生きて帰れ
文字数 6,699文字
※
二人の暗殺者は、イオルクを加えて自警団本部へと歩き続けた。屋根の上のルートはもう使えない。部外者にその道筋を教えることになるからだ。加えて、イオルクにできるだけ静かに歩かせるという手間も増えた。時折、カシャカシャという連弩 の発射音が聞こえ、見えなくてもオーサー師が近くを先行していることがわかった。
路地を曲がると、長い下り坂に出た。坂の下には天籃石の一枚板の白い光が見えた。鏡の広場だ。
広場を覆うあの屋根に、一人の女が我が子を捨てる瞬間を、ミスリルは見たことがある。十代の少年の頃だった。寝静まった街で、女は白く輝く屋根の上でうずくまっていた。何をしているのかと、ミスリルは暗闇から目を凝らした。次第に、啜り泣いているのだとわかってきた。
女は胸に赤子を抱いていた。
その赤子を、意を決して大きな篭に収めたかと思うと諦めきれずに再び抱き上げて、頬ずりし、口づけた。啜り泣きが慟哭に変わり、いつまでも別れを惜しみ続けていたが、最後の口づけを与えて篭に寝かせると、何かを振り切るように立ち去った。屋根を下り、走っていった。ミスリルが近付くと、篭には一人の赤子と、その名を記した紙が入っていた。
暗殺者に育てられたミスリルは母親を知らない。市民の中に、ああして自分を手放した母親がいるということを考えたのは、その日が初めてだった。もちろん、母と己の出自についての本当のところはわからない。単に愛情がないから捨てただけかもしれないし、不義の子だから憎いとか、死産だったことにしたいとか、そういう理由かもしれない。それにコブレンにはもういないかもしれない。それでも構わなかった。
この街に、この体とこの名を与えてくれた人がいる。涙とともに口づけと抱擁をくれた人がいる。そのように信じていよう。この胸の中の、美しい母の想像を信じていよう。誰が母親かはわからない。だから、全ての人を守り抜こう。コブレンの十一万の市民ごと、その人を守ろう。そう己に誓ったのだ。それに、ミスリルは、この街が好きだった。
自警団本部の裏にたどり着いた。
本部には、屋根や木の枝の陰になって、誰にも見られずに中に入りこめるルートがあり、団員たちは皆そのルートを知っていた。同じルートを使っての侵入を防ぐための、適切な見張りの配置方法もある。〈タターリス〉がその配置方法を見破ってなければいいのだが。
ミスリルは侵入箇所に着くと、しゃがんで塀の煉瓦を奥へ押し、外した。通り抜けられるだけの穴が開くと、まず自分が通った。次にイオルクだ。太っているせいで難儀したが、どうにか通らせた。最後にアエリエが通過し、ミスリルと共に煉瓦を戻した。
噂の『地下からの不気味な呻き声』とやらは、表通りで聞こえるとのことだった。ミスリルはその報告から、あたりをつけていた。正門に近い建物の地下に、ミスリルが生まれる前から使われていない懲罰房がある。
本部の敷地内に、自分たち以外の人の気配はなかった。敷地の空気は、一ヶ月の不在の間にすっかり冷たく、よそよそしくなっていた。自警団本部はもう、自分たちの場所ではなかった。
目指す建物にたどり着いた。
裏口に大きな布が落ちていた。しゃがみこみ、確かめると、コブレン自警団の旗だった。切り裂かれ、踏みにじられた痕がある。アエリエと協力し、旗の近くの窓を外した。ちょっとしたコツあるのだ。その窓から中に入りこみ、再び窓を嵌める。
カンテラを回収し、火を入れ、地下を目指す。
階段室の扉を開けた途端、噎 せかえるほどの腐臭が鼻を刺した。目の表面がちりちりするほどだ。イオルクが呻き声をあげる。ミスリルは左手で鼻と口を覆いながら、慎重に足を踏み入れた。
階段には、何かを引きずった血の痕と、何故か大量の鶏の羽根が散乱していた。階段を下りきったところが懲罰房だ。円形の空間の壁沿いに、十三の鉄格子が並んでいる。空間の中央に腐臭の正体があった。豚の死骸だ。腹を食い破られている。そして木箱が積まれていた。一番上の木箱は小さい。ミスリルはカンテラを木箱の上に置き、その小さな箱を開けた。
