血にまみれ、遠くまで

文字数 9,578文字

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 爆発音。そしてまた爆発音。炎があがった。火災が拡大し、熱風が吹き抜ける。
 巨人を閉じこめようとしているらしいとヨリスは理解した。現在、立っている巨人はニ体。シルヴェリア師団が転倒させた一体目の巨人は、シオネビュラ神官団の応援により撃破の報が入っていた。一方で、人間同士の戦いも始まっていた。
 火事が起きている区画へと、ヨリスは一人で乗り込んでいく。石畳の舗道は熱を帯び、靴越しに、足の裏にその熱を伝えてくる。舗道には割れた鉢植えや花、崩れた石塀が散乱し、緑の若葉をつけたイチョウが熱風に悶えている。
 小石を踏みにじりながら大股で歩く。
 救世軍の兵士が六人、横道を挟んだ先にいた。剣から血を滴らせている。彼らの一人がヨリスを指さした。ヨリスが一人と見るや、一斉に剣を構えて走ってくる。
 ヨリスは歩き続け、十分に距離が縮まると走り出した。六人の固まりに突っ込み、ヨリスは舞い、剣が踊る。殺戮の舞の後には六人の死骸が残された。何事もなかったかのごとく、ヨリスはまた平然と歩き出す。彼は全力で戦ってはなかった。まだ左手にナイフを抜いていない。
 次の横道を曲がると、自分の大隊の兵士たちが掛け声を上げながら、倒した巨大なメイスを路地に引きずり込んでいた。そばに立って監督する若い女性士官に、そのまま歩み寄る。
 第三中隊隊長は、やって来たヨリスの服や顔に血が付いているのを目にしても、心配そうな表情は見せなかった。
「イマエダ大尉、首尾はどうだ」
「はっ。こちらが最後のオブジェになります」
「よくやった」
 短く労うと、イマエダ大尉は目許をゆるめた。ヨリスは続けた。
「救世軍の連中が来ているな」
「はっ」
「生かしておくな。全ての妨害を封じ、見つけ次第皆殺しにしろ」
「了解いたしました」
 そう答えるイマエダ大尉の短い黒髪も、よく見れば血がついて固まっている。命じるまでもなかったようだ。
「ヨリス少佐」
「何だ」
「第二師団の指揮部隊が、この区画まで到着しております。救世軍部隊と交戦中。救世軍のほかには、リジェク神官団の神官兵の姿も確認されております。巨人に寄せ付けまいと敵も必死です」
 そのほうが都合がいいと、ヨリスは炎の壁の向こうに聳える黒い巨体を見て思った。兵力が一カ所に集まれば、巨人も集まる。民間人の被害はそれだけ抑えられるはずだ。
 と、思いきや、立っているニ体の巨人のうちの一体が足を止め、方向転回し始めた。不器用に回って左を向き、そのまま再び歩きだす。イマエダ大尉の声が上擦る。
「あそこには――」
 巨人の進行方向ではないということで、民間人が多数残っているはずだ。
「巨人を操れる奴がいるな。リジェクの神官か」ヨリスは冷静だ。「連中の目的は破壊。己を恐ろしい存在と印象づけ、自分だけに都合のいい世界を実現することだ。民間人の殺戮もそのためだ。イマエダ大尉」
 完全に顔を強ばらせている部下に、ヨリスは何気ない調子で尋ねた。
「この戦いに勝ったら、君は何をしたい」
 それを受け、イマエダ大尉は緊張を解くべく、ぎこちなく微笑んだ。
「そうですね……皆で、盛大に飲みませんか? 大隊長殿のお許しをいただければ」
 大隊副長と同じ回答に、ヨリスはまたもニヤリとした。
「許可を出さん理由はない」笑ったのは一瞬だった。すぐ無表情に戻り、軽い口調のまま続ける。「だが、ミルフィーユを横取りされて乱闘騒ぎを起こすのはやめておけ」
「前にも誓いましたが」イマエダ大尉の顔が上気する様子を、炎が照らした。「そのような真似はもう決していたしません!」
 悪い緊張は吹き飛んだようだ。ヨリスは満足し、イマエダ大尉から離れた。
 次は第二中隊へ。
