外道

文字数 9,003文字

 ※

「中に誰かいる」
 後ろでイオルク・ハサが言った。テスは彼を連れてホテルから脱出しようとしていたところだった。
「窓に影が見えた! 取り残されているんだ!」
 イオルクは、太っている割に俊敏だった。テスが振り向いたときにはもう、背を見せ、まだ火の手の回っていない南棟へと駆け出していた。
「重要な資料は全部焼き払ったみたいね」
 イオルクが見た人影、リアンセは、部屋という部屋を駆け足で見て回りながら、机の引き出し、物入れ、戸棚の類をひっくり返していた。
「本当に何も残ってないじゃない! せっかく来たのに」
「幸運は二回もありゃしないって」と、カルナデル。「一回目の幸運で手紙をなくして、学習したんだろ?」
 絨毯の敷かれた大部屋で、絨毯と机の間の空間を覗き込んでいたリアンセが、部屋の中央に突っ立ったままのカルナデルに、八つ当たり気味に言い放つ。
「あなたも手伝って!」
 カルナデルはとぼけて、
「何を?」
「決まってるでしょ? 落とし物がないか調べるのよ。せっかく来たんだからタダでは帰れないわ!」
 すると、部屋の戸が外から開け放たれた。
 戸口に現れたのはイオルク・ハサその人で、床に手をついた姿勢のままでいたリアンセは、彼と目があった瞬間硬直した。
 イオルクも同じだった。目を見開き、口をぽかんと開けている。その後ろにテスが追いついた。
「……聞かれる前に答えてあげるけど」
 リアンセが先に衝撃から立ち直った。
「私、こないだ会ったときに名乗ったような身分の人間じゃないの」
「君は」
 立ち上がり、膝に付いた埃を払うリアンセに、イオルクが瞬きしながら問いかける。
「……ああ、わかった。情報部の軍人だね。手紙の件も君が?」
 文書貼り出しの件についてはミスリルがやったことになっていると、アエリエから説明を受けていた。いずれにしろリアンセには、南西領陸軍情報部がそれをしたなどと口が裂けても言う気はない。
「手紙? 何のこと?」
「出よう」テスがイオルクの後ろから割り込んだ。「ハサ大尉、早くしないと取り残されてしまう」
 やがてホテルの裏手から、イオルクとそれを守るテス、協力者であるリアンセとカルナデルが出てくるのを、ミスリルが見つけた。ミスリルは市庁舎を取り囲む壁の外階段を駆けおりているところだった。倉庫街から戦いの中心地へ向かうには、地上の道路を無視して一直線に家々の敷地を突っ切り、ときに屋根を渡り、市庁舎の壁の上に飛び降りて、その壁を下りるのが最も近いのだ。
 救世軍拠点近くでの陽動の状況を、一刻も早く確認しなければならなかった。
「団長!」
 地上の道を、大鎌を背負ったアエリエが駆けてきた。ミスリルは手すりのない階段から飛び降りた。
「ハラムをやったぞ」
 アエリエは頷きながら、ミスリルの左目の下の傷から目を逸らさない。
「団長、お怪我は」
「大したことはない! 状況は? 〈火線の一党〉の拠点はどうなっている?」
「打ち合わせ通りです。順調です。救世軍拠点の救援に彼らの主力の多くが向かってきた時点で、本隊が〈火線の一党〉拠点に攻撃を開始しました。現在は別働隊が救世軍拠点より後退中。指揮はイスタル師が」
 頷くミスリルの顔に、黒く大きな影がかかった。
 小山のような物体が、二人に影を落としながら、家々の間から、その身をもたげていた。
 ミスリルにはそれが何かわかった。それを知っていた。
「ラセル」
 コブレン自警団元本部の地下で出会ったときより大きく、そしてより醜悪になっていた。

 ※

「何なの!?」
