帰還の目処

文字数 5,390文字

 ※

 シンクルスは水盆に川の水を汲み、覗きこんだ。水鏡に天籃石のランプを近付けて、自分の髪の色を確かめた。黒に染まっているはずだが、よくわからなかった。
 だがアセルやミスリルが何も言わないということは、ちゃんと染まっているはずだ。
「顔立ちが目立つんだよ、お前」ミスリルはどこか不機嫌だ。「髪の色を変えてもさ」
 シンクルスが曖昧な笑みを浮かべると、ミスリルは何も言わずに歩いて遠ざかっていった。シンクルスは袖のカフスボタンを外した。ボタンには矢の模様がついていた。ライトアロー家の家紋ではない。自分が持っていたそうした物は全て投獄された際に没収され、何一つ取り戻せぬまま南西領に亡命した。まして競売にかけられてしまったザナリスの邸宅に戻り、物を持ち出すなど不可能だった。
 このカフスボタンは古道具屋で購入したものだ。過去を、家を、家族との絆を、自分の出自を思い出させる物が、何でもいいから欲しかったのだ。その時は。
 今は矢のモチーフを目にしても、苦い思いがこみ上げるばかりだ。
 その土地で芽生えた風習も文化も、野蛮な神官たちが潰してしまう、というミスリルの言葉が胸に突き刺さっていた。
 言語生命体たちは、同じく言語生命体である神官たちの抑圧のもと、被造物であることに甘え続けてきた。そうでなければ生きてこられなかったからだ。
 地球人から独立を勝ち取ったはいい。もう二度と地球人たちから差別を受けることはないのだから。だが、その後の言語生命体たちは、なおも創造主たる地球人を精神的支柱とするという矛盾を抱えて生きていかざるを得なかった。
 これは、地球人が滅べと言ったら滅ばなくてはいけないということだ。
 地球人は〈黎明〉が進んでも、言語生命体に手を差し伸べはしない。
 間接的に「滅べ」と言っているのだ。
 もしも地球人の望むままに言語生命体が滅ばなければならないのなら、その責任はライトアロー家の名を継ぐ自分にもある。神官として歴史を歪め、神話を捏造し、新しい文化を弾圧し、最も陰険な形で言語生命体の独立を阻むことによって地位と富と名誉を保ってきた。それがライトアロー家だからだ。その地位と富と名誉によって、必要な物は全て与えられ、贅沢に育てられた。それが自分だからだ。
 人々を救わなくてはいけない。必ずだ。
 その義務がある。
「クルス」
 ミスリルが少し離れた隙にアセルが囁いた。
「あのカルナデルというのはどういう男なんだ?」
 シンクルスはカフスボタンを眺めるのをやめて、少し首を傾げて考えた。
「実は俺にもよくわからぬ……」
〈灰の砂丘〉神殿の正位神官将に就任後、シンクルスはカルナデルを私的にタルジェン島に招いたことがある。親交を深めるよい機会だった。一回目は「誰が行くかそんな何にもねぇ所」と断られ、二度目で来てくれたものの静かでのどかな島の生活は退屈極まるものだったらしく、「本当になんにもねぇな」と言って翌日には帰ってしまったのだ。
 なので、シンクルスはカルナデルという男の奥深いところを未だ知りそびれていた。
 アセルが顔を寄せてきた。
「クルス。タルジェン島に戻ったらどうやって緑の島に渡るか考えろ」
 シンクルスは一度アセルから顔を離し、すぐにまた顔を近付けて、聞こえるか聞こえないかという程度の声で答えた。
「ああ、そうだな――」
「『そうだな』じゃないだろう」アセルの声は苛立ち、目は殺気立っていた。「実力行使だ。ヨリスタルジェニカの神官に協力させろ」
「中佐殿、しかし……」
「言い訳をするな。既に新しい正位神官将がいるはずだ、というのは言い訳だ。いいか。力で奪われたものは力で取り戻せ。君の手で取り戻すんだ」
 アセルは鋭く四方を警戒した。
 運河にかかる橋の様子を見てきたミスリルが、ちょうど戻ってきたところだった。歩み寄って来て、シンクルスに言った。
「お前、タルジェン島に行くって言ってたな」
「ああ……」
「市内の仲間に確認してみたが、やっぱこの先の村で水上輸送業者を買収するのがいい。それだって確実な手段じゃないけどな」
「あまり時間をかけたくないのだ。どうにかしてコブレンから運河を利用できぬだろうか」
「無理だな」ミスリルはにべもない。「あんた、どういう事情でか知らないけど、面が割れて追われてんだろ。市内のインフラは新総督派の派閥が押さえてるよ。いきなり矢が飛んでくるのも通りすがりに刺されるのも嫌だろ?」
