決戦用意

文字数 6,985文字

 3.

 二度の連勝が師団に及ぼした影響は絶大だった。北トレブレン脱出直後には最悪だった士気も、どうにか回復している。彼らは自分たちの状況が最悪でも絶望的でもないと信じたようだ。シルヴェリアは満足した。
 トレブ高地には半日前にたどり着いていた。工兵隊が休む間もなく土塁を築き、輸送部隊は戦利品を下ろした荷車を積み上げて縄で縛り、陣地左翼に障壁を作っていた。高地には騎兵の突進を妨げる障害物がない。ない物は作れ、というのがシルヴェリアの指示だった。兵站部隊は全ての部隊が休息を取るためのテントをやっと設置し終えていた。いついかなる時も休息が許されないのは偵察部隊で、斥候たちは次々と情報を陣地に持ち帰った。
 敵前衛部隊、行程差二十時間の距離を下馬にて行軍中。
 ヨリスは全ての兵士に休息を取らせた。ミズルカは大隊指揮所のテントで事務仕事をこなす事によって、どうにか平静を保とうとしていた。兵士たちから回収した装備品の追加支給申請書を取りまとめ、品目ごとに集計し合計値を計算する。が、頭が混乱しているせいで何度足し算しても計算が合わない。
「ディン中尉、君も休め」
 宿営地は静まり返っていた。篝火(かがりび)がはぜる音と、急ぎ土塁(どるい)の設営を進める工兵たちの掛け声が、どこか遠く、他人事のように感じられる。ミズルカはペンを持ったままの手で目をこすった。
「はい、少佐。集計が終わりましたら……」
「いいや、今すぐだ。そんな仕事は後でいくらでもできる。休めないなら目を閉じて横になるだけでいい。休める時に休むのも必要な資質だ」
「……はい、少佐」
 その冷静な口ぶりに、昂ぶっていた心が自然と鎮まるのを感じた。ペンを置き、書類を纏める。
「ヨリス少佐も、どうかお休みください」
「私は君に気を遣われなければならない人間か?」
 ヨリスは肩を竦める。
「いいえ。ですが、あなたが活動してらっしゃる限り補佐をするのが私の役目です。先に休むというわけには参りません」
「その忠誠心は明日にとっておけ。嫌でも働かされる事になる」
「はい」
 背筋を伸ばして返答するミズルカに、この副官は長く勤めてくれればいいとヨリスは思った。前の副官は、こんな指揮官のもとにいたら命が幾つあっても足りないと言って一年で異動してしまったのだ。
「ヨリス少佐、私は――」
 顔を強張らせて緊張しながらミズルカは続ける。
「何だ」
「わた、私は、どのような敵が来ようとも――そばにいて――び、微力ながらも護衛いたします!」
 ヨリスはまじまじと副官を見つめる。これほどアテにならない護衛はない……。が、もちろん言わなかった。
 足音が近付いて来て、テントの前で止まった。
「誰だ」
「弓射中隊隊長ユヴェンサ・チェルナー上級大尉です。お話がございます。お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「入れ」
 大柄な女性の中隊指揮官が姿を見せ、ヨリスの机の前に立つ。ヨリスは目で合図をし、副官に退出を促した。無言で一礼し、ミズルカはテントを出た。
 ユヴェンサは大きな(あかがね)色の目でまっすぐにヨリスを凝視した。その目には隠しようのない熱がこもっている。
「私用の要件ですが、宜しいでしょか?」
「構わない」
 ヨリスは視線を受け止めながら椅子から立ち上がった。机を迂回し、部下であり、恋人でもある女と向き合って立つ。ユヴェンサは両腕を広げて飛びこんできた。体重をかけてぶつかり、両腕を背中に回す。そのまま締め上げるように力を入れてきた。いつもの事だ。頬に触れる髪の柔らかさを感じながら、この女は俺が痛いと言うのを待っているのかもしれない、とヨリスは思った。
「ねえ、ギィ」ユヴェンサが、甘えと不満をこめて耳に囁く。「抱き返してよ」
 それで、ヨリスはそろそろと両腕を上げ、ユヴェンサの背に軽く触れる。あまり触ると壊れてしまうと言わんばかりに。これもいつもの事だ。取り敢えずは抱擁を返された事に、ユヴェンサは満足する。ヨリスの頬に額を摺り寄せ、もう一度囁いた。
「相変わらずぎこちないのね」
「他にやり方を知らない」
