書くことは人を傷つける

文字数 1,887文字

 ※

 東方から夜が溶けていく。しらしら、しらしらと。ミズルカは目を開け、その音を聞いていた。
 彼は宿営先の町の見晴らし台のベンチに座っていた。何もやる気が起きなかった。師団の構成員たちは皆、待ち望んだ屋根の下の寝床を手に入れたというのに、妙に自粛する空気を分かちあっていた。空の向こう、遠い山の端を塗る黎明線を見て、何を喜んでいられよう? ミズルカは図嚢から傷んだ戦記本を取り出した。ページがばらばらになるまで読みこんだその本は、北トレブレンで戦火をくぐり、山脈越えを経たために、更に傷んでいた。だが、今ミズルカに勇気を与え得るものはその本だけだった。
『ティリエー遠征従軍記』
 二十五年前、南東領軍によって戦利品として略奪された数々の美術品の変換を南西領政府が要求した際、南東領政府はそれらの品の破壊によって南西領に応じた。それに激怒した当時の総督が東部方面軍を南東領に派遣。破壊を免れた美術品の奪還と、それが安置されている南東領ティリエー市の略奪を許した。総督は、勝利の後、要らぬ戦争を起こしたと弾劾を受け辞任を迫られた。その後釜を首尾よく次いだのがシグレイ・ダーシェルナキだった。
 本を膝に置き、読むでもなく表紙を撫でていると、ぼそぼそと話すヨリスの声が後ろから近付いてきた。老いた女性の声が、やはりぼそぼそと呟く調子で、しかし愛想良くヨリスに答えている。
 振り向くと、宿営する旅籠の経営者の老婆と、その孫と思しき女性、そしてヨリスの三人が連れ立って歩いていた。女性はミズルカと同年代であるようにも見えた。ミズルカを見つけ、ヨリスと老婆を後に残し、ほとんど小走りになって近付いてきた。物怖じしないたちらしく、好奇心に目を輝かせながらミズルカの顔を覗きこんだ。
「今日から宿泊される方ですね?」
 ミズルカは、下手な、引き攣った愛想笑いを返した。
「ええ、はい。お世話になります……」
「あなたたちのことは伺っております。北トレブレンからこの南部まで、大変な山越えをされたのですね。休まれませんか?」
「はい。もう少ししましたら」
「ああ、読書中だったのですね。何を読んでいらしたの?」
 旅籠の女が、ミズルカの指の間を透かして本のタイトルを覗きこんだ。ヨリスと老婆が追いついてきて止まった。
 いきなり女が無表情になった。
 好奇心に満ちていた目の輝きが失せ、視線が本の表紙に釘付けになり、凍り付く。
 何故、彼女が感情を消したかわからなかった。女は口をきつく結び、もうミズルカに目をやることもせず、後ろを向き、来た道を戻って行った。ミズルカはわけもわからず見送るしかなかった。
「その本は」老婆が、先の女と同じように、ミズルカの手許を覗きこんだ。「あんた、何でそんな本を持ってる?」
 その言い方に、ミズルカはいささか腹を立てながらそれ隠した。武器を持った軍装の人間が民間人に怒りを露わにするなどあってはならないことだ。静かに口を開いた。
「自分の従軍記を書くために、参考に持っているものです」
「あんた、物書きかね?」
「いいえ。今はまだ」ミズルカは本をしまわずに尋ねた。「この本が、何か?」
 老婆は少しの間目を伏せ、答えあぐねて言葉を探していた。ミズルカは本の上で指を丸めた。老婆はようやく答えた。
「私の息子、あの子の父親は、ティリエー遠征で戦死した」
 ミズルカが息を止めると同時に、老婆の目に感情が戻った。怒りと諦めがその目を光らせて、同時に濁らせてもいた。
「斥候に行ってね。捕まって殺された。そのことが、その本には軽微な損害って書かれたんだ。『我が軍の損害は軽微だった』。あの子が父親を知らずに育ったのは軽微な損害だと。あんた、戦記本を書くなら教えてちょうだい。そんな物を書いて、人目に触れさせて、戦場で戦うことがかっこいいことだなんて認識を広めた責任は誰にあるんだい? えっ?」
 ミズルカは動揺し、声を詰まらせたが、老婆は答えを期待してなどいなかった。ぎゅっと握りしめた拳をポケットの中に突っこみ、口を閉じたまま鼻で大きくため息をついた。そして、頭を左右に振ると、旅籠に戻って行った。
 書くことは、思いもしない形で人を傷つけるのだとミズルカは知った。実際の有りようを隠すことで、傷つけるのだ。
 軽微な損害。何気なく読んできたその言葉は、実際に何人の死を表しているのだろう? それだけではない。戦闘を表現する数々の言葉。両陣営が激突する。ぶつかりあう。決定的勝利を収める……。
 ミズルカは、それきり一文字も書けなくなってしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み