生は続く

文字数 6,416文字


 1.

 リージェスは全く安らかに目覚めた。このような目覚めを迎えるのは、果たして何年ぶりかと思えるほどだった。疲労は癒え、心は満たされていた。白いカーテン越しの光は、床を共にするリレーネの寝顔を白く染めていた。リレーネそのものが淡く光っているようにさえ見えた。頬に差す朱色は、興奮の余韻かもしれない。彼女は下着姿のままだった。
 リージェスは改めて、自分のしたことを見つめた。
 背任行為にもほどがある。
 ベッドから身を起こし、リージェスはシャツを羽織った。起き上がり、室内履きに足をつっこみ、窓辺に歩み寄り、カーテンを開け放つ。
 光が流れ込んできた。
 霧が出ていた。立木や塀のぼんやりした影がうっすらと黒く滲んで見え、窓を開けると、湿ったそよ風と共に土と草の香りが流れ込んできた。後ろでリレーネが身じろぎし、小さな声で呻いた。
 ここシオネビュラの街には、フクシャの守備に当たっていたシルヴェリア師団を含む第一軍、そして同盟関係にあるシオネビュラ神官団が後退してきていた。両軍とも疲弊しており、その役目を第五軍と交代したのだ。
 そしてリージェスとリレーネは、ユヴェンサとヨリスの訃報に触れた。結局あの二人には、シオネビュラで短い再会を果たしたのが最後になったのだ。リレーネはひどくショックを受けて、泣きじゃくり、落ち込んだ。よほどの思い入れがなければここまでのショックは受けまいという落ち込みようだった。すると、彼女は本当に、あの二人をずっと以前から知っていたのかもしれない。
 リレーネが目を開けた。オリーブ色の瞳が外の光を浴びて、宝石の輝きを放つ。初めは眠気で曇っていた目も、瞬くごとに澄んでいく。起き上がり、ベッドの上に座り込んだ。布団を体に巻き付ける。
「リージェスさん」
 眠そうではあるものの、その呼び声に大人びた気配を感じ取り、リージェスはいささか驚いた。僅か一眠りの間に、もう少女であることをやめたのだろうか。
 リージェスは、リレーネの姿を隠すために、窓を閉め、カーテンを引いた。部屋に優しい薄暗さが戻った。
「大丈夫か? 気分はどうだ?」
 目はまだ少し、腫れぼったい。寝ている間にまた泣いたのかもしれない。リレーネは何かを言うべきか、言わないでおくべきかで迷う気配を見せていた。言うだろうとリージェスは思った。自分たちの間には、そういう関係がある。結局リレーネは、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「私がここに来る前のはなしです」
 頷き、先を促す。
「……ひどい戦いがありました。地球人が、私以外の全ての人を殺してしまった。どんなに強い人も、全て。だから私は月の中をさまようことになりました」
「太陽の王国で、か?」
「ええ」
 リージェスはベッドに歩み寄り、腰かけた。
「様々な死者たちと、月の中で出会いました。さまよって、さまよって……ふと気がついたら、私はトレブレニカにいたのです。あなた方が幽霊館と呼ぶ館に」
「どうしてだろうな」
「昼や夏と一緒に、私が砕けたんです」リレーネは布団を強く抱いた。「みなさんと一緒に行きたいと強く願った。その悲しみで砕けて、その欠片が、つまり私が、あなたに会いにここに来た」
「そのために、随分危険な目に遭ったな」
 リレーネは、リージェスに向かって瞬きしながら小首を傾げた。
「苦しいこともあっただろう。疲れたろうし……しかも、まだ続く。これからだ」
 リレーネは首を傾げたまま、目を細めて微笑んだ。
「構いません。もう、満足しましたわ」
「いいんだな?」
「はい。それより、リージェスさん。私たちが共にいられるのは、明日の一時までです」
 その時刻になったら、リレーネは西方領の外交団に身柄を引き渡される。
「だから今は……」
 港の方向から、鐘が聞こえてきた。
 二人は会話をやめて、鐘が鳴る回数を数えた。
 十八回。十八時だ。
 二人はしっかり視線を絡み合わせた。
 今は楽しむのだ。リージェスは告げた。
「行こう」

 ※

 シオネビュラを包む霧は、港へ向けて下るにつれ、深く濃くなっていく。