「慣れてほしいのよ」両腕に更に力をこめる。「これはあなたを傷つける行為じゃないって、理屈じゃなくて体で理解してほしいの」
 それからいきなり唇を奪った。
 恋人の心拍があがっていくのをユヴェンサは感じた。誰もが認める強者、どのような敵を前にしても決して動揺しない男が、自分の手の中ではされるがままになる。倒錯した喜びと欲望で胸が満たされていく。同時に、ある痛烈な気付きに苛まれる。
 この人は、私と出会うまで人から抱きしめられた事がないんだわ。誰からも……。
 ヨリスが口づけから逃れようとするのを感じ、ユヴェンサはすかさずその後頭部に左手を回して押さえこみ、右手で長い髪を掴んでくるくると掌に巻いた。逃がさない。唇に執拗に舌を這わせて舐め、抵抗する唇を強引にこじ開ける。ついぞ陥落した強情な唇の奥へ、舌を這わせていく。
 ユヴェンサは満足いくまで、たっぷり相手を拘束した。
 勝ち誇った気分だった。ようやく体を離して舌に残る甘い痺れを味わいながら、相手の顔に意地と羞恥がせめぎあうのを観察した。
「かわいい人」
「……からかうな」
 ヨリスは口を拭い、顔を背けた。ユヴェンサには勝てない。交際を初めて三年になるが、いとも容易く平常心を奪い去る魔力に抗う術をヨリスは未だ見出していなかった。
「あなたが無事でよかった」ユヴェンサはヨリスの頬に手を触れた。「それを言いに来たの。あなたはどう?」
「意地の悪い質問だな。俺の立場を分かって聞いているのか?」
「もちろんよ。死んでも戦え、死ぬ気で戦えと部下を最前線に送るのがあなたの仕事。ねえ?」
 だから、指揮官とは孤独なのだ。ヨリスは自分の中に潜む問題を把握する。
 背徳感だ。
 ヨリスは言葉を選んで返事をする。
「君であれ、誰であれ、部下が傷ついて嬉しい筈がない」
「私が特別なのではなくて?」
「やめてくれ」
 誇りと愉悦と激情に引き裂かれる心を、ユヴェンサは微笑みで隠した。ヨリスは冷徹なまでに公私の区別をつける男だ。いいや、冷徹とは少し違う。あまりにも超然としているのだ。厳しく現実的に自他を鍛えながら、甘美な精神性で兵を纏めあげる。兵士一人一人の人間性を知悉(ちしつ)し、時折労いの言葉を掛ける一方で、大隊の全構成員を非人間的な殺戮装置の部品へと作り変えていく。たとえ恋人であっても例外ではない。勝利のために必要であれば、ヨリスはユヴェンサを容赦なく死地に送るだろう。そしてユヴェンサは、ヨリスがそういう男でなければ愛せなかっただろう。
 一切の甘えを排し、ひたすらに戦士であり続ける恋人を誇る気持ち。その気高い心を、たとえ一面であっても自分の物にした愉悦。一方で、この自分を他の誰より大切にしてほしいと願う女としての欲望と、それが叶えられない激情。
「それでいいの」ユヴェンサは震える声で言う。「あなたはそれでいいの」
 しなやかな指を、ヨリスの頬から首筋へ、喉へ、胸へと這わせていく。その体に残る古傷を、ユヴェンサは服の上から正確になぞる事ができた。多くは戦いによる傷だが、幾つかは子供の頃に受けた仕打ちによって刻まれた傷だった。彼はごく短く断片的に、昔の出来事を語る事があった。あくまでユヴェンサが問えばだが。明かりのない床の中で身を寄せ合い、互いの顔が見えない時にだけ。
 指先を左の脇腹まで下ろせば、ユヴェンサはいつも苦い後悔と罪悪感を味わう事になる。その場所の傷は、他ならぬユヴェンサを庇う為に負ったものだった。
 初めて二人が出会った時、ユヴェンサは二十二歳で、ヨリスは二十九歳だった。三年。ユヴェンサがヨリスを恋人にするのに三年かかった。三年もの間、手を変え品を変えアプローチを続けても、この男は落ちなかった。振り向くどころかユヴェンサを疎み、その冷たい反応が更にユヴェンサを駆り立てた。
 当時は西方領と戦争をしていた。領土内の城砦の奪還をかけて、強攻大隊も戦った。狭い、暗い、寒い廊下内での戦いだった。ユヴェンサが覚えているのは前後の状況より何より、不意に肩を掴んだヨリスの手の力強さだった。彼はユヴェンサを後ろに押しのけて体を入れ替え、ユヴェンサを壁に押しつけた。そのヨリスの横腹を、西方領の兵士の剣が裂いた。その時の彼の体勢では、部下を庇うのが精一杯で、避けきれなかったのだ。見ていて恐ろしくなるほど血を流しながら、彼はすぐさま振り向いて兵を殺し、指揮を続けた。
