車輪は回る

文字数 4,298文字

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 リージェスが、ホテルの裏庭に立つ細いシマトネリコの木陰から、緊張した顔を覗かせた。素早く左右を警戒し、人の姿がないか確かめると、音を立てずに飛び出して、ホテルの外壁に飛びついた。一階の窓を開け、後方に『来い』と手信号を送る。シマトネリコの後ろの茂みから、リレーネがひょっこり顔を出した。立ち上がり、それからリージェスのもとへ駆けていく。リージェスがホテルの窓から部屋に転がり込んだ。リレーネに手を貸し、中に入れる。そして、内側から鍵をかけ、忍び笑いを交わした。
「間に合ったな」
 リージェスはリレーネの右手を握ったままだった。リレーネは左手もリージェスと繋ぎ、にっこりした。
「間に合いましたわね」
 一時の鐘が鳴った。シオネビュラの街の各所で、呼びあうように音色を重ねた。
 その余韻が消えていき、静けさが戻った直後だった。
 客室の戸が外から叩かれた。
「三分待ってくれ」声を掛けられるより早く、リージェスが無表情になって従業員に応答した。「今荷物を纏めてる」
 荷物など当面の着替えしかないし、前もってまとめ終えていた。
「かしこまりました」
 若い女の従業員が、戸の向こうから答えた。
「お迎えのお客様には、南棟一階のサロンにてお待ちいただいております」
「わかった」
 足音が廊下を去る。二人は再び向き合って、微笑を交わしあった。リレーネは興奮した呼吸をゆっくり整えていく。繋いだ手を一旦解くと、今度はリージェスの肘の近くをそっと握った。
「私は、弱く惨めでした」
 オリーブ色の瞳は、柔和さと、愛情、そして真剣さとどこか切羽詰まった胸の内を映している。
「自分の意見や希望を述べること、時には考えることさえも、はしたない悪いことであるように教育されてきました。お飾りの人形――」唾をのむ。「怠惰で、無気力で、幼く、愚かな人間になって当たり前の生きかたでした。リージェスさん、あなたが私を変えてくださった」
「太陽の王国で、か?」
 リージェスはその話を、積極的に肯定しないかわりに、もう否定もしなかった。少なくとも、リレーネの頭がおかしいわけではないことは、旅の間にわかっていた。
 気恥ずかしげに「ええ」と頷き、彼女は続けた。
「お願いがございますの」
「何だ?」
「この先、あなたはシンクルス・ライトアローさんという男性を探し、こう伝えてください。『現状では滅びは避けられません、しかし、私たちは言葉で支えあえば生きていけます、なので一人でも多くの人間を生きさせてください』」息を吸い込む。「『解決法が見つかるまで、少なくとも時を稼ぐことはできます』」
 リージェスはそれを一語一句違わず復唱し、間違いがないか確認した後、ジャケットからメモを取りだして、それを書き付けた。
 三分は過ぎていた。
 それでも更に十秒ほど、二人は見つめあった。
 覚悟はできていた。
「行こう」
 リージェスが顔を引き締める。甘やかな空気は、二人の胸の中へとしまいこまれた。リージェスがリレーネの手荷物を持ち、部屋の戸を開けてリレーネに出るよう促し、静かに閉ざした。
 板張りの廊下はむらなく油を塗って手入れされ、壁に取り付けられた天籃石(てんらんせき)の白い光を薄く伸ばしていた。柱廊を過ぎ、中庭を過ぎて廊下の角を曲がると、そこがエントランス横のサロンだった。
 サロンでは二十人ばかりの大人たちがリレーネを待っていた。西方領の文官、武官。南西領の文官、武官。これは自分に関わった人たちの、ほんの一部でしかないのだと思うと、リレーネは気後れを感じた。その人たちの間に流れる空気は、不思議なほど和やかで、ほんの少し前まで戦争をしていたなどとは信じられないほどだった。では何故戦争はなくならないのだろう?
 リレーネは緊張した顔の下に気後れを隠し、少し俯きがちになりながら、人々の前に出た。後ろでリージェスが見守っている。
 そして顔を上げた。
「北方領総督セヴァン・リリクレストが第五子、この南西領に友好と平和の証として参りました、リレーネ・リリクレストでございます」
 堂堂たる挨拶だった。右足を後ろに引き、左の膝を曲げてお辞儀をする。
「皆様方に、(わたくし)がためにご足労いただきましたこと、心苦しく思いますと同時に大変有り難く存じます。お礼を申し上げますわ」
 品定めするような視線はさほど変わらなかったが、何人かの顔に笑みが宿った。
 次はリレーネの前に一人ずつ立ち、出迎えの外交官や外交武官たちが挨拶を始めた。
 五人目に挨拶をしたのは、西方領陸軍の制服を着た、太った中年の男だった。目は頬の肉に押されて干し葡萄のように小さいが、宿る光は穏和だった。彼は何かを味わうように沈黙した後、おもむろに名乗った。
「西方領外交武官イオルク・ハサ大尉です。お会いできて光栄です」
 リレーネはその目をじっと見た。
「かつて、私の婚約者でいらっしゃいましたわね」
「はい。一度としてご挨拶にお伺いしなかったこと、申し訳なく思います」
「西方領の都と我が北方領の都は遠く離れております。私には何も思うことなどございませんわ」