 方向転換をしていないほうの巨人が迫る場所だ。
 また爆発が起きた。方向転換をしたほうの巨人が、その巨体を沈めていく。だが、完全に転倒はしなかった。片膝をついた姿勢になっている。立てた膝を覆う鎧が、炎に照らされ赤く輝く。
 ヨリスは走り出した。立っている最後の巨人のもとへと。巨人はまだ武器を持っている。鉄玉に棘をつけた、星球と呼ばれる部位を持つメイスだ。高い建物を薙ぎ払いながら進んできたのだろう。
 第二中隊の兵士たちが、巨人を避けて坂道を下ってくる。駆けてくる兵士たちの中を、ヨリスは逆走する形となった。
 近付けば、己の背丈など、巨人の(すね)程度までしかないことがわかる。シオネビュラで遭遇したものとは比較にならない巨体だ。
 鉄の靴を履いた足が、割れた歩道から浮き、巨人がまた一歩、民家を蹴散らしながら前進する。巨人にとっては荒れたガレ地を歩いているようなものだろう。
 壊されずに残った派出神殿があった。または、それを壊さぬよう調教できるだけの知能か、性質があるのだろう。
 ヨリスはサーベルを鞘に収め、派出神殿の裏口の鉄柵を掴んだ。
 アーチ型の鉄柵の上へと体を持ち上げ、内側に着地する。神殿の裏口の扉へと駆け寄り、足を上げ、両開きの扉の鍵穴を蹴った。が、鍵は開いてた。扉はあっさりと開いた。
 入ってすぐの小さなホールに、戦闘服姿の神官が二人いた。
 サーベルに手をかける。抜きざま、立ち尽くしている一人を斬った。完全に抜き終えたときには、その軽装の神官の腹には深くまっすぐな傷が刻まれていた。もう一人の神官も、我に返る前に素早く斬り伏せる。
 どちらの神官も、声もあげなかった。
 鐘つき塔へ至る階段室の扉の闇へと身を滑らせたとき、ホールの奥の別の扉が開いた。ヨリスは階段を駆け上がる。呼び子がしつこく鳴らされる。階段の下の追っ手の気配。ヨリスはそれも無視する。上へ、上へ。廊下を渡り、また階段。また廊下。表通りに近付いていく。そして最後の階段へ。
 鐘つき塔に躍り出た。渦巻く熱風に身を晒し、眼前の巨人の手、肘を覆う鎧、その輝きをひたと見据える。狭い床を駆けた。釣り鐘の真下を通り抜け、床の反対の端にたどり着く。手摺りや壁はなかった。靴の裏で思い切りよく床の端を蹴り、跳ぶ。
 サーベルが一閃。雑な作りの鎧の隙間を鋭い光が斬り裂いた。犬の吠えるような声が、その隙間から聞こえた。巨人がメイスを取り落とす。無人の街路に落ちていく。
 ヨリスは鎧を蹴り、鐘つき塔の向かいの建物の屋上に、くるりと着地した。
「ヨリス少佐」
 そこにいたのは、第二中隊隊長シン・アルネーブ中尉。兵卒からの叩き上げで、強攻大隊の中で最年長の士官だ。ヨリスは立ち上がり、サーベルについた血を拭きながらアルネーブ中尉に目を動かした。
 アルネーブ中尉が先に口を開いた。
「なんという無茶を――」
「無茶のうちに入らない。それより、手筈はどうだ」
「完了しております」
 応えるように、フェンの掛け声が舗道からまっすぐ上がってきた。
「鎖、引けー!」
「第二中隊、このまま攻撃を続行せよ」
「はっ。大隊長殿、他の中隊は」
「心配するな。どいつもこいつも勝った後の飲み会のことしか考えていない」
「飲み会」
 ヨリスの横で、巨人が体を傾けていく。
「大隊長殿、その飲み会はどちらで」
 ヨリスとアルネーブ中尉、そして近くにいる兵士たちが、建物の屋上に片膝をついて衝撃に備えた。
「勝ってから考えろ」
 耳を塞ぐ。巨人が横倒しになって、また震動が全身を襲った。建物そのものが傾いたように思え、緊張したが、持ちこたえた。
「それから――」
「はい、大隊長殿」
 路上では、巨人を避けて横道に隠れていた兵士たちが急いで集まりつつあった。
「はぁい、みんな集中して。どうせヒトではなし、上手に起きあがれやしないんだから」と、フェンの声。「落ち着いていきましょう」
