猫ちゃんは天使ちゃん

文字数 5,161文字

 2.

「……であれば、チェルナー中将は現在お会いできる状況ではない」
 副市から母市に入る時ウルプ大佐が言ったが、その時彼が振り向かなかったのと、低く不機嫌な声のせいで、リージェスは最初の一語を聞き漏らした。恐らく『本来』と言ったのだろう。「あの方はお忙しいのだ」
 家々の間を縫い歩き、資材倉庫と(おぼ)しき大きな建造物の前に立つ。
 チェルナー中将は暇そうだった。
 建物の塀の上に、キジトラ猫が一匹いた。
「おお、よちよち、いい子でしゅねー」チェルナー中将はとろとろの笑顔で猫の頭を撫でていた。人に慣れた猫で、中将の厚い掌に自ら頬や額をこすりつけている。「かわいいでしゅね、天使みたいでしゅね! おー」猫が甘えた声で鳴くと、中将は両手で猫の頭を包みこむように撫で、「猫ちゃんは天使ちゃんなのに、どうして(ちゅばさ)が生えてないんでしょうねえー」
 リージェスは、先程通りがかった市場広場に座りこんでいた第二師団の兵士たちの疲れきった姿を思い出しながら、チェルナー中将は現実逃避をしていると思った。
「中将」副官が声をかけると、中将はびくりと身を震わせ黙る。「報告にあった者をお連れしました」
 チェルナー中将はゆっくり振り向くと、真顔になった。
 取って作った威厳をしかめ面にはり付け、灰色の目をリージェスに向ける。動揺し、気まずそうだったが、すぐにその目に探るような光が宿った。顎に触れ、髭を撫でる。猫は塀の内側に飛び降り去った。
「見た顔だな」
 チェルナー中将にウルプ大佐が答える。
「今は要人つき護衛官ですが、第一師団にいた者です、チェルナー中将。例のヨリス少佐の」
 最後の一言が小声で囁かれると、両目の光が刺すような鋭さを帯びる。
「リージェス・メリルクロウ少尉と申します」
 すると、目の光は驚嘆の色を帯びた。
「もしかして、あのメリルクロウ財団かね。王領の。三百年前の……王位継承戦争の……新王家のパトロンの……」
「はい」リージェスは嘘をついた。「末子にあたります。直系の」
 最後の一言の効果は抜群だった。中将の目に歓迎と敬意が、口には優しさをこめた笑みが宿り、頬が緩む。その急変ぶりに、リージェスは嫌悪を感じた。
 血統主義者のチェルナー中将と、虎の威を借る狐のウルプ大佐。
 だが今はどうしても、二人の助けが必要だった。
「富める者の血統。富の使い方を知る者の……まさか南西領にその血を継ぐ者がいるとはね。しかも直系で。驚いた……しかし、いいのかね?」
 前総督シグレイの反乱軍にいてもいいのか、という意味だろう。
「はい。貧しい者、困った者を見捨てるな……メリルクロウ家の教えです。私はこの道を自分の意志で選びましたから」
「立派な若者だ」チェルナー中将は手を差し出す。リージェスは愛想笑いを浮かべて握手に応じた。倉庫にも、すぐ近くの門にも明かりはなく、空を覆う天球儀の光しかない状況が、嘘と愛想笑いの下手さを隠してくれることをリージェスは期待した。そして、恐らくはうまくいった。
「君は貴族将校団に入っているかい?」
「いいえ」
「是非入るといい。案内を受け取る機会がなかったんだな。若い将校に入団の機会があるかは、いかんせんその上官の気質によるところが大きい。君の……」
 リージェスの前の上官、愛娘の上官にして泥棒猫。マグダリス・ヨリス。その存在を思い起こし、中将は顔をしかめた。
 あの男は有名だ。
 数々の武功については軍人として驚嘆に価するものだし、チェルナー中将もヨリスに対し悪感情は抱いていなかった。ユヴェンサにちょっかいを出すまでは。
 彼には私の方からアプローチしたと娘は言う。嘘だ。しっかり者の娘、未来の女当主が、あんなどこの馬の骨とも知らぬ男に……いや、馬の骨ならまだいい。あれは犬の息子だ。売春婦の息子だ。そんな男に手を出すものか。
 娘の恋人として、初めて都のチェルナー邸でヨリスと顔合わせを行った時のことを覚えている。
 娘より七つも年上のその『恋人』は、平民の出だった。それは前から知っていたし、別にいい。士官の道に入れたということは、しっかりした家庭で教育を受け、教養を身につけているはずだと期待できた。