 一人一人が挨拶をし、リレーネはその全員の目を、微笑みながらしっかり見返した。全員の顔と名前を一度に覚えることはできなかったが、挨拶が済む頃には、この人々に認められたのだという手応えを感じていた。
 こうしてリレーネ・リリクレストの身柄の引き渡しは終わった。
「メリルクロウ少尉」南西領陸軍の中央司令部から来た、リージェスの上官だという武官が、リージェスに低い声で言うのがリレーネの耳に聞こえた。「いろいろと想定外のこともあったが、君は臨機応変に対応した」
 すると迎えの一人が声を掛けてきた。
「さあ、こちらへお越しください」
「メリルクロウ少尉が私の手荷物を」
「ご安心ください。私どもが引き取りますので」
 リレーネは一度、振り向いた。サロンのシャンデリアの真下にリージェスが立っていて、リレーネをじっと見ていた。先に立つ南西領の文官がホテルの玄関扉を開け放つと、太陽の光が床を四角く染めた。光はサロンの出入り口に向かうにつれ薄らぐが、十分眩しかった。
 こんなに明るければ、もうシャンデリアは必要ありませんわ。リレーネの印象に残ったのは、不思議とそのことだけだった。
 リージェスの視線を受け止めた証に一つ大きく瞬きし、頷き、微笑んだ。
 それを最後にした。
 リージェスに背を向け、背筋をまっすぐ延ばしてホテルを出た。
 ホテルの外には三頭立ての馬車が待っていた。青いベロア張りの座席はふかふかしており柔らかく、床に絨毯が敷かれており、中は広く快適そうだった。そして、両側と正面の窓には、太陽光を遮れるよう真っ黒いカーテンが取り付けられていた。カーテンは、今は開いていた。
「出発は、まだですわね」
 リレーネはすぐ馬車に乗ろうとはせず、馬車の乗り口に立つイオルクに話しかけた。
「いいえ、間もなくとなります」イオルクは慇懃(いんぎん)に答えた。「お乗りになって待たれたほうがよろしいかと」
「どうぞ、私をただの十七歳の娘と思ってお話ください」リレーネは柔和な笑みで返した。「私たちは、互いの顔も知らぬとは言え、一度は婚約しあった間柄ではありませんか」
 イオルクは小さな目を細めて微笑んだ。
 扉が開いたままのホテルの内部が賑やかになった。サロンからエントランスへと、外交官たちが話しながら出てくるところだった。
「じゃあ、今だけ」イオルクは誰にも聞かれぬように囁いた。「そろそろ乗ったほうがいいよ。それとも、何か気がかりなことがあるのかい?」
「いいえ」
 サロンにいるリージェスの姿は見えなかった。見えなくて良かったと、リレーネは思った。リレーネはまだしばらくの間、シオネビュラに留まる。三位神官将が統括する西神殿の城下町から、二位神官将が統括する北神殿の城下町に移るのだ。北門からシオネビュラを発つ。東門と南門では、難民たちを対象に、シオネビュラから出る最初の船団に乗る家族を決する抽選が行われるのだ。それが済み、平穏の内に対象者が市内に招じ入れられるまで、三日の日にちが見込まれていた。リレーネがシオネビュラを発つのはその後だ。
「君は、北方領に戻って何をしたい?」
「具体的なことは何も決めておりませんわ」
「本当にいいのかい?」アイオラと同じことを聞くつもりだとわかった。「拒否することもできるんだ」
 戦争は終わった。
 実のところ、もう自分に人質としての価値はなく、手順を踏んで正式に北方領への返還拒否を行うこともできる。
 だが、決意を変えるつもりはなかった。
 かつての自分にできなかったことをするのだ。総督の娘として。鍵として。父と和解しよう。同じ質問をされる(たび)、決意がぐらつくとしても……。
 心を隠し、リレーネは冗談めかして言ってみた。
「今度こそ、あなたと契りを結ぶかも知れませんわ」
「こんなおじさんでいいのかい?」イオルクは本気にしたようだ。「君はこんなに若くてかわいらしいじゃないか」
「あなたがお優しい方で、私は嬉しいですわ」
 エントランスの一団は、話しながらのせいでゆっくりとだが、出入り口に近付いてくる。『正式な署名』『神官』『アーチャー家』『使者』『聖遺物』『開放』『定員』他に『私たち夜の王国の残留組……』『平和を……』『いつかはまた夜が……』そんな言葉が聞こえた。
「そろそろ、中で待たせて頂いたほうがよろしいみたいですわね」
「ああ」
 イオルクが馬車に乗るための階段を出そうと動き出したが、リレーネは頭の上に手を上げて内部の手摺りを掴み、旅で身につけた身軽さで、ひょいと飛び乗った。座席に座って振り向くと、上流貴族にあるまじき行いに、イオルクも、玄関から出てくる外交団員たちも、口を開けて驚いていた。だが、イオルクはにっこりして戸を閉めた。
 リレーネは戸と窓の黒いカーテンを全て閉めた。暗くなって初めて、頭上に白色光を放つ天籃石が取り付けられていることに気付いた。
 背中を丸め、膝の上に曲げた両腕を置いた。腕に額をくっつける。
 五分ほど待った。十分だったかもしれない。馬車が動き出した。
 車輪が回る。
 その一回転、シオネビュラの石畳に轍が刻まれる、十年、二十年、三十年、その歴史の僅かな一瞬間として、石畳を僅かに削る。
 一回転ごとに、世界でもっとも愛する男が遠ざかっていく。

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