 リアンセが叫んだ。
 聞くまでもない、私はあれを知っているわ。リアンセは思い直した。同じようなものを、漁村リェズで見た。言語活性剤で作られた、同胞、言語生命体の集合体……。
 やたらと太く長い蛇が、家々の屋根の向こうで鎌首をもたげている。胴体は蛇ではないようだ。こんもりした体が見えるが、白みを増しつつある藤色の夜明けの中、それは薄墨色に紛れている。どのような動物の体でできているのか、彼女のいる位置からでは見極められなかった。距離は、二区画ほど離れているだろう。
「あれが捕食者……」
 リアンセは素早くテスを見た。彼の普段ぼんやりしている両目には、今は闘志の光が鋭く満ちている。
「知っているのね」
「ミスリルから聞いてる」
 テスの両手が、腰の両側に差した二本の半月刀に伸びた。イオルクがテスの右手首を掴んだ。
「やめるんだ!」
「駄目だ」テスは捕食者から目を逸らさず、静かに答えた。「放ってはおけない」
「ハサ大尉」と、カルナデル。「ここからなら、一人で仲間に合流できるよな」
 捕食者が、聞き覚えのある吼え声をあげた。今コブレンにいるものが、リェズで見たものと同じかどうかはわからない。だが、声は同じであるように、リアンセには聞こえた。様々な種類の獣が同時に叫ぶ声。
 そして、蛇の首を振り回し始めた。家々の屋根、高い建物の壁に当たり、破壊し、陥没させ、粉塵が舞い上がる。
 兵士たちの騒ぎ声が遠く聞こえてきた。
 子供などの、明らかに民間人のものとわかる声は聞こえない。
 皆もう、どこかへ連れて行かれてしまった後なのだ。
「君も行くのか?」
「何言ってんだ、こいつだけに戦わせるわけないだろう!」
「どうやって戦うつもりだ?」
「私も行くわ」リアンセが、問答に陥りそうな流れを断ち切った。「でもあなたは駄目、ハサ大尉。西方領に帰って。見たもの全てを然るべきところに報告してちょうだい!」
 テスの目が、捕食者からイオルクへ動いた。
 イオルクは彼から手を離した。
「ああ……」そして、後ずさり、離れた。「この先は一人で大丈夫だ」
 頷くが早いか、テスは鍔のない、二本の小型の半月刀を両手に抜いた。捕食者が再び叫ぶ方向へと、何も言わずに駆けていく。
 カルナデルがテスを追った。リアンセはイオルクの目を見た。イオルクは確かな光を目に宿し、強く頷いた。
 リアンセもまた走り出した。
 先行するカルナデルが振り向いた。と、脇道から二人連れの救世軍兵士が飛び出して、リアンセとカルナデルの間を遮った。
 二人の兵士は、リアンセとカルナデルの存在には気付いていなかった。
 カルナデルがバスタードソードを抜いた。その長い剣を振りかぶり、掛け声と共に戻ってくる。反対側からはリアンセが。兵士たちは完全に不意をつかれる形となった。
 バスタードソードの一閃を避け、つんのめる兵士の右手をリアンセが掴んだ。
寄越(よこ)しなさい!」
 片手剣をもぎ取る。
 そして、兵士たちを捨て置いて、テスを探した。捕食者がいる方向に行けば合流できるはずだ。見立て通り、道の先にテスの後ろ姿が見えてきた。
「テス!」
 テスは物静かでぼうっとした日頃の印象からは想像もつかぬほど敏捷だった。見上げるほど背が高く、その分脚の長いカルナデルは、成人して以降人と競争して負けたことがない。そのカルナデルが、テスが走る速度を落としたお陰でようやく追いついた。遅れてリアンセが。彼女は片手剣を握っている。
「俺は俺だけで戦うわけじゃない」
 またも走り出す。
 その喋り方だけは、ゆっくりした、自分のペースのままだった。
