最後の勝利

文字数 4,234文字

 ※

 あの人は、ただ強くありたいのだ。ミズルカは突然理解した。ヨリス少佐は神になるつもりなんだ、と。ヒトの体を脱ぎ捨てれば、もっと強くなれるのだから。
「ヨリス少佐!」我慢できなかった。どうしてそのようなことに耐えられよう。何故、敬愛の対象が消えていくのを黙って見送らなければならないのだろう。「ヨリス少佐!!」
 怒りにも似た悲しみが、涙を伴って腹から顔へ衝き上げてきた。悲しみは口から、涙は目からはしり出た。ミズルカは、ヨリスがミルトと共に消えた坂道を駆け上がろうとした。後ろからアウィンが右肩を掴んだ。
「離せ!」
 身を捩り、振りほどこうと右腕をばたつかせるが、アウィンの指がいっそうきつく肩に食い込んだだけだった。
「嫌だ! 俺はヨリス少佐と一緒に行く!」
「お前が行って何になる! 犬死にするだけだろうが!」
 戦いの声、剣戟(けんげき)の音が迫ってくる。ミズルカはそれすら耳に入らず、絶叫し、敵をおびき寄せた。
「ヨリス少佐!!」
 アウィンは一旦ミズルカの肩から手を離し、すぐその二の腕を掴み直した。そして、そのまま腕を引いて振り向かせると、ミズルカの頬に拳を叩きつけ、全力で殴り倒した。
 ヨリスはミルトと共に、桜の古木が立つ広場にいた。チェルナー中将を殺したリジェク神官団の兵士たちが背後に迫り来る。そして前方では、巨人が右手の長い剣をまっすぐ前に突きだした。
「伏せろ!」
 後ろの神官たちが叫んだ。ヨリスは剣筋を見切り、古木の陰へと素早く身を翻した。ミルトがしゃがみ、その頭上を剣が通り抜けた。神官たちが何人かまとめて殺されたのが、声と物音でわかった。ちらりとそちらを見たヨリスは、二人の神官兵がまだ生きて立っており、そのうち一人は三位神官将補であることを見て取った。巨人の剣がまた引かれる。
「マグダリス!」
 ヨリスは矢を射かけられる場所を見つけた。鎧の腕と篭手の間に継ぎ目があった。
 弩を構えた。
 巨人が次の構えを取るほうが早かった。篭手の隙間がたちまち遠のき、射程範囲から外れた。剣が振り上げられる。
 半円に振り回すつもりだ。
 ミルトが続きを叫んだ。
「前に出ろ!」
 ヨリスは前方へ走り出た。左から右へと、巨大な剣の斬撃が軌跡を描いた。切っ先に近い部分ほど地面に近く、鍔に近付くにつれ、刀身は地面から離れる。地面と斜めの刀身が作り出す三角形の空間に、ヨリスは滑り込んだ。剣は桜の古木を薙ぎ倒す直前で止まった。
「リャン――」
 振り向いた。
 そこにリャン・ミルトはいなかった。生涯ただ一人の友の姿はなく、彼が立っていた辺りにある、巨大な剣の刃が濡れていた。そして、真下には、両断された肉の塊が残っていた。神官兵たちも生きてはいなかった。
 巨人の篭手から覗く地肌から、クラゲの足のような触手が伸びて蠢いていた。民家一列の壁はまだ残っていた。巨人の足を覆う脛当ては爆発を受けてへこんでいるが、どれほどの損傷を本体に与え得たかはわからない。
 巨人は頭部を円筒形の兜で覆っており、目があるべきところだけ、横に細長い穴が開いている。
 あそこなら。あそこなら、確実に攻撃が通る――。
 右手にサーベルを、左手に連弩を携え、ヨリスは巨人へと、最後の距離を駆ける。火事が起き、もはや誰も入り込めぬ区画へ。
 もう一度だけ、背後を振り向きたかった。
 だが、そこにもう友はいないと知っていた。
 ゆっくりとその顔を思い返した。大らかな笑顔を。
 リャン。
 それに、チェルナー中将。
 これで最後にしよう。人を俺の運命の道連れにするのは……。
 そして、最後の決意を胸に固めた。
 これ以上の犠牲は出すまい、と。
 巨人が肘を引く。
 ヨリスは走りながら自問した。
 勝ってから死ねと、俺はチェルナー中将に言った。俺はそのようにできるのか? この敵を、倒せるか? 最後まで戦士でい続けることができるのか?
 できる、と、己は答えた。
 巨大な剣の切っ先が、ヨリスの体めがけてまっすぐに突き出された。
 できる。
 最後まで、答えは変わらなかった。
 剣の切っ先が己の腹に当たるのを感じた。
 ヨリスは感じた。死の世界が寄り添うのを。
 今、己の体そのものが、生の世界と死の世界の実体ある裂け目となったことを理解した。
 このフクシャの町で、確かにユヴェンサに会ったことを理解した。
 夢ではなかったのだ。
 腹に、意識が飛ぶほど強い衝撃を受けた。異物が腹から背へと抜けた。これまで数え切れぬほどの人々に与えてきた瞬間、死の瞬間が、いよいよヨリス自身にもたらされたのだ。
 ヨリスは、ただ思っていた。
 あの時、ユヴェンサは本当にいたのだ、と。
 伝説の鳥のように、灰から蘇った。永遠を与えるために、光をまとって蘇った。
 そして会いに来た。
 両足が、広場の地面から離れるのがわかった。
 ヨリスは思う。思い続ける。
 ユヴェンサはどこだ? どこに行った?
 彼女の魂はどこだ?
 どれほど思っていただろう。
 長い時間ではないはずだ。
 気が付けば、巨人の兜が視界の遙か下にあった。兜の横長の覗き穴が、闇を湛えてヨリスを見上げている。
