フクシャの会戦

文字数 10,116文字

 2.

 戦闘開始直後から、フクシャの城壁を背後に守る左翼、及び陣地中央の左翼寄りが主な戦場となった。シルヴェリア師団を擁する第一軍第三軍団が展開する右翼では、エンレン川を挟んで陽動や威嚇が続き、やがて連合側が、渡河を避けて左翼方向の移動を始めた。それを受け、第三軍団も陣地中央寄りへと移動を開始する。そこでは沼地が途切れ、川辺まで草地が広がるようになっていた。
 シルヴェリアは後方で指揮用馬に跨り、師団のすべての部隊の機動を監督していた。
「急ぎすぎるな!」機動を乱す傾向を見せる部隊があれば、指揮杖を用いてその部隊の旗を指し示し、伝令をとばした。「急ぐでない、シオネビュラ神官団の動きを待て!」そうしながら、自らの指揮部隊は流れに逆らって、最右翼へと移動していく。後方にいるため、その動きは連合軍陣地からは見えていないはずだ。
 対岸正面に西部ルナリア神官団の騎兵部隊を見据える、最右翼のシオネビュラ神官団が機動を開始した。
「コールディー隊、左向け!」
 三位神官将ニコシア・コールディーが声を張り上げ、団旗を左方向に振った。
「進め! 第一軍第三軍団を支援せよ!」
 第三軍団の対岸にいる新総督軍の一個軍団は、中央へと機動をしながら、いつ渡河を開始してもおかしくない様子を漂わせていた。
 三位神官将補のジェイル隊を最前に残し、自らは第三軍団を追いながら、ニコシアはおもしろくない思いを抱えていた。一時的にとはいえ、敵に指導権が移るのが気に食わないのだ。そして、より重要かつ危険な役を負うのは二位神官将の部隊だ。
「アルドロス隊、左向け!」
 コールディー隊の後退を見届け、騎馬の二位神官将レグロ・ヒュームもまた指示を発した。
「コールディー隊に続け!」
 レグロは二位神官将補メイファ・アルドロスの部隊に第三軍団を追わせ、二位神官将が直接指揮する部隊を最前に残した。そして、ジェイル隊と歩調を合わせて後退を開始する。
 ヒューム隊は、ジェイル隊よりも川辺寄りの、ひどくぬかるんだ地点に布陣していた。従順な馬たちは膝の近くまで泥に足を埋め、鐙はその上で不安げな軍靴とともに馬の腹に寄り添っていた。よく訓練された馬たちは、動きにくい湿地で従順に方向転換をした。後退に伴い、進んで深みに入っていかなければならぬ騎兵も一部いた。
 ヒューム隊の機動力は否応なく落ちた。とりわけ最も動きが鈍いのがレグロの指揮部隊で、左右を固める部隊から引き離され、孤立した二位神官将の旗印が敵前に露出した。また、二位神官将部隊全体も、三位神官将部隊と引き離されていた。二つの部隊の隙間が残酷に広がり、散り散りになっていく。
 シルヴェリアの目にも、またニコシアの目にも、川向こうに西部ルナリア神官団の迫りくる影が見えた。
 こちらから対岸の様子が見えるように、彼らにも、ヒューム隊の孤立した状況が見えるのだ。
 そして、彼らは渡河を決断した。
 横隊を組んだ騎兵たちの、拳ほどの大きさだったその影が大きくなってくる。浅い水を散らす音は、自らの師団の兵士たちが軽鎧(けいがい)をまとって歩く音に紛れ聞こえぬはずだった。それでもシルヴェリアには、聞こえる気がした。
「弓射連隊、停止!」
 指揮部隊の手前で縦隊を組み、歩兵部隊の陰に隠れて遅めの速度で機動していた弓射連隊の連隊長は、注視していた信号旗の動きによって即座に全大隊を停止させた。そして、号令一つで弓射連隊の全ての兵士が後ろを向いた。
「進め!」
 弓射連隊が来た道を引き返していく。
 弓射連隊の接近を受け、コールディー隊の旗手が高々と団旗を掲げ、振った。彼女の部隊もまた、方向を一八〇度転換し、引き返し始めた。
 二位神官将補メイファ・アルドロスが声を張り上げる。
「アルドロス隊、右へ!」信号旗を、湖岸と沼沢地を隔てるガレ地へ向けた。「包囲に備えよ! 進めー!」
「ヒューム隊、右へ!」弩と槍のきらめきが背後に迫る中、レグロもまた旗手に後方を示させた。「進め!」
 足を取られて停滞を余儀なくされたかに見えた全ての騎兵たちが、泥の中で機動を再開した。
「ジェイル隊、停止!」三位神官将補ミオン・ジェイルが、五百の兵を五列横隊で展開させる。
「コールディー隊、停止!」ニコシアもまた、ジェイル隊と同様の展開を行った。コールディー隊とジェイル隊の間に開いていた間隙(かんげき)が、ぴたりと埋まる。