親指大の小さな瓶が、箱に詰められていた。
「これは何だ?」
ミスリルが首を傾げると、イオルクが口から手を離し、制した。
「触ってはいけない! それは――」
「言語活性剤だ」
地響きのような声が、どれかの鉄格子の奥から答えた。ミスリルとアエリエは素早く背中合わせになった。声の正体を探しながら、言語活性剤という単語に、かつて一度出会っていることにミスリルは思い当たった。
アエリエから報告を受けた、イオルクが所持していた文書の内容。どこかの誰かが『言語活性剤』とやらを飲まされたという内容だったはずだ。
続けて、鉤爪状の物が石床を引っ掻く音がした。二人の暗殺者の目が、同時に階段の真横に位置する鉄格子へと向けられた。
房の奥から、カンテラの光がかろうじて届く範囲へと、音の正体が近付いてきた。
蜘蛛の脚だった。
ただ、あり得ないほど大きい。ミスリルの背丈の三倍近くはある。
蜘蛛には全身に八つの目があると、フーケ師から聞いたことがある。そう思い出したが為に、それが蜘蛛の脚だと気付いたのだ。ミスリルの目より少し高い位置に、真っ黒い目玉がついていた。
二本の脚が、カンテラの光の輪に入った。蜘蛛は脚を曲げていた。曲げてこの大きさならば、伸ばせばどれほどあるだろう。
それよりも、この生物は何だ?
「今喋ったのはお前か?」
ミスリルは動揺を隠しながら、低い声で尋ねた。
蜘蛛の長い脚が、更に折り畳まれた。その脚を、くるりと蠍の尾が巻いた。巨大な毒針が、鉄格子を挟んでミスリルの眼前に横たわる。
どのように接続されているのか、大蛇の胴が蜘蛛の脚の上でくねる。くねり、頭を下げた。
蛇の頭部についているのは、人間の顔だった。
ミスリルは、この生物のどこを打撃すれば動きを止められるか、反射的に計算した。それは身に付いた習性であると共に、理解不能のものを受け入れたくないという、ある種の逃避だった。
後ろでイオルクが盛大に嘔吐した。背中合わせに立つアエリエは微動だにしない。
檻の向こうの人間の顔が答えた。
「そうだ」
声が響く。ミスリルは首を横に振った。それから、自分が何を否定したくて首を振ったのか考えた。
話が通じることに安堵した。だが、話が通じることに、同じくらい絶望したのだ。その残酷さに。
「あの、まあ、馬鹿な質問だと思うけどさ……。あんた、何て生き物だ?」
「『捕食者』だ。連中はそう呼ぶ」
「連中って?」
質問を重ねながら、後ろのアエリエの硬直状態が解け、少しずつ力を抜いていくのを感じた。『捕食者』が答える。
「俺をこうした奴らだ――」
蛇の首が振り回され、人間の顔が何度も檻に叩きつけられた。顔が、苦痛の叫び声をあげた。ミスリルは耐えきれず顔を背けた。同時に、呻き声の正体を悟った。檻を叩く音がやみ、悲鳴も止まった。
「言語子を、操作して、死んだ時に」『捕食者』が、喘ぎながら言葉をつないだ。「生きている時に、それ、を、のまされて、殺された」
「あんた――」
「この動物たちも、操作――」
そしてまた、絶叫。ミスリルは今度は耳を塞いだ。
「――された」再びの言葉。「あいつらによれば――生命の危機的状態で――言語子が活性化されると――」再び叫び出しそうな気配を見せたので身構えたが、『捕食者』は堪えた。「体を修復し、強化すると――細胞を増殖させ、結合させると――言語子を補給するんだ。生きたまま食って――」
「それでか」次第に事態が飲みこめてきた。「それであんたは家畜を生で食わされてるんだ。ケダモノみたいに!」
「食うのは言語子だ」
『捕食者』の顔が苦悩に歪んだ。
「言語子を食わなければ、体を保てない。食って……花を捧げなければ見えない」
「花を?」
