何のための護衛
文字数 1,733文字
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以降、反乱軍と連合軍の間に小競り合いが起きることはなかった。連合軍の内部では、ささやかな騒動が頻発しているようだった。捕食者の存在が彼らの目にさらされた影響は大きかった。彼らはショックを受け、動揺していた。兵士らを宥めるべき将校たちでさえ、それは同じだった。
上級の将校に直接疑問をぶつけるもの、脱走する者、喧嘩騒ぎを起こす者が頻出した。だがどれも、反乱軍やシオネビュラ市民に悪い影響を与えるものではなく、シオネビュラに潜伏する反乱軍の情報士官に活躍させる隙を与えさえした。
シオネビュラ神官団が中立放棄を表明したのは、両軍の受け入れから一週間後のことだった。
片方の軍が居留を許され、片方の軍が退去を言い渡された。
退去を言い渡されたのは、連合軍のほうだった。
リレーネはこのところ、やけにぼんやりしている。旅の緊張から解放され、一時的に無気力になっているのかと思われたが、どうもそうではないらしいと、リージェスは気がついた。
気付けば彼女が横顔を見つめてきていることが、しばしばあった。リージェスがリレーネを窺い、目が合うとやめるのだが、どうしたのかと尋ねても、言葉を濁すばかりだった。
「リージェスさん、私、北方領に帰らなければなりませんわ」
少しきつめに気鬱の原因を問い質したところ、リレーネは彼女の居室で、リージェスに身を乗り出して言った。
反乱軍はエンレン河を遡上してフクシャへ進撃し、連合軍を押し返す。
そう知らされた日だった。
だがリレーネとリージェスはシオネビュラにとどまる。
リージェスは息が詰まる思いがした。リレーネの目があまりに真剣だったからだけではない。リレーネは先日、リリクレスト公宛てに直筆の手紙をしたためたばかりだった。遅くはなったが、北方領に帰る、という内容だ。わかっていた。そのために彼女を護衛した。
彼女はいなくなる。
わかっていた。
だがリージェスは動揺し、動揺したことそれ自体に重ねて動揺した。
「帰ります」と、リレーネ。「嫌ではありませんわ。帰ります、リージェスさん。これは私自身の意志です」
「私自身の意志?」思わず声に嫌悪がこもった。心を落ち着かせるために、リージェスは十秒も黙らなければならなかった。
「……冷凍睡眠技術の復活がうまくいっているという話は聞かない。帰ったら、リレーネ、死ぬしかないかもしれないんだぞ」
「知っています」
リレーネは強く頷いた。
この娘は死ぬんだ、とリージェスにはわかった。黎明を生きて乗り切り、次の、いつ来るとも知れぬ夜を迎える可能性は恐ろしく低い。
このために生きさせたのだ。この娘を死なせるために。
死なせるために、命を懸けて、この娘を守ったのだ。
真っ黒い火柱が、腹から胸へ、胸から顔へと、体内で噴き上がるのが感じられた。
それは怒りに似ていたが、怒りと呼ぶには悲しすぎた。悲しみと呼ぶには激しすぎた。空しさが含まれていたが、意味なきものではなかった。何らかの確信があった。
それでも己は無駄ではなかったと、信じるに足る確信があった。
それが何故かはわからない。
リレーネは続けた。
「もう会えないと思っていた」
どこも見ていなかったリージェスは、目の焦点を、リレーネの青く眠たげな顔に戻した。
「また会えましたわ、リージェスさんに、生きて……それだけで満足ですから。リージェスさん」
「何だ」
「手を握ってくださる?」
リレーネが、腰掛けていたソファから立ち上がった。リージェスと向かい合う。
罠、しかも極めて哀切な罠を、リージェスはその要望のうちに感じ取った。それに応えたら一線を越えると。だが、自分はそれに応えるのだと。
リレーネの右手を取る。
握り返してきたと思ったら、前のめりに倒れこむように、リレーネが体を預けてきた。リージェスはリレーネを、全身で受け止めた。
全く予期せぬ感情を、鼻先に当たるリレーネの髪の感触がもたらした。
懐かしさだった。
リージェスは顎を上げる。神を探すように。窓の外、天球儀の光が薄れている。白一色だったそれが、透明感を帯びている。
