復讐の終わり

文字数 4,512文字

 3.

 地響きが大きくなる。
 捕食者はもう、〈タターリス〉本部の敷地のすぐそばにいる。あるいはもう敷地内に入ってきているかもしれない。今にも霧の闇を割って、顔を見せるかもしれない。
「あれに構わないで!」
 捕食者の帰還は、〈タターリス〉戦闘員の手を煩わせるという利点もある。その後は、自分たちに牙をむくはずだが……。アエリエは指示を出し続けた。
「道を開くことに専念しましょう。団長は? 誰か、団長を見た人はいない?」
「レミが見たと言っていました! ジェノスと戦っていたって!」
 背中合わせに立つ戦闘員が答えた。ミスリルの戦いは、まだ決着がついていないのだ。アエリエは長い睫毛に縁取られた目で、ぱちぱちと瞬いた。

 ※

 リアンセの微笑みが、その端正な肉付きの中に埋没し、消えた。リアンセも、シンクルスも、無表情でハルジェニクを見ていた。二人にわかるのは、ハルジェニクが混乱していることだけだった。因果が引き裂かれ、時系列は砕け散り、個々の事象が、実際に起きたことも、あるいは空想の中だけで起きたことも、一緒くたになっている。
 混乱する者がたどり着く終着点の一つに彼はたどり着いた。
 取り乱すこと。
 後ずさり、リアンセとシンクルスから距離を置こうとした。目は二人を見ておらず、二人の間を見ているようで、しかし二人の間の後ろにいるレーンシーは見ていなかった。唇が震え、掠れた声が漏れてくる。その声が次第に大きくなり、やがて悲鳴と呼べるものになったとき、リアンセが先に動いた。跳ねるように距離を詰め、平手でハルジェニクの頬を打った。乾いた音が響き、再び舌を噛んだハルジェニクが叫ぶのをやめた。
「ぎゃあぎゃあうるさいのよ!」
 怯えた目で立ち竦んでいるハルジェニクの足許に、リアンセは持っている剣を投げた。二人の間に剣が転がった。リアンセはダガーを抜く。
「わかるでしょう。記憶があるのなら。ないなんて言わせないわ」押し殺した声で促す。「剣をとりなさい。決闘よ。あんたは私たちと戦うの」
 声に苛立ちが増していく。
 階段坂のすぐ上から捕食者の声がする。そこにいるのだ。すぐ背後、真上に。
「早くなさい! どこまで私を失望させるつもりなの!?」
 ハルジェニクが、リアンセの目をじっと見ながら膝を曲げていった。腕を下に伸ばし、上体を屈め、剣の柄を掴む。
「シンクルス」ハルジェニクが呻く。「聞いてくれ。頼む……」
 シンクルスが槍を中段に構えた。
 ハルジェニクに先に襲いかかったのはリアンセだった。片手剣をただ持っただけで何の構えも取らぬハルジェニクへと、顔の横にダガーを構えて斬りかかる。
「リアンセ!」
 シンクルスの呼び声の中、ハルジェニクはくるりと身を翻した。階段坂に背を向けて、広場の先へと逃げていく。
「心配しないで!」そのとき、リアンセのダガーの切っ先がハルジェニクの肩の後ろを走り、裂いた。「こいつは何回だって死ねるわ。あなたの復讐の機会もあるのよ!」
 追いかけていく。リアンセのピンクゴールドの髪が、霧に埋もれていき、消えた。シンクルスは息を吸い込み、呼吸を止めた。追おうとするシンクルスの左の肘を誰かが掴んだ。
「レーンシー!」
「行かないで!」ほとんど縋りつくようであった。「行かないでください、お願いです」
「リアンセを放ってはおけぬ! それに」唾をのんだ。「ハルジェニクは――あの者は――」
「わかっています、ですが」
 捕食者が放つ無数の獣の叫び声が、さきほどよりもずっと近くに聞こえた。
「シンクルスさん」
 広場の地面が揺れている。
 縋る腕に力を込めて、レーンシーは叫んだ。
