原本と普及版

文字数 5,254文字

 1.

 さて、ハルジェニクは青い髪の乙女の姿を街灯の下に見つけた。半永久的に尽きぬ白色光を放つ天籃石の街灯の、その陰から半身を覗かせてハルジェニクを見ていた。その視線が放つのは、飢えであり、催促であり、または脅迫であった。そうでなければ乙女は発狂ゆえに無感情であり、それも違うなら……むしろハルジェニクが発狂ゆえに、人の感情を読み取れなくなったのかもしれない。
 その考えに立ち竦み、ハルジェニクは動けなくなった。隣を歩いていたジェノスが遅れて立ち止まる。
「どうした」
 その声から、押し殺したものながら人間の感情を感じ取り、ハルジェニクは冷や汗を流して安堵した。己の発狂の心配をできるうちは狂っていないはずだ。そう思う。乙女はまだハルジェニクを見ていた。
「あれが見えるか」
 震える声で確認した。ジェノスは訝しげに目を細める。
「何が」
「女がいるじゃないか」
 だが、ジェノスは目を細めてきょろきょろしている。見えてはおらぬようだ。
「おい」焦りから、ハルジェニクは続けた。「言語活性剤を飲んだら、おい。女がつきまとうようになるのか?」
「そんなわけはない」ジェノスは侮蔑混じりに応じた。「幻覚だ。お前自身の問題だ」
 であるなら、やはり気が狂いつつあるのかもしれなかった。
 色素の薄い、灰色の、酷薄な、しかし好奇心が垣間見える目で、ジェノスはハルジェニクを観察し続けた。
「その症状はいつから?」
「リジェク市で……初めて死んだときからだ」
「初めて聞く症例だな。貴重の副作用な事例だ」
 ハルジェニクは、目の力で不機嫌さをジェノスに押しつけた。
「俺は実験動物じゃないぞ」
「治療法が見つかるじゃないか」残忍な笑みを浮かべ、「後に続く人間のな。それとも自分が助かることにしか興味がないか?」
「お前もそうだろう」
「何を言う」ジェノスの笑みは、すぐ消えた。「侮辱もいいところだ。これでも信徒のために尽力しているつもりだがな。太陽の王国から神人が来る日まで――」
 地球人の話をするときの癖で、ジェノスは天球儀を見上げた。空は淡い黄色。ますます透明度を増す天球儀は、このまま空に溶けてしまいそうだ。ジェノスを観察し返すハルジェニクは、その目にとろけるような光を見いだした。見てはいけないものを見た気がして、街路に目を戻した。
 薄暗い向こうの筋の道を、フード付きのマントをかぶった、小柄な少年のような人影が通り過ぎていった。
「――その日まで、われわれは生き延びなければならん。あの偉大なる天球儀をご創造たもうた神人をお迎えせんために。わかるか」
「わかる」
 わかるふりをした。
「そのために、我々は言語生命体を絶滅させるわけにはいかん」
「食糧がなくなるからな」
 ジェノスは無視した。
「お前の価値はそこにある。アーチャー家の客人。お前の血を用いれば、〈青い光〉の発動を停止できるはずだ」
「〈青い光〉を仕込んだのは神人だ。その停止は神の意志に背くことになるんじゃないのか?」
「〈青い光〉は」ジェノスの目から完全に、感情はおろか、思考も消えた。「神人が我々に課した試練だ。我々は〈青い光〉の発動を停止せねばならん。知恵を示すのだ」
 狂信者ども。自分だけに都合よく教典と現状を解釈することにかけては一流だ。ハルジェニクは軽蔑を目に表さぬよう気をつけながら、また前を向いた。
 ジェノスはジェノスで、既にハルジェニクの訴えのことなど頭にない。所詮狂人のたわごとだと決めてかかっていた。あと数日もすれば、フクシャから朗報が入るはずで……それは必ず朗報であろう、いやしかし……と気を揉んでいるのだ。三体の秘密兵器と忍び込んだ救世軍、そして三位神官将率いるリジェク神官団の部隊が、恐怖によってフクシャを奪還し、秘められた知恵の産物、言語活性剤の驚異を知らしめるはずだ。
 実際には数時間前に、三体の秘密兵器は打倒され、救世軍とリジェク神官団の戦闘部隊はほぼ皆殺しの憂き目にあい、非戦闘部隊も一網打尽に捕らえられたのだが、その報がコブレンに入るにはまだ時間が足りなかった。
 それにしても、何故コブレン自警団はこの時期に、コブレン市内での闘争を始めたのだろう? 一番の気がかりはそれだった。フクシャは反乱軍の手に落ちた。市民の解放を求めるコブレン自警団は、ただシグレイの軍隊の到着を待てばいいだけのはずだ。救世軍が連合軍から離反し、コブレン占拠を続ければ、必ずシグレイの軍隊が来る。だがコブレン自警団は攻撃を仕掛けてきた。〈火線の一党〉の拠点を占拠した。何故?
 何か、シグレイの軍隊が到着する前に片付けたい要件があると考えるのが自然だ。それは何だ? 〈青い光〉の件を知っているのか? まさか。
 地示天球派は、天示天球派よりずっと後に派生した宗派だ。〈青い光〉のことは天示天球派の、しかも上層部の、ごくごく一部の人間しか知らない。ましてコブレンに釘付けになっている奴らに、東方領で発動したそれについてなど知る術さえないはずだ。
 だがもし、だがもし……まだ気がかりな点があるぞ。西方領外交団撤退のきっかけとなった、秘文書張り出しの件だ。あれは結局誰がやったのだ? 外交団を疎ましく思う者……例えば南西領の軍部、その一部……そうした連中と、コブレン自警団がいつの間にやらパイプを作っていたとしたら?
 二人のそばを、そそくさと市民たちが隠れつつ行き交う。
 ここはまだコブレンの一般市民が普通に生活している区画だ。先ほど少年らしき影が通り過ぎた筋を、また二人、人が通り過ぎた。
 男女のようだった。男の横顔が、薄闇を透かして見えた。背が高く、姿勢の良い男だ。よく見えない横顔に、ハルジェニクは全身を打ち据えられたように息を詰めた。
 シンクルス。
 違う、と、すぐに訂正した。シンクルスではない。その男が天籃石の街灯の下に差しかかったとき、黒髪だとわかったからだ。
 これもまた、妄想だ。神経過敏になっているのだ。
 乙女が、いきなりハルジェニクの眼前に立った。瞬き一つの間に移動したようだ。
 向こうの筋を指さして、口を大きく開き叫ぶ。声はない。目の形が歪み、涙を流し、大声で泣き叫ぶ。
 何かが欲しくてならぬと言うように。
 ハルジェニクは、それを無視した。

