いつか全てを慈しむ

文字数 5,635文字

 4.

 音を立て、床が削れた。
 意識を失うつもりはなかった。だが眠ってしまったらしい。とにかく起きることはできた。まだ死んでいなかった。土の臭いと黴の臭い。濡れた草の香り。ジェノスは墓地の片隅の小屋の入り口を開けたままだった。ミスリルは棚に背中を預けたまま、ぼんやり前を見た。斜めに差し込む陽光によって壁が色付いている。霧が晴れたのだ。入り込む風は、まだ湿り気を残している。このような場所と状況でなければ、爽やかな空気だった。
 ミスリルは、目をゆっくり左へ動かした。目覚めの原因となった物音の正体が落とし穴の縁にあった。縄がついた特殊な鉤だ。穴の底から引かれる度、床に深く食い込んでいく。ジェノスは執拗に縄を引き、鉤を十分に固定した。
 起きて、縄を切ってやればよかった。少しずつ全身に力を入れてみる。左腕は動かなかったが、痛みは感じた。止血用に巻いた布は、赤く染まってずっしり重い。右手が床を這った。床に投げ出した足は、少し曲げて体に引き寄せることができた。
 それが限度だった。毒は体から抜けつつある。だが戦うことは愚か、立って逃げることもできなかった。
 縄が軋み、穴の底でジェノスが土壁を蹴る音がしだした。
 あちこちに力を入れて動かしてはみるものの、痺れが残る体はあまりに重かった。三節棍が右手の近くに落ちている。だがそれを使う体力はない。腰の右手側、帯の内側に、ダガーがある。蜘蛛の脚のように指を動かして、少しずつ、右手を腰に引き寄せる。
 穴の縁を、ジェノスの生白い指が掴んだ。ぐっと力を込め、爪の先端が白に、付け根が赤に変わる。反対の手は、指だけでなく一気に肘まで出てきた。黒い装束の向こうで腕の筋肉が盛り上がり、次いで、剃り上げた頭と、鋭く陰険な目が出てきた。ミスリルはせめて目に力を込めて、ジェノスを睨みつけた。二人は無言のうちに睨みあう。だが、ついぞジェノスがひょいと体を持ち上げ、穴の縁に右膝をかけた。這うように前に出て、左足を穴から出す。これで、全身が完全に出てきた。左足は血まみれだが、ジェノスは立った。
 背を反らせ、両手剣に手をかける。柄を引き、完全に鞘から抜くと、刃を下げ、ミスリルの両足の間と、ジェノスの両足の間に切っ先を向けた。その間、ジェノスは決してミスリルから目を反らさなかった。真正面で向き合うと、その瞳孔はミスリルに向けてぴたりと固定され、二度と動かぬようだった。
 ミスリルはゆっくり瞬きをした。
 ジェノスは飢えているはずだ。言語子を摂取しなければならない。よりによってジェノスの餌にならなければならぬようだ。
 一瞬間に、全ての力を発揮した。
 麻痺した体が跳ねるように動いた。だが、立ち上がることはできなかった。体が横倒しになるに終わった。冷酷な観察者、ジェノスは動かない。先ほど自ら言ったように、痛めつけてから殺そうとはしなかった……だが殺そうとしていることは確かだ。ミスリルはもう一度、せめて棚に寄りかかろうとした。一番低い位置にある棚板に手をかける。右半身を棚に預け、どうにか上半身を持ち上げたところで力を使い果たしてしまった。
 頭ががっくり下がる。
 なんてざまだ、と、ミスリルは自分に呆れた。これでは首を斬り落としてくれと、自ら差し出しているのと同じだ。
 首に掛かる紐の感触を思い出すことはできなかった。だが護符は失われていないはずだ。もはやそれを握りしめることもできず、ミスリルは唇を動かした。護符に囁きかける。
「これが……天命か……」
 その声はジェノスには聞こえていないはずで、唇を動かしたことにさえ気付いていないだろう。
 長い沈黙があった。
 やがてジェノスが、生白い顔に空いた二つの小さな闇、鼻の穴から溜め息をついた。
「私はついぞ見なかった」
 力を振り絞り、顔の角度を僅かに変えた。目を動かす。ジェノスの黒い靴の爪先と、剣の先が見えた。感触のない唇を動かす。
「何を」
「天球儀の乙女だ」
 ミスリルはうなだれたまま、話の続きを待った。
「お前たちは子午線の罠を解除しようとしていたのだろう。捕虜から聞いて、知っている。ところで私はアーチャー家の人間を一人、手に入れていた」
 一呼吸おいて、ジェノスは続けた。
「ライトアロー家の血も必要だということもわかっていた。そこで、あの鍵狩りだ」淡々と話し続ける。「地球人の血を引き、聖遺物にアクセスする術を持つ人間をかき集める一方、ライトアロー一族の名を捨て、暗殺の手を逃れ、どこかで生き延びているはずの者たちを探した。だがうまくいかなかった。時間がなさ過ぎたのだ」
 それで? ミスリルは心の中で問う。それが天球儀の乙女とどう関係している? ラケルと〈火線の一党〉の幹部が言っていた、あの天球儀の乙女か?
