二回目までは偶然だ

文字数 2,522文字

 1.

 運河はコークスのように黒く北トレブレンを裂いていた。水面には天球儀の光の投網が広げられ、繋留された小舟をずる賢くからめ取る。小舟は力なくもがくように、風と波にあわせて揺れ続けていた。二十四時間体制で稼働していた兵器工廠も、釜の余熱さえ冷めきって、静まり返っている。職人も、原料販売の業者も、設備管理の業者も、運搬業者も清掃業者も消え、盗人さえいない。その静寂を、南からの零刻の鐘の波紋が揺さぶった。
 リージェスは繋留された小舟の底でとうに目覚めていた。一睡もできなかったと言う方が正しい。大量の重量物の往来に耐え得る頑丈な橋の下で、小舟の揺れに身を任せながら、幾度めかも知れぬため息をついた。ごろごろと寝返りを打ち、一旦は隣の少女に背を向けて横向きになったものの、落ち着かずまた仰向けになった。そして次第に目の光を鋭くし、憎悪をこめてその名を吐き捨てた。
 ネス・アレン。
 第二大隊の裏切り者。兵を用いてリレーネを捕らえ、連合軍に差しだそうとした。しかも後味の悪い事に、兵士たちは大隊長の裏切りを知らず、リレーネを密偵であると信じこまされていた。民間人の護送段列の文字通り最後尾にいたリージェスは、彼らと戦わねばならず、輸送部隊の兵士と協力してどうにかこうにか切り抜けたが、列からは切り離されてしまった。第一師団の今の状況は全くわからない。リージェスは強攻大隊とヨリス少佐の心配は全くしていなかったが、第一大隊とキャトリン少佐、そして第三大隊とミルト中佐については心配だった。ただ、第一大隊については、第二大隊と共に謀反に加わったとも聞いた。第三大隊が謀反を起こした、とも。いずれも誤報かもしれない。現場は情報が錯綜し、確かな事はわからなかった。
 リージェスは閉塞感と焦燥感でいらいらし通しだった。彼は自分が幸運から見放されている事を知っていた。もしかして俺が担当護衛になるから、護衛対象はこういう目に遭ってしまうのではという気さえしてくる。それから慌てて自分を慰める。大丈夫。まだ二回目だ。二回目までは偶然だ。俺のせいじゃない。……一回目の護衛対象は、南東領の大使の娘だった。南西領に恋人がいたが、その男が王領の密偵であったことが発覚し殺害されたとの報を受けると、世をはかなんで自殺した。いざ面会という時、居室の戸を叩いても返事がなく、開けたらベッドに括りつけたシーツに首を通して既に息耐えていたのだ。
 むしゃくしゃしながら体を起こし、何も方策が思いつかず呆然としながら、とりあえず手持ちの現金を数えてみる事にした。財布を船の床板の上にぶちまける。金貨のクレスニー貨が二枚あった。銀貨のデニーデル貨が五枚と、錫のニーデル貨が六枚。後はびた銭のデル貨が十数枚転がった。現金を持ち歩いていてよかったと安堵しながら、自分の準備の良さを嬉しく思った。それでも、大金を持っていようと心許ない。これから十七歳の無力な少女を連れて、最悪の場合は都のシグレイ・ダーシェルナキのもとまで自力で向かわなければならないのだ。
 ヨリス少佐だったらどうするだろう。リージェスは悄然とうなだれてかつての上官のことを考えた。あの人なら、自分と同じ状況に置かれても冷静に方策を立てるだろう。まずは何より、北トレブレンから脱出する方法を考えなければ……。
 財布をしまうとリレーネが身じろぎし、目を開けた。ごそごそと音を立てながら身を起こし、座りこむ。眠たげに細めた目をこすりながら、リージェスを見、尋ねた。掠れた声だった。
「ここは中トレブレンですの?」
「残念ながら北だ」
「リージェスさん」
 リレーネは手で髪を梳き始めた。
「寝ぐせが立っていますわ」
 リージェスは自分の頭に手をやった。髪がぴんぴん跳ねている。
「ああ、もう!」
 船から運河の水面へと上半身を乗り出した。手で河の水をすくい、跳ね散らしながら頭にかける。十分に濡らしてから乱暴に指を通し、撫でつけた。
「どうして寝てないのに寝ぐせが立つんだ!」
「横におなりになったからですわ」
「ふん、そうさ。全くその通りだ。あんたは天才だな」
 いらいらしながら吐き捨てると、静けさが戻ってきた。舟を係留するロープのぎぃ、ぎぃ、という軋みだけが、少女と護衛の間に流れた。リージェスは自分のあまりの無様さに、整えたばかりの髪を掻き乱したくなった。自己嫌悪に陥り、せめてけじめをつけようと、リレーネを見ずに口を開いた。
「……今のは八つ当たりだ。済まなかった」
「あなたは私を第二大隊の攻撃から守ってくださいました」
 と、リレーネの冷静な声。
「そしてひとまず安全な場所へ導いてくださった。それに私、あなたの仰る事なら大体想像がつきますもの。腹を立てたりしませんわ」
「相変わらず俺の事をよく知っている口ぶりだな」
 リージェスは会話の主導権を取り戻す。
「とにかくこの場所を離れよう。俺のこの格好はまずい……この舟から動かずに待ってろ。すぐに戻る」
「ええ」
 舟から護岸にあがり、長く連なる倉庫に沿って歩いた。北トレブレンを覆う不機嫌と憂鬱を肌で感じ取ることができる。耳に神経を集中し、気配を殺して歩いたが、ほかの人間の足音や気配はついぞ感じなかった。
 倉庫の裏口を見つけた。鍵は開いていなかった。入ってすぐの階段の中二階に、休憩室の表札があり、天籃石のランプが白くぼんやり照らしている。リージェスは中二階に上がった。
 狙い通り、休憩室には更衣室が併設されていた。作業用ズボンを手に入れ、それに穿き替える。ちょうどいいサイズの洗濯された上衣を拝借し、靴箱に並ぶ作業用の靴の中から自分の足に合うものを選ぶ。最後にズボンをたくし上げ、脛にナイフを括りつけた。サーベルの所持は諦めなければならないだろう。脱いだばかりの護衛武官の制服でサーベルを包み、休憩室を出た。資材置き場でシャベルを拾い、裏口に出る。制服とサーベルを土に埋めて隠した。
 運河に戻った。シャベルを投げ捨てる。水面に映る天球儀が壊れ、水しぶきがあがった。リレーネは舟の中で、ショールに鼻をうずめ、膝を抱えて待っていた。

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