「花が見えるんだ。白い花だ。お前の体からも咲いている。隣の女からも……そこの男……西方領の奴か? そいつからも……」
確かめるまでもなく、自分の体から花など生えていないことはわかる。
「花を集めるんだ」
「なんで……」
「乙女が探している。捧げなければならない」
「乙女」と、アエリエ。「白い花を探す乙女。……団長、これは……」
ミスリルは息をのんだ。
「『天球の乙女』か?」
「『天球儀の乙女』のほうかも知れません。教えてください、その乙女の髪の色は――」
三度目の咆哮。三人は耳を塞ぐのみならず、その場に屈みこんだ。音の波動が全身を打つ。この人間の顔以外にも、恐らく他の生物の顔や発声器官が、見えない箇所についているのだ。でなければ、これほど忌まわしい声は出せない。
「聞いてくれ!」手を離さなくても言葉が聞こえた。「聞いてくれ」
「聞くから!」ミスリルが返した。「っていうか、嫌でも聞こえるから叫ぶな」
「叫ぶのは俺の意志じゃない」
そう語りながら、息を乱していた。
「奴らは俺を兵器にする……俺の人格は消える。わかるんだ、もうすぐだ。俺は楽になれる。だが、仲間を苦しめる……。それが心苦しい……」
「あんたを兵器に?」
「俺はラセル・ヤーガ。ミナルタ出身、ミナルタ陸軍士官学校卒業、忘れないでくれ。俺は――」
反乱軍の士官か、とミスリルは考えた。
「陸軍広報部、ラセル・ヤーガ少尉だ。潜伏活動中に……難民たちの中に……難民じゃない奴らがいると気付いて……捕らわれた。俺はラセル・ヤーガ」と、繰り返した。「そういう人間だったんだ。どうか忘れないでくれ。ミナルタ出身。プレスコ区七番通りの十九、父はナグ・ヤーガ。母はテフィル。仕立て屋をやっている。『五匹の猫の仕立て屋』だ。頼む、俺の死を……」
「伝えてやる」
ラセルが頷いた。
「行ってくれ。この頃、意識を保つのが難しい……お前たちを襲いたくない」
まだ教えてほしいことがあった。だが、苦悶の表情を見ていると、これ以上の話は本当に無理だとわかった。
「ラセル・ヤーガ、あんたのことは忘れないよ」
ラセルは呻き声で応じた。三人は後ずさるように、階段へと退避した。アエリエとイオルクを先に階段の上にやった。ラケルは懲罰房の奥の闇へ後退していった。
三人は来た道を通って元自警団本部を後にした。
ミスリルが先頭に立ち、一言も口を利かずに真っ暗な路地を縫い歩く。
第一城壁の西の突き当たりに着いた。
城塔に入りこみ、城壁の歩廊に上がる。見張りはいなかった。救世軍とその協力組織だけでは手が回りきらないのだ。
歩廊の真下の水堀に、天球儀の光が揺らいでいた。南の一角に目をやれば、火災が起きていた。救世軍の受け入れ先となっている場所だ。仲間たちは救世軍の合流の妨害に成功したらしい。規模からしてかなりの爆発が起きた様子が窺える。弩に仕込む黒色火薬が蓄えられていたのだろう。
ミスリルは両目に遠くの炎を宿し、イオルクを振り向いた。その炎の強さと激しさに、イオルクが体を震わせた。
「お前、知ってただろ」
黙っている。ミスリルは言葉を継いだ。
「言語活性剤とかいうのの存在だよ! あんたが無くした文書にその言葉が出ていた。何のことかわからなかったけど、今わかった。お陰様でな」
「言語崩壊は言語子の働きによって生じる」イオルクは目尻を垂らし、頷いた。「その原理を利用して、言語子を有効に操作する薬剤を復活させ得ると……それが救世軍幹部の説明だった。あんな使われ方……」
ミスリルは拳を握りしめ、頷いた。しばらく一人で頷き続け、怒りが去るのを待ってから、もう一度イオルクを睨みつけた。
そして一息に捲 くし立てた。
「あんたは生きて帰れ! 帰ってお偉いさん方に報告するんだよ。クソみたいな神官連中や政治家どもじゃなくて、ちゃんと西方領軍上層部に。あれが西方領軍とアーチャー家の認めたものだってな!」
そして、歩廊を南へと歩き始めた。
アエリエが、ごく冷静にイオルクに語りかけた。