「私を守って!」
 その捕食者がいるほうへと、ハルジェニクを追うリアンセは引き寄せられつつあった。ハルジェニクは意図的に誘導しているわけではないようだ。口の端から唾と涎を垂らし、意味不明なことを呟く。
「大人しく殺されなさいよ」
 辻に出た。幸運にも、〈タターリス〉戦闘員にはこれまでのところ会っていない。
「私、喜んでいるわ。聞きなさい!」辻の一つの道は、横倒しになった馬車で埋まっていた。「あんたを何度も殺してやれるから! 姉さんの分も、プリスの心の分も!」
 その馬車の前で、ハルジェニクは足を止める。あわてて振り向いた。他の道を選ぶ余地はなかった。リアンセが近付きすぎていた。
 剣を中段に構える。
 頭の記憶が壊れても、体の記憶は生きていた。
「私の恨みの分も!」
 かつて恋をしたリアンセ。
 花のように可憐で残酷なリアンセ。
「シンクルスの恨みの分も!」
 そのリアンセが、ダガーを手に襲いかかってくる。
 ハルジェニクの体は戦おうとし、頭は拒んだ。リアンセの胴体めがけて剣が繰り出されたが、勢いはなく、何とも中途半端な動作だった。リアンセはその刀身に対し、難なくダガーの刃を垂直に当てて制した。
 左手で、片手剣の鍔の向こうにあるハルジェニクの手を掴み、剣の動きを封じる。
 右手を上げ、ダガーの切っ先をハルジェニクの喉へと振り上げた。喉にその一撃を受ける直前、ハルジェニクは左手でリアンセの右肘を掴んだ。ダガーが顔の前で止まる。そのまま右肘を大きく押し退けると、リアンセはハルジェニクの右手を離してしまった。ダガーが遠ざかる。ハルジェニクは右方向へ逃げていった。
「リアンセ!」
 どこかでカルナデルが呼んだ。
「リアンセ、やめろ!」
 霧のせいで姿が見えない。リアンセも探す気はなかった。舌打ちする。
「ハルジェニク」
 余裕を込めて、逃げ去る背に語りかけた。
「殺される気がないのなら、私、レーンシーを殺すわ」
 前を行くハルジェニクの動きが止まった。
 袋小路だ。
 右側にある民家の壁、その民家と廊下で連結された正面の壁、そして、左側にある庭を囲む高い柵。それに囲まれ、ハルジェニクは素早く振り向いた。腰が引け、目は混乱と発狂に彩られた恐怖によって見開かれている。
「レーン」それでも言われた意味は理解していた。「レーンシーは、その」
「何?」
「俺の妹みたいなものなんだ」声は震えているが、はっきりと発音した。「やめてくれ! レーンシーは助けてくれ!」
 その声を、リアンセの高笑いが打ち消した。
「妹みたいなもの? 私の妹を廃人にしたあなたが、それを理由に慈悲を乞うの?」
「ロザリアがいけないんだ!」その高笑いを、またもハルジェニクの声が打ち消す。「あのとき大声を出したから! 僕に酷いことを行ったから! 僕に!」
「何を――」
「幼児退行してるんだ」
 真後ろから聞こえたカルナデルの声に、リアンセは動きを止めた。
「もう狂ってんだよ。わかってるんだろ?」
「狂ったら許されるの?」
 手の中でダガーを握り直す。
「やめろ」
 カルナデルはまだ、リアンセに指一本触れていない。だが、ハルジェニクを殺すべく動いたら、目的を果たすまでにカルナデルは必ずリアンセを羽交い締めにするだろう。身体能力が違いすぎる。リアンセはカルナデルを憎んだ。
 ハルジェニクは袋小路に(うずくま)り、両手で頭を抱えていた。微かな呟きに耳を傾けると、言っていることはこうだった。
「だから僕……ごめんって言ったじゃん……ごめんなさいって言ってるじゃん……」
 やはり殺すべきだと思った。
「リアンセ」
 カルナデルが、押し殺した調子で声をかけ続ける。
