睨み合い

文字数 2,261文字

 1.

 シオネビュラ神官団の中立放棄によって、王領軍およびロラン・グレン南西領新総督軍を中心に結成された連合軍は、西進の足がかりを失った。
 勢いを得た前総督シグレイ・ダーシェルナキの反乱軍は、シオネビュラの北に位置するエンレン地方の主要都市フクシャの防衛に赴き、会戦準備を速やかに整えた。
 左翼に配備されたのは、軽歩兵を中心とする第五軍、及びフクシャ守備隊。フクシャを背後に控える形で、都市の北部の草原地帯に展開する。
 陣地中央には第三軍及び西部方面軍の二つの独立騎兵大隊が、右翼には、トレブレン地方守備を第二軍と交代した第一軍が配された。
 第一軍の兵力は、機動力を重視し再編成した結果、北トレブレン守備の際に膨れ上がった編成は大幅に改善されていた。各師団の兵員は一万前後と、通常の編成に戻された。
 シルヴェリア師団は右翼の右端を担う。隣にはシオネビュラ神官団が控え、その向こうには急勾配のガレ地が広がっており、ガレ地の奥には清澄な水を湛えたエンレン湖が海のように横たわっている。
 シオネビュラ市から派遣された神官団の部隊は、二位神官将レグロ・ヒューム率いる軽騎兵隊が千百、三位神官将ニコシア・コールディー率いる軽騎兵隊が千。
「シオネビュラ神官団め、出し渋りよってからに」
 シルヴェリアはエンレン湖から注ぐエンレン川の、天球儀の光を写す水面を見ながら、一人佇んでいた。
 エンレン湖の北岸は肥沃な土地で、茶葉の栽培などが行われていたりもするのだが、連合軍及び反乱軍が布陣する西岸は、エンレン川に沿って沼沢地となっている。エンレン川はフクシャ郊外の農耕地に注いでいる。その川を挟んだ南側で反乱軍が、北側で連合軍が、着々と戦闘態勢を整えていた。
 夜はその間にも明けつつあった。天球儀の光の編み目を映すはずの川面は、今や全体がぼんやりとした白い光に覆われている。川面に感じる明るさの予感。それが朝だ。離れた位置にいる人の顔が見える。松明の存在感が薄れる。川向こうの敵陣の様子がぼんやりと見える。それが朝だ。
 夜の闇を失しての戦いは、どちらの陣営にとっても未経験だ。見えること、見られることの困惑。困惑だけを両陣営は共有した。
 シルヴェリアや他の士官たちがそうしているように、そして恐らくは自分たちもそうされているように、ヨリスもエンレン川の対岸を見通せる位置にいて、浅瀬の向こうにかすむ敵陣地の、暗がりでの蠢きに目を凝らしていた。幅広だが、騎馬で渡河可能の川だ。天気も穏やかな日が続き、水面は静まり返っている。
 隣に人の気配が来た。リャン・ミルトだった。ミルトはヨリスと肩を並べ、黙って対岸に目を注いだ。
 ヨリスはそっと話しかけた。
「リャン、士官学生時代、水上輸送の実習でエンレン湖に来たことがある」
 ミルトは細い目をヨリスに向けた。穏やかで大らかな微笑みは、いつもと変わらない。
「そんなことを考えていたわけじゃないだろう。一体どうしたんだ?」
 ヨリスは目を閉じ、首を横に振った。目を閉じれば闇が戻る。夜の闇。あの頃は夜だった。
 ミルトは追求しなかった。
「……そうか。実習はどうだった?」
「船が転覆した」
「そ、そうか……」
 船が転覆した以外には、ダリル・キャトリンのおやつを強奪したことと、ダリル・キャトリンの上着を強奪したことくらいしか覚えていない。
 つまりここは、思いの外冷え込む上に、沼地とガレ地が多いため、普通に歩くだけでも体力を消耗するのだ。
 ガレ地に隣接して最右翼のシオネビュラ神官団が展開している。その左には第一軍第三軍団が展開し、右翼からシルヴェリアの第一師団、中央にグラムト・チェルナーの第二師団、左に第三師団が配置される。
 第三軍団の川を挟んだ正面には、軽歩兵を主力とする新総督軍の一個軍団が展開する。その軍団の右奥、反乱軍部隊からみて左奥にも一個師団相当の兵力が控えている様子だが、その部隊の詳細は今時点でわかっていない。そして、一個軍団の左奥、反乱軍部隊から見て右奥には、軽騎兵を主力とする西部ルナリア神官団が、二個大隊相当の兵力でもって控えていた。
 ヨリスとミルトは暫く立ち話をし、やがてヨリスだけが川に背を向け自分の大隊に戻って行った。
 その姿をユヴェンサはたまたま見かけた。
 開戦前に個人的な会話ができる機会はそれが最後だった。声をかけようかと思ったが、何かを考え込んでいるヨリスの深刻な様子に思いとどまった。邪魔をしたくなかった。目の前を、自分に気付かず通り過ぎていく恋人の姿を黙って見送った。
 ヨリスに会いに行くのはいつもユヴェンサのほうで、ヨリスがユヴェンサを訪ねてきたことは一度もなかった。彼に執着がないわけでもなかろうが、その淡泊さが我慢ならなく思えるときがユヴェンサにはあった。
 彼は恋人が戦場で倒れても、涙を流しはしないだろうと、ユヴェンサは思っていた。次の戦場に行くだけだ。愛した女のことなど胸の深くに沈めて。
 あるいは、逆だったら? つまり、自分が生き残り、ヨリスが戦場で(たお)れたら……。
 そんなことは、これまで何度も考えたことだ。
 (あかがね)色の髪を払い、恋人に背を向けて、ユヴェンサもまた中隊指揮所に戻っていく。
 十五時間後、両陣地の中央で、攻撃開始の喇叭が鳴らされた。
 曇りの日、両軍の将校たちは勝利を、兵士たちは己の生存を祈っていた。
 空は祈りを聞き届けるのを渋っているようだった。

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