霧の中の行進

文字数 5,218文字



 2.

 空は白く雲に覆われていた。山の中腹から出る霧で、都市コブレンも白かった。白さの中に浮いて見える光り輝く物体は、街灯に収められた天籃石で、それが払うべき夜の闇はもうどこにも存在しなかった。光は霧の中にミスリルたちの影を映しはしなかった。ミスリルたちは全員に指示を出し、できるだけ白い服を着させていた。霧の中の白い服が、夜の中の黒い服と同じ働きをしてくれることを期待した。
 コブレン自警団の団員たちは、三人から五人ずつに分かれて拠点を引き払っていた。これでもう、新しい自警団本部には誰もいない。
 拠点を出た彼らは、何度も点検と検討を重ねて決定した、三つの道を通って移動を続けていた。目指すはコブレンの北の区画に存在する〈タターリス〉拠点、及びそれが囲む聖遺物、つまり地下に地球文明品を隠した旧ウィングボウ家の別邸跡地。
 勝手知ったる街であり、歩き尽くした区画だった。だがその慣れた道で、中央の区画にたどり着くまでに、二度敵を見かけた。ミスリルはアエリエ、そしてジェスティを連れて行動していた。二度ともやり過ごした。三回目はそうはいかなかった。敵は二人だった。ジェスティに周囲を警戒させながら、アエリエと二人で一人ずつ民家の陰に引きずり込み、声を出させず暗殺した。
 後ろからはテスがついて来ているはずで、彼はシンクルスとレーンシーを連れている。その後ろにはオーサー師が弟子のラザイとレンヌを連れて続く。リアンセとカルナデルは、他の三人組の自警団員と同行し、別の道を使っているはずだった。
 殺した敵の死体を民家の裏口に引き込み、隠していると、街が微かに揺れた。アエリエとミスリルは、死体を処理する手を止めた。
 息を詰めている間にも揺れは続いた。
 大きくなってくる。
 家の中で、皿が滑り落ち、割れる音がした。ジェスティが裏口から顔を覗かせ、来るよう促した。ミスリルは死体の両脇に入れたままだった手を引き抜くと、暗い板張りの廊下を渡り、民家を出た。
 しゃがんだジェスティが強ばった顔で塀の角を指さした。ミスリルは塀から頭が出ないよう姿勢を低くして移動し、角にたどり着くと、しゃがんで向こうを窺った。
 家々の向こうの大通りを、小山のような物体が移動している。その移動にあわせて震動が起きるのだ。
 ラケル。
 その化生はもう、ラケルではなかった。彼の顔がついていたはずの蛇の首はなくなっていた。役に立たないと判断されたのだろう。
 体がカッと熱くなり、べたつく霧がそれを冷やした。
 ミスリルは覗くのをやめ、アエリエ、そしてジェスティと共に、しゃがんだまま捕食者が通り過ぎるのを待った。
 コブレン自警団に向かっているに違いない。襲撃が入れ違いになったのだ。
 間一髪だった。
 震動が大きくなり、捕食者が通り過ぎると小さくなっていった。ミスリルはその間、ほとんど息をしなかった。仲間たちも気配を消して、誰も敵に見つからなかった。
 だが、こうなったからには後は時間の問題だ。奴らはすぐに、もぬけの殻となった自警団本部を見る。捕食者が十分に遠ざかると、すぐに立ち上がった。
 北へ。
 模倣された昼の都と呼ばれるコブレン。本物の昼の世界はいよいよ迫り来る。
 八百年待っていた。八百年守ってきた。天示天球派という異端。〈タターリス〉という、異端の中の異端。その本部は、かつて預言者が時を過ごした邸宅跡地を取り囲み(そび)えている。〈タターリス〉本部の建物群を囲む壁の上部に、返しと呼ばれる反り返った仕掛けがあり、よじ登っての侵入を困難にしている。壁の向こうは一切見えない。
 敷地の頭上はかつて都市北部を覆っていた天籃石の天蓋の、地球文明品の遺物である頑丈な金属の骨組みと、キャットウォークが守っている。
 今年は春の年で、その春も深まりつつある。霧と雨の季節だ。今ばかりは骨組みとキャットウォークに見張りを配置しても役に立たない。
 キャットウォークには、ジェノスが一人で立っていた。全ての閉ざされた窓を見て、閉ざされた扉を見ていた。キャットウォークはどこにも連結されておらず、途切れ、その先端にジェノスはいた。教典を左手に持ち、右手を胸に当て、腰には両手剣を()いている。ジェノスは霧の中で囁いた。
「我が名はジェノス。我が名は殺戮。我は堕ちたる子らの血を欲する剣なり。我は古の知恵を愛す者なり。清らかなる預言者を信奉し、我らが造物主を信奉する者なり」
 霧の底、固く門が閉ざされる音が遠く聞こえた。
「我、冒涜の嵐に打たるるときも父なる主と共にあり。我、迫害の大波に揉まるるときも母なる主と共にあり。我、裁きの火の守り人なり。燃え盛るもの全て洗い清めるみ手のみ使いなると信ずる者なり……」

