滅びの刻限

文字数 4,498文字

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 実際に、神官たちの抵抗がどれほどだったかはわからない。だがシンクルスは、ついぞウィングボウ家別邸跡地、その地下の聖遺物へ至る入り口にたどり着くまで神官の死体を見なかった。戦闘で倒れたコブレン自警団の団員の姿も見なかった。
 聖遺物への入り口は、八百年前の素材と技術で建てられた立派な邸宅の中にあった。小屋の周囲には空堀(からぼり)が設けられ、木製の跳ね上げ式の橋が下ろされていた。
 レーンシーを後ろに連れて橋を渡るさなかにも、シンクルスの頭の中は、ハルジェニクの最期の姿と声でいっぱいだった。
 融合。それは苦痛を伴うだろうか。想像を絶する恐怖だろうか。
 自分が何をしたのか、シンクルスはわかっているつもりだ。だが、ではどうすればよかったのだろう? ハルジェニクが要求する通り、話を聞いてやればよかったのか? それは、シンクルスにはわからない。それは誰にもわからない。
 橋を渡りきる直前、シンクルスはカフスボタンを失った。どのような原因かはわからない。右腕に違和感があり、たくしあげていた衣服の袖が落ちてきた。本来一対であるべきだが、片側分しかなかった矢のモチーフのカフスボタン。古道具屋で購入した、自らの出自を思い起こさせるものだった。それがいきなり弾け飛び、シンクルスから離れた。シンクルスは走りながら振り向いた。カフスボタンは橋の縁に引っかかることなく、手を振るように輝きながら、空堀の闇へ落ちていった。
 振り向くのをやめた。
 軽やかに橋を渡りきった。
 前庭を突っ切り、ポーチを上がって扉が開かれた邸宅に駆け込む。
「こっちだ!」
 エントランスの奥の扉から団員が顔を覗かせ、呼んだ。広間を突っ切り、幾つもの大部屋と小部屋を抜け、高い柱が並ぶ廊下の側廊の壁に造られた隠し扉の中の部屋に入った。
 部屋の中には跳ね上げ戸(トラップドア)があるだけで、その手前でコブレン自警団の戦闘員の一人が待機していた。シンクルスと同じくらいの年の青年で、片手を上げてシンクルスとレーンシーを制した。
 跳ね上げ戸の下を覗き込むと、白い階段が明るい空間へと下りていて、まだ怒鳴りつけるような声が聞こえていた。
「武器を置けって言ってるだろう!」「そこのお前! 死にたいのか!」そして、「もう決着はついたんだよ!」
 奥のほうから、一人の神官が引きずり出される音と声が聞こえた。
「よせ、抵抗するな!」
 恐らく、神官の声。
「ライトアロー家とアーチャー家の血が来たんだぞ!」
 それきり抗弁の声はやみ、地下は静まり返った。
 滅びを止めるという目的は、敵の神官たちにとっても同じで、子午線上に仕掛けられた〈青い光〉の罠の発動を止めるには、盟約御三家の内二家の反対が必要だ。その内の一つ、彼らが確保していたアーチャー家のハルジェニクは失われた。
 しかし、とシンクルスは疑問を抱く。
 ウィングボウ家は八百年前に、ライトアロー家は九年前に、その血を絶たれたことになっている。アーチャー家の血だけを手に入れて、どうするつもりだったのだろう? ライトアロー家の血も手に入れる手段があったのだろうか?
 誰かが階段を上がってくる。テスが姿を見せた。
「もう大丈夫」と、ゆっくり喋る。「来てくれ」
 階段は、大人がすれ違えるだけの幅があった。シンクルスはレーンシーを見やった。怜悧(れいり)な顔からは血の気が失せ、凛とした勇敢さゆえではなく、他にどうしようもないからここにいる、といった風情だった。シンクルスはレーンシーを哀れに思った。彼を憎んでいたシンクルスでさえ、その姿と記憶を振り払えないでいるのに。もう化生と融合しきった頃だろうか、まだだろうか……。
 シンクルスはレーンシーの背に触れ、促した。テスが背を向ける。先頭のテスとの間にレーンシーを挟み、守るように、シンクルスは彼女の後ろに続いた。
 階段の下の廊下は、思いのほか広かった。階段の幅の三倍はあるだろう。その右手側に、武器を奪われた神官たちが一列に立たされていた。一定の間隔でコブレン自警団の団員が立ち、見張っている。天井ははじめは低く、手を伸ばせば触れられそうなほどだ。だが廊下は緩やかなスロープになっていた。奥へ進むほど天井が高くなっていく。
 神官の一人が尋ねた。
「ライトアロー家の者か?」
 すれ違いながら答える。
「左様」
 他に何も言う必要はなかった。
 分岐が現れ、右の道には変わらず神官たちが立たされているが、左の道には誰もいなかった。テスは左の道へと二人を導いた。シンクルスの背後で動きが起きた。
「出ろ、お前たち」
 神官たちが外に連れ出されていく。その気配と物音が、遠くなり、じきに感じられなくなった。
 廊下はずっと下りのスロープのままだった。天井はもう、見上げても薄ぼんやりと見える程度に遠い。三人の足音が高い天井で響いている。照明は、左右の壁の、シンクルスの頭の高さで十歩おきに取り付けられているだけだった。すべて、台座に置かれた剥き出しの天籃石だった。
 そして、その部屋にたどり着いた。
 つい先ほどまで神官たちが立ち働いていた気配が感じられる。円形の部屋で、入り口から突き当たりまでは目測で五十歩ほどだろう。そこここに置かれた天籃石の裸石の白い光、左右に五列ずつ並ぶコンソールの緑や赤の光が空間を染めている。