「一緒に戦う仲間がいる」
「だからって」と、横並びで走るカルナデル。「こういうときは、一人でも多いほうがいいだろ?」
「私だって。あれがどういうものかをよく見ておく義務があるわ」
 後ろに続くリアンセを、テスが横目で伺った。
「カルナデル、リアンセ」
 三人は、鉱山の歴史資料館の横を通り過ぎ、角を曲がった。
「……ありがとう」
 資料館の屋上には、〈タターリス〉指導者ジェノス、そして彼の客人ハルジェニク・アーチャーの姿があった。
「あれが……言語活性剤の力」
 ハルジェニクは異形の捕食者に目も心も奪われていた。その様子を横目で伺い、ジェノスは冷たい笑みを浮かべて腕組みをした。切り落とされたはずの右手は、今は完全に繋がっていた。どのような傷も残っていない。
 ハルジェニクが不意に振り返り、ジェノスと真正面から向き合った。
「おい。あれは本当に俺たちを襲わないんだろうな」
「多少の知能はある。世話人を見分ける程度にはな。それに奴は『生きている』言語生命体しか襲わん」
 自分と同じ体になった同類と出会い、そして新鮮な言語子を補給できる環境に置かれたことで、ハルジェニクの精神は多少の安定を取り戻していた。
 彼の眼下をリアンセ・ホーリーバーチが過ぎていく。
 ハルジェニクはジェノスを見ていて、リアンセには気付かなかった。リアンセとて、姉の仇ハルジェニクがこのような場所にいるとは思わない。二人は出会わない。
「ラセル!」ミスリルの、痛ましささえ感じさせる絶叫が街路に響きわたる。「ラセルー!!」
「団長! 彼にはもう何を言ってもわかりません!」
 集会所の赤い三角屋根の上で、ミスリルに追いついたアエリエが、その肩を後ろから掴んだ。
 蜘蛛の脚と蛇の首は、コブレン自警団本部で見たとき以来、その異様な大きさ以外何も変わっていない。ならばラセルの顔面が、蛇の頭の先端についているはずだった。奇妙な成長を遂げたその体に合わせて、引き延ばされ、大きくなった顔で。
 ミスリルは首を左右に振った。
「団長……」アエリエは更に語りかける。「楽にさせてあげましょう」
 すっ、とミスリルが冷静になるのをアエリエは感じた。戦闘態勢に入ったのだ。今度は、彼は頷いた。捕食者が長大な脚で走り出す。その屈折した脚の最も高い部分は、二人がいる四階建ての集会所の屋根より僅かに低いだけだった。
 こちらに向かってくる。
 ミスリルが、服の中から、紐を通して首にかけた陶片を引き出した。口付ける。短い祈りの句が呟かれた。
「炎よ、我に宿り我が身を用いて正義を顕したまえ」
 テスは、長い八つの脚を駆使して集会所に向かっていく捕食者の真後ろに飛び出した。
 捕食者の外見について、ミスリルとアエリエからはこう聞いていた。蜘蛛の脚と胴体、蛇の首、人間の顔面を持つものだと。だが、今目の前にあるそれは、話に聞くよりずっと大きかった。大きすぎる。成長したのだろうか。もはやコブレン自警団の地下の独房に閉じこめておくことはできまい。
 追いついてきたカルナデルとリアンセが、テスの後ろで絶句する。
 テスは二人に何も言わせなかった。
「攻撃が通る場所があるはずだ」
 二本の半月刀の柄頭をぶつけあわせ、捻る。連結器が結合され、一本の小型のブーメランになった。
「あれに、誰一人傷つけさせてはいけない!」
 腰を落とし、武器を投げられる構えをとる。真剣な眼差しで狙う箇所を探すテスの横顔に、リアンセは心の中で問いかけた。
 あなたの闘志はどこからくるの?
 どうしてあんな化け物を前に、すぐに戦う決意ができたの?