 ※

 黒い装束に身を包む二人組の〈タターリス〉の暗殺者が見回りを終え、敷地を囲む壁に取り付けられた門を叩いた。門扉は木製で、複雑な構造ではない。落とし扉やトラップなどもなく、障害と呼べるものは扉を補強する鉄の枠と閂、そして壁の上の見張り役くらいのものだった。門を叩く二人組の内一人は見習いで、もう一人は経験のある年長者だ。壁の上で見張りに当たるのも同じような二人組で、決められたリズムで扉を叩く音を聞き、壁の内側の手すりのない階段を下りていった。
 見張りは閂を外し、鉄の枠で固定された重い両開きの扉の、右側だけを引いて開けた。
 見回りを終えた二人の仲間をねぎらうのも、交代を呼ぶのも、仲間を中に招じ入れ、扉を閉ざしてからだ。無駄に開けておくことはできない。今は拠点外の見回りも、何組かにわかれて二十四時間休みなく行われている。今まさに、コブレン自警団を排除するべく、少なからぬ戦闘部隊の一団が奴らの拠点に向かっているところだ。
 見習いを後ろに従え、熟練の戦闘員が門に足を踏み入れる。早く入ってきて欲しかった。襲撃にかなりの人手を割いたため、今は〈タターリス〉の守りが薄い。そのことが気になるのだ。
 いきなり、殴りつけるような音が響き、熟練の戦闘員が背中をのけぞらせた。
 喉で音を立て、大きく開いた口から、どろりとした血が流れ落ちる。
 膝を曲げ、腰を落として何かに耐えるような姿勢をした。だが、ほどなくして前のめりに倒れた。
 その背には、羽根のついた矢が刺さっていた。鎖帷子を貫通し、かなり深く突き刺さっているのがわかる。巻き上げ機付きの弩から放たれたものだろう。
 門の内側にいた見習いは、パニックに陥って門扉を閉ざそうとした。見回りから帰ってきた見習いは、門扉に張り付き押し返した。どのみち熟練者の死体があっては門扉は閉じられない。扉を挟んで押しあう内に、外側にいる見習いが、短いが鋭い悲鳴をあげた。どす、どす、と矢が刺さる音。何本かが門扉を貫通し、内側にいる見習いに(やじり)を見せた。
 見習いは悲鳴を上げた。
 強い力で突き飛ばされ、門が開いた。
 壁の上のもう一人の見張りが、鋭く呼び子を鳴らす。
 門を突破し、いよいよコブレン自警団の戦闘員たちが、〈タターリス〉拠点に雪崩を打って入り込んできた。
 そして、霧の向こうに動く、もはやただ目立つばかりとなった黒い戦闘服姿の〈タターリス〉戦闘員たちを、弩で打ち倒していく。
 その物音で、拠点外部の民家に身を潜めるシンクルスは、突破に成功したことを知り得た。間もなく火薬の爆発音が轟き、それは続き、重なり、響きあった。シンクルスの隣では、レーンシーが真っ青になって膝を抱えている。二人は民家の二階の子供部屋で、窓つきの壁とベッドの間にしゃがみ込み、窓枠に置かれた木の人形や、リースのかかった部屋の戸などを落ち着きなく見て過ごしていた。聖遺物へ至る道の確保に成功したら、コブレン自警団の団員たちが二人を呼びに来る。ミスリルやアエリエと何度も討議し、地球文明の遺跡のありがちな構造について語り合い、最終的なルートを決定した。だが、〈タターリス〉拠点内部の様子などは誰も知らない。たどり着ける保証などなかった。
 間近で、ようやく声が聞こえた。
「狂人が逃げたぞ!」
 それは、どうやらコブレン自警団の団員の声ではないようだった。
「探せ!」
 シンクルスは床に両膝をついたまま、そっと外の様子を窺った。コブレン自警団の攻撃を切り抜けた敵の、黒い衣服が五、六人分、霧の白い闇に滲んでいた。
 黒色火薬の爆発音は、まだ続いている。
 その反響の合間に、どこかの家の戸が乱暴に開け閉めされる音が響いた。
「どこかに入ったぞ」
 シンクルスは体を低くし、完全に室内に姿を隠した。だが声は聞こえた。
「探せ!  あいつだけは逃が」
 声は途中で短い悲鳴に変じた。コブレン自警団の誰かに殺されたのだろう。