 霧の向こうで緑の色彩が揺れた。ひらひらと裾が翻るワンピースだ。その色彩に手足が加わり、共にいる、黒い衣服をまとうもう一人の人間もその輪郭を現した。二人はじゃれ合う子犬のように、軽やかに階段坂を下りていく。縁が円弧を描く煉瓦作りの階段は、下に向かって裾広がりになっており、下りきった先の右端には投網の工房、左端には釣り針の工房、通りを挟んだ正面には、緑の芝生が広がる海難者の慰霊公園が待っていた。
 リージェスが、ひらりと階段を三段まとめて飛び降りた。真似をしようとしたリレーネが、靴の踵を煉瓦の間に引っかけバランスを崩す。両腕を広げ、下にいるリージェスに向かって倒れこみそうになる。
 リージェスが、両腕を伸ばし、リレーネの両手を取った。支えを得たリレーネは、両足を揃えてぴょんと飛ぶ。着地の際に転びかけたのを、リージェスが腕を引いて立たせた。そのまま右腕をリレーネの腰に回す。
 リレーネが、爪先立ちになってリージェスの頬に口付けた。忍び合う笑い声を交わし、リージェスは左手の人差し指を唇に当てた。人々が眠りにつく時間だ。そして、手を取り合って目的地への近道となる慰霊公園に駆け込んでいく。
「ねえ、リージェスさん」
 霧は何故かしらかぐわしく、湿った風さえ新緑の気配を含み爽やかだった。
「なんだ?」
「六百人もの方々が、今回、お集まりになりますの?」
「まさか」リレーネの手を引いて前を走るリージェスが、笑いを含む声で答えた。「十二回にわけてやるんだ」
 慰霊公園の白い石碑の間を駆け、墓磨きの道具の間を駆けた。井戸の横を駆け、白い石柱に支えられた小さな鐘の横を駆けた。そうして芝生に覆われた地面を下っていき、木立を抜け、柵を飛び越え、道路そして横道を渡り、その横道の角の左手側の正面に立てば、そこが目的地だった。
 なかなか洒落た酒場だった。リージェスは緑色の厚い飾り窓がついた軽い戸を押し開けた。中で渦巻く笑い声と楽しげな話し声が、熱気を伴い溢れてきた。
 一階部分と半地下、中二階の三層に分かれた店内では、かつて王領護衛小隊の軍曹に殴られて鼻が曲がってしまった店主と、若い金髪の娘が忙しく立ち働いていた。二人ともにこにこしており、飲み騒ぐ者たちは、なおのこと楽しげだった。葬式のような暗い雰囲気や、しんみりした空気ではなかった。
「よう、リージェス!」
 中二階の手摺りの向こうの席から、アウィンが声をかけてきた。最後に会ったときは弓射中隊の小隊長だった彼も、今は中隊長だ。
「嬢ちゃんも。入って来いよ」
 リレーネは店主と店員の娘に微笑みかけ、リージェスに続いて中に入った。戸を閉めると、体中が温かい空気に包まれた。アイオラが、アウィンの向かいの席から手招きしている。幾つもの馴染みの顔が、かつて強攻大隊に所属していたリージェスへと、労いやからかいの言葉をかけた。リージェスは手短に返事をし、またはあしらいながら、中二階に上がっていった。
 概ね中隊ごとにテーブルが分かれているようだ。中二階の二台のテーブルは第三中隊と弓射中隊が占めており、弓射中隊の四つの座席が空席になっていた。
 うち二つの空席にはネームプレートが置かれており、リージェスは回り込んで誰の席なのか確かめた。そこにはこう書かれていた。
『大隊長 マグダリス・ヨリス大佐』
 殉職による特進だ。後ろの壁には、敬意を持って入念に手入れされたサーベルが掲げられていた。
 もう一つの空席にはこう記されていた。
『ユヴェンサ・チェルナー中佐』
 予想通りだった。
「座れよ」
 残る二つの空席は、リージェスとリレーネのために用意されたものだった。リージェスはリレーネを、アイオラの左隣に座らせた。その左隣にリージェスが座る。向かいにはアウィンとヴァンがいた。
「久しぶり!」
 ヴァンは顔が真っ赤だが、へべれけになるほど酔うタイプではない。だが、饒舌にはなる。
「久しぶりだねえ。最後に会ったのもシオネビュラだったね、ね、君、あれからずっとシオネビュラにいたんだよね。もう、何もなかった? 怖い目にあわなかった?」
「あったさ」リージェスがリレーネの代わりに答えた。「あの戦いの跡地にあった建物が全部崩落した」
 ヴァンの隣、リージェスの真向かいに座る赤毛の痩せた青年は、大隊副官のミズルカ・ディンだ。彼はアウィンともリージェスとも折り合いが悪かったのだが、どういう風の吹き回しだろう?