 テスの唇が動き、囁く。
「大気よ、我に恐怖を散らす力を」
 集会所の屋根の上には、アエリエが一人残っていた。視界に入る餌、自分のもとへと、捕食者が、街を震動させながらくる。はじめ早足だったそれは、既に駆け足になっており、どれほどの早さでどのような攻撃を仕掛けてくるか、予測困難だった。
 だが、大鎌を手に立つアエリエは恐れていなかった。
「ミスリル」
 恐れるどころかその名を口にし、笑みを浮かべさえした。彼女は続ける。
 共に行こう。燃え盛る火の心よ。
 黒い戦闘服の中から、陶片の護符を引き出す。それを右手で握りしめ、胸に押しつけた。
「水よ、我に慈悲を与う力を」
 護符から手を離した。のたうち回りながら近付いてくる蛇の首を見据え、青い宝石が嵌められたような大きな目を細めた。
 逆さに立てて左手で持っていた大鎌を、両手で持ち直す。左手は柄頭の近くに。右手はハンドルに。上向きに構えた刃を、ゆっくり頭上に持ち上げる。
 腰をよじり、優雅に円を描いた。頭の上で。次に腰の周りで。アエリエは大鎌を振り回す。円を描く速度が上がっていく。低い唸りが加速する。
 十分に近付き、のけぞる蛇の首へ、アエリエは大鎌を投げ放った。黒塗りの大きな刃は回転しながら飛んでいき、蛇の太い首に刺さった。
 野太い悲鳴、苦痛の波動が捕食者から放たれた。胴体を強ばらせ、蛇の首を振り回す捕食者の体の下へとミスリルが走り込む。
 掛け声とともに、錘つきの三節棍を振りあげた。柔らかい胴体に錘がのめり込む。二度、三度と攻撃を続けた。
「ミスリル!」
 どこかでテスが呼んだ。
「そこから出ろ!」
 四度、五度と柔らかい腹を打ち据えたところで、警告通り身を滑らせ、捕食者の腹と路面の間の空間から飛び出した。
 直後、捕食者が身を屈し、腹を地面につけた。
 続く太い攻撃の掛け声は、カルナデルの声だとわかった。ミスリルは、黄と黒の、毒々しく太い蜘蛛の脚から離れ、捕食者の体の後ろへと回り込む。
 テスはそこにいた。どこかで剣を手に入れたリアンセと、カルナデルも一緒だった。
「目を狙うんだ! 脚に目がついてる」
 二人の協力者に指示をしながら、テスも見開かれた蜘蛛の目に半月刀で斬りつけた。眼球からどろりとした液体が流れ出る。蜘蛛は耐えられず、目を閉じようとした。その瞼の間にリアンセが剣を差し込み、閉じさせまいとする。カルナデルの大きな剣が、蜘蛛の目を深く刺した。
 アエリエの大鎌は捕食者の首に刺さったままで、絶えざる苦痛を与え続けている。アエリエの姿は集会所の屋根の上から消えていた。頭痛をもたらす咆哮を放ちつつ、捕食者は前進していく。それで、路上からも捕食者に攻撃が加えられているのだとオーサー師にはわかった。逃げているのだ。
 偽の攻撃を仕掛ける対象となった救世軍拠点を見下ろす高台で、連なる屋根の上に身を伏せながら、オーサー師は考えた。残された戦闘員たちはみな勇敢だと。コブレン脱出を果たす前、自警団は主力の戦闘員をごっそり失った。もう駄目なのではないかと、誰もが思っていた。
 だが勇敢さが残っていた。
 自ら率先して危地に立ち、戦う団長。それを見て続く団員。その戦い方は洗練されてなどいない。今回のような大がかりな作戦に当たるには、まだまだ年長者の指導を必要とする。
 だが、オーサー師は満足していた。希望を託した団長のやり方に、危なっかしさは感じるものの、不満はなかった。
 捕食者が集会所に激突し、その建物を破壊する。瓦礫と粉塵が舞い上がり、空気が汚れた。
「行くぞ」
 オーサー師は戦闘員になって間もない弟子、ラザイ・オーサーに言い放つ。
「えっ?」
