最後の戦記

文字数 8,639文字

 子供たちの笑い声が城下から聞こえてくる。物音から、荷車の車輪を転がして遊んでいる様子が窺われた。人の暮らしは、何もかも、すぐに変わってしまったりはしない。臼を引くために連れ込まれた牛が、パン屋の裏口で鳴く声がした。裏口が開く音。他の建物の陰に隠れて見えないが、井戸水を汲む音が続いた。牛に水をやるのだ。
 パン屋の隣は薬屋で、その原料となる植物を籠に積んだ娘が、既に開店している店の表口を開く。身にまとうマントは真っ黒で、その色むらから、自らの手で染めたのだとわかる。フードを深くかぶり、少しでも直射日光を避けようとしている。マントの裾は露で濡れていた。
 こうしてシオネビュラ市街を見下ろしていられるのは、リレーネの強い希望が聞き入れられ、北神殿を取り囲む城壁の向こうを見下ろせる客室が与えられたからだった。十階に位置する客室からは、朝の光に染まる街のほか、城壁と、水堀が見えた。水堀には跳ね上げ式の木橋が備えられており、四人の神官兵が橋の両端で警備についていた。
 水堀に沿った通りの向こうで勇ましい喇叭が響き、北神殿への重要な客の到来を告げた。
 それを合図に木橋が下ろされた。巻き上げ機が操作され、鎖がたわみ、完全に下ろされたところで、橋の前に客人の一行が姿を見せた。西神殿を守護する三位神官将ニコシア・コールディー、三位神官将補ミオン・ジェイル、その他の神官たちと護衛が合わせて十人ほど。会議の席に招かれているのだ。
 二位神官将のレグロ・ヒュームは愉快な男性だし、二位神官将補メイファ・アルドロスは気さくな女性だった。リレーネはニコシアとジェイルについては知らないが、いずれにしろ、市民と、シオネビュラから航海に出る人々を守る重大な責任を負っている。木橋を渡るニコシアの表情は見えないが、身にまとう張りつめた空気は感じ取ることができた。
 ニコシアの姿を見ているうちに、リレーネは気付いてしまった。
 あともう少し愚かであれば、気付かずに済んだことだった。
 顔が青ざめ、窓から身を引く。窓際の小さなテーブルの上で組んでいた手が震え、その横で、開いた窓から吹き込む風に、読みかけの本のページがめくれた。
 リレーネは、シオネビュラの神官たちがシオネビュラ市民に対してするように、真剣に北方領での義務を果たそうなどと思っていない。
 気付かなければよかった。
 身柄の返還を拒否できる、と何度も言われた。それを言った人々には、リレーネが今気付いたことをとうにわかっていたのだ。
 北方領の人の役に立ちたいというのは、真の願い、心の底からの願いではない。自分の幸せを捨て、自分以外の他人が幸せを得ることで満足できるほど、まだ成熟していない。
 その証拠に、北方領の領民に対して具体的にできることを何一つ思い描いていないではないか。
 それでは、リージェスを振り切ってここまで来た理由は何なのだ?