「私がそのアーチャー家の男をさっさと用済みにせず生かしておいたのは、女が見えると言ったからだ。話を聞くと、どうやら天球儀の乙女らしい。様々な文献に記される姿と一致する。興味深いだろう?」
 ようやく声に感情が滲んだ。笑っているらしい。が、それは既に知っていることだった。ミスリルの沈黙を、ジェノスは解釈できない。
「それで、ハルジェニクというその男から、見えるものについて話を聞いたのだが、私はそれは、言語生命体の夢から滲み出てきたように思うのだ」
 夢?
「神人たる地球よりいらした方々は、集合無意識の領域を有していた。脳を発達させることでその領域に入り込み、コミュニケーションを交わすことができた。遠く離れた相手とも、口を開かず、一切体を動かさず、だ。素晴らしいと思わんかね」
 まるで弟子に言い聞かせるような口調になっている。
「それで、だ。その神人の似姿として造られた言語生命体のヒト型、つまり我々にも、同じ領域があるのではないかとな。それが、夢ということだ。そしてそれを一定の割合の言語生命体だけが、特定の刺激で見ることができる」
 ミスリルは心の中で言う。バカじゃないのか? ロマンチストめ。
 剣の刃が角度を変える。同時に剣の持ち主がまとう空気も変わった。
「だが、私は見なかった」
 声が低くなった。
(まった)き信仰を持つと自負する私は、ついぞ見なかった」
 動くことはできない。
 立つことも、逃げることも。
 だが、まだ微かな力が体に散らばり、輝いていた。
 ミスリルはそれをかき集める。目を閉じ、輝くものを集める。
 腹に集めた。
 腹から顔へ。
 唇が動いた。
 微かな声、それでも明らかに嘲笑とわかる笑いが、その唇からこぼれた。立て続けにこぼれた。
 せめてもの抵抗だ。
 最期に嘲笑をくれてやる。
 ジェノスが放つ苛立ちの気が、ミスリルの体を包んだ。
「私を笑うか」
「傑作だな、おい」聞こえるかどうかわからないが、声を振り絞る。「そりゃあんた、嫌われてるんだよ」
「フーケ――」
 ジェノスが剣を上げた。
「死ぬがいい」
 頭より高く刃を上げる。
 目を閉じた。だからミスリルは見なかった。だがジェノスは見た。黒い長い影が、小屋に入ってきた。直後、強い衝撃に手を打たれた。両手で剣を持っていたため、どちらの手に攻撃を受けたか瞬時にはわからなかった。
 卵形の石がジェノスの足許に落ちた。続けて剣が取り落とされた。異変を察したミスリルが目を開けると、ジェノスは靴の爪先は、もうミスリルではなく小屋の入り口を向いていた。
「いいえ、生きるわ」
 右手で左手を押さえながら、逆光を浴びて戸口に立つ女にジェノスは目を細めた。
 ほっそりした体型で、女だとわかる。
 髪を高く結い上げている。
 アエリエ・フーケ。エーデリアの調べでは、コブレン自警団の副団長になっていた。刃を下にして、大鎌を立てている。
「私も、ミスリルも――」
 指にスリングを引っかけたままの右手で、大鎌の柄を握る。
 その大きな刃が動き、アエリエが鎌を両手で寝かせるように持ち上げた。
 丁寧だが、自信に満ちあふれた声だった。直後、姿が動いた。動いたと思ったときにはもう、大鎌の刃を掲げて小屋の中にいた。
 ジェノスは床に落ちた両手剣の柄を踏み、靴底で転がすように蹴り上げた。だが、跳ね上がってきた剣の柄を掴むより早く、アエリエの大鎌の刃がジェノスを射程範囲に収めた。
 咄嗟に身を翻して避けたため、致命傷は免れた。だが、この狭い空間で回避しきるには、彼女が操る刃は大きすぎた。肩口に大鎌の刃が引っかかった。はじめは服に引っかかっただけに見えたが、アエリエが素早く刃の角度を変えたため、それはすぐジェノスの肩に深く食い込んだ。
 両足を踏ん張り、腰に捻りを加える。ジェノスの体が遠心力によって小屋の入り口へと引き寄せられる。アエリエを支点に、小屋の奥から小屋の手前へと、体の位置が入れ替わる。
「――私も、ミスリルも、強く」高く結い上げた藍色の髪が、旗のように翻る。入り口を向いたアエリエの青い宝石のような目が、太陽の光を映した。「強く、強くなって――」
 大鎌の刃がジェノスを解放した。彼は小屋の外まで後ろ向きによろめいて、雑草だらけの道の上に、背中から転倒した。アエリエの色白の顔を、太陽が更に白く輝かせた。彼女は微笑んでいたが、余裕を見せつけたり、敵を痛めつけて楽しむような笑いではなかった。