「難民たちの様子は私たちが見てきます。もっともこんな時間に、非常用食料の炊き出しが行われているとも思えませんが……。あなたはそこの」城塔を目で示した。「階段を下りた所に隠れていてください」
そして、ミスリルを足早に追いかけた。
追いつくと、その隣に並んで歩いた。
「団長、大丈夫ですか?」
ミスリルは、伏せた目でアエリエを見やった。その目にはどこか気まずいような、恥じるような色があった。
「ああ」
「落ち着いていきましょう」
「大丈夫だ。わかってる」
歩廊を進み続けるが、二つ目の城塔を過ぎても、敵の気配はない。ミスリルが囁いた。
「あいつ、ラセル、兵器にされるって言ってたよな」
「ええ」
もしあれが、理性を失った状態でコブレン市内に解き放たれたら、どれほどの惨事になるだろう。それだけではない。もしも市民があのような姿かたちに変えられたら……。
二人とも、考えることは同じだった。ミスリルが、喉の奥で、クッ、と音を立てた。
歩廊の壁には、小壁体と呼ばれる石の遮蔽物が、等間隔に設けられていた。その小壁体の間が矢来 で塞がれるようになった。
矢来越しに、防衛用の林を見下ろせる場所に着いた。
林の向こうでは、難民たちが火を焚き、暖をとりながら眠っている。
コブレンの城壁に沿って、東から南、そして大道路に接する西へと火の帯が広がっている。
アエリエが息をのんだ。その火の帯が何を意味しているか理解したのだ。ミスリルも気付いた。
難民たちを、このように配置するために、食糧を開放して炊き出し所を作ったのだ。
「あいつら、難民たちを盾にする気だ」
アエリエが頷いた。これでは反乱軍がコブレンに近付けない。
風の唸りが耳に届いた。細長い物を振り回す音だった。ミスリルが扱う三節棍よりもっと細い物だ。
近い。
ミスリルはアエリエの首に腕をかけた。そのまま二人して、倒れこむように伏せた。
鋭い物が頭上を掠めた。矢来に激突し、一撃で粉砕した。割れた矢来と木屑が二人の上に降り注ぐ。
鞭だ。
その使い手が、歩廊の東側からやって来る。
「それの何がいけないの?」傲慢な女の声。「難民たちは喜んでるじゃない」
「ハラム」
ミスリルの声が殺意を帯びた。鞭の使い手、エーデリア・ハラムを牽制するように。アエリエの首から腕を外し、庇うように伏せた姿勢から片膝立ちになった。
エーデリアは肘を引き、鞭を引き寄せた。三節棍より射程が長く、扱いが容易で、厄介な武器だ。威力が予備動作の大きさに依存することを除けば、他に目立った欠点はない。先端に取り付けられた錘は、頭に当たれば頭蓋骨を砕き、腹に当たれば臓腑を破る。
無駄口を叩かずに、エーデリアは腕を振りあげた。頭の上で鞭を振り回し始める。
ミスリルも己の武器を抜いた。歩廊の石床を蹴り、同時に走り出す。右端の棍を右手で持った。
そして、鞭の射程範囲に飛びこむ直前、エーデリアの足へと投げつけた。
エーデリアが右の壁際へ跳びのく。彼女は鞭の速度を落とさざるを得なかった。ミスリルは一気に距離を詰めた。左の壁に当たって落ちた棍を、走りながら拾い上げた。
狭い歩廊で、二人の暗殺者が向かい合う。
射程が縮まれば、ミスリルのほうが有利だった。
自分のペースに持ちこめる手応えを得た。エーデリアの右腕を目がけて、下から上へと棍を振る。エーデリアは舌打ちし、紙一重で棍を回避すると、左の壁際へ寄り、歩廊から飛び降りた。
どこかの屋根に着地し、走り去る音が続いた。
ミスリルは壁から身を乗り出した。闇の底からエーデリアを見出すことは不可能だった。
「団長! 撤収しましょう」
アエリエが駆け寄り、緊張をこめて囁いた。
「あいつを――」
「口封じは必要ありません。我々はいつか彼らに宣戦布告をしなければならなかったのですから」
その言葉が、一滴の水のように心に落ちた。水は波紋のように広がり、アエリエの冷静さと共鳴する。昂っていた精神が、驚くほどの早さで鎮まっていった。