「お前がしようとしてるのは復讐なんかじゃねえ」
 リアンセの理性との共鳴を願うように、声は静かで、だが、震えていた。
「彼は、事件のことを覚えているわ」もう一度ダガーを握り直す。「今の状態でも責任を取れるはずよ」
「やめろ」
「どうして」
 鼻で笑おうとしたが、声が上擦っただけで、できなかった。
「そんなことをしたら」カルナデルの声から緊張の震えが消える。同時に、彼は声を殺すのをやめた。「お前が一番傷つくから言ってんだよ!」
 捕食者が吠えた。
 真上で。
 硬直したリアンセが見たものは、顔を上げるハルジェニク、そして、その姿を覆う広い影だった。
 ひょいと体が浮き上がり、カルナデルの肩に担ぎ上げられた。間もなく、人一人を担いでいるとは思えない早さでカルナデルが疾走し始めた。
 激しい震動。
 カルナデルが揺れに耐えきれず転倒し、リアンセは路上に投げ出された。
「痛いじゃない!」
 だが、手をついて振り向き、絶句した。
 転んだままのカルナデルのすぐ向こうに、見覚えのある、巨大すぎる蜘蛛の脚があった。カルナデルが起きあがる。捕食者。ミスリルはラケルと呼んでいた。それがいた。火矢を浴びたらしい。煤けた脚の皮の下から覗く子供たちの顔は、白目を剥き、口を開けて死んでいた。
 二人がゆっくり起き上がったとき、後ろから二人の足音が迫ってきた。
「リアンセ! カル!」
 リアンセは、シンクルスとレーンシーを振り向いたりしなかった。捕食者の損傷は激しく、恐らくは、制御しようとする〈タターリス〉戦闘員の手を逃れてきたものと思われた。
 ただ一つ間違いないのは、それが今、損傷ゆえに、酷く飢えていることだった。
「シンクルス」カルナデルのものでも、リアンセのものでもない、弱々しい声が声が呼んだ。「シン……クルス」
 上だ。
 リアンセは目線を上げていく。声の主を見つけた。シンクルスも同時にそれを見たのを、息をのむ音でわかった。
 薄く透ける黄緑色の中に、毒々しい赤い目玉模様を持つ、蛾の一対の翅。捕食者の体の側面を守るその翅の間に、ハルジェニクがくっついていた。捕食者の体の器官に支えられているわけでも、ハルジェニクがしがみついているのでもない。両手足は翅の下の胴体の前でだらりと垂れている。
 霧と高低差のせいでよく見えないが、ダガーでつけた肩の後ろの傷口でくっついているのだろうとリアンセは思った。他に考えられない。
 言語活性剤を摂取した時点で、人は人でなくなる。化け物なのだ。人の形をしていても、ハルジェニクは化け物だった。
「シンクルス、助けてくれ」
 心が人のままであっても。
「助けてくれ。シンクルス。シンクルス! 殺せ!」
 化け物になる。手負いの同族同士、融合し、一つの化け物になろうとしている。かつてコブレンの街の子供たちがその道をたどった。今はハルジェニクがたどっている。
「シンクルス!」叫び続けた。「殺してくれ! こんなのは嫌だ!」
「リアンセ」
 聞き慣れた声で我に返る。
 テスが真横にいた。気配を消したまま、彼はリアンセを見つめ、カルナデル、シンクルス、レーンシーを見つめた。そしてまた、目線をリアンセに定めた。
「彼は、どうにもできない」
 いつも遠くを見ている目。リアンセは上の空で頷く。
「ええ……」
「行こう」
 何も考えられなかった。ハルジェニクは叫び続けたが、テスについて歩くことで、その叫びを無視し、耐えるしかなかった。
 テスの言うとおりだ。
 どうにもできなかった。


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