失われた交易路

文字数 2,106文字

 2.

 靴下留めの件以来、カルナデルはろくろくリアンセに話しかけられぬまま一日を過ごし、翌日はカルナデルが旅籠に残り、リアンセが出かけた。空は優しく曇っていて、麓から緑がせり上がる様を見せる春の夜明けの山々を、灰色に霞めていた。ぼんやりと一日を過ごすわけにはいかない身としては、そんな曇り空は暗澹たる無力感をかき立てるばかりであり、好ましくなかった。
 部屋にリアンセが戻ってきて、剣の手入れをするカルナデルの前に立った。そのまま動かないので、ただならぬものを感じ、顔を上げた。
 リアンセは無表情でカルナデルを見下ろしていた。
 怒っているのかと思ったが、思い当たる節はなかった。リアンセは近くの椅子の背もたれに、ケープをばさりとかけた。
「さっき……」瞬きをしないせいで、白目が充血している。「カルナデル。聞いて」
 カルナデルの左手側には盥があり、砥石で灰色に濁った水が湛えられていた。その水から砥石を取り出し、剣を研ぐための台にしている木箱に置いて、頷いた。
「聞くぜ?」
「符丁の交換に成功した。仲間が外に紛れてて、私を見つけてくれたの」リアンセは座ろうとせず続けた。「東方領で人が消えた。単なる噂話じゃないわ。青い光が観測され、一斉に言語崩壊が起きたって。誰もいなくなった。その状態が確認された」
 あまりのわけのわからなさに、カルナデルは剣の手入れに使うなめし革を落としそうになった。
「それでね、カルナデル。昨日あなたが靴下留めを買った女性にも話を聞けたわ」
「おう……どんな?」
 むしろ青い光と言語崩壊について詳しく聞きたかったのだが、カルナデルは取りあえず、リアンセに続けさせた。
「どこでその大量の金属を手に入れたか」彼女はテーブルに体を向け、昨日から広げたままになっている地図を見下ろした。カルナデルも立ち上がり、一緒に地図をみた。
「フューリー川の水源はそれほど遠くないわ。その付近では、もちろん戦闘など行われていない」
 リアンセの指が北トレブレンを指した。
「問題の神官連合団はシルヴェリア・ダーシェルナキの師団を追跡していた。その経路はこう。フューリー川の水源は通らなかった」
 北トレブレンから、西方領の神官連合団が通過した道を指でなぞる。
 指は、峻険な山々に囲まれた聖地、南西領『言語の塔』で止まった。
「聖地の地底深くには、フューリー川に合流する伏流があるの。ところでカルナデル、コストナーの夫の話を覚えてる? 地の底の光が目覚めるって。そして地の底の光、または神の青い光と呼ばれる火は、今もシオネビュラにある」
 カルナデルは黙って頷いた。
「裁きの淵に満ち満つは、神威を示すき光……」
「なんだって?」
「コブレンに伝わる古い歌よ。カルナデル、古の都が滅んだ理由を知ってる? 今シオネビュラにある『神の青い光』の由来は知ってる? 天示天球派が崇める『天球儀の乙女』の民話を知ってる?」
「どれも知らねぇよ」
「じゃあ、みちみち教えてあげるわ」
「みちみち?」
「コブレンに戻りましょう、カルナデル」
 カルナデルにはリアンセの思考が全く読めず、ぼんやり口を開けて横顔を見つめた。リアンセは地図を凝視し続けながら、そこに決して記されてはいない古い地形を頭に描いていた。
 諜報員に教えこまれるのは、現在の地理地形と各都市の風俗・風習ばかりではない。その原型となった歴史や風土を知らなければ現在の風習は理解できず、風習を理解できなければ、潜伏先に馴染めない。
 コブレンで古くから歌われる『青い光』について、リアンセは注目していた。今シオネビュラにあるその火が古の都からまっすぐシオネビュラに伝わったなら、何故コブレンで歌われている? または、コブレンで歌われる光は古の都を滅ぼした光とは別のものだろうか?
 そして、東方領で大規模な言語崩壊が起きた際に発生した光も青だったという。これは偶然だろうか?
 古の都。シオネビュラ。地の底に隠されたフューリー川へ続く伏流。
 そして、天球儀の乙女の伝説が生まれた西方領スリロス。
 そのすべては、失われた交易路でコブレンで合流する。
「つながっているのよ。すべてはつながっている。ただ、見えないだけ……」
「リアンセ」
「あの時、地の底の光についてコブレン自警団から聞くべきだったんだわ。古くから歌われる青い光について。彼らはコブレンで興った異端宗派の信徒なのだから。信徒であるということは……詳しいということよ。コストナーの夫の言ったことや東方領で起きたこと出来事を読み解く鍵はコブレンにあるはず。戻りましょう、カルナデル、今すぐ」
「本当にみちみち詳しい話をしてくれるなら別にいいけど」カルナデルは肩をすくめ、両腕を広げた。「シンクルスはいいのかよ?」
「中佐とシンクルスなら、私たちを待たずにタルジェン島に向かうはずだわ。今更追ってももう遅い。それに中佐は、私が自分で考えて動くことを期待するはず」
 リアンセは椅子の背もたれにかけたケープに指を引っかけ、肩に回した。
「もう一度会いましょう、コブレン自警団に」
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