 渡河を終えた西部ルナリア神官団の部隊は、右翼手前のヒューム隊、右翼後方のアルドロス隊、左翼手前のジェイル隊、左翼後方のコールディー隊に挟まれ、迎え入れられた。そして、正面には、シルヴェリア師団の弓射連隊が待ち構えていた。
 全体の主戦場は左翼であり、熾烈さを増しつつあった。その中で、第一軍第三軍団、及びシオネビュラ神官団だけが、右へ、右へ、エンレン湖の湖岸へとずれていく。
 弓射連隊の長弓の射手たちが斉射を開始した。西部ルナリアの神官たちが倒れていく。混乱の中、逃走を試みる神官兵たちを、左右のシオネビュラ神官団の神官兵たちが討ち取っていく。
 全部隊を背後に連れたシルヴェリアの指揮部隊が、弓射連隊と合流し、更には第三軍団全体が、シルヴェリア師団を追って右翼の元の布陣場所へと引き返してきた。
 既に陣地中央に近い箇所にいる第二軍団と、全速力で右翼へ戻る第三軍団との間に隙間が開いていく。自ら孤立していく第三軍団は、対岸の敵部隊に完全に背を向けた。
 第三軍団の兵士たちは、対岸の新総督軍の軍団が鳴らす突撃の調べを耳にした。
 シルヴェリアはチェルナー中将の第二師団の喇叭を聞き、 左から味方の第三軍団が押し寄せてきているのを確認した。
 対岸にいた新総督軍の歩兵軍団は、渡河を開始していた。第三軍団を追って来る。
「弓射連隊、攻撃停止!」
 シルヴェリアが叫び、指揮部隊の喇叭手がその指示を喇叭の旋律で知らしめた。シオネビュラ神官団の全ての部隊もまた、一斉に攻撃を停止する。
 あらゆる叫び、あらゆる種類の喇叭の音色、そしてあらゆる旋律の中で、シルヴェリア師団とシオネビュラ神官団の信号旗が一斉に湖岸のガレ地を指した。
 第三軍団の第二、第三師団が、背後に敵部隊を引き連れて、シルヴェリア師団とシオネビュラ神官団の後を追う。勢いづいた彼らには、急停止して敵を迎え撃つ手段などないに等しい。そんな中で、対岸の一個軍団の後ろに控えていた師団の主戦力が明らかになった。軽騎兵師団だ。馬を駆り、第三軍団の軽歩兵たちとの間に横たわる距離を詰めてくる。
 シオネビュラ神官団は、ガレ地の急勾配をよじ登っていた。転がる石に足を取られ、運悪く落馬する騎兵もいた。だが全体の勢いは、多少衰えはしたものの、止まらなかった。その後を、シルヴェリア師団の軽歩兵が追う。走り通しで疲労し、息を切らし、時に石を後方に蹴り落としながら、それでもシオネビュラ神官団に追いついた。
 全員が汗をかき、湖面を吹く風に急激に冷やされ体から湯気が立つ。ガレ地全体に、白い靄がぼんやりとかかって見えた。
 第三軍団の軽歩兵たちがガレ地に取りかかるのを受け、先頭に立って追っていた騎兵師団が急勾配の真下で停止する。
 ガレ地の勾配の上と下で、戦場右翼の両陣営は睨みあった。
 直ちに両軍ともが再編成に取りかかった。
 勾配の上の第三軍団は、三個師団の弓射連隊を前衛に出し、歩兵たちを後ろに待機させた。右翼にシルヴェリア師団、中央に第二師団、左翼に第三師団。
 第三軍団の右奥には、ニコシア・コールディーとミオン・ジェイルの、約一千の軽騎兵が守りについていた。左奥には、レグロ・ヒュームとメイファ・アルドロスの約一千百の軽騎兵が。
 ガレ地の下では、新総督軍の一個軽騎兵師団が(くさび)型の陣形を整えていた。その数およそ八千。後方には無傷の一個軍団が控え、その両脇を、二分した西部ルナリア神官団が固めている。西部ルナリア神官団は渡河の際にかなりの痛手を受けたが、それでも退却しなかった。左右におよそ一千弱の騎兵を配している。
 反乱軍の第三軍団が、長弓によって前衛の騎兵部隊を迎え撃つことは、連合軍指揮官にもわかっているはずだ。だが、十分な射撃を加えるには両軍の距離は短すぎ、八千の騎兵の突撃による衝撃力は大きすぎると彼らは見越していた。そして、それは事実だった。
「構えー!」反乱軍の長弓の射手たちが一斉に矢をつがえる。
「進めー!」そしてまた、ガレ地の下では新総督軍の軽騎兵師団の指揮官がバスタードソードを振りかざす。下馬の状態でも、もちろん騎馬の状態でも使い勝手が良いこの片手半剣は、南西領陸軍で規格化された騎兵部隊の標準装備品だ。