 ヨリスとユヴェンサは、中将の向かいに並んで座っていた。中将の隣には妻と、飼い猫が座っていた。白地に茶ブチの十七歳のオスで、ニッキーというのだ。
『ご両親は何をなさってらっしゃるの?』
 妻が尋ねた。ヨリスは無表情のまま、感情のない声で答えた。
『他界しております』
『戦災で?』と、チェルナー中将。
 ヨリスは少しも間を置かなかった。今にして思えば、何度も同じ質問に同じ回答を繰り返してきたのだろう。
『いいえ。私の幼少期に、事故でなくなりました』
 苦労なさったのでしょうねと、妻は短く労った。
『ご両親のそれまでのお仕事は?』
『敢えてお伝えさせていただく程のものではございません』
 そこから会話の雲行きが怪しくなっていった。
『不躾な質問ばかりで申し訳ないが、ご両親の資産はどうなっているのかね?』嫌な予感を堪えて尋ねたチェルナー中将は、つい言い訳がましく付け加えた。『こういうことを聞くのは、娘に生活レベルの違いで苦労させたくないからなんだ。是非とも聞かせてほしい』
『父上、私はそんな――』
『お前は黙ってなさい』
 気まずい沈黙が流れた。
『……両親から受け取った遺産は、デル貨一枚ございません。士官学校へ入るには奨学制度を利用しました』
 万一の際に子供に渡る金がこれっぽっちもない。どういう生活レベルの親に育てられたのだ? チェルナー中将は目の前の男が胡散臭く、嫌悪さえ抱いた。詰問するような口調になる。
『出身はどこだ?』
『東方領東部でございます』
『東方領には詳しいぞ。従兄弟が東方領の駐在武官を務めている。東方領のどの町だ』
『サクラナギという町です』
 中将はソファの上で仰け反った。
『ほとんどが貧民窟みたいな町じゃないか!』
 ヨリスは完全に無表情だった。貴様のそのツラは仮面か? 中将はぶん殴ってやりたくなる。反対に、隣に座る妻は目に見えて動揺し始めた。
『えっ? 貧民窟ってどういうことですの? ねえ、あなた』
『内戦の敗者や犯罪者が流れ着いて乗っ取った村からできた町だと聞く。そういうのを相手にする悪質な労働斡旋業者や売春婦の溜まり場だとな。有名だよ、あそこの娼婦街は』
 中将は、売春婦、と繰り返す。それからヨリスを睨みつけた。
『もしかして君は、そういう女性の子か?』
 ヨリスは一旦目を閉じた。長い瞬きの後、覚悟を決めたように言い切った。
『左様でございます』
 妻が大きく息を吸う。悲鳴のような音がした。
『ユヴェンサ! やめなさい! そんな生まれの人なんて、どういう病気を持ってるかわからないじゃない! 梅毒をうつされたらどうするの!』
『失礼なことを言わないでください! 私が選んだ人を何だと思っているのですか!』
 落ち着くんだ、とヨリスが低く囁く。
 性病の検査を受けてほしいとチェルナー中将は要求した。医師の診断書を提出しろと。娘の健康がかかっている、それくらいは当然許されるべき要求であるはずだ。まるで侮辱を受けたかのように思ってもらっては困る。愛しているならできるはずだ。できないというのなら、所詮その程度の愛だ。ヨリスは中将の顔と妻の顔を順に見た。妻は口許を手で押さえ、悲痛を堪えて頭を振っていた。
『私がそうしたら、娘さんとの結婚を前提とした交際をお認めくださると、お約束いただけますか?』
 しばし後、妻が答えた。つっかえつっかえ、苦しそうに。
『あのね、あなた……どうか気を悪くせずに聞いてほしいのだけど、物事にはつりあいというものがあるのですよ? どんなことでもそう』ソファから身を乗り出す。『あなただってお店で物を買ったらお金を払うと思うし、その物を選ぶのだって、例えばね、王国一の職人が作った家具が掘っ立て小屋にあったらおかしいと』
『私は物でも家具でもないわ』
『それは言葉の綾です!』
 しかし、ユヴェンサは凍り付いた目をして繰り返した。
『私は物じゃない』
 許さんぞ、と中将は娘の目を真正面から睨みつけた。
『お前には、叔母上の結婚がどの様に破綻したかよく言って聞かせただろう。愛があるから大丈夫だとか言って結婚して、相手の男は金の無心ばかり。揚句には暴力を振るい、こちら側は失うものばかりで、得たものはなかった。そんな結婚は許さん!』