 ※

 そして第一の射手がはじめの矢を放った。
 すると矢は、千万(ちよろず)の鉤爪となりて王国の東に降り、
 あらゆる言語生命体を引き裂き、忌むべき獣に織り直した。
 獣は西に向かい、その地で人々を殺した。
 こうして東の地は滅び去った。
 また、私はかつて神と呼ばれた偽りの創造主らを見た
 綾織りの時は裂かれ その記述のはざまに
 太陽の国を統べた、青ざめし人らがいた。
 見よ、それらを照らす光は、天の玉座より差している。
 目覚めよ、主に従うべき善き子らよ、目覚めよ。

「やっぱり原本から抜かれた箇所があるな」眉間に皺を寄せながら、ミスリルが教典をめくっている。「カタル書第七章三十六節から四十五節にいきなり飛んでいる」
 コブレン市内での闘争から三日が経っていた。占拠した〈火線の一党〉拠点が、今はコブレン自警団本部となっていた。戦闘員のほとんどが、城壁外の隔離病院からこちらに移動している。
 ミスリルが大きなベロア張りのソファに偉そうに陣取る部屋は、絨毯もタペストリーも絵画も取り払われていた。剥き出しの石床と石壁から、肌がひりひりするほどの冷気が滲み出てくる。拠点内のすべてを三日がかりで総出で調べあげ、あらゆる罠と脱出路、隠し通路と隠し倉庫を封じた結果だった。煙突も封じた。暖炉も鉄の棘の罠を仕込んだ上で、鉄格子で封じた。窓という窓に鎧戸をはめ、外側から外したら、大きな音がするような仕掛けを作ってある。
 同じ室内にいるアエリエ、リアンセ、カルナデルも、めいめいマントやケープを羽織っている。
「必要な情報はないみたいね」リアンセが、言い終えてから、白い息を両手に吹きかけた。擦り合わせ、身震いする。それから低い声で、「寒っ」
「どうしても原本がいるんだな」
 カルナデルの表情には落胆が滲んでいる。彼もまた、ミスリルと同じ期待を――〈火線の一党〉拠点に、天示天球派の教典の原本がないかと期待をしていたのだ。
「おいミスリル、原本はどこにあるんだ?」
「さぁな。あるとしたらウィングボウ家の別邸跡だろ? そこが天示天球派のコブレンの聖地みたいなもんだからな」
「そこは今どうなってるんだ?」
「〈タターリス〉の本部と施設が囲ってるよ」
「中はどうなってるんでしょうね」と、リアンセ。「神官たちが入ってきているんじゃないかしら? 救世軍の後ろ盾の。例えばリジェクとか」
 赤茶色の髪に指をいれ、癖でなんとなく掻いていたミスリルはその動きを止めた。鋭い目をじろりとリアンセに動かした。睨んだわけではない。真実味のある、しかもあまり良い予想ではないので、緊張してしまったのだ。
「でも、この教典も普及版のものとは違っています」
 アエリエは、天示天球派の教典の普及版、そして新しく入手した〈火線の一党〉の古い版の教典を真剣に見比べていた。二冊の教典が広げられた机には、ニキビの薬の壷が置いてある。レンヌという名のテスの妹弟子が、ミスリルのために作ってくれたのだ。
 アエリエが旧版の教典のページに指を置く。
「この部分も普及版にはない記述です」

