腰を捻り、後方の敵をナイフで刺し貫く。肉体はサーベルの血を払う。そうしながら新たな敵を切り裂き、またも血で汚し、倒れた敵を一顧だにせず走り抜ける)
 孤児院の職員がヨリスを食堂の真ん中に立たせている。困惑と恐怖の目が彼を取り巻いている。
『どうして――』男性職員も恐怖している。ヨリスはそれを感じている。『なんでこんな事をしたんだ?』
『たくさんの……』、きっと殴られる、予感しながらヨリスは答える。『……人に毒を配ったら、どんな気持ちになるか知りたかった……』
 あの頃は信じていた。お母さんは、寂しいから、死ぬ時にたくさん連れて行ったのだと信じていた。
『どんな気持ちなんだ?』
 だが、事実は逆だったようだ。ヨリスは正直に答える。黒い目で答える。
『死にたい……』
 たくさんの人に毒を配ったから死んだのだと。
 推定八歳。少年マグダリスは学ぶ。人は真に己を蔑み己を憎み、存在の断絶さえ望む時には涙さえ出ないのだと。そして、そんな者をなお庇おうとする者の慈悲と苦悩。女性職員がやって来る。ヨリスの肩を抱き、言葉を探し、やっと言う。
『先生……この子は感受性が強いんです』
(肉体は走り続ける。ナイフを上段に、サーベルを下段に構え、繰り出される突きを、サーベルとナイフを交差させて頭の上でとらえる。両手の武器を、敵の剣を挟んだまま右方向に倒し、サーベルを敵の胸に突き刺す。護衛たちが追いついてくる気配を背中で感じる)
 暴力の嵐が来る。父親に顔を殴り飛ばされ、壁に叩きつけられる。倒れこんだところを蹴られ、引きずり起こされ、何度も平手打ちをくらい、また壁に叩きつけられる。泣き叫んで懇願しても暴力は止まらない。父親は息子を投げ飛ばし、髪を掴んで耳もとで怒鳴り、引き回し、階段から突き落とす。踊り場でぐったりし、胎児のように体を丸めてすすり泣く横を、大人が舌打ちして通り過ぎる。『邪魔くせぇな』
 強くなりたかった。ずっとそう願ってきた。
(肉体は彷徨う。多少腕が立つ敵がいる。そいつを斬り刻みながら彷徨う。多少腕が立つ程度の者などお呼びではない。圧倒的な強者を求め彷徨う。そのような強者に立ち向かい、打ち倒されて死するを願い彷徨う。戦の神を満足させ得る闘争と末路を)
『死なせた方がいい。その方がこいつ自身のためなんだ』
 カーテンの向こうで聞こえる。子供のヨリスはベッドの中で、意識が戻らぬふりをして聞く。
『いいか、今度飛び降りたら……体を切ったとか首を吊ろうとしたとか、とにかく今度死のうとしたら……見なかった事にするんだ』
『お前なんかゴミと一緒だよ! 要らないから捨てられたんだろ?』
 意地の悪い少年の声。ヨリスは教室にいる。算数の問題を答えろと、教師が指名する。口を開く。『ええっと、九かける四、わる二だから……』少年が鋭い声を上げる。名前すら覚えていない少年。しかし声なら覚えている。
『ゴミが喋った!』
 教室中が哄笑に包まれる。ヨリスは椅子を後ろに倒して立ち上がる。
『喋らない。笑わない。陰気で、不気味で!』
 ああ……またしても孤児院。ヨリスは戸の陰で聞き耳を立てている。女が捲し立てている。院長が諭そうとしている。
『ですが、それをご承知の上で引き取られたのでしょう――』
『暴力的だなんて事は一言も言わなかったじゃない! 結局あの子が私たち夫婦に残したのは、怪我させた子たちへの五クレスニーもの賠償金だけ。引き取れないっていうのなら、あなた方が払ってください!』
 真っ暗な廊下で座りこむ。目をきつくつぶり、耳を塞いで座りこむ。ぎゅっと塞ぎ、痛いほど塞ぎ、それなのにまだ聞こえる――怒鳴り声。そして悲鳴。