 仏頂面のミズルカは頬に布を当て、頭と額に包帯を回して固定している。ミズルカが強かったという印象はない……むしろ弱い……というより、戦闘に出すべき人間ではなかったと思うのだが、それでもフクシャで戦ったらしいとリージェスは感心した。実際にはアウィンに殴り倒された痕だが。
 彼は酒は飲めぬと見え、一口だけ減った麦酒を脇にやり、薄荷茶を飲んでいた。リージェスをちらりと見て呟いた。
「災難だったな」
 リージェスはますます驚きつつも、それを隠した。
「大したことじゃない。フクシャで起きたことに比べれば。それに、公表を信じるなら死者はなかった」
 それから話題を変えた。
「次の大隊長は決まってるのか?」
 アウィンが答えた。
「告知だけ来たさ。名前も聞いたことのない新任の少佐が週明けに来る」
「ふぅん」
 店員が来て、リージェスとリレーネに麦酒を置いた。リレーネは、ミズルカと同じ薄荷茶を店員に頼んだ。
 店員が下がると、アイオラが話を継いだ。
「でも、副長のユン上級大尉が大隊長の地位を狙ってるわ。いずれ昇級試験が再開されて佐官に上がったら、この大隊を継ぎたいって」
「それがいいと思う。新しい大隊長が優秀だとは限らないからな。まして――」と、リージェスは壁のサーベルを見やった。「あのヨリス少佐の後とあっては、継ぐほうも大変だ」
「それからな、いいニュースだ」
 再び喋り始めたアウィンがテーブルの向こうから身を乗り出し、目を鋭く光らせてニヤリとした。
「コーネルピン大佐が第一歩兵連隊の連隊長の任を解かれた」
 リージェスは目を見開いた。
「何でまた……」
 アウィンは、フクシャでヨリス少佐がコーネルピン大佐にしたことを、見てきたかのように語った。コーネルピン大佐は任を解かれ、待命(たいめい)状態となった。つまり、どの役職も与えられていない状態で、事実上の引退勧告だ。
「で、コーネルピン大佐はどうしたんだ?」
「あっさり受け入れたよ」と、ヴァン。「引継期間も終わるしね」
 一階の騒ぎ声が盛り上がった。何かを囃し立てる声と、何かを引き留める声が賑やかに入り混じる。リージェスは体を反らし、リレーネとアイオラの背中越しに、手摺りの下の様子を伺った。主に第一中隊と第二中隊の士官たちが陣取るテーブルの間で、顔を真っ赤にしたユン上級大尉が服を脱ぎ始めていた。
「ああ……」
 リージェスは見るのをやめて、酒に口を付けた。
 弓射中隊の隣、第三中隊のテーブルから、イマエダ大尉が立ち上がった。靴音を立てて手摺りに向かい、身を乗り出す。
「おやめください、ユン上級大尉! 大隊長殿のお言いつけをお忘れですか!」
 ユン上級大尉もイマエダ大尉も、酔うと人格が変わることで知られている。
 下からユン上級大尉が叫び返した。
「暑いんだよ!」
 イマエダ大尉も言い返すが、次第に呂律が回らなくなっていく。大尉の息が酒臭いのが、リージェスにも感じ取れた。
「ヴァン、ヴァン」
 アウィンが、彼の左隣に座るヴァンを肘でつついた。
「何?」
「お前、ちょっと行って、イマエダ大尉のデザートの皿持って来いよ」
「何で?」
「いいから」
 ヴァンは首を傾げながらも、椅子を引いて立った。アイオラが眉を寄せて囁く。
「どうなっても知らないわよ?」
 ミズルカは溜め息をつくだけで、口を挟まなかった。
「ねえリレーネ……」アイオラが、隣に座るリレーネとしっかり目を合わせながらも、迷いを滲ませながら尋ねた。「あなたは……北方領に帰るのね。もう戦争は終わったけれど、断らずに……」