 それほど深く己の愚かさを恥じた経験は後にも先にもない。ヨリスは彼なりにユヴェンサを大切にしていたのだ。上官と部下として。それで満足すべきだった。独占したいなどと思うべきではなかったのだ。この人が死ぬくらいなら、私が死んだ方がマシだと思った。心の底から。
 ユヴェンサはヨリスをものにしようと考えるのをやめた。結果としてその割り切りが、ヨリスを振り向かせた。あるいは単に、肉体的苦痛というあまりに直接的な代償を払ったがために、それに見合う価値をユヴェンサに見出さずにはいられないという心理作用が働いただけかもしれないが。
「ならば君は」
 ヨリスはユヴェンサの手首を軽く握り、傷をなぞるのをやめさせた。
「……君はいつか俺を憎む事になる」
 ユヴェンサは頭を振る。目に愛情を湛えたまま、声には僅かに怒気が滲む。
「私を甘く見ないで」
 ああ。私はこの人の近くにいなければいけないのだと、ユヴェンサは思い知る。私は死んではいけない。
 ユヴェンサが率いる弓射中隊の兵士と下士官達は、皆眠るか、少なくとも眠るふりをしていた。三人の小隊長、アイオラとアウィンとヴァンは、ユヴェンサ不在の中隊指揮所に集まってじっと黙っていた。何となく、群れているだけで安心できる気分だった。決戦は目前だ。今さら足掻いたり、もがく様な余地はない。
「緊張するね」
 ヴァンの呟きがカンテラの灯を揺らす。アイオラはヴァンを見て、「そうね」と同調してやろうかと思った。アウィンは「当たり前だろ」と同調してやろうかと思った。アウィンの方が早かった。
「バーカ、お前北トレブレンで初陣(ういじん)済ませてきただろうがよ。さっさと慣れろって」
 全く別の言葉が口から出て、アウィン自身驚いた。アイオラは何も言わなかった。口の悪い同輩の本音ならわかっている。緊張しない奴、怖くない奴は馬鹿だ。彼はいつでもそう言っている。アイオラもまた緊張していた。彼女の母は軍医だった。父は連絡将校で、いずれも捕虜になり殺された。アイオラは祖父に育てられた。士官の道に進むと決めた時、祖父は諦めきった目をして何も言わなかった。
 捕虜になるなら死のうとアイオラは思っていた。女の身である事の不自由さや恐ろしさはわかっている。しなやかで柔らかい体。たおやかな所作。優しく凛とした眼差し。女性らしくありながら、彼女の決然たる闘志は男性将校のそれに劣らぬものだった。捕らえられるくらいなら死ぬ。だけど死ぬ前に一人でも多く敵を殺してやるわ。もしそれが両親を殺した南東領の連中なら尚の事よ。私は弱い女じゃない。
 アウィンはというと、軍事には全く関わりのない家系の庶子であった。心を病んだ彼の父は、ある日「鳥の散歩に行って来る」と言って文鳥の籠を提げて家を出て、それきり戻らなかった。ちょうど嵐が来ていたので、海に落ちたのかも知れなかった。彼は入り婿で、同居していた母方の祖父とは大層折り合いが悪かった。父の失踪後何年経っても、あの男は心が弱かっただの、いやお父さんが苛めるからいけないのよだのと何の進展もない口論を繰り広げる家族に嫌気が差し、どこでもいいから全寮制の学校に入ろうと決めた。そんな時たまたま目に入ったのが、士官学生募集のポスターだった。
「ヴァン、お前の家は海軍将校の家系だったよな」
 思わぬ事を聞かれ、ヴァンは首を傾げた。
「そうだよ?」
「何でお前は陸軍に来たんだ?」
「だって……海軍には怖い伯父さんがいるから……」
 と、首を竦めてしまう。アイオラとアウィンは思わず別々のタイミングで噴き出した。
「ほんとなんだよ。今ミナルタ沖の離島群にいるはずなんだけどさ。冗談抜きで怖いんだ。なんていうの? 覇気があるとか迫力がある怖さじゃなくてさ、こう……冷たい怖さっていうかさ……ちょっとした言動でぞっとしちゃう怖さっていうか……」
「私たちの大隊長とどっちが怖い?」
 と、アイオラ。
「伯父さんのが百倍怖い」
「マジか。どんだけだよ」
 ヴァンはアウィン相手に、少しむきになって続けた。
「怖さの種類が全然違うんだよ。それにヨリス少佐にはまだ愛情があるじゃん。伯父さんないもん。いや、あるふりはするんだけどさ。ほんとにふりなんだよね。それに騙されちゃう人がいっぱいいるからまた怖いわけ。あの人、絶対人間の心ないね。他人の事道具としか思ってないんだもん」