 そう言われては納得するしかない。
 運河にかかる橋を渡り、アエリエ、リアンセ、そしてカルナデルの三人が、隔離病院の塀に向かって歩いてくるのが見えた。ミスリルがまたシンクルスとアセルから離れた。橋に向かい、アエリエと何事か話す。リアンセとカルナデルは、その横を通ってシンクルスとアセルに近付いてきた。
「面白いことがわかったわ」リアンセが口火を切る。「シンクルス。南東領ソレスタス神官団三位神官将がトレブレン地方に来ているわ。ハルジェニク・アーチャーよ」
 シンクルスは呼吸を止めて、瞳孔を開いた。
 ハルジェニク。
 忌まわしい名だった。
 婚約者を暴行し、殺害した男だった。投獄されている間に……。
「連合軍に加わっているのだな」
 堪えても、声が上擦ってしまう。
「ええ。トレブレニカという農村に宿営していたの。それがおかしなことになったようね」
「どのような」
「彼、親族のイノイラ・アーチャーという女性を殺したわ」
 シンクルスは眉を顰め、嫌悪感を露わにした。いつも穏やかなシンクルスがそのような顔をするのを、カルナデルは初めて見た。
「結局、あの者は女性にしか手を出せぬのか」
 ライトアロー家はアーチャー家によって根絶やしにされたことになっている。その程度のことはカルナデルも知っている。直系の長男は獄死したと。
 獄中でシンクルスがどれほど惨い仕打ちを受けたかなど、カルナデルは知りたくもなかった。だから、知らぬふりをして友人付き合いを続けてきた。
 だがこうなってしまっては、知らぬままでは済まされない。
 関係性は変わった。黎明の時代と共に。
「結局って、どういうことだよ? 前科があるのか? そのアーチャー家の人間はどういう奴なんだ?」
「そんなこと――」
 きつく睨みつけるリアンセを、シンクルスが制した。
「よいのだ、リアンセ。彼は部外者ではない。知らずに深入りすればむしろ危険だ」
 リアンセは目を伏せる。
「そうね」
「カルナデル。その男、ハルジェニク・アーチャーは、俺の婚約者を暴行し殺害した」言葉を切る。だが、何も言わせずに続けた。「のみならず、リアンセの妹御を廃人の状態へ追いこんだ。俺の婚約者は……リアンセの姉だ」
「あんた方二人にとっちゃ、憎んでも憎みきれない相手ってわけだな」
 カルナデルは横目でアセルを見た。
 その男と係わり合いになった場合、アセルはシンクルスの暴走を止められるだろう。
 今度はリアンセを横目で見る。
 オレにこの女を止められるか?
 だがそうしなければならない。もし二人が自分の意志で行動を制御できなくなった場合、そのように働くことを期待して話を聞かされたはずだ。
 同時にカルナデルは、リアンセの男嫌いの理由を理解した。そして、彼女は男嫌いなのではないと。男が恐いのだ。
「……それにしても何故、あの者は親族を手にかけたのであろうか」
「殺されたほうに同情できる事情じゃないわ。救世軍幹部から言語活性剤を入手して、ハルジェニクにのませたそうね。それで激昂して、てこと」
「言語活性剤?」
「言語生命体の言語子を操作して、バケモノにしてしまう薬よ。リェズでの出来事については話したでしょ? ちゃんと酔いが醒めた後に」
「酔った件はもうよいではないか」
「ハルジェニクの件だけど、その後の消息がわからないの」リアンセは無視して続けた。「事件は北トレブレンで起きたんだけど、ソレスタス神官団の二位神官将がどこかに連れて行って、連合軍の指揮官の問い合わせにも無回答ですって。ぶち殺してやれたら嬉しいけど、彼のことは気にしても仕方がないと思うの。タルジェン島行きを最優先しましょう」
「タルジェン島」
 シンクルスは味わうように、その島の名を口にした。二年しか住んでいなかったが、その地を第二の故郷のように思っていた。ヨリスタルジェニカ神官団。神官団としては弱小だが、部下たちはみな誇りを持ち、職務に励んでいた。彼らは陸戦よりも海戦を好んだ。演習よりも事務を好んだ。戦争より平和が好きだからだ。誰だって同じはずだ。海上演習より戻れば、気さくな漁師たちが魚の分け前を差し出した。農民たちが野菜や果物の分け前を差し出した。のどかな、静かな島……。
「ああ。あの何にもねぇとこな」
