暗殺者の来歴

文字数 2,671文字

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 アエリエはトリエスタの高級住宅街で育った。十歳までそこにいた。父は豪商であったが事業に失敗し、一家離散とあいなった。アエリエはコブレンに住む大伯父の邸宅に預けられた。その家の男たちから向けられる視線は耐えがたく、ある日ついぞ血迷った従兄弟によって寝所をこじ開けられるに至り、ナイトガウン姿で逃げ出した。
 彼女はたった一人で浮浪児の暮らしをした。大伯父たちは十一万の市民の中から彼女を探し出すような手間はかけなかった。都市の暗がりから彼女を見つけだしたのはフーケ師だった。その時のことは覚えていない。ただ、衰弱し、熱にうなされ、生と死の境をさまよいながら、誰かが自分の手を握り、呼びかけるのを感じていた。
 聞こえるか?
 もう大丈夫だからな。
 しっかりしろよ。
 少年の声だった。意識が戻ったとき最初に、声の主、ずっと自分に寄り添っていた少年の姿を確認した。それがミスリルだった。
 そして、アエリエは暗殺者の子となった。敬虔で禁欲的な生活をする彼らとは、話も思想も価値観もあわず、当然、訓練にも全くついていけなかった。
 情けないのと心細いので、毎日泣いて暮らした。
 拾われて数ヶ月がすぎたある日、アエリエは武術指導者の一人であるイスタル師の部屋の掃除を任された。イスタル師には五つの大切な花瓶のコレクションがあった。アエリエはその内の一つを割ってしまい、体罰を受けるのではないかと思い怖くて泣いてしまった。
 すると、八歳だったミスリルが「泣くな!」と声をあげた。「そんなの、おれがどうにかしてやる!」
 そして、残る四つの花瓶を叩き壊してしまったのだ。
 アエリエも、イスタル師から怒られることは怒られたが、ミスリルほどひどく怒られはしなかった。一部始終を知ったフーケ師は大声で笑い転げ(イスタル師とは折り合いが悪かったのだ)、ミスリルの頭を撫でて特別に駄賃をやった。その後、ミスリルとどのような会話をしたかは忘れたが、彼が最後に言ったことは覚えている。
「守ってやるのは当たり前だろ? おれはおまえのお兄ちゃんだからな!」
 以来、アエリエは泣くのをやめた。強くなろうと決めたのだ。この子を守れるくらいに。

 ※

 アエリエは、情報部からの協力者たちが使う部屋に向かった。彼らは見舞い客のための宿泊棟の一室を与えられ、そこでテスと寝食を共にしている。室内は三部屋に分かれており、うち二つは寝室。リアンセとカルナデル、そして世話役のテスは、二つの寝室の間にある広い部屋で一緒に過ごしていた。
「お邪魔ではありませんでしたか?」
 戸を叩くとテスが開けた。テスと目配せし、室内のリアンセとカルナデルに尋ねた。
「ええ」リアンセが頷いた。「大した話じゃなかったわ」
「随分若いのもいるんだなって話をしてたんだ」中に入って戸を閉めたアエリエに、カルナデルが話題を振る。「まだ十六、七くらいの女の子がいただろう」
「十三歳の女の子だって、六歳の男の子だっている」
 テスがゆっくり答えた。
 未成年者が作戦に加わるのが気がかりなのだろうとアエリエは理解した。
 戦闘に加わる中で最も若いのは、十五歳のラザイだ。それより若い見習いたちも、補佐するべく裏方で働くことになる。
「総力戦です」と、今度はアエリエ。「あなた方なら、この言葉の重みをわかっていただけると思います」
「わかるわ」リアンセが固い表情で応じた。「指揮官の決定が覆らないこともね。ミスリルが決めたことでしょう?」
「はい。座って、ゆっくりお話ししましょう」アエリエは微笑みかけながら、空いている椅子を引いて座った。「二日後の作戦について、詰めを行いたいと思いますので」
 残る三人もテーブルを囲んだ。
 テスは、喋るのをアエリエに任せることにした。
 オーサー師に繰り返される通り、ミスリルは、そしてアエリも、テスとはもはや違う。背負っている責任が違う。
 ミスリルが団長となってすぐの頃、彼とは対等な友でい続けてほしい、とアエリエに頼まれていた。ミスリルにはそういう存在が必要だから、と。
 テスとミスリルはこれまでずっと一緒にいた。自我の形成期、距離が近すぎて相手が別の人間だということさえまともに理解できず、ひどく衝突しあったことも一度や二度ではない。
 そんな子供の頃のことだ。
 ある日酒に酔ったフーケ師が、ミスリルに、赤子だった彼を拾ってきた日のことを話して聞かせていた。おくるみに丁寧に包まれ、寒くないように毛布を掛けられ、毛布の中に温石を入れた状態で、籠の中で眠っていたのだという。寒くないように。そして、ミスリルの名を記した厚紙が一枚、温石の下に隠れていた。
 テスはオーサー師に、自分が拾われたときの様子をしつこく尋ねた。他の年長者に聞いてもはぐらかされるばかりだった。年は、九つか十のときだったと思う。ある日オーサー師から呼び出され、聞かされた話はこうだ。
 絹の布一枚に包まれて、赤子のテスは、鏡の広場の片隅にあるごみ捨て場に打ち捨てられていた。泣き声はなく、たまたま見つけたオーサー師は、もう死んでいるものとさえ思った。だが、触れると反応し、冷えきっているものの、微かに命の脈動があった。頬には赤く、悪魔封じの印が記されていた。古くからの習わしでは、子供の行く末を天に委ねて鏡の広場に置き去りにする際、その子の名を記した紙を残していくはずだった。テスを包んでいた布に入っていた紙には、憎悪を感じさせる筆跡で、『逆子(さかご)』と書いてあるだけだった。
 マリステスという名は、まさか『逆子』という名で一生を送らせるわけにはいかないという配慮から、オーサー師がつけたものだった。
 話を聞いたとき、涙が少し出たが、それだけだった。どんなに親しくても、ミスリルと自分は絶対に違う。その事実に折り合いをつけるまで、話を引きずっている素振りを見せようとはしなかった。自分を信用して話してくれたオーサー師を失望させたくなかったのだ。
 コブレン自警団には、様々な経緯で、いろいろな人が集まっている。捨て子だった者もいるし、アエリエのように事情があってここに行きついた者もいる。
 テーブルを囲みながら、ふと不思議な気分になった。
 ミスリルも、アエリエも、この自分も、それぞれ自分ではどうしようもない事情によってここにいる。
 時代がそうしたかのように思えるのだ。ここに集えと。時代に立ち向かえるように。
 ならば、するべきことをするのだ。

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