「サイコパスかよ」
「ほんとそれ!」
「マジか……」
 南西領海軍は今頃、『宙梯』行きを阻む南東領海軍と、制海権を巡って熾烈な戦いを繰り広げているはずだった。万一海軍が総崩れになれば、陸での戦いは全て無意味なものとなる。
 海戦の情報が入って来ない状況はシルヴェリアを苛立たせた。
「トレブ高地から十日の行程で、我々は聖地『南西領言語の塔』に到着いたします」
 モーム大佐の言に、シルヴェリアは二度頷く。今はどれほど渇望しても、大局を見る事はできない。目の前の戦いを全力で生き延びる以外、するべき事はないのだ。
「そこまで我々を追ってくるのは? やはり西方領の神官兵どもか?」
「恐らくはそうなります。我が第一師団の正面に布陣した連合側の部隊は、圧倒的に西方領からの部隊が多く、それゆえこの山地まで直ちに追っ手を放つ事ができました。これは地理的な問題です。西方領と南西領の間は大部分が狭い海峡に阻まれておりますが、その首の皮一枚で繋がれた道路は冬の間に大規模な地崩れで通行不能となり、船を用いて全部隊を移動させるしかなく――」
「早々に敵地に到達して布陣を行うとなると、最北端の第一軍の、更にその最北端に陣取るしかなかったというわけだな」
「左様でございます」
 モーム大佐は深く頷いた。
「ロラン・グレン新総督は保守的な思想の強い政治家です。彼は他の領地の戦闘部隊が先んじて聖地に踏むこむ事態は極力避けたがるでしょう。また現在南西領に派遣されている敵神官将の性格は、好戦的な者、革新的な者、穏健な者、いろいろです。南西領の聖地に踏むこむを拒む者もいれば、何ら呵責を感じぬ者、果ては征服欲から進んで聖地を血で穢すを望む者。うまくいけば仲間割れを誘えます」
 ともあれ、敵方の政治的ないざこざを有効に生かすには、追っ手を早急に撃破せねばならない。早くたどり着く事だ。聖地、『南西領言語の塔』へ。
 七時間後、全ての兵士が兵装を整え、各連隊長あるいはその副官の訓辞を受けている。
 八時間後、兵站部隊によって宿営地の全てのテントが撤去されている。
 偵察連隊の中には、敵の斥候を討ち取ったと報告する兵もあり、逆に偵察に出たきり二度と帰らぬ兵もあった。
 敵騎兵たちが徒歩二時間の地点で鎧の着用を開始している。
 その報告を最後に、シルヴェリアは斥候を出すのをやめさせた。
 全戦闘部隊の兵士たちは、土塁と荷車の障壁の内側で息を詰める。美しく整えられた隊列を保持し、微動だにしない。
 やがて、松明を高々と掲げ、最初の神官将と旗手、そして騎乗した神官兵達が姿を現した。森の出口から迸るように高地へと溢れて来て、一糸乱れぬ動きで縦隊から横隊へと隊列を変える。第一列は西方領マフェリカ神官団。軽騎兵を中心とした、兵力四千の部隊だ。
 第二列は同じく西方領プトラ神官団。重騎兵三千を含む五千の兵力のほとんどが、これみよがしの甲冑で身を固めている。(プトラ)の名が示す通り、かなり富裕な神官団と見え、見える限りの馬たちが馬鎧をつけ、銀にきらめく面甲にその顔を隠している。
 そして第三列は、ホーリーバーチ家当主スレイ・ホーリーバーチ率いるザナリス神官団。旗手は聖別された樺の木を刺繍した旗を高々と掲げている。その隣の、先頭に立つ正位神官将の戦闘服を纏った男が、正にスレイ・ホーリーバーチその人なのだろう。兵力五千で、軽騎兵を中心に構成されているが、第一列のマフェリカ神官団に比べれば、騎兵が占める割合は少ない。
 シルヴェリアはなだらかな丘の上から神官兵団を睨み下ろした。
 先頭のマフェリカ神官団正位神官将が、槍斧を地面に対し垂直に掲げた。肘を伸ばし、槍の穂先を突き上げる。そして、腕をおろし、穂先をシルヴェリアの師団へと突きつけた。開戦を告げる号令が、シルヴェリアの耳にまで聞こえてきた。
「進め!」
 一斉に鬨の声が上がる。
 土埃を上げて、騎兵隊が軽歩兵たちへと迫り来る。
サーベルや槍斧の残忍な牙をきらめかせて。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み