 消え去った時と同様、予告なく正常な聴覚と視覚が戻ってきた。忘我の境地が去り、肉体が自我のものに戻った。どれほど戦い続けていたかわからなかった。気付いた時には林の中で、追いついた化生の背中に最後の一撃を浴びせていた。
 ダリルだったそれは安らかに地に伏せる事もなく、黒い砂になって崩れ落ちた。
「少佐! ヨリス少佐!」
 副官が叫んでいた。声がすっかり嗄れている。
「こちらです! お急ぎください!」
 木立の中で大きく両腕を振っている。副官の役職を表す銀のたすきが目立って見えた。彼の後方にはスズメバチの大隊旗が木々を透かして見える。
 後ろを見た。護衛は全員ついて来ていた。皆血まみれで、肩で息をしている。それからヨリスと共に副官の元へ走った。
 ミズルカはふらふらになりながらヨリスを林の外へと導いた。この人は疲れないのだろうか? 戦わず、隠れ、逃げ回っていただけの自分は今にも倒れこみそうなのに?
 傷ついた第一弓射連隊の兵たちが、強攻大隊の兵によってトレブレニカに担ぎこまれていくのが林の中から見えた。丘の下では第一中隊が指揮系統の壊滅した第一大隊と剣を交えていた。
 林を抜けた。
「大隊長だ」兵の一人が感動をこめて声を発した。ヨリスの隣でミズルカがよろめき、気が抜けたように倒れこむ。別の声が続いた。「みんな、大隊長だぞ!」「ご無事だ!」「大隊長殿が帰ってきた!」
 生死不明の状態でぐったりしている、または傷を負って我を失って暴れたり泣き叫んでいる弓射手たちを荷車に積む手を止めずに、兵士たちが一斉に歓声を上げた。弓射手たちは演習の時の民間人たちと同じ状態であった。兵士たちはさすがに手際が良い。あまり暴れる者は気絶させてでも運んで行く。
「おれたちの大隊長が帰って来たぞ!」
「何を浮かれている!」
 兵士達に取り巻かれて立ち、すかさず集まってきた伝令たちに、ヨリスはサーベルを抜いたまま指示を出した。
「第三中隊はこのまま救出した弓射連隊の兵を大道路まで運べ。第一中隊は第三中隊の撤退を援護せよ。第二中隊及び弓射中隊は直ちに私の元へ参集せよ。これより強攻大隊は第一大隊の背後を通り、北トレブレン市内の第三大隊及び残余の弓射連隊を救出すると各中隊長に伝えよ! 復唱!」
 伝令たちが正確に指示を復唱し、散って行く。
 長い一日の始まりだった。

 ※

 その日、裏切り者の二人の大隊指揮官が作った通路から、新総督軍を筆頭とする連合軍が北トレブレンに侵入。第三軍団第一師団は混乱の内に撤退を余儀なくされ、予定では開戦より十三日間留まるはずだった北トレブレンは、わずか二日目で放棄された。
 第三軍団第二師団、及び第三師団、及び分断された第一師団のおよそ三分の一の兵力が、中トレブレンに撤退。
 そして第一師団の大部分が親軍団から寸断され、雪溶け残る山地へと追いこまれた。
 シルヴェリアの指揮部隊と合流できた第一師団の構成は以下の通り。

 第一歩兵連隊 約八〇〇名  (二個大隊)
 第二歩兵連隊 約二二〇〇名 (四個大隊)
 第二弓射連隊 約一七〇〇名 (三個大隊)
 偵察連隊   約一二〇〇名 (二個大隊)

 以上、戦闘部隊。その他指揮部隊、輸送部隊、工兵部隊、衛生部隊、兵站部隊、消滅した第一弓射連隊、壊滅状態の第一歩兵連隊第三大隊等の負傷兵を合わせ約一一〇〇〇名。
 以上が敵地にて、完全に孤立した。


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