全く、彼女の言う通りだった。
「それもそうだ」ミスリルは武器を納めた。「撤収しよう」
南の区画の火災は収まりそうにない。
長居は無用だった。
二人の暗殺者は、イオルクを加えて自警団本部へと歩き続けた。屋根の上のルートはもう使えない。部外者にその道筋を教えることになるからだ。加えて、イオルクにできるだけ静かに歩かせるという手間も増えた。時折、カシャカシャという
路地を曲がると、長い下り坂に出た。坂の下には天籃石の一枚板の白い光が見えた。鏡の広場だ。
広場を覆うあの屋根に、一人の女が我が子を捨てる瞬間を、ミスリルは見たことがある。十代の少年の頃だった。寝静まった街で、女は白く輝く屋根の上でうずくまっていた。何をしているのかと、ミスリルは暗闇から目を凝らした。次第に、啜り泣いているのだとわかってきた。
女は胸に赤子を抱いていた。
その赤子を、意を決して大きな篭に収めたかと思うと諦めきれずに再び抱き上げて、頬ずりし、口づけた。啜り泣きが慟哭に変わり、いつまでも別れを惜しみ続けていたが、最後の口づけを与えて篭に寝かせると、何かを振り切るように立ち去った。屋根を下り、走っていった。ミスリルが近付くと、篭には一人の赤子と、その名を記した紙が入っていた。
暗殺者に育てられたミスリルは母親を知らない。市民の中に、ああして自分を手放した母親がいるということを考えたのは、その日が初めてだった。もちろん、母と己の出自についての本当のところはわからない。単に愛情がないから捨てただけかもしれないし、不義の子だから憎いとか、死産だったことにしたいとか、そういう理由かもしれない。それにコブレンにはもういないかもしれない。それでも構わなかった。
この街に、この体とこの名を与えてくれた人がいる。涙とともに口づけと抱擁をくれた人がいる。そのように信じていよう。この胸の中の、美しい母の想像を信じていよう。誰が母親かはわからない。だから、全ての人を守り抜こう。コブレンの十一万の市民ごと、その人を守ろう。そう己に誓ったのだ。それに、ミスリルは、この街が好きだった。
自警団本部の裏にたどり着いた。
本部には、屋根や木の枝の陰になって、誰にも見られずに中に入りこめるルートがあり、団員たちは皆そのルートを知っていた。同じルートを使っての侵入を防ぐための、適切な見張りの配置方法もある。〈タターリス〉がその配置方法を見破ってなければいいのだが。
ミスリルは侵入箇所に着くと、しゃがんで塀の煉瓦を奥へ押し、外した。通り抜けられるだけの穴が開くと、まず自分が通った。次にイオルクだ。太っているせいで難儀したが、どうにか通らせた。最後にアエリエが通過し、ミスリルと共に煉瓦を戻した。
噂の『地下からの不気味な呻き声』とやらは、表通りで聞こえるとのことだった。ミスリルはその報告から、あたりをつけていた。正門に近い建物の地下に、ミスリルが生まれる前から使われていない懲罰房がある。
本部の敷地内に、自分たち以外の人の気配はなかった。敷地の空気は、一ヶ月の不在の間にすっかり冷たく、よそよそしくなっていた。自警団本部はもう、自分たちの場所ではなかった。
目指す建物にたどり着いた。
裏口に大きな布が落ちていた。しゃがみこみ、確かめると、コブレン自警団の旗だった。切り裂かれ、踏みにじられた痕がある。アエリエと協力し、旗の近くの窓を外した。ちょっとしたコツあるのだ。その窓から中に入りこみ、再び窓を嵌める。
カンテラを回収し、火を入れ、地下を目指す。
階段室の扉を開けた途端、
階段には、何かを引きずった血の痕と、何故か大量の鶏の羽根が散乱していた。階段を下りきったところが懲罰房だ。円形の空間の壁沿いに、十三の鉄格子が並んでいる。空間の中央に腐臭の正体があった。豚の死骸だ。腹を食い破られている。そして木箱が積まれていた。一番上の木箱は小さい。ミスリルはカンテラを木箱の上に置き、その小さな箱を開けた。