 第二の射手が弓を引き絞り、続く矢を放った。
 すると矢は、千万の火の柱となりて王国の中央に降り、
 あらゆる言語生命体を灰燼に帰した。
 見よ、目覚めし者たちよ。
 灰は主のみ使いたちに掃き集められ、
 息吹を受けて獣となり、更に西へ向かい、人々を殺した。
 こうして王国の中央は滅び去った。
 未だ主に(めし)いたる者、目覚めよ。
 第三の射手は既に、矢をつがえている。

 ミスリルは普及版から削除されたその箇所に違和感を覚え、無表情でしばし考えた。
「目覚め」考えながら口にする。「目覚め、か。よくその言葉が出てくるな」
「その言葉に関する部位のみ削除して、普及版を作ったようにも見えますね」アエリエもまた、考えながら続けた。「地球人の存在が関係しているのでは……」
「地球人? なんで」
「無関係とは思えないのです。矢が、朝日の隠喩であるのなら。かつて地球人は、朝と共に目覚めていたというではありませんか。そうでしょう、団長?」
 ミスリルは窓に目をやったが、鎧戸に隠れ、迫る朝は見えない。
 地示天球派が大地を信仰するのに対し、その派生元である天示天球派は地球人を信仰する。表向きは、天球儀を信仰するということなのだが、それを通して偉大な環境維持装置である天球儀を建造し得た地球人を崇拝しているのだ。
「朝と共に目覚めるって、地球人は一体何日眠り続けるんだ?」
 カルナデルの疑問に、同室の三人の目が集まる。
 答えたのは、神官の名家で生まれ育ったリアンセだった。
「地球人が暮らしていた惑星では、二十四時間の間に朝と夜が一巡していたのよ。眠る時間は私たちと変わらないんじゃないかしら」
 カルナデルは、「わかった」とも「なるほど」とも言わず、意外そうな目で凝視を返してくる。
「何よ?」
「別に。お前だったら面倒くさがって教えてくれないだろうって思ってたからさ」
 今度はリアンセが、全く意外な心持ちになった。
 確かに自分には、カルナデルが指摘するような冷たい部分がある。どうして彼の疑問に答えてやる気を起こしたのだろう?
 答えは考えるまでもなくわかっていた。簡単なことだ。カルナデルが、今一番近くにいて、一緒に戦ってくれる存在だからだ。
 そして、一番危ない状態だったときに匿い助けてくれたのは、カルナデルだった。シンクルスではない。
 長年抱えていたシンクルスへの執着と罪悪感が、春の根雪のように融けかけていることに気がついた。リアンセ自体がシンクルスについて毎日考えていられる状態ではなかったのだから、当然のことだろう。決して心配していないわけではない。だが、その心配を脇に追いやってしまえるほど、自分の中でシンクルスの存在は小さくなっていた。
 誰かが戸を叩いた。
「ミスリル、いるか?」
 テスだ。廊下にいる。ミスリルが、肘掛けに肘を乗せ、頬杖をついて答えた。
「いなーい」
「客だ」
 ミスリルがぱちりと目を開き、ソファに座る姿勢を正した。
 戸が外から開いた。
 テスの他に、一組の男女が立っていた。縛られているらしく、両手を背中に回している。
 それを見て、ミスリル以上にぎくりとしたのはリアンセだった。
 二人の客の男のほうは、今し方思いを馳せていた人物、髪を黒く染めて元の色を隠したシンクルス・ライトアローだった。


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