「レーンシー」シンクルスが早口で呼ぶと、レーンシーはびくりと震え、顎をあげて怯えた両目で見た。「ここを出よう。敵が探しに来るやもしれぬ」
「はい」
 窓の向こうから見えぬよう、中腰になってベッドを回り込み、部屋の戸に向かった。レーンシーは足が震えており、一度転んだ。だがすぐ自分で立ち上がり、立ち止まって振り向いたシンクルスについて来た。
 部屋を出た目の前が一階に下りる階段で、色ガラスの丸い飾り窓が壁に取り付けられていた。万一にも姿を見られぬよう、体を屈めて通り過ぎる。階段を下りるほど暗くなっていく。窓のない真っ暗な廊下を抜けて台所にたどり着いた。台所の戸に張り付いて、外の様子に耳を傾け、動き回る足音がないことを確かめると、細く開いた。
 戸の向こうは洗濯場になっていて、霧が漂うだけだった。
「行こう」
 シンクルスは戸を開け放つ。レーンシーが尋ね返した。
「どこへ」
「敵は何者かを捜している。巻き添えで俺たちが見つかるのを防ぐのだ。ひとまずは団員たちと接触しよう」
 洗濯場を抜け、家の表にたどり着き、通りに出た。一か八かだった。
 家を出て霧の向こうに最初に見つけた人影は、黒い服をまとっていた。
 シンクルスはレーンシーの手を引き、家々の間の路地に引きずり込んだ。その時、石畳の間の砂が音を立てた。レーンシーが、ひゅっ、と息を吸い込む。
「誰だ?」
 路地は階段状の下り坂になっていた。シンクルスはレーンシーに目で合図をし、それから一気に階段坂を駆け下り始めた。
 追っ手が迫ってきているに違いなかった。階段坂は緩やかにカーブしており、やがて分岐が訪れた。三角形の敷地に建つ小さな馬具の店を挟んで、右はまっすぐな道、左はそのまま下りの階段坂となっていた。
 シンクルスは迷わず左の階段坂を選んだ。
 坂の幅が広くなっていく。
 階段は扇状に変じ、だんだん裾広がりになり、走りにくくなっていった。気ばかり焦る。
 ついぞ平坦な場所に出た。黄色と褐色の石畳を組み合わせて模様が作られた、円形の小さな広場だった。
 広場の中央に佇む影があった。
 まずシンクルスが、続けてレーンシーが、階段坂を背に足を止めた。レーンシーはほとんどぴたりとシンクルスの背に体をくっつけていた。
 シンクルスは無言で、テスから借りた灰白色のマントの内側に手をやった。折り畳み式の槍を抜き、振り回す。連結器が音を立て、一振りの槍になった。
 だが、その音にも気配にも、広場の人物は反応しなかった。
 シンクルスは問う。
「何者ぞ」
 人影は、うなだれているというよりは、ひどく猫背だった。両肩には力がなく、腕が体の前に垂れている。シンクルスは自分から人影に歩み寄った。
 間近に寄っても、相手は顔を上げなかった。男だということは、体格でわかった。そして、気が狂っていることは、雰囲気でわかった。
 伸びっぱなしの焦げ茶の髪で顔を隠している。介護者に強引に髭を剃られたのか、顎や頬は傷だらけだった。その肌の感じから、まだ若いのではないかと思われた。
「そなた――」
 狂人が顔を上げた。
 ぎらつく視線を浴びせられ、シンクルスは息を止めた。
 レーンシーやレーニールと再会したとき同様の感覚で、知っている男だと思った。この人物とは何らかの縁があったはずだ。だが、あまりに変わりすぎていて、わからないのだ。
「シンクルス」
 狂人は、見た目の印象より遙かにしっかりした口ぶりで、いきなり言い当ててきた。
「お前……シンクルスじゃないか」
「兄さん」
 レーンシーが呼びかけたときには、シンクルスも理解していた。
 何故、この男がここに?
 このざまは何だ?
 レーンシーが、高い声で重ねて呼んだ。
「ハルジェニク兄さん!」
 悲痛に満ちたその声は、二人の運命を、ハルジェニクとシンクルスの両方に告げていた。
 どちらかが、今、この街で、必ず死ぬことを


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