 ヨリスは立ち上がりながら、アルネーブ中尉に言葉を続けた。
「新兵に吐くまで飲ませるのはやめろ」
「はっ。いえ、私も常々みなに言い聞かせているのですが、どうにも……」
「君がつられて吐くから言っているんだ」
「中隊長殿!」傾いた屋上の縁に駆け寄り、手摺りから身を乗り出して巨人を見下ろした兵士が呼びかけた。
「みな攻撃を開始しております! 我々も――」
 と、兵士が黙る。
 ヨリスはすぐに理由を理解した。倒れた巨人の足の裏にこびりついた、赤黒い無数の肉片や衣服のせいだ。
 兵士が吐いた。
 アルネーブ中尉を見た。彼の目は吐いている兵士に釘付けになっており、みるみる蒼白になっていく。そして、腰を曲げてつられて嘔吐した。
 ヨリスは肩をすくめた。サーベルを収める。手摺りに手をかけ、腕を支点に四階建ての建物から舗道へ身を投げる。路上では、兵士たちが巨人の鎧を脱がせ、剣を串刺しにし、その体を斬り裂いていく。
 そして、通りの東では、もう一体の巨人がゆっくり起き上がろうとしているところだった。
 黒い影のような、しかし確かな実体を持つ巨人へと、ヨリスは駆けていく。巨人を守ろうとするリジェク神官団の神官兵、救世軍の兵士たちが、横道で剣を交えている。
 ヨリスは走り抜ける。ただ、走り抜ける。進路を切り拓くために、手当たり次第、味方の兵士と切り結んでいるさなかの兵であっても、敵という敵を斬り伏せていく。一人。二人。愚かにも背後から斬りかかってきた敵を、左足を軸に回転し、斬り上げる形で内股の太い血管を裂く。三人。立て続けに横手から飛んできた斬撃を、サーベルの根本の鋸歯の部分で絡めとる。敵の手から剣が離れた。その兵士は鎖帷子で首を守っていたので、左目を突き刺した。四人。五人。六人。ヨリスは数えるのをやめる。強い、と、誰かが呻いた。
 ヨリスは確かめる。己が、強いと評されるべき男であることを。
 南西領の天才剣士。かつてリャンに言われたことを。そのように噂するのが彼だけではないことを。そして、それを自分は否定した。否定したことは正しかったと。
 決して天才などではなかった。
 だから努力をしてきた。
 知恵を絞り、考えて、考えて、考え抜いてきた。
 どうしたら一人でも多くの敵を殺せるかを。
 殺してきた。
 殺している。
 自分が何をしているのかヨリスにはわからない。ただ体が動くだけだ。動きながら、殺し続けながら、淡い薄紅を意識した。
 桜だ。桜並木の通りに出たのだ。フクシャ市街を舐めて広がる火災の光を浴び、花を散らしている。二度と戻ることなき花を、永遠に、決定的に手放していく。桜。桜。東方領の花。遙か記憶の果てに咲く、母の櫛に開く花。
『名前は?』
 ヨリスは戦う。戦いさまよう。舞を捧げる。彼は戦の神の霊媒だ。
 だが、彼の意識の前には北トレブレンの役人がいる。彼は推定七歳の子供になっている。子供の彼が答える。
『マグダリス・ヨリス』
 か細い声で。
 役人は書類に文字を記していく。目は上げない。役人の疲れた土気色の顔には、大きな皺が幾筋も刻まれている。無表情なのに、不機嫌さはありありと滲み出ている。
東方(ヨリス)? 変な名前だな。本名か?』
『わからない……』
『歳は?』
『わからない……』
『生年月日は?』
『わからない……』
 役人の苛立ちが募っていくのがわかる。それでも正直に答えるしかなかった。
『南西領にはいつから住んでいた?』
『……わからない……』
 話にならん! 役人が声を荒らげる。子供のヨリスは頭を抱えた。椅子から降りて蹲った。殴られると思ったのだ。
『とりあえず、住民登録票だけ作りましょう』
 部下の女が取りなす。頭を抱えて聞いている。自分に関わる全てのことが、自分をおいて進んでいく。
『名前はマグダリス・ヨリス。間違いないな。生年月日は……今日でいいか。今日は二月の何日だった?』