 外で倒れているジェノスに、言葉を締めくくる。
「――いつか、あなたのことさえ慈しむから」
 仰向けからうつ伏せに姿勢を変え、ジェノスは起きあがる。ミスリルのこともアエリエのことも捨ておいて、彼は逃げ出した。アエリエは追わなかった。その気配と足音が十分に遠ざかると、ゆっくり小屋の中を振り向いた。大鎌の刃を下にし、小屋の奥へと戻っていく。
 痺れ薬の抜け切らぬミスリルが、脱力したぼんやりした目でアエリエを見ていた。
「ミスリル」
 目の光が弱まっていく。アエリエは、先ほどのジェノスと同じ位置、ミスリルの正面で、立ったまま見下ろした。ミスリルは何か言おうとしたが、ジェノスを嘲笑ったときのような声はでなかった。瞼を閉ざす。
 アエリエはもう一歩前に出て、床に膝をついた。大鎌を床に寝かすと、両腕を伸ばす。
 その腕を、ミスリルの首に絡めた。抱き寄せて、ミスリルの頭に顎を乗せた。それから頬ずりした。
「ミスリル!」歓喜に彩られた声を放ち、ミスリルの後頭部に手を回して髪をかき回した。「偉いぞー、ミスリル! 一人でよく頑張ったねえ!」
 弟扱いするな! と、ミスリルは心の中で叫んだ。これでは弟扱いどころか子供扱いだ。だが、抗議の声を上げるには、あまりにもみっともない姿だと気がついた。
 せめて目を開けた。どうにか体に力を入れようとするのをアエリエが感じ取り、腕の力を緩めた。髪をかき回すのをやめ、撫でる。頭頂に頬をつけたまま、抱擁を解こうとはしなかった。ミスリルの顔のすぐ下に、アエリエの胸があった。
 不意に鼓動が高まっていく。
 何を考えているんだ。こいつは妹分なのに。俺は兄だぞ。兄弟子だぞ。
 アエリエ! 俺が団長になった途端によそよそしくなったくせに、何だこの……だが、唇が動いただけで、声にならなかった。
「ミスリル」
 抱擁を逃れようとしたが、叶わなかった。
「あなたは光よ。あなたは希望。たとえあなたが死んだって、あなたは死なないわ」
 ふとアエリエが離れる。
 離れてしまうと残念だった。瞬きしながら見ていると、アエリエは腰に右手をやって、飲み物を入れる革袋を帯から外した。蓋を外し、飲み口をミスリルの口に当てた。
 ぶどう酒かと思ったが、ぶどう酒の匂いがついた水だった。
「だから……」ミスリルは、アエリエの声を聞きながらそれを飲んだ。「目の光を消さないで」
 喉仏がゆっくり上下するのを見届けると、アエリエは革袋をミスリルの口から離した。
 その間にもジェノスは逃走を続けていた。逃げ去るつもりはないが、一時離脱が必要だった。言語子を補給しなければ……。それに、ミスリルにずっと拘束されていたせいで、戦況もわからず指揮も取れていない。それがミスリルの目的だったに違いない。わかっていたが、あの男をすぐに殺すことができなかったのだ。
 強かった。想像以上だった。今更、死んだエーデリアを呪う。何が『ミスリルだって、まあ弱くはありませんよ』だ。最も、その見くびりが彼女を死に至らしめたのだろうが。
 墓地へ繋がる階段を駆け上がり、滴り落ちた血が残る道を走る。物心ついて以来庭として駆け抜けてきた、勝手知ったる敷地だ。
 その敷地に、一人の部下が倒れているのが見えてきた。死んでいるのだろう。理性が飛びそうになった。舌を噛む。その苦痛で正気を保つ。
 神官が二人、建物の間から出てきた。
 リジェクの神官。正体を欺くため私服だが、まとっている空気でそうとわかる。リジェク神官団に代々受け継がれてきた、高慢ちきな選民意識。ジェノス、そして〈タターリス〉自身もそれを有しているからこそ、一層鼻持ちならない奴らだった。何を考えているかわからない――。
 何故神官どもがここにいる?
 失血と飢えと焦燥で思考が薄れていく中ジェノスはなおも考えた。そういえば、戦闘の物音がしない。安全になったのか? だから出歩いているのか?
 二人の神官もまた、ジェノスのほうに近付いてくる。笑いながら迫る神官たちの会話の切れ端が耳に届いた。
「役立たずのざまを見ろよ」
 ジェノス不在の〈タターリス〉の指揮系統同様、ジェノス自身の思考と正気と狂気も指揮不能だった。
 道の先に転がる新鮮な言語子に引き寄せられて、神官らに目もくれずすれ違う。
 そのとき、何かの遊びのように、神官の一人がジェノスの背中にナイフを突き立てた。


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