東から、黎明線がせり上がる。
以降、反乱軍と連合軍の間に小競り合いが起きることはなかった。連合軍の内部では、ささやかな騒動が頻発しているようだった。捕食者の存在が彼らの目にさらされた影響は大きかった。彼らはショックを受け、動揺していた。兵士らを宥めるべき将校たちでさえ、それは同じだった。
上級の将校に直接疑問をぶつけるもの、脱走する者、喧嘩騒ぎを起こす者が頻出した。だがどれも、反乱軍やシオネビュラ市民に悪い影響を与えるものではなく、シオネビュラに潜伏する反乱軍の情報士官に活躍させる隙を与えさえした。
シオネビュラ神官団が中立放棄を表明したのは、両軍の受け入れから一週間後のことだった。
片方の軍が居留を許され、片方の軍が退去を言い渡された。
退去を言い渡されたのは、連合軍のほうだった。
リレーネはこのところ、やけにぼんやりしている。旅の緊張から解放され、一時的に無気力になっているのかと思われたが、どうもそうではないらしいと、リージェスは気がついた。
気付けば彼女が横顔を見つめてきていることが、しばしばあった。リージェスがリレーネを窺い、目が合うとやめるのだが、どうしたのかと尋ねても、言葉を濁すばかりだった。
「リージェスさん、私、北方領に帰らなければなりませんわ」
少しきつめに気鬱の原因を問い質したところ、リレーネは彼女の居室で、リージェスに身を乗り出して言った。
反乱軍はエンレン河を遡上してフクシャへ進撃し、連合軍を押し返す。
そう知らされた日だった。
だがリレーネとリージェスはシオネビュラにとどまる。
リージェスは息が詰まる思いがした。リレーネの目があまりに真剣だったからだけではない。リレーネは先日、リリクレスト公宛てに直筆の手紙をしたためたばかりだった。遅くはなったが、北方領に帰る、という内容だ。わかっていた。そのために彼女を護衛した。
彼女はいなくなる。
わかっていた。
だがリージェスは動揺し、動揺したことそれ自体に重ねて動揺した。
「帰ります」と、リレーネ。「嫌ではありませんわ。帰ります、リージェスさん。これは私自身の意志です」
「私自身の意志?」思わず声に嫌悪がこもった。心を落ち着かせるために、リージェスは十秒も黙らなければならなかった。
「……冷凍睡眠技術の復活がうまくいっているという話は聞かない。帰ったら、リレーネ、死ぬしかないかもしれないんだぞ」
「知っています」
リレーネは強く頷いた。
この娘は死ぬんだ、とリージェスにはわかった。黎明を生きて乗り切り、次の、いつ来るとも知れぬ夜を迎える可能性は恐ろしく低い。
このために生きさせたのだ。この娘を死なせるために。
死なせるために、命を懸けて、この娘を守ったのだ。
真っ黒い火柱が、腹から胸へ、胸から顔へと、体内で噴き上がるのが感じられた。
それは怒りに似ていたが、怒りと呼ぶには悲しすぎた。悲しみと呼ぶには激しすぎた。空しさが含まれていたが、意味なきものではなかった。何らかの確信があった。
それでも己は無駄ではなかったと、信じるに足る確信があった。
それが何故かはわからない。
リレーネは続けた。
「もう会えないと思っていた」
どこも見ていなかったリージェスは、目の焦点を、リレーネの青く眠たげな顔に戻した。
「また会えましたわ、リージェスさんに、生きて……それだけで満足ですから。リージェスさん」
「何だ」
「手を握ってくださる?」
リレーネが、腰掛けていたソファから立ち上がった。リージェスと向かい合う。
罠、しかも極めて哀切な罠を、リージェスはその要望のうちに感じ取った。それに応えたら一線を越えると。だが、自分はそれに応えるのだと。
リレーネの右手を取る。
握り返してきたと思ったら、前のめりに倒れこむように、リレーネが体を預けてきた。リージェスはリレーネを、全身で受け止めた。
全く予期せぬ感情を、鼻先に当たるリレーネの髪の感触がもたらした。
懐かしさだった。
リージェスは顎を上げる。神を探すように。窓の外、天球儀の光が薄れている。白一色だったそれが、透明感を帯びている。
東から、黎明線がせり上がる。