 ※

 都市は涙を流し尽くし、破壊されていた。廃墟と瓦礫ばかりの区画を、ミスリルとアエリエが並んで歩いている。高地に位置するコブレンも、今日は温かい。ミスリルはマントを着ていなかった。高地の空気に肌を晒していたかった。ちょうど二人の進行方向に、ピンで空に留められたように太陽が位置している。ミスリルとアエリエは、顔面に直射日光を浴びていた。目を細め、下を向いたり、上を向いたりする。
「先にコブレンを出た皆は」アエリエが、小さいが聞き取りやすい声で話しかけてきた。「シオネビュラに着く頃でしょうね」
 何となく瓦礫が転がる砂の道の先を見ていたミスリルは、アエリエに目を動かした。彼女は眩しさゆえに目線を下げているが、表情は晴れやかだ。ミスリルは道の左右に並ぶ人気のない家々や店舗に目を走らせ、また前を見て「ああ」と頷いた。
「俺たちだけで何とかなったな」
「市民をシオネビュラまで連れて行くには、私たちだけ、というわけには行きませんよ」
 さすがに前総督も腰を上げないわけにいかないだろう。ミスリルは、コブレン市民がこの街を去るのを、最後の一人まで見届けたいと願っていた。
 自分たちのしたことが、広く世に知られることはないだろう。だがそれで構わない。異端宗派の暗殺組織などというのは、歴史の表舞台に立つべき存在ではない。歴史の裏方でいるつもりだ。讃えられることはなくても、そして、新しい時代が怖くても、アエリエがいて支えてくれる。それで幸せだった。
 道の先の辻から若い男の声が聞こえてきた。
「はい、大丈夫ですからねー。ゆっくり歩いて! そうそう、ゆっくり。目は開けないで」近付いてくる。「眩しいですからねー。いきなり目を開けたら目がびっくりしちゃいますからねー」
 暗黒の地下水路に閉じ込められていた市民の救出が進められていた。コブレン自警団の戦闘員を導き手に、三十人ばかりの目を閉じた一団が、辻を通過して南北の通りを過ぎていった。その後で、東西の通りを進むミスリルとアエリエが、辻を通過する。
 アエリエが、投降した〈タターリス〉の構成員から没収した地図を開く。捕囚を幽閉した箇所が黒い丸印で示され、昨日までに解放が済んだ箇所にはバツ印が打ってある。
 地図を頼りに〈タターリス〉の敷地の西に入り込む。激戦の端緒となった城門はすっかり開放されており、門をくぐって奥に進み、やがて左手側に見えてくる小屋へと二人は入っていく。
 小屋の奥の隅には鉄板の蓋があった。
 それを外すと鉄格子の蓋が現れる。
 ミスリルは腰を屈め、鉄格子にかかる錠を針金で外し、取り除いた。その先は土の階段で、腰に下げていた天籃石のカンテラを手に持つと、それを胸の前に下げて階段を下りていった。
 囁きかわす声が聞こえていたが、素掘りの土の通路を進み、角を曲がると、足音に気付いた人々が一斉に沈黙した。
 角を曲がった先には、またも頑丈な鉄格子が待ち受けていた。
 鉄格子の向こうには、土にまみれた手と顔と衣服の民間人が幽閉されていた。女もいれば男もいる。子供も大人も、老人もいる。みな、ミスリルが持つ光から顔を背け、目を閉ざした。
 カンテラに藍色の覆いをかぶせ、光を弱めた。
 やがて何人かが顔を上げ、訝しげにミスリルたちを見た。
 その疲れ果てた幾つもの目に、ミスリルは宣言する。
「コブレン自警団です。あなた方を解放します」

 ※

 都市コブレンに閉じこめられていた人々は、その後、自警団の指導のもと、シオネビュラへの先遣隊を組織した。彼らは徒歩の旅の途中で陸軍の一個歩兵連隊と合流し、多くの市民が物資の遮断されたコブレンに取り残されている状況を訴えた。
 救世軍部隊が逃げ出したあとのコブレンへと、シグレイ・ダーシェルナキ前総督の一個歩兵軍団が差し向けられたのは間もなくのことで、その助けによって市民たちは航海に加わることができた。
 また、救世軍と共に街を占拠した〈タターリス〉によって捕らわれた人々の中には、著しく健康を害した者や四肢の自由を失った者が少なくなかった。彼らはコブレンからの旅立ちに直ちに加わることができず、後回しにされる結果となった。
 その人々に最後まで寄り添ったのが、シンクルス・ライトアロー、後の文明・科学復元研究所の初代所長である。彼は妻レーンシー・ライトアロー及び義弟レーニール・アーチャー、親友であり元陸軍人のアセル・ロアングとその妻マチルダらと共に、滅びゆく宇宙からの脱出を目指して地球文明と技術の復活に尽力し、多くの人々を救った。
 シンクルスと共にコブレンで戦ったリアンセ・ロックハート。旧姓リアンセ・ホーリーバーチ。彼女は航海によって新大陸に広がる太陽の王国にたどりつくや、上官の慰留を振り切って陸軍を退役。新天地で漁業と操船術を広めて失業率の改善を図る夫カルナデルの実家の事業に協力し、経済活動の回復に貢献した。彼女は武器を封じたのだ。そして、二度と使うことはなかった。
 そして、最後の一人までコブレン市民を守り抜いたコブレン自警団団長ミスリル・フーケ。航海とその後の新しい社会を作る動乱の時代の中で、彼は市民たちを守る民兵団の設立についぞ成功する。彼は五十五歳で引退し、団長の座をマジェスティア・ヘスに譲った後は、生涯の友であるマリステス・オーサーと共に、正しい歴史の発掘及び普及に残りの人生を捧げる。そして、その名は歴代で最も偉大な指導者として、民兵団の団旗に縫いつけられた。
 副団長アエリエ・フーケ。彼女はミスリルの半身として陰日向(かげひなた)で支える一方、人々の心を支える数々の歌を生み出した。魂を癒すそれらの歌は、美しく単純な旋律で、誰でも歌える歌だった。それは人々の口を介して広まり、今でも歌い継がれている。