「はい」対照的に、リレーネは迷わず微笑んだ。「私には、北方領でするべきことがあるはずですわ」
 その返答が、いささか意外だったらしい。リレーネのことを、内面もまた、見た目通りのか弱い少女だと思ったのだろう。
 リージェスはリレーネを誇りたい気持ちだった。
 だが、そのリレーネを、自分は半日後に失う。
 シオネビュラが中立を放棄した時点で、リレーネを無理に都に護送する理由はなくなった。もう既に、シオネビュラには、中央司令部から派遣されたリージェスの上官が到着している。西方領と南西領の外交団も、シオネビュラで全ての準備を整えている。
 ヴァンが、一階のユン上級大尉と怒鳴りあっているイマエダ大尉の後ろを忍び足で通り、席に戻ってきた。
「取ってきたよ、アウィン。これどうするの?」
「食えよ」
「えっ?」
 デザートはパイで、中に包まれたバナナの両端が生地からはみ出ている。上にはチョコレートがかかっていた。
「甘いもの好きだろ?」
「嫌いじゃないけど……悪いよ」
「いいっていいって」
 後輩を唆しながら、アウィンはにやにや笑いをやめない。リレーネの視線に気付いたヴァンが、さもいいことを思いついたとばかりに提案した。
「君、食べなよ」
 今度はリレーネが、「えっ?」という番だった。するといきなりアウィンが真顔に戻り、ヴァンの頭をひっぱたく。
「嬢ちゃんに押しつけるんじゃねえよ!」
「大丈夫だ」と、リージェス。「イマエダ大尉は、あれでもその辺の分別はあるからな」
 きょとんとしているヴァンは、これから何が起きるのか知らないのだ。リージェスはすっかり意地悪な気分になり、アウィンと目を合わせると、ついニヤリとしてしまった。
 ユン上級大尉をどう宥めたのか、それとも諦めたのか、イマエダ大尉が自分の席に戻っていく。そして、絶望的な声を上げた。
「私のチョコバナナパイがない!」
 彼女の部下の士官が小声で囁いた。リージェスはそちらに背を向けていたが、やがて怒声が飛んできた。
「アッシュナイト中尉! お前だな!」
 アウィンが恐怖と驚愕で表情を塗り替え、仰け反った。それから慌ててヴァンを指さした。
「俺じゃなくてリンセル少尉ですよ! コイツ! コイツ!」
 イマエダ大尉は全くの正解を口にした。
「どうせお前が唆したんだろう!」
 リージェスはリレーネの耳に囁いた。
「席、移動しよう」
 中二階で乱闘が始まった。一階ではユン上級大尉が既にジャケットとシャツを脱ぎ、今は革のベルトを外しているところで、そのユン上級大尉の部下の一人が、仲間に脇腹をつつかれていた。
「クラウス、クラウス」
 リッカード中尉は小声で仲間に応じた。
「何だよ?」
「歌詞。変更しようぜ」
 思わず吹き出し、リッカード中尉は試しに口ずさんだ。
「『おやつのチョコバナナパイくださいな』か……リズム悪くないか?」
 そして半地下階からは、一人の酔った若い士官が嘔吐する声と音が聞こえる。
 カウンターの向こうで注文の料理を手際よく作る店主は、顔をひきつらせながらも、商売用の笑顔を保っていた。娘を差し出せと要求する王領軍に比べれば、少なくとも百倍はマシだった。
 酒とニンニクで蒸した巻き貝の料理を大皿に盛りつけ、店主は一階を横切り、半地下階に降りていった。
 その店主の靴の上に、第二中隊隊長のアルネーブ中尉がつられて嘔吐した。


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