『三日です』
『出生日は二月の三日。これで構わんな、小僧。……おい、小僧!』
 あの頃の自分の、なんと弱かったことだろう。なんと惨めだったことだろう。
 あの日から、ここまで来た。血にまみれて遠くまで来た。
 視界に第二師団の兵士が映る。強攻大隊の兵士と入り交じっている。ヨリスは舞い踊る。絶対的な強者として。長い黒髪が踊り、黒いマントも踊る。
 閃く黒。
 正しい人間ではない。
 よい人間でもない。
 それに、人が思うほど、強い人間でもない。
 それでも必要だったのだ。血にまみれてここまで来ることが。どれほど呪わしく思おうとも、あの境遇が、あの生い立ちが、その結果できあがったこの自分が、この時代に必要とされたのだ。
 必要とされることを、どこか予感していた。だから恐れず戦い続けてこられたのだ。自分の人生を辱めないために。
 かつての自分を、人は不幸というかもしれない。
 だがそれは……『不幸な境遇』と呼ばれるものは、すべて、何かへの備えなのだろうか? ヨリスは思う。俺が今、俺自身であることは、大きな運命によって必要とされたのだろうか?
 そうであってほしい、と。
 知っている男を見つけた。民家の壁を背に、第二師団の兵士たちと倒れた瀕死の馬、そして生きている神官兵三人に取り囲まれていた。ヨリスは喚いているその男のもとへと駆けつけて、三人の神官を順に、背後から斬り殺した。
 男は戦う構えでいたが、助けられたことを悟ると急に力が抜けたのか、後ずさって壁に背をつけた。だが、そのままへたりこむような真似はさすがにしなかった。
 チェルナー中将だ。
 中将は物を言えぬまま、信じられぬとばかりに口をぱくつかせていた。
 彼は慣れすぎていたのだ。人を見下すことに。
 そのことに、今この瞬間まで自覚がなかったのだ。
「中将殿」
 ヨリスは何か言ってやろうと思った。だが、今この場で意趣返しを行うのは卑しいことにも思われた。中将は自分よりずっと弱いのだ。
 身を引き、立ち去ることにした。背を向ける際言い放った。
「勝ってから死ね」
 それからチェルナー中将がどうしたか、彼の副官がどこで何をしているか、ヨリスは知らない。桜並木の坂を上り続ける。背後に、今し方通り過ぎた路地の入り口から兵士が飛び出してくるのを感じた。殺気を受けた。敵兵だ。だがその敵兵は、ヨリスが対処するまでもなく、悲鳴を上げて倒れた。ヨリスは微かに驚きながら足を止め、振り向いた。
 ミルトだった。剣についた血で舗道に線を描きながら小走りでやって来るのを見て、街が揺れていることを思い出した。もうすっかり慣れてしまって、意識していなかったのだ。
「マグダリス」ここには他に人の姿はなかった。だが彼は、辺りを憚り囁いた。「探したぞ」
「よくわかったな」
「君ならアレの所に行くと、誰だってわかるさ。それから――」
 アレこと、立っている最後の巨人は、体の正面を二人がいる方向に向け、火の中をのろのろと前進しつつあった。
「それから?」
「ああ、それからだが、マグダリス。さすがに私でも庇いきれないことだってあるんだぞ」
 ヨリスは肩を竦めた。コーネルピン大佐の件に違いない。
「耳聡いな、リャン。誰から聞いた?」
「彼らからさ。みな噂しているぞ」
 そして、ミルトは肩越しに振り向いて叫んだ。
「こっちだ!」
 抜剣したミズルカと連弩を携えたアウィンが、横道から飛び出してきた。ミズルカは息を切らし、ふらつきながら、最後の力を振り絞るように駆け寄ってきた。
「ヨリス少佐……探しました……」
 そしてもう一人。
 シオネビュラ神官団の、裾が燕尾になった若草色の戦闘服に身を包んだ女がついて来ていた。腕章は二位神官将補の役職を表している。ヨリスはぴくりと眉を動かした。
 フェン・アルドロスの妹については話に聞いたことがある。口を開くヨリスを、メイファは満面の笑顔で、右手を振って制した。左手には連弩があった。