親指大の小さな瓶が、箱に詰められていた。
「これは何だ?」
ミスリルが首を傾げると、イオルクが口から手を離し、制した。
「触ってはいけない! それは――」
「言語活性剤だ」
地響きのような声が、どれかの鉄格子の奥から答えた。ミスリルとアエリエは素早く背中合わせになった。声の正体を探しながら、言語活性剤という単語に、かつて一度出会っていることにミスリルは思い当たった。
アエリエから報告を受けた、イオルクが所持していた文書の内容。どこかの誰かが『言語活性剤』とやらを飲まされたという内容だったはずだ。
続けて、鉤爪状の物が石床を引っ掻く音がした。二人の暗殺者の目が、同時に階段の真横に位置する鉄格子へと向けられた。
房の奥から、カンテラの光がかろうじて届く範囲へと、音の正体が近付いてきた。
蜘蛛の脚だった。
ただ、あり得ないほど大きい。ミスリルの背丈の三倍近くはある。
蜘蛛には全身に八つの目があると、フーケ師から聞いたことがある。そう思い出したが為に、それが蜘蛛の脚だと気付いたのだ。ミスリルの目より少し高い位置に、真っ黒い目玉がついていた。
二本の脚が、カンテラの光の輪に入った。蜘蛛は脚を曲げていた。曲げてこの大きさならば、伸ばせばどれほどあるだろう。
それよりも、この生物は何だ?
「今喋ったのはお前か?」
ミスリルは動揺を隠しながら、低い声で尋ねた。
蜘蛛の長い脚が、更に折り畳まれた。その脚を、くるりと蠍の尾が巻いた。巨大な毒針が、鉄格子を挟んでミスリルの眼前に横たわる。
どのように接続されているのか、大蛇の胴が蜘蛛の脚の上でくねる。くねり、頭を下げた。
蛇の頭部についているのは、人間の顔だった。
ミスリルは、この生物のどこを打撃すれば動きを止められるか、反射的に計算した。それは身に付いた習性であると共に、理解不能のものを受け入れたくないという、ある種の逃避だった。
後ろでイオルクが盛大に嘔吐した。背中合わせに立つアエリエは微動だにしない。
檻の向こうの人間の顔が答えた。
「そうだ」
声が響く。ミスリルは首を横に振った。それから、自分が何を否定したくて首を振ったのか考えた。
話が通じることに安堵した。だが、話が通じることに、同じくらい絶望したのだ。その残酷さに。
「あの、まあ、馬鹿な質問だと思うけどさ……。あんた、何て生き物だ?」
「『捕食者』だ。連中はそう呼ぶ」
「連中って?」
質問を重ねながら、後ろのアエリエの硬直状態が解け、少しずつ力を抜いていくのを感じた。『捕食者』が答える。
「俺をこうした奴らだ――」
蛇の首が振り回され、人間の顔が何度も檻に叩きつけられた。顔が、苦痛の叫び声をあげた。ミスリルは耐えきれず顔を背けた。同時に、呻き声の正体を悟った。檻を叩く音がやみ、悲鳴も止まった。
「言語子を、操作して、死んだ時に」『捕食者』が、喘ぎながら言葉をつないだ。「生きている時に、それ、を、のまされて、殺された」
「あんた――」
「この動物たちも、操作――」
そしてまた、絶叫。ミスリルは今度は耳を塞いだ。
「――された」再びの言葉。「あいつらによれば――生命の危機的状態で――言語子が活性化されると――」再び叫び出しそうな気配を見せたので身構えたが、『捕食者』は堪えた。「体を修復し、強化すると――細胞を増殖させ、結合させると――言語子を補給するんだ。生きたまま食って――」
「それでか」次第に事態が飲みこめてきた。「それであんたは家畜を生で食わされてるんだ。ケダモノみたいに!」
「食うのは言語子だ」
『捕食者』の顔が苦悩に歪んだ。
「言語子を食わなければ、体を保てない。食って……花を捧げなければ見えない」
「花を?」
「花が見えるんだ。白い花だ。お前の体からも咲いている。隣の女からも……そこの男……西方領の奴か? そいつからも……」
確かめるまでもなく、自分の体から花など生えていないことはわかる。
