共感の問題

文字数 1,822文字

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 シンクルスは一度だけ、アセルが息子を亡くした顛末(てんまつ)を聞いた事がある。当時から鉱物収集を趣味としていた彼は、息子を水晶拾いに連れて行ったのだが、目を離した隙に、息子は沢に転落して頭を強く打ったそうだ。
 それからしばらくの間の出来事は記憶にないという。酷い鬱状態に陥り、これ以上休職するならもう仕事には戻れない、というぎりぎりの時期に、当時の上官ピュエレット・モームの説得を受けて軍務に復帰した。
「それでもあたくしは」
 目を覚ましたシンクルスが一階に降りると、マチルダの声が聞こえてきた。食堂のドアが半開きになっている。シンクルスは階段の陰に隠れた。
「あなたを待っておりましたのよ。帰って来るんじゃないかしらって。それなのに何ですか。言うに事欠いて『どうしてまだここにいる』ですって?」
「あんな欠席裁判をしておきながらよくもまあ」
 と、アセル。すぐにマチルダが食って掛かる。
「あなたはいつだって裁判に駆けつける事ができたはずですわ。しなかったのはあなたです」
「あのな。あの時は南東領との戦争で忙しかったんだ――」
「忙しい忙しいって、陸軍将校婦人部の他の方々はいつだって会合の時には夫と連れ立っておりましたわ。いつも一人なのはあたくしだけでした。それとも自分だけが特別に忙しかったと仰るつもり?」
「聞いてくれ、あの時は特別だったんだ。こっちは捕虜を二千も取られてる。向こうは捕虜を行方不明にしたまま有利に講和に持ちこもうとしている。一刻も早く捕虜の居場所を割り出さなきゃいけなかった。その状況下で個人的な裁判に出てられると思うか。家だって、家具だって、お前に必要なら譲り渡そうと思ってた。それをあんなやり方で毟り取った上に、慰謝料四十クレスニーだと?」
「一方的にあたくしを強欲な女みたいに言わないで!」
「一方的――」
「黙って! あなたはいつも逃げてばかり。あたくしはあの子が」鼻をすすり上げる音。「ハラルが……亡くなった時……あたくしは悲しむ事だってできなかったのよ。あなたはずっとぼうっとして、ひどい様で……葬儀も、役所での手続きも、全てあたくしが取り仕切って、ご近所には――」
 アセルは黙ったままだ。
「ご近所には、あそこの奥さんは息子が死んだとたん豪遊を始めたなんて陰口をされて。あたくしには物を食べるか服や宝石を買うしか気を紛らわす方法がなかったのよ。あなた、あたくしがそんなふうに言われていた事をご存知? 知ってて無視していらしたの? それとも気付かないくらいあたくしのことがどうでもよかったの? 態度をはっきりさせてくださればよかったのよ。あたくしにもう愛情がないなら、はっきりそう仰って下されば……」
 また鼻をすすり上げる。シンクルスはマチルダが泣いているのだと気が付いた。
「……それでも、あなたの気鬱が晴れれば物事は良くなると思っていたわ。いざあなたの様子が落ち着いてみれば、ようやくあの子の死と向き合えるどころじゃない。あなたは仕事仕事、そればかり……」
 強欲、という言葉をマチルダは自ら使ったが、それと同じ印象を、シンクルスは漠然とアセルの元妻に抱いていた。その思いこみは捨てなければならないようだ。ただ、マチルダがアセルをもう一度自分と向き合わせようとし、その方法が裁判だった。彼女にはそれしかなかったのだ。それでも向き合おうとしなかったのはアセルの方だ。マチルダは心底失望しただろう。憎悪は関係を強め、歪めるが、失望は関係を断ち切る。
「……すまなかった」
 ようやくアセルが呟いた。途端にマチルダが声を上げ、咽び泣く。
「あなた――どうしてもっと早く言って下さらなかったの」
「悪かった。俺も意地を張っていたんだ。本当に済まなかった」
 しばらくは、マチルダの泣き声が続いた。二階に戻ろうとかシンクルスは思った。その前にアセルの声が聞こえた。
「マチルダ……頼むから疎開してくれ。ミナルタでもデナリでもどこでもいい。前総督が船を集めている所なら」
「あなた……陸を出るのね」
「ああ。マチルダ」
 食堂では、アセルが元妻の背に手を回し、撫でさすってやっていた。
「船で会おう。生きてくれ」
 マチルダは顔を上げ、熱のこもった目でアセルを見上げた。
「ええ……」
「あと一つ、頼みがある」
「何?」
「痩せろ」
 マチルダ・ミラーは元夫の顔面を思い切りビンタした。



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