 ※

 戦いが終わったその後の全てが順調に進んだわけではない。とりわけ航海は過酷であった。黎明が進むにつれて増加する化生と、比例して分断されていく陸上の輸送路。造船の術は絶たれ、破損した船の修復も困難となった。また想定を遙かに上回る規模の航海希望者が押し寄せたため、食料と水の不足、そして疫病の蔓延は、予測されていたにも関わらず、一部の船団に、目を覆う惨状をもたらした。それらの事態に嵐や集団遭難といった事態が重なり、最終的に、航海に出たうちの、十分の一にも及ぶ人命が失われたと言われる。
 航海の指導者シグレイの長子、女傑シルヴェリア・ダーシェルナキ。彼女は優れた資質と弁舌の才によって、ともすれば荒れがちな兵士たちの心を鼓舞し、航海の途にある人々を守るという責務を果たさせた。彼女は兵士たちの希望であり、規律のとれた兵士たちの姿はすべての人の希望だった。彼女は弱冠二十五才にして父の後を継ぎ、太陽の王国の王となる。
 彼女がかつて束ねていた一個歩兵師団の中から、多くの優秀な将兵が彼女の近衛連隊に加わった。女王親衛連隊隊長フェン・アルドロスをはじめ、やがて英雄と呼ばれることになる多くの将兵がその中に含まれていたが、フクシャで戦死した一人の将校以上に有名になった者はいない。
 夜が空を覆う太陽の王国にたどり着いたとき、シルヴェリアの率いる兵士たちは、天球儀の輝きよりも強い閃光を放つ白い星を見た。誰かがそれを戦士の星と呼んだ。黒曜石の星と。その星は闇を切り裂き、戦士の魂を守護し導く。たとえ、その星が地上で人の形をしていたときに、彼自身がその手で殺した者であっても。
 マグダリス・ヨリス。
 彼は神になったのだ。
 その伝説は、とりもなおさず言語生命体が神という概念をその手に収めたことを意味している。
 ヨリスの部下だった経験がある者の一人に、リージェス・メリルクロウがいる。要人付き護衛武官の彼は、護衛対象であるリレーネ・リリクレストとの別れの後、その役職を辞して前線部隊に復帰しようと考えていた。前線士官として、多くの民間人を守りたいと考えていたのだ。航海直前の時点の話である。
 そして、この時点では、リレーネもまた深い苦しみの中にいた。
 北方領の領民を守る方法を、何も考えつけずにいたのだ。