 ラザイは弩を手にして屋根に伏せたまま固まった。師はその弟子に(げき)を飛ばす。
「えっ? じゃない! 攻撃に加わるぞ! あれにこれ以上街を壊させるな! 間違っても人が残っている場所に近付けてはならんぞ!」
「はいっ!」
 屋根から民家の庭に飛び降りるラザイの後に、老人のオーサー師が、驚くほど若々しい身のこなしで続く。
「万物よ、精霊よ、この天地(あめつち)を成す物理よ――」
 コブレンの街を星のように駆け抜けながら、オーサー師は彼の祈りを口にする。
「――どうか、ミスリルからアエリエを、アエリエからミスリルを、取り上げてくださるな。二人を死によりて分かちたまうことなかれ……彼の者らに過ちあれば、生あるうちに気付かせたまえ。ただ死によりて償われるべき咎あれば、我に負わせたまえ……」
 七十年。ただただ人の生き死にを見つめてきたアラク・オーサーという男の、並ならぬ肩入れであった。
 地上の捕食者は、壊れた集会所の瓦礫に埋もれて身動きもままならぬ状態だった。今とばかりに、武器を手に集まった男女がその巨体に殺到する。固い脚に守られていない脇腹。蜘蛛の胴と蛇の首の結合点。とにかく、少しでも傷を付けられそうなところは刃物で抉り、鈍器で潰し、傷を広げていく。
 蛇の首が垂れ下がり、地響きと共にコブレンの街路に伸びた。アエリエがその首に片足をかけ、刺さったままの大鎌を回収する。ジェスティのウルミが唸りをあげて、首の付け根の産毛に覆われた部分を打ち据えた。血塗れになった鞭状の長剣が、彼女の手許に返る。
 捕食者は脚を胴体に引き寄せ、巨体をできるだけ小さくした状態でうずくまる。動きが止まった
 攻撃者たちも手を止め、捕食者を半円に取り囲んでそれから少し離れた。
「やったのか?」
 そう尋ねるカルナデルは、額にびっしり汗をかいている。
「いいや」と答えるミスリルも、疲れて肩で息をしていた。「前に会った救世軍の男も、ハラムも、最期は――」
 だが、捕食者は動かない。
 その不動の巨体を資料館の屋根の上から見守るハルジェニクが、不安の滲む声で尋ねた。
「いやに呆気なくないか?」
「これで終わりだと誰が言った?」
 答えるジェノスを横目で窺うが、ハルジェニクに見えたのは、癇に障る冷笑だけ。建物の間にうずくまる、捕食者の巨体に目を戻す。攻撃者たちの姿は建物に隠れて見えないが、喧噪は静まっていた。
 汗をかき、呼吸を整えながら、暗殺者たちとリアンセ、そしてカルナデルは、捕食者の動きを待った。誰もが警戒し、どうすればいいかわからなかった。その場にいるコブレン自警団の団員はミスリルとアエリエ、テス、ジェスティに、弩を携えたアラク・オーサーとラザイの師弟。あとの団員たちは、本来の作戦行動に集中している。そちらがどうなっているかは全くわからない。
 思案げに俯いていたテスが、リアンセの隣で息をのみ、素早く顔を上げた。
「なに?」
「中にいる」
 誰にもテスの受け答えの意味が分からず、ただ彼を見た。注目を浴びながら、テスは半月刀で、固い蜘蛛の脚のひび割れた部分を叩いた。小さな亀裂に刃を差し込み、柄を脚に押しつけて、梃子(てこ)の原理で脚の皮を剥がす。ばらばらと皮が舗道に落ちていく。
 今度はジェスティが叫んだ。
「本当だ! 中にいる!」
 全員の耳に子供のうめき声のようなものが聞こえた。夢中で蜘蛛の脚の皮を剥いでいたテスが、何かに驚いてとびのいた。
 大きく剥がれた皮の下に、人間の皮膚が見えていた。一番年少のラザイが、恐怖の叫びをあげた。
 その皮膚には、閉じた目と鼻と、唇がついていた。
 小さな子供の顔だった。
