要塞都市

文字数 1,713文字

 1.

 霧の奥から音がした。木材でできた物を動かす音だ。戸板のがたつきを直すような、あるいは木箱の乱れを正す動きを感じさせる音だった。その音がどのような行為によるものかは行為者のみの知るところであり、また行為者にとって幸いなことに、付近に音を聞き咎める者はいなかった。
 最後に一度、大きな物が倒れる音が響いた。
 それきり静寂が戻った。
 山中の岩肌の穴から、リージェスは手探りで這い出た。湿った土と草、それから今し方蹴り倒した木の板が指に触れ、ようやく外界に出たと知る。リージェスさん、と、不安げに少女の声が呼んだ。山の闇は深く、一人では耐えがたい。自分の手さえも見えないのだから。
「穴があるの、わかるか?」
 リージェスは振り向き、呼びかけた。応じる少女の声に安堵が混じる。
「ええ」
「這って出てこい。頭を打たないように気をつけろ」
 慎重に足を動かして真後ろを向き、リレーネのたてる音に集中するが、指を伸ばしても、どこにいるのかわからない。何度か小声で呼びあって、ようやく手を触れ合わすことができた。リレーネの手は、予想と違い、ざらりとした手触りだった。土まみれになっているのだ。
「あの下士官の話なら、ここが中トレブレンだってことになる」リージェスは闇から意識を逸らすべく話した。「近くに市街拠点の派出神殿が――」
 土の斜面をよじ登る。上りきったところに明かりが見えることを期待した。死刑執行と火葬用の派出神殿があるはずなのだ。
 残り火が、赤く、どこか遠くに浮かんでいた。
 よく目を凝らして見る。小さな火が点々と、空中に、あるいは地面やその近くに残っていた。
 それが明かりを期待した結果だった。星と天球儀の光に目を細め、瞬きを繰り返す。たどり着いた派出神殿は焼け落ち、無惨な骨組みだけが残されていた。恐らくは、母市(ぼし)防衛の目的で反乱軍が自ら火をつけたのだろう。連合軍に使わせないためだ。リージェスは井戸を見つけて蓋を外し、水を汲んだ。幸い、ゴミで埋められてはいなかった。頭から水をかぶって泥を洗い流し、冷たさに身震いする。リレーネはリージェスよりも遙かに控えめな動作で手を洗い、顔を洗い、髪を洗い始めた。
「急ごう」その動作が機敏でないことに苛立ちながら、リージェスは早口で囁いた。「第三軍団の部隊が中トレブレンに避難してるはずだ。パイプならある」
「どなた?」
 リレーネが囁き返した。
「第二師団のチェルナー中将だ。俺が強攻大隊にいた頃顔を合わせたことがある」
「ユヴェンサさんのご尊父ですわね」
「そうだ」
 中トレブレンと派出神殿を結ぶ支道を早足で二十分も歩くと、山中の大道路にたどり着く。大道路から延びる、幾度となく折れ曲がる進入路を更に一時間も下ると、やがて黒い水面に天球儀の光を散りばめる水堀が見えてきた。自然の川から半円形に引かれた水堀の手前には、入門受付所となる城門棟がある。中トレブレン市内への最初の門だ。いたって簡素なその門からは、水堀の途中まで木の橋が延びていた。
 人々の交通がある平時には、水堀の中に建築された、一般にバービカンと呼ばれる、城門棟を援護するための築城から跳ね橋が下ろされている。
 城門棟からバービカンへ延びる木の橋と直角に、バービカンから中トレブレンの副市の城門棟……つまり市内への二つ目の門へと石橋が延びている。
 正方形のバービカンの四隅には、側面防御のための城塔が高く突き出ている。城塔は明るく、屋根のかかった盾壁(じゅんへき)の歩廊や、壁から突き出た小塔の窓、瞰射(かんしゃ)用の狭間から、松明の火が漏れていた。
「人を呼ぼう」
 跳ね橋の上げられた水上のバービカンを見つめつつ、リージェスは城門棟へ急いだ。
「わかりましたわ!」
 とリレーネ。
 何を思ってか、彼女は城門棟へと走り出して叫んだ。
「おーい!」
 リージェスはすぐに追いつき腕をつかんだが、リレーネは高い声で叫ぶのをやめなかった。
「誰かいませんかー!」
「バカ! やめろ!」
「誰かー!」
 止めても遅かった。バービカンの盾壁の上で、いくつかの松明の光が動き出した。

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