「さぁて、ヨリス少佐! 面倒だし時間もありませんのでね、堅苦しいことは抜き! 手短にいきましょ、て、み、じ、か、に」
 そして、口を挟む間を与えず捲し立てた。
「いやぁ、会えて光栄です、ヨリス少佐。少佐殿のお噂は良きにつけ悪しきにつけ、かねがねと伺っておりまして。歩く殺戮装置だの、頭のねじがぶっ飛んでいるから滅茶苦茶なことばかりできるんだとか、睨んだだけで敵の将校を心臓麻痺で殺しただとか、一人でついうっかり百人殺しただとか、しかし百聞は一見にしかずと言いますか、シオネビュラでは――」
「手短にいくんじゃなかったのか」
「あー、そうでした! 失礼、失礼!」
「用は何だ」
 メイファはいきなり左手の連弩をヨリスに差し出して、受け取るよう促した。ヨリスの右手はサーベルで塞がっている。空いている左手は、腰に置いた。
「というのもですね」メイファが続ける。「私どもがまとめて使える火薬は、先ほど爆発が最後の分でして。ただまあちょっと」
「失敗したんだな」
「失敗はしておりませんよ、ただちょっと転倒させられなかっただけで」
「つまり失敗したんだろう」
「いやぁ、手厳しい」
 ヨリスは鋭い目で続きを話させた。
「……それでですね、使えるぶんは、全部この連弩にまとめて仕込んじゃったんですよ」
「黒色火薬か」
「雷薬です」
 ヨリスはここでようやく、メイファが持つ連弩に注意を向けた。
「そして、立っている巨人もあれが最後。この連弩の全ての矢を当てれば、巨人を殺せるでしょう。問題は、誰が本当に全ての矢を当てられるのかということでして」
 つがえられた一発目の太矢には、鏃(やじり)の根本に黒い小袋が結びつけられていた。
 用件は理解したが、ヨリスはそれをメイファに言わせた。
「それで、どうしろと?」
「嫌ですねえ、わかっているくせに。これを持って、あれのもとに確実にたどり着き、更には確実に化生を殺せる人間があなたの他にいらっしゃいます?」
 眉を顰めるヨリスに、メイファは一転、静かな声でゆっくり告げた。
「私どもにも、プライドというものがあります」大事なことに関しては、口が動かぬタイプらしい。「それをおして、あなたを選んだのです。私が、あなたを選びました。だから私が直接ここに来ました。そのわけが、わかりますか?」
「嬉しくないな」
 だが、ヨリスは左手を腰から離した。メイファの左手に手を伸ばす。
「だが、私がこれを受け取ったところで……」
 連弩の持ち手を掴んだ。
 メイファがゆっくり手を離す。
 連弩はヨリスの物になった。
「僅か二千の兵力で最前線に飛び出し、化生と善戦したシオネビュラ神官団の名誉と誇りが傷つけられることはないと、私は信じる」
「どうもありがとう」メイファは己の視線を、しっかりとヨリスの視線と結びつけたまま頷いた。「極めて衝撃に弱い爆発物です。お気をつけて」
 今のメイファの微笑は、早口で捲し立てていたときのうるさい笑顔ではない。静かに流れる、愛情らしきものを感じさせる顔だった。
 これがこの女の本当の顔なのだと、ヨリスは感じた。
「では、私は部隊に戻ります。頼みましたよ」
 シオネビュラの神官兵たちが、少し離れたところから様子を見守っていた。メイファはヨリスたちに背を向け、足早に神官兵たちのもとへ向かう。彼らから自分の槍を受け取り、遠ざかり、見えなくなっていった。
 ぱちぱちと火のはぜる音と、重苦しい熱気の中に四人は残された。巨人が歩く際の震動で、どこかでがらがらと家が崩れた。
「アッシュナイト中尉」
 上官の呼びかけに、アウィンは背筋を伸ばした。
「はっ」
「部隊に戻れ。全ての弓射中隊の兵士を、第二中隊の攻撃に参加させよ」
「了解しました」
「弓射中隊の中隊長を立て続けに失うわけにはいかない」ヨリスは続けた。「生きろ。だが死ぬるなら、価値ある礎となれ」