 ヨリスは意志の力を振り絞る。知力、体力、精神力、流れ落ちる生命の、最後の火のきらめき、それら全てを振り絞り、集中し、己の状態を探る。
 剣に串刺しにされていることは考えるまでもなくわかっていた。巨人が、その剣を、高く掲げているのだ。
 右手に力を込めてみた。
 サーベルは握られたままだった。
 左手に力を込めてみた。
 連弩は握られたままだった。
 答えは間違っていなかったのだ。できる、できる、と。
 己は己を欺かなかった。
 左手は動いた。きわめて不安定な姿勢で、手首をゆっくりと動かす。鏃の先を、兜の覗き穴にさだめる。視界が霞んでいく。不思議と燃え盛る両目が見えた気がした。
 あるいは、もはや夜の王国から永遠に消え去ったがごとき星の亡霊が、兜に映ったのかもしれない。
 ヨリスは口を開く。
 嘔吐が込み上げ、苦い血を吐いた。巨人の兜へ落ちていく。だが、舌はまだ動いた。
 声は出た。声は告げた。
「――俺の勝ちだ」
 引き金を引いた。
 立て続けに連射する。全ての矢がまっすぐに、兜の覗き穴へと吸い込まれていく。
 そのとき、ヨリスは己の望みを理解した。
 何をしたいか、何をすべきか、最初の矢が巨人の体に突き刺さり、激しい爆発、爆風と炎、それが全ての矢に結びつけられた雷薬に引火して、強烈な衝撃波がヨリスの五体を引きちぎる、そのさなかに理解した。凝縮されて弾ける思考の全てを飛び散る脳で理解したのだ。
 星になろう。
 星の高みから見下ろせば、ユヴェンサの魂を見つけられる。見つけ、導くことができる。
 むき出しの天性で、星への道をたどろう。不動の導き手になろう。神になるのだ。彼女が決してさまようことのないように。彼女に与えられた永遠を、全きものとするために――。
 ミズルカは見ていた。
 第二師団と第一師団、リジェク神官団と救世軍、混乱する戦いのさなかで、嫌でも見える巨人を見ていた。
 高く掲げられたその剣、その先に突き刺さる人間のように見える物体が、何故己の上官だとわかったのか、理由はわからない。とにかくわかったのだ。
 つい半日ほど前に、己の感性を優しく慰めた思考が今になって確信された。
 ヨリス少佐の身に何が起きようとも、俺はあの人を守れる、と。書く者は、書かれる者を守る。記述の力で守るのだ。
 自分の戦いをしろと言い残したヨリスは、全く正しかったのだ。
 そして――。
 書かれる者もまた、書く者を守るのだと。
 串刺しにされた体から放たれる矢の雨が見えた、気がした。
 直後、激しい爆発が起きた。
 何が起きたかミズルカにはわからなかった。見ていてもわからなかった。
 わからないはずがなかった。
 ただ、認めたくない一心だった。
 炎が串刺しになったヨリスの体に届いた。巨人の剣が落ちていく。鎧の隙間という隙間から炎が噴き上がり、巨人の頭部は兜ごと砕けた。
 その巨体がゆっくりと、火災の中に沈んでいく。
 何か飛来してくるものがあった。爆発があった空中から、アウィンに殴られた顔に手を当て佇むミズルカへと放物線を描いて飛んでくる。
 激戦の市街地に迫るにつれ、それが細長い物体で、くるくる回転しているのだと理解できた。
 更に近付いてきて、それがサーベルだとわかった。
 護拳付きの柄に、何かがくっついている。
 瞬間、ミズルカは強い恐怖に襲われ我に返った。ひっ、と声をあげ、腰を引き、膝を曲げ、両腕を交差して顔の前にかざした。目をきつくつぶるミズルカの右横を、サーベルが掠めていった。そして、ミズルカの背後で、どすっという鈍い音を立てて何かに突き刺さった。
 一呼吸ごとに己の命を確かめながら、ミズルカはゆっくり目を開けていく。強ばった全身を動かして、腕をこわごわ胸まで下ろし、膝と腰をまっすぐ伸ばした。
 振り向いたところで、ミズルカはリジェク神官団の女の三位神官将の姿を認めた。槍を携え、ミズルカを狙っていたらしい。その槍が舗道に落ち、カランと音を立てた。三位神官将の胸には深々と、飛来したサーベルが刺さっていた。
 白目をむき、三位神官将は横ざまに倒れていく。その動きがいやに遅く感じられた。
 倒れ伏した神官将の胸に刺さるサーベルは、根本が鋸歯になっていた。誰の物であるかは一目瞭然だった。
 護拳付きの柄には、血塗れの手套がついていた。形で、手套(しゅとう)の中身も入っていて、柄を握りしめたままなのだとわかった。手套からはちぎれた手首が覗き、皮膚がぶらぶらと揺れていた。
「少……」ミズルカは、サーベルに吸い寄せられていく。「……佐」
 書く者は書かれる者を守る。
「ヨリス少佐?」
 その魂を守るのだ。
「ヨリス少佐」
 同じ思念が何度も何度も頭の中で繰り返される。
「ヨリ……ス、少……佐――」
 そしてまた、書かれる者も、書く者を守るのだ――。
 絶叫が、長い長い絶叫が、ミズルカの口から放たれた。剣戟の中、火災の熱風の中でがっくりと膝をつき、上半身を仰け反らせ、彼は絶叫し続けた。
 その声は、誰にも止めることはできなかった。

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