ぞよめく理由

文字数 1,838文字

 1.

 零刻にはまだ早いが、ヨリスは起きて鳥を見ていた。強攻大隊の露営地の外れに立ち、十歩ほど距離を挟んだ場所の木の根元で、カラスが二本足でとび跳ねる様に目を凝らす。
 どうやら鳥には、左右の足を交互に前に出して人間のように歩く種類と、両足を揃えてとび跳ねる種類があるようだが、カラスは器用な鳥なので、その二種類の歩行法を自由に使いこなしていた。気ままに跳ねたかと思うと、木の根元に餌を見つけて嘴で地面をつつき、人間型の歩行で歩き回り、他に餌がないか丹念に探す。
 誰かがこちらに向かってくる。
 ディン中尉だろうとヨリスは予測した。カラスは足音のする方向を振り向き、飛び去った。果たしてミズルカ・ディンがヨリスの横に立った。
「ヨリス少佐、お目覚めでしたか。今日もお早いですね」
 ああ、と生返事をすると、ミズルカが機嫌く質問を重ねた。
「何をしていらしたのですか?」
 こいつは俺が何をしていたかを自分の戦記に書くつもりだろう、とヨリスは思った。こう書くだろうか。
『ヨリス少佐は鳥を見ていた』
「鳥を見ていた。あの木の根元にいた」
「鳥がお好きなのですか?」
「鳥はいい。見ていて飽きない」
 ミズルカは、不仲になった父親の昔の言葉を思い出した。
『いいか、中年の男が鳥はいいとか鳥になりたいとか言い始めたら終わりだぞ!』
 思い出さなかったことにした。
 シルヴェリアの第一師団に朗報がもたらされたのは昨日のことだった。偵察連隊の斥候が、この山地の守備隊の斥候を連れて戻ってきたのだ。上流部隊との合流は、目前に迫っていた。
 もしかしたら、明日は屋根のある場所で眠れるかもしれない。過度な期待はできないにしても、兵士たちは若干浮ついた様子で噂しあっていた。何といっても聖地〈南西領言語の塔〉でテントや毛布を失って以来、全ての兵士が、外套だけにくるまって野ざらしで寝なければならなかったのだ。
 それにしても、宿営を受け入れなければならない民間人は大変だ、とミズルカは考える。子供や若い女性のいる家庭であれば、尚更だ。村にしろ町にしろ、長期間の接収となるなら、軍人たちはまず民間人に対し、自分たちが完全に無害であることをわからせなければならない。トレブレニカでも、強攻大隊の最初の仕事は、警戒心出しの村民を徹底的に懐柔することだった。その仕事に失敗していれば、民間人を動員しての演習など不可能だったはずだ。
「ところでディン中尉」
 ミズルカは考えごとをやめた。
「はい」
「君はおかしいと思わないか?」
「何がでございますか」
「私は、あの木の根元にいた鳥を見ていた、と言った」
 真意を量りかね、ヨリスの横顔を凝視する。だがヨリスはいつもの無表情だ。答えあぐねていると、ヨリスは正解を口にした。
「ここは木もまばらで、いくらか天球儀の光が入りやすい立地とはいえ、この山の中で……。十歩も離れた木の根元が何故こんなによく見える?」
 ヨリスの指摘の意味を理解し、ミズルカは息を止めた。
 空が明るくなっているのだ。
 顔に血が上り、頬が火照り、額から汗が吹き出た。口が自然と開き、目が見開かれ、目も口も一旦閉じようとしたができなかった。
 夜が終わろうとしている。言語生命体の命を守る夜が。終わり、朝が来る。直射日光で言語生命体を焼き尽くすべく来るのだ。
 知っていたはずだった。黎明が迫っていることを。だから戦っているのだと、わかっているはずだった。
 行軍が開始された。ミズルカがショックを受けようとどうしようと。シルヴェリア師団は今いる山の森林限界を超えて、尾根に出る。強攻大隊は最後尾を務めていた。前方で、先頭部隊がぞよめき、しばしば立ち止まる。行軍は一時的に速度を落とした。
 ぞよめきが起きる地点に来て、ミズルカは停滞の理由を知った。強攻大隊の兵士たちもまた、ざわつき停滞した。
 空の色が変じている。頭上から東に向けて、空は僅かに青みがかった黒から藍へ、藍から紫へ、紫から薄紫へと色を変じ、東の彼方の山々に接するところには、赤い線が横たわっていた。
 業火の赤。血の赤。
 守護のヴェールは除かれた。太陽が殺しに来る。
 立ちくらみを起こし、ミズルカは座りこみそうになった。胃液が口の中までせり上がってきた。ミズルカは口を開けることさえできなかった。吐きたかったが、兵士たちの手前、吐かなかった。
 代わりに、誰にも見られぬよう、指で涙を拭った。

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