 ※

「しつこいぞ!」
 ついぞリージェスは腹を立て、ヴァンに対して声を荒らげた。ヴァンが緊張して呼吸を止める。リージェスは、それが理性を欠いた行動であることを、やる前から知っていた。
 だが、やってしまった。
 眼前に立つヴァンの向こう、一雨去った後のシオネビュラの通りの先に目を向けた。濡れた石畳からは湿気が立ち上り、緑の木々を飾る雨粒は、どれも光を閉じこめている。後味の悪い気分を堪えてリージェスは一言付け加えた。
「リレーネが自分で決めたことじゃないか」
「そうだね」ヴァンは諦めていないようだ。「北方領でするべきことがあるはずだって」
「そうだ。アイオラにそう言ってるのを聞いただろう」
「聞いたよ、だから言ってるんじゃないか」
 リージェスは目を街路の先から、手前のヴァンへと戻した。とてもヴァンとは思えない必死の眼差しで彼は訴えた。
「あのときのあの子の顔、とても本心を言ってるようには見えなかったんだ。リージェス、あの子は今北方領に帰ったって……何て言うか……あの子自身が幸せじゃないんだ。それで人を幸せにできると思う?」
「でも、それが自分で決めたことなんだろう」
「決めたこととできることは違うだろ? それでもし何にもならなかったら? 決めたことができなかったら、誰も幸せになれないんだ。そんなの何にもならないよ。不幸じゃん。そうだろ?」
「そんなことを言ったって……」ヴァンに比べて、自分の声は弱くなる一方だとリージェスは気付いた。「リレーネは今日の三時にシオネビュラを出ていくんだ。もう……」
 折りよく鐘の音が響いた。高く誇らしげな音色が、一回、二回、三回。
 リージェスは言葉をなくした。
 今から、リレーネが極秘にシオネビュラを去る。
 三回目の響きが空を覆い、消えていく。その直後、リージェスはヴァンにくるりと背を向けた。追い縋ろうとする気配を感じた。
「リージェス、待って」
「俺は不幸なんかじゃない」リージェスは振り返らなかった。「リレーネだって。不幸なんかじゃないさ」
 太陽を右から浴びながら、通りを歩きだした。
 家々が並んでいる。
 共同の洗濯場で、女たちが衣服を洗っている。
 人の気配が感じられない。
 姿も見えるし、声も物音も聞こえるのに、まるで生彩を欠いている。
 街の様子さえ、まるで見えないかのようだ。
 注意力散漫にもほどがある。リージェスは心の中で自分を嘲った。要人付き護衛という繊細な注意力と集中力を要する武官でありながら、何というざまだろう。
 辻に出た。
 辻の真ん中に立つ。自分の影が左に延びていた。そちらに行けば港だった。
 反対に行けば北神殿に通じる道に出る。
 そして、正面では、一人の男が馬具をつけたままの馬に水を飲ませていた。どこかの裕福な家庭の子弟といった風情だ。
 リージェスはその若い男をじっと見つめた。十代半ばといったところだろう。身なりはよく、靴は薄く豪奢で、早く走れるものではない。何より走って髪が乱れることを何より嫌いそうな、軟弱で神経質そうな横顔だ。
 ポケットに手を突っ込み、革の財布を取り出して中に指を突っ込み、かき回した。出てきた硬貨を確かめる。ニーデル貨十枚とデニーデル貨二枚の中に、クレスニー貨が一枚残っていた。リージェスは馬が若く、健康であることをよく見定めると、クレスニー貨だけを握りしめて他の硬貨をしまい、意を決して若者へと駆け寄った。
 いきなり肩を叩かれて、若者は飛び上がらんばかりに驚いた。
「馬を売ってくれ!」
 強引に若者の手を握り、中にクレスニー貨を押し込んだ。若者がぽかんと立ち尽くし、手の中のクレスニー貨に目を落として見つめ、「あっ、あっ」と意味のない声を動揺して漏らし、もう一度顔を上げたときにはリージェスは馬上の人となっていた。
 手綱を強く引く。
 馬がいななき、無力な若者は後ずさり、バランスを崩し、尻餅をつき、情けない悲鳴をあげた。リージェスは馬の首を返し、横腹を強く蹴った。駈けていく。
 北神殿へ。
 一方のリレーネは既に北神殿を出ていた。人目を欺くため、敢えて古く汚れた馬車で、北神殿の通用門を出たのだ。馬車の窓には覆いがかけられ、乗り込む者はリレーネの他になく、ただ御者が一人いるだけだった。その御者は若いシオネビュラの神官だが、下働きに扮している。裕福ではない、かといって治安が乱れきってもいない道を通ってシオネビュラの北門に向かい、そこで外交団と合流する。そのことを知っているのは一部の人間だけだ。
 リレーネは膝に紺色の膝掛けを広げ、その上に拳大の天籃石の裸石を置き、顔に光を浴びていた。目は開いているが、眠っているようだった。眠っているのと同じくらい、何も考えておらず、また何も感じぬよう努力さえしていた。今何かを感じようとしたら、あまりに辛くなりすぎる。
 座席から伝わる単調な車輪のリズムを感じ続けた。
 大きな振動が起きた。
 意識が張りつめ、背を伸ばす。目を見開いた。息を詰めていると、悪態をつきながら、神官が御者台から降りる気配があった。その足音が馬車の後ろに回り、また悪態をつく。何度か振動があったが、結局また神官は悪態をつき、馬車の側面に来て戸を叩いた。
「どうぞ」
 戸が開き、リレーネの目線より低い位置に神官の顔が現れた。リレーネはその顔に語りかけた。
「何か、問題があるようですね」
 神官は眉を顰めた。
「ええ。ゴミを踏んで、車輪が外れてしまいまして」
「直りますの?」
「工具が必要です。ここでお待ちください。借りて参ります」
「北門まで歩くことはできませんの?」
「まだ一区画離れておりますので」
 リレーネは正面の窓のカーテンを開けた。御者台と馬、街路、その奥に聳え立つ北門が見えた。北門で待つ外交団員たちには、馬車の異変が見えているかもしれない。
「わかりましたわ」
 リレーネが頷き、またカーテンを閉めると、神官は戸を閉めた。足音を立て、小走りで去る。
 その足音が聞こえなくなった直後のことだった。
 いきなり馬車の右手側の扉が開き、空気と共に何かの気配が中に飛び乗ってきた。
 顔を上げたリレーネは、いきなり誰かと目があった。その誰かの右腕が、まるで抱き竦めるかのように、リレーネの体の全面を通って左肩に回った。その人物の左腕は、背もたれとリレーネの首の後ろを通り、がさがさした感触の掌でリレーネの口を塞いだ。
「静かにしろ」
 知っている声が言った。
 乗り込んできた男は、狭い馬車の中で右足で立ち、左足を曲げて座席に膝をかけている。リレーネは抱きしめられて頭を侵入者の胸に押しつけられたまま、その鼓動を聞いていた。
「俺はかつて太陽の王国で――」口を塞ぐ手の力が緩んだ。「こんなふうに現れたのか?」
 リレーネは温かい腕の中で、ゆっくりと顔を上げた。
 緑色の目が待っていた。
 リレーネは微笑み、頷く。
「はい……リージェスさん」
 リージェスが素早くリレーネから離れた。
「行こう」
 まずリージェスが、次にリレーネが朝の光に飛び出した。しっかり街路を踏みしめて立つリレーネの手をリージェスが握った。
 リレーネが握り返す。
 辻の閉店した古道具屋の前に、馬を立たせていた。その馬のもとへ、手を繋いだリレーネとリージェスが駆けていく。
「何をしている!」
 後ろで神官が声を荒らげた。リージェスは振り返らずに(あぶみ)に足をかけ、馬に飛び乗る。
「さあ」
 太陽の光が目に刺さった。リレーネは笑いながら涙を流した。自分は自分で思うほど成熟してもいなければ、賢くもなかった。そのことを思った。
 鐙から足を外したリージェスに代わり、今度はリレーネが鐙に足を置く。馬上から腕を引かれ、飛び上がる勢いと引かれる勢いで、ふわりと体が浮き、少しの衝撃の後には馬上で横抱きにされていた。
 リージェスの首に両腕を回した。リレーネの背中に当たるリージェスの右腕の筋肉が盛り上がる。リージェスは手綱を強く引いた。
 太陽のもとへ駆けていく。全身を、浄化の光に貫かれながら、まっすぐな大通りにでて、その小高い丘の上から石造りの都市と海を見下ろす。
 馬から馬車を外し、裸馬に飛び乗った神官が、二人の後を追っていた。
「待て!」その神官の背中に、別の誰かが声をかけた。「追うな! 追うな!」
 神官は振り向き、その人物を見た。北門から馬車の異変が見えていたのだろう。騎馬のイオルク・ハサだった。
「そのまま行かせるんだ!」
 リレーネとリージェスの姿は、その間にも都市へと消えていく。
 人々の中へ。
 未来の中へ。
 海へと。