 物珍しそうに見回すテスの後ろから、シンクルスは部屋の中央の通路に出て、奥へ歩いていった。緑の島の療養所で見たのと同じ緑の光の幕が、弧を描く壁の手前に広がっていた。
 緑の幕は、神官たちの足掻きを映していた。
 大きく表示された地球文字による文字列を、シンクルスは目に入れると同時に読み切った。
『言語生命体独立統治に関わる条項五章十七項に基づく子午線上の環境維持装置発動措置に関する状況』
 その下に、第一の子午線、東部標準時子午線における発動状況が記されていた。
 緑の文字で、『発動済み』。
 その下は、第二の子午線、神事局子午線における発動状況が、同じく緑の文字で記されている。
『2日 0時間5分25秒』。
 最後は第三の子午線、初度子午線、つまり南西領標準時子午線だ。
『32日 0時間5分25秒』
 その下は円グラフだった。三分割されて、三分の二が緑に染まり、三分の一が赤に染まっている。
 緑の部分を読んだ。
『アーチャー家 賛成』
 そして
『ライトアロー家 賛成』
 赤の部分はこうだった。
『ウィングボウ家 反対』
 恐る恐るシンクルスの後ろから幕を覗き込んでいたレーンシーが、あ、と声を上げた。
 キシャかウィングボウ家の誰かが、ウィングボウ家滅亡の前にしたに違いない。
 シンクルスもまた、神官たちはハルジェニクを手に入れるだけでよかったのだと悟った。三家のうち二家の反対があれば、発動を阻止できるのだ。まだ王国中央の、そして王国西部の人々を救うことができる。
 幕の前のコンソールに手をかけた。手を置くための場所があった。
「システム、応答せよ!」掌に、ちりちりとした刺激を受けた。「我が名はシンクルス・ライトアロー」続けて、目の表面に刺激を受ける。静電気が走り、全身の産毛が逆立った。
「ライトアロー家当主として、条項発動に反対する!」
 画面の右下に細かい無数の文字列が現れ、消えていく。シンクルスの体を調べているのだ。
 そして、円グラフの三分の二が赤に染まった。
『ライトアロー家 反対』
「やった!」
 いささか良家の子女らしからぬ一面を見せ、レーンシーが少女のように叫んだ。いつの間にやらテスも真横にいて、画面を覗き込んでいた。
 だが興奮は、発動状況をもう一度画面上の発動状況を確認し、消えた。
『神事局子午線における発動状況 実行まであと2日 0時間4分20秒』……19秒……18秒……17秒……16秒……。
「何故。何故停止しない?」
 問いかけに答え、円グラフの横に新しい文字列が現れた。
『発動停止にはアーチャー家の反対が必要です』
「そうか」シンクルスは喉仏を上下させ、生唾をのんだ。「罠の発動は個々の事象ではない。三カ所で一つの罠……東方領で発動した時点で、発動済みなのだ」
 三家のうち二家の反対で停止できるのは、その発動においてのみだ。発動前ならばその可否を示すことができる。
 一度発動してしまったら、以降は御三家すべての反対が必要となる。
「シンクルスさん!」切羽詰まった声で呼びかけられ、我に返った。「場所を代わってください!」
 シンクルスはもどかしい思いに歯噛みしながらコンソールの正面からどいた。レーンシーが操作板に右手を置く。そして、先ほどとは別人のような威厳ある態度でこう告げた。
「我が名はレーンシー・アーチャー。アーチャー家の総意として、条項発動に反対します!」
 シンクルスのときと同様、少しの間が空いた。表示される時間はなお残酷に減っていく。
 アーチャー家の意思表示が『反対』になることはなかった。
『拒否権限がありません』
「どうして!」
 無情な宣告に、レーンシーが身を乗り出した。人ならざるもの相手に食ってかからんばかりだ。余計な口を一切挟まず見守っているテスも、事態が何も変わっていないことを把握している。まっすぐ光の幕を見つめる目には、焦燥が見え隠れしている。強く結ばれたテスの唇に目を落としたとき、シンクルスは理解した。
「レーンシー、わかったぞ。そなた、地球人として認識されているのだ。だから」
 音を立て、レーンシーがゆっくり息を吐き出していく。
 そのまま倒れるのではないかと思った。だがそれほどか弱くはなかった。
 愚かなことをした。
 この程度、予測しておくべきだったのだ。
 何故思い当たらなかったのだろう?
 ハルジェニクを生かしておくべきだった。
 タターリスの暗殺者たちがしたように、彼をここに連れてくるべきだった。それによって、彼を英雄に仕立てあげてしまうのだとしても。個人的な復讐の機会を永遠に失うのだとしても。
 誰か。
 誰か他に、アーチャー家の者がいないだろうか。この事態を知っている者。キシャが知り、その信奉者たちが伝えたこの事実を知っている者が。どこかで、反対をしてくれぬだろうか。
 シンクルスもレーンシーも、どこかの誰かという考えを希望と呼ぶほど愚かではない。
 レーンシーはコンソールに手を置いたまま、微動だにせず光の幕を見つめている。彼女がこちらを向くことを、シンクルスは想像した。こう尋ねることを。『どうしましょう、シンクルスさん』。
 考えてもわからない。あと二日で、王国中部に住まう大量の人々が殺戮され、消滅を免れた者は言語崩壊によって化生となり果て、王国西部に押し寄せる。
 何ができるというのだ?
 よく見たら二日を切っていた。
『神事局子午線における発動状況 実行まであと1日 23時間58分50秒』……49秒……48秒……。


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