 妻は真っ青な顔をして、気分が悪いと言い中座した。まさか自分の娘が親に向かってそんな目をするとは思っておらず、中将はぞっとすると同時に激しく後悔した。育て方が間違っていたのだ。娘をしつけるのに、手を挙げたことは一度もない。だが、それをするなら今だと思った。遅すぎた。娘の隣にはヨリスがいた。
『何が気に食わないのか知らないが……』
 中将は全身の力が抜けていくのを感じた。家への責任は、今や彼の力を奪うばかりで、与えはしなかった。
 この男を入り婿としてチェルナー家に迎えるなどできない。だが、そうなればユヴェンサが家を出ていき、腑抜けの弟の長男が家を継ぐことになる。
 どちらもごめんだった。
『母親をいじめるのはやめないか。リサはこういう刺激に弱いんだ。彼女が繊細なのはお前も知っているだろう』
『繊細なら、人の痛みがわかるはずだわ。母上は心が弱いだけです』
「中将」誰かが呼ぶ。「チェルナー中将」メリルクロウ少尉の声だった。中将はしかめ面をやめた。
「ああ、すまない。つい考えごとをしてしまってね」
 どうせ下らんことに違いないとリージェスは思った。
「こちらがリレーネ・リリクレスト嬢、北方領総督リリクレスト公がご息女です」
 リレーネは片足を引き、お辞儀をした。短く名乗っただけで後ろに下がり、リージェスに話す機会を与えた。
「チェルナー中将の武勇につきましては、かねがね伺っております。北トレブレンでは一度もご挨拶に伺わなかった無礼をお許しください」中将の視線を受け止めながら、困ったように目尻を下げた。「現在私どもは大変困った状況にあり、チェルナー中将のお力に縋りたく本日参りました。お手を煩わせておりますこと、心苦しく思っております」
「困ったことについては、まあわかる。君はリリクレスト嬢を連れて都に向かっていなければならないはずだからな。そうだろう?」
「その通りでございます」
「現在の中トレブレンの状況を言うとだな。ダーシェルナキ公と共に航海を望む市民は全員疎開させているし、新総督派は追い出した。従軍を希望する兵役経験者の男性市民だけが残っている状況だ。彼らの協力を得て大道路は南も北も閉鎖されている。……君はどこから中トレブレンへの進入路に入ってきた?」
 血統主義もいい方向に働くことがある。弱者への義務感だ。中将は残った市民のためにあらん限りの力を発揮するだろう。リージェスはそう予感した。
 情報部の協力を得たことと、秘密の抜け道について正直に打ち明けた。中将は、信用し切れぬが、信じるしかないと言いたげな、何とも腑に落ちない顔をした。
「……中トレブレンもじき戦場になる。いずれにしろ、君たちを留めおくことができないのは確かだ」中将は大きく頷いた。「脱出については軍団長と掛け合おう。ウルプ大佐」
「はっ」
「二人に適当な宿泊所を見繕ってくれ。軍団長への報告も頼む」
「かしこまりました」
 ウルプ大佐の案内で、軍用道路に近い修道院にたどりついた。そこが宿泊所だ。
「怖い方かと思いましたわ」
 と、リレーネ。使用許可された部屋の、背もたれつきの椅子に座りこみ、さすがに疲れを隠せない。隣にあてがわれた自分の部屋に向かおうとしたリージェスは、戸口で振り返った。
「誰が?」
「チェルナー中将ですわ。リージェスさんが名乗る前、むっとした顔をされたように見えました」
「俺がヨリス少佐の元部下だからさ。あの人は少佐が嫌いなんだ」
「ユヴェンサさんの恋人だからかしら」
「そうだ」
 リージェスは心の中で付け足す。猫なら愛せるくせにな。リレーネは言葉に困ったようで、少し口ごもった。
「……子煩悩な方ですのね」
「子と言ったって、確か今二十八だぞ。もはや依存や執着の域だな」
「娘というのは、父親にとって、執着できる対象ですのね」窓越しに天球儀の光を浴びながら、リレーネは呟く。リージェスから見える横顔は、陰になって暗い。「知りませんでしたわ」
 リージェスは、何も言わずに部屋を出た。

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