 ※

 リージェス・メリルクロウ。彼は軍務に背きリレーネ・リリクレストを略取誘拐した(かど)で軍籍を剥奪された。重罪であるものの、同意の上であるとするリレーネの強い主張と軍法の混乱により、最終的に西方領のイオルク・ハサもろとも無罪となる。彼は軍人ではなく一般の国民として航海への参加を許され、その後リレーネの私設秘書となった。
 リレーネ・リリクレスト。北方領総督の末子であり、人質として南西領に入るも、北方領への人質返還を正式に拒否して航海に加わった。その決断に父である北方領総督は激怒するも、太陽の王国に移住した〈航海組〉と呼ばれる人々の大使となり、北方領の人々との橋渡しを行うリレーネの姿を見、三年後に和解した。
 昼と夜がめまぐるしく移り変わるその時代。地球人の遺物を用いて闇を渡り、夜の王国と太陽の王国にそれぞれの情報をもたらす彼女の姿は、多くの人々に希望をもたらした。
 彼女は私設秘書兼専属護衛、そして夫でもあるリージェスとの間に二子を設けた。夫妻は初孫が誕生した今でも世界中を飛び回り、人々を支援し、励まし続けている。

 三十年以上に及ぶ調査と聞き取りを経て執筆された『最後の戦記』の著者、ミズルカ・ディンはそう記述する。





〈完〉





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