「花を集めるんだ」
「なんで……」
「乙女が探している。捧げなければならない」
「乙女」と、アエリエ。「白い花を探す乙女。……団長、これは……」
ミスリルは息をのんだ。
「『天球の乙女』か?」
「『天球儀の乙女』のほうかも知れません。教えてください、その乙女の髪の色は――」
三度目の咆哮。三人は耳を塞ぐのみならず、その場に屈みこんだ。音の波動が全身を打つ。この人間の顔以外にも、恐らく他の生物の顔や発声器官が、見えない箇所についているのだ。でなければ、これほど忌まわしい声は出せない。
「聞いてくれ!」手を離さなくても言葉が聞こえた。「聞いてくれ」
「聞くから!」ミスリルが返した。「っていうか、嫌でも聞こえるから叫ぶな」
「叫ぶのは俺の意志じゃない」
そう語りながら、息を乱していた。
「奴らは俺を兵器にする……俺の人格は消える。わかるんだ、もうすぐだ。俺は楽になれる。だが、仲間を苦しめる……。それが心苦しい……」
「あんたを兵器に?」
「俺はラセル・ヤーガ。ミナルタ出身、ミナルタ陸軍士官学校卒業、忘れないでくれ。俺は――」
反乱軍の士官か、とミスリルは考えた。
「陸軍広報部、ラセル・ヤーガ少尉だ。潜伏活動中に……難民たちの中に……難民じゃない奴らがいると気付いて……捕らわれた。俺はラセル・ヤーガ」と、繰り返した。「そういう人間だったんだ。どうか忘れないでくれ。ミナルタ出身。プレスコ区七番通りの十九、父はナグ・ヤーガ。母はテフィル。仕立て屋をやっている。『五匹の猫の仕立て屋』だ。頼む、俺の死を……」
「伝えてやる」
ラセルが頷いた。
「行ってくれ。この頃、意識を保つのが難しい……お前たちを襲いたくない」
まだ教えてほしいことがあった。だが、苦悶の表情を見ていると、これ以上の話は本当に無理だとわかった。
「ラセル・ヤーガ、あんたのことは忘れないよ」
ラセルは呻き声で応じた。三人は後ずさるように、階段へと退避した。アエリエとイオルクを先に階段の上にやった。ラケルは懲罰房の奥の闇へ後退していった。
三人は来た道を通って元自警団本部を後にした。
ミスリルが先頭に立ち、一言も口を利かずに真っ暗な路地を縫い歩く。
第一城壁の西の突き当たりに着いた。
城塔に入りこみ、城壁の歩廊に上がる。見張りはいなかった。救世軍とその協力組織だけでは手が回りきらないのだ。
歩廊の真下の水堀に、天球儀の光が揺らいでいた。南の一角に目をやれば、火災が起きていた。救世軍の受け入れ先となっている場所だ。仲間たちは救世軍の合流の妨害に成功したらしい。規模からしてかなりの爆発が起きた様子が窺える。弩に仕込む黒色火薬が蓄えられていたのだろう。
ミスリルは両目に遠くの炎を宿し、イオルクを振り向いた。その炎の強さと激しさに、イオルクが体を震わせた。
「お前、知ってただろ」
黙っている。ミスリルは言葉を継いだ。
「言語活性剤とかいうのの存在だよ! あんたが無くした文書にその言葉が出ていた。何のことかわからなかったけど、今わかった。お陰様でな」
「言語崩壊は言語子の働きによって生じる」イオルクは目尻を垂らし、頷いた。「その原理を利用して、言語子を有効に操作する薬剤を復活させ得ると……それが救世軍幹部の説明だった。あんな使われ方……」
ミスリルは拳を握りしめ、頷いた。しばらく一人で頷き続け、怒りが去るのを待ってから、もう一度イオルクを睨みつけた。
そして一息に
「あんたは生きて帰れ! 帰ってお偉いさん方に報告するんだよ。クソみたいな神官連中や政治家どもじゃなくて、ちゃんと西方領軍上層部に。あれが西方領軍とアーチャー家の認めたものだってな!」
そして、歩廊を南へと歩き始めた。
アエリエが、ごく冷静にイオルクに語りかけた。
「難民たちの様子は私たちが見てきます。もっともこんな時間に、非常用食料の炊き出しが行われているとも思えませんが……。あなたはそこの」城塔を目で示した。「階段を下りた所に隠れていてください」