「……はい、ヨリス少佐」
 また家が崩れる。熱風が吹きつける。息が苦しいほどだ。
「それからディン中尉」
 ミズルカは、まっすぐにヨリスの目を見つめた。
「はい」
「人には人にあった戦いかたというものがある」
 それを聞くや、ミズルカの両目がぱちりと大きく見開かれた。
「君には、死んでいった兵士たち、家柄も後ろ盾も持たぬ者たちの名誉を守る力がある。違うか」
「いいえ」ミズルカは身震いし、だが自信を感じさせる口調で答えた。「違いません、ヨリス少佐」
「ならば、それが君の戦いだ」
 驚いたことに、ヨリスは目許をゆるめ、僅かに微笑んだ。戦いの場でそのような表情を見せるなど、普段なら決して考えられぬことだった。
「できるな」
 確信とも呼べる予感を得て、ミズルカは泣きそうになった。
 生きて帰ってきてほしかった。それができないなら、ヨリス少佐は自分を守る大隊から離れず、どこにも行くべきではないとさえ思った。
 ミズルカは思いを飲み込んだ。
「はい」
 頷く。
 それを見届けると、ヨリスは部下たちに背を向けた。
 火の中へ、歩いていく。
 やがて駆けだした。
 ミルトが一緒に走りだしたのが、ヨリスには気配でわかった。追いついて、隣に並ぶ。
 巨人はもう十分に近かった。家々を蹴り壊す鉄の爪先は、通りの先の区画の中ほどにあった。火事に熱された巨人の鉄の靴は、黒く汚れきっていた。
 ヨリスは、左隣を併走するミルトに目を動かした。
「リャン、何故ついてくる? 死ぬことになるぞ」
 道に転がる石片を飛び越える。
「私が君に語ったことを忘れないでくれ」
 ミルトは走りながら唾をのみ、目線をあわせた。
「いつでも君を助けると」
 全身から汗が噴きだす。矢の刺さったリジェクの神官兵。背中を大きく裂かれた第二師団の兵士。放置された死体の横を通り過ぎる。
 間もなく大きな交差点に差し掛かるはずだ。
 別の通りにつながる横道から、広い馬車道の進行方向にリジェクの神官兵たちが現れた。五人。ヨリスは走りながら右手のサーベルを振り、血を払った。メイファは衝撃に気をつけろと言ったが、どの程度までなら耐えられるだろう?
 すると、背後から、蹄の音が迫って来た。誰かが騎馬で駆けてくる。たった一人で。
 思わず振り向いたヨリスは、馬上にチェルナー中将の姿を認めた。剣をかざしている。全く速度を落とさず、ヨリスの真後ろにまで来た。
「中将――」
 横に並ぶ。
 通り過ぎる瞬間、中将は叫んだ。
「行け! 行け!!」
 獣の臭いを残し、単騎、正面の敵に突っ込んでいく。
 中将がここにいるということは、間もなく彼の部隊の兵士たちも追いつくはずだ。だが……。
 騎馬の敵を恐れ、神官兵たちは左右に散る。だが、騎兵として訓練された神官兵たちだ。一人が槍で馬の横腹を裂いた。別の一人が馬の脚を叩く。馬の体が斜めに傾いた。
 ヨリスもミルトも、決して足を止めなかった。転倒した馬と転げ落ちる中将に、神官兵たちが殺到する。斜めに、または垂直に突き立てられる槍。そして神官兵たちの足の間から広がり流れる血を、神官兵たちがどいた道を通り過ぎるとき確かめた。ミルトが神官兵の一人と剣を交えた。それでもヨリスは足をゆるめない。ミルトもまた、すぐに追いついた。
 中将が開いた道。そこに、馬車道の交差点、広場、その中央で、立派に腕を広げる桜の古木が待っていた。古木の向こうで巨人が右肘を引く。巨大な剣の切っ先が、ヨリスとミルトに向けられた。
 巨人はどこからでも二人を攻撃できた。
 だが、その身を覆う鎧の切れ目、全ての矢を確実に当てられる箇所は、依然として連弩の射程範囲外、残すところ一列となった連なる民家の壁の向こう側にあった。


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