 カルナデルの(いささ)かうんざりした声に、シンクルスはむきになる。
「何もないから良いのではないか。事件もなければ事故もない。見渡す限りの海原で、時折トンビがピーヒョロロと……」
「年寄りかお前は」
「黙れ貴様ら。ホーリーバーチ中尉、その情報はどこで入手した?」
 リアンセはアセルと向き合った。
「コブレン駐在の、西方領の外交武官イオルク・ハサ大尉からです。対象の元婚約者の従者であると身分を偽り接触しました。本人からは大した情報は得られませんでしたが、北トレブレンに駐在している西方領の武官からの書状を入手いたしました。その書状から得た情報です」
「書状はどうした」
「市内の掲示板に貼り出して参りました」
 その報告に、アセルは少しだけ目を細めた。
「ほう」
「イオルク・ハサは失脚するでしょう。コブレンの救世軍、外交武官、地元の有力者との提携は一時支障を来します。それをどう生かせるかは自警団員たち次第でしょう」
「リアンセらしいやり方であるな」
 シンクルスは半ば呆れながらも、幼なじみに微笑み、目を伏せた。
「そなたが神官であれば、さぞ心強かったことであろう」
「私が神官だったらどうだというの」
 リアンセは微笑み返そうとしなかった。
「あなたの部下になって、あなたに敬語で接して、『はい正位神官将様、はい正位神官将様』って? そんなの嫌。絶対に嫌」
 きっぱりとかぶりを振り、リアンセもまた目を伏せる。
「それに私、陰険なやり口が得意なのは自覚あるけど、優しくては生きてこられなかったわ。わかるでしょ?」
 ああ、とシンクルスは応じた。
「すまぬ」
「ハサ大尉だけど、あの人さほど自分の失敗に苦しまないんじゃないかしら。一回会っただけの印象だけど、そんな気がするわ」
「いいのかよ? それで」
「必ずしも悪くはないんじゃない? 別に良いとも思わないけど」
「わかった」無駄話とならぬよう、アセルが話を切り上げた。「いずれ騒動となるのなら、長居は無用だ。半日の行程差をあけてここを発とう。万一の際、まとめて捕獲されるのは避けたい。ホーリーバーチ中尉、私はシンクルスを連れて先に発つ」
「わかりました、中佐」
 アセルは返事を聞くと、隔離病院の塀を振り向いた。カンテラを手にしたアエリエとミスリルが、じっとアセルたち四人を見ていた。二人は二人で何か話していたが、アセルたちのいる運河の岸へと歩いてきた。
「話は終わりか?」
「ああ。私とクルスは今すぐここを発つ。世話になったな」
 ミスリルは頷いた。
「せいぜい気をつけて行きな。俺も団旗に名前を縫いつけられるまでは死なないさ」
 シンクルスが首を傾げると、ミスリルは気恥ずかしげに目を逸らした。
「聞いただろ、お前、名前を縫いつけられる基準。コブレン市民や自警団にとって特別によい貢献をしたと認められた団長だけ、フルネームが縫われるのさ」
 アエリエも、覚悟の光を目に湛えて別れの言葉を口にする。
「時期が来れば、いずれあなた方に協力させていただきたく存じます。それまでご無事で」
 シンクルスは別れが惜しかった。彼らの信仰に対し異端宗派と言い放ったことが、急に、そして今更、申し訳なく思われた。
 シンクルスとアセルが別れの言葉を返す。リアンセは、運河沿いの道を遠ざかっていく二人の背中を見送る内に、またも泣きたくなってきた。胸に溢れるシンクルスへの思慕を、意志の力で押さえつける。
 ようやく見つけたのだ。
 だがもう別れとなった。
 無事合流できるかはわからない。
 それでも表情に、何か滲み出るものがあったのだろう。顔に注がれるカルナデルの視線を感じ、リアンセは不機嫌になってカルナデルを見返した。
「何?」
 カルナデルは肩を竦める。
 こいつ、シンクルスのことが好きなんだ、と、新たに気がついた。彼女に男性恐怖症の気があるとしても、シンクルスへの態度は優しく、親しみに満ちていた。
「悲しそうな顔してんじゃねえよ。またすぐ合流できるだろうがよ」
「あなたはお気楽ね」
「いいじゃねえか。一度きりの人生だぜ? 笑えよ」
 リアンセの瞳の表面から苛立ちが消え、悲しみが露わになった。そして次に、彼女は勝ち気な光でその悲しみを打ち消した。
 カルナデルの言葉には、ついぞ答えなかった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み