そして、ミスリルを足早に追いかけた。
追いつくと、その隣に並んで歩いた。
「団長、大丈夫ですか?」
ミスリルは、伏せた目でアエリエを見やった。その目にはどこか気まずいような、恥じるような色があった。
「ああ」
「落ち着いていきましょう」
「大丈夫だ。わかってる」
歩廊を進み続けるが、二つ目の城塔を過ぎても、敵の気配はない。ミスリルが囁いた。
「あいつ、ラセル、兵器にされるって言ってたよな」
「ええ」
もしあれが、理性を失った状態でコブレン市内に解き放たれたら、どれほどの惨事になるだろう。それだけではない。もしも市民があのような姿かたちに変えられたら……。
二人とも、考えることは同じだった。ミスリルが、喉の奥で、クッ、と音を立てた。
歩廊の壁には、小壁体と呼ばれる石の遮蔽物が、等間隔に設けられていた。その小壁体の間が
矢来越しに、防衛用の林を見下ろせる場所に着いた。
林の向こうでは、難民たちが火を焚き、暖をとりながら眠っている。
コブレンの城壁に沿って、東から南、そして大道路に接する西へと火の帯が広がっている。
アエリエが息をのんだ。その火の帯が何を意味しているか理解したのだ。ミスリルも気付いた。
難民たちを、このように配置するために、食糧を開放して炊き出し所を作ったのだ。
「あいつら、難民たちを盾にする気だ」
アエリエが頷いた。これでは反乱軍がコブレンに近付けない。
風の唸りが耳に届いた。細長い物を振り回す音だった。ミスリルが扱う三節棍よりもっと細い物だ。
近い。
ミスリルはアエリエの首に腕をかけた。そのまま二人して、倒れこむように伏せた。
鋭い物が頭上を掠めた。矢来に激突し、一撃で粉砕した。割れた矢来と木屑が二人の上に降り注ぐ。
鞭だ。
その使い手が、歩廊の東側からやって来る。
「それの何がいけないの?」傲慢な女の声。「難民たちは喜んでるじゃない」
「ハラム」
ミスリルの声が殺意を帯びた。鞭の使い手、エーデリア・ハラムを牽制するように。アエリエの首から腕を外し、庇うように伏せた姿勢から片膝立ちになった。
エーデリアは肘を引き、鞭を引き寄せた。三節棍より射程が長く、扱いが容易で、厄介な武器だ。威力が予備動作の大きさに依存することを除けば、他に目立った欠点はない。先端に取り付けられた錘は、頭に当たれば頭蓋骨を砕き、腹に当たれば臓腑を破る。
無駄口を叩かずに、エーデリアは腕を振りあげた。頭の上で鞭を振り回し始める。
ミスリルも己の武器を抜いた。歩廊の石床を蹴り、同時に走り出す。右端の棍を右手で持った。
そして、鞭の射程範囲に飛びこむ直前、エーデリアの足へと投げつけた。
エーデリアが右の壁際へ跳びのく。彼女は鞭の速度を落とさざるを得なかった。ミスリルは一気に距離を詰めた。左の壁に当たって落ちた棍を、走りながら拾い上げた。
狭い歩廊で、二人の暗殺者が向かい合う。
射程が縮まれば、ミスリルのほうが有利だった。
自分のペースに持ちこめる手応えを得た。エーデリアの右腕を目がけて、下から上へと棍を振る。エーデリアは舌打ちし、紙一重で棍を回避すると、左の壁際へ寄り、歩廊から飛び降りた。
どこかの屋根に着地し、走り去る音が続いた。
ミスリルは壁から身を乗り出した。闇の底からエーデリアを見出すことは不可能だった。
「団長! 撤収しましょう」
アエリエが駆け寄り、緊張をこめて囁いた。
「あいつを――」
「口封じは必要ありません。我々はいつか彼らに宣戦布告をしなければならなかったのですから」
その言葉が、一滴の水のように心に落ちた。水は波紋のように広がり、アエリエの冷静さと共鳴する。昂っていた精神が、驚くほどの早さで鎮まっていった。
全く、彼女の言う通りだった。
「それもそうだ」ミスリルは武器を納めた。「撤収しよう」
南の区画の火災は収まりそうにない。
長居は無用だった。