 リアンセとカルナデルは言葉もなく、うっ、と呻きを漏らした。ジェスティは大きく見開いた目で子供の顔を注視しながら後ずさる。ミスリルとアエリエは揃って凍りついていた。
 子供は生きていた。丸い、黒い目が開いて、自分を取り囲む八人の顔を順に見た。性別もわからぬほど幼い目が瞬きを繰り返す。虚ろだったその目に光が戻ってくる。
 子供の薄い唇が開いた。
「あ――」
 その顔が高く浮く。
 捕食者が脚を伸ばしたのだ。瓦礫の中から立ち上がる。
「下がれ!」
 ミスリルが鋭く指示をした。
 固い皮が降ってきた。一度剥離が始まると、もう止まらぬようで、皮の下に隠れていた肌が、半円を広げるように後退した八人の前で露わになっていく。
 青白い皮膚には、子供たちの顔がびっしりと埋めこまれていた。皮が剥がれた範囲だけで、十人近くの顔が見えた。
 それぞれが目を開け、呻き、ぼんやりし、寝ぼけた様子で何かを呟いている。
 捕食者が身震いし、更に皮が剥がれた。その振動が子供たちを目覚めさせた。
 悲鳴があがった。体を失くした子供たちの一人だった。一人が叫ぶと、後は止まらなかった。
 蜘蛛の足を覆う皮から露出する、全ての顔が叫び出す。
 その叫び声と蛇の首を引きずって、捕食者が瓦礫を乗り越え走り出した。
「お母さん!」女児の声が遠ざかっていく。「お母さん! お母さん!」
 その声で、ミスリルが我に返った。
「お母さん!!」
 捕食者は逃げ、子供たちの叫びは消えて行く。
 ミスリルが鋭い舌打ちを残し、後を追って駆け始めた。アエリエが追う。捕食者は、その大きな体で角を曲がり、歴史資料館のある方向へと逃げていく。
 その先に、捕食者のねぐらがあるはずだった。
「ミスリル・フーケ!」
 資料館にたどり着いた時だった。
 頭上から声が降ってきた。
 よからぬ気配に、すかさず後ろへ飛び退いた。足を止めた地点に、弩の矢が突き立った。
 ミスリルは、そして、追いかけてきたアエリエは、揃って資料館の屋上を見上げた。
 屋上の縁に、黒衣の男が一人で立っている。
「ジェノス」
 低い憎悪の呟きがこぼれる。
「ミスリル・フーケ。お前は悪い奴だ」ジェノスは喋り続けた。「子供たちを虐待した」
 言葉が高笑いに変わる。胸を仰け反らせ、呆然と立ち尽くすミスリルを嘲笑い続けるジェノスへと、路上から弩の矢が放たれた。ラザイだった。ジェノスは素早く屋上の奥へ身を引いた。三本の矢が青空に向かい、途中で失速し、屋上に落ちるのをミスリルは見た。
「……ジェノス」ミスリルは三節棍を握り直す。右端の棍のみ握り、残りを地面に垂らした。「ジェノス、ジェノス!」
 アエリエが息をのみ、ミスリルの肩を掴んだ。
「罠です!」
 だが、聞こえていなかった。その手を振りほどき、走り出す。叫びと共に。
「殺してやる!!」
「ミスリル!」今度の声はテスだった。喋る速度が普通の人並みになっている。彼なりの早口なのだ。「戦いすぎだ、ミスリル!」
 激しい呼び声。
 そして、何かが走るミスリルの後ろから迫り、顔の横を通り抜け、前に飛んでいった。
 テスのブーメランだった。
 半月刀を組み合わせて作られたそれは、ミスリルの進行方向、角に潜む一人の暗殺者に直撃した。
 ミスリルには、全くその姿が見えていなかった。
 暗殺者は弩を持っていた。ブーメランの直撃を受けて前のめりに倒れる男の射線から、慌てて体を外した。男は最期の力で弩を連射した。
 それは全て的を外したが、近くの建物にぶつかった瞬間、ミスリルの体の間近で爆発した。


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