 それをかざして突撃してくる新総督軍の騎兵たちへと、一斉に矢が放たれた。運が悪い者から倒れていった。ガレ地の急な上り坂、しかも矢の雨が注ぐ中で、敵の騎兵師団は楔型陣形を保ちながら突き進むという難しい仕事をやり遂げた。側面を支援する歩兵とともに、ついぞ楔の先端が、矢の雨が描く放物線の内側に食い込んだ。
「射撃、やめ!」弦と矢の唸りの中で、指揮官たちは声を響かせた。「弓射連隊、後退!」
 射手たちは歩兵たちの間を縫ってエンレン湖の水際まで後退し、今度は抜剣した歩兵たちが前に出た。
 練度の高い兵たちの、鮮やかで素早い前線交代だった。最前列では弩兵たちが、騎兵たちが射程に入るのを待っていた。それでも騎兵と歩兵が正面からぶつかり合えば、結果は見えていた。そして、背後は湖で、退路はなかった。敵前衛の騎兵師団のすぐ後ろでは、新総督の歩兵軍団もまた突撃を開始していた。
 左右のシオネビュラ神官団が動いた。彼らが先ほどガレ地を苦労して上ったのと同様、敵の騎兵師団も難儀していた。倒れた仲間と馬を踏み越え、正面の反乱軍歩兵部隊へと殺到する。
 その両脇を、三列縦隊の騎兵部隊が取り囲んだ。
「三位神官将部隊、左向け!」
 敵騎兵たちの真横、その馬の息遣い、その兵士の恐怖で凍る顔を間近に見据えながら、ニコシアは停止せず叫んだ。吹き流しのついたニコシアの槍が、敵師団の楔型陣形の脇腹を指した。
「突撃!」
 その頃レグロはまだ左翼を前進していたが、三位神官将の部隊の攻撃開始の調べを聞くや、声を張り上げた。
「二位神官将部隊、右向け!」ヒューム隊とアルドロス隊が、一斉に号令に倣った。「突撃せよ!」
 足場の悪いガレ地で、陣形の乱れかけた新総督軍の騎兵師団の左の脇腹に、シオネビュラ神官団三位神官将の部隊が食い込んだ。その更に後方、右の脇腹に、二位神官将の部隊が食い込んでいく。
 騎兵師団はシオネビュラ神官団によって、大きな両腕で抱き込まれる形となり、三つに分断されて、指揮不能に陥った。
 最後列の敵騎兵たちがたたらを踏み、停止する。
 反乱軍の歩兵軍団の手前まで迫っていた最前列の敵騎兵も、前進不能となった。
「弓射連隊、構えー!」
 反乱軍の軍団で弓射手の喇叭が鳴らされると、レグロとニコシアは直ちに撤退を指示した。槍の両腕が新総督軍の騎兵師団からほどけていく。
「放て!」
 そしてシオネビュラ神官団が敵の両翼へ退避すると、再び長弓の乱射が始まった。前列の歩兵たちは、跪いて敵の騎兵師団の行く末を見届けた。運良くシオネビュラ神官団の包囲から逃げ延びた騎兵たちが、今度は矢によって倒れていく。
「斉射停止!」
 矢の雨がやみ、シオネビュラ神官団が再び動いた。
 ニコシアとジェイルの三位神官将部隊が、騎兵師団と新総督軍の歩兵軍団との間に、先ほどと同じ要領で割り込んでいった。彼らが騎兵師団の後退を妨げている間に、レグロとメイファの二位神官将部隊が歩兵軍団を切り裂き始める。
 そして、先ほどと同じ光景が繰り広げられた。シオネビュラ神官団による両側面からの攻撃、そしてその後の長弓の乱射。
「進め、進め!」
 それでも新総督軍の指揮官たちは前進を命じ続けた。数で勝る新総督軍は、眼前の無防備な反乱軍の軽歩兵たちを前に、退くことはできなかった。その内に、新総督軍側面後方に控えていた西部ルナリア神官団の、残余の部隊が追いついてきた。シオネビュラと西部ルナリア、騎兵対騎兵の戦いが始まった。
 そして、両側面を守る騎兵から引き離された二つの歩兵軍団が正面から激突しようとしていた。新総督軍の歩兵たちは、死の臭いで鼻が麻痺し、目は無惨な死を映さず、手は剣を握りしめたまま硬直し、心は壊れたように恐怖すら感じていなかった。訓練と訓練、繰り返し聞かされ刷り込まれた戦いの大義、同じ分隊の仲間との語らい、故郷で待つ家族や恋人の笑顔。ただそうしたものの漠然としたイメージを、より死が近い者から順に、意識に浮かべた。
 馬と騎兵の亡骸につまづき、危うく転びかけた新総督軍の兵士は、体勢を立て直しながら、徴兵逃れの方法を教えてくれた父親のことをぼんやりと思い出した。小皿一杯の松ヤニを前に、彼は泣きながら半日考えた。彼はそれを口に入れなかった。一緒に召集された幼なじみや学生時代の友を思うと、そんなことはできなかった。父親はせめてもの慰めにと、若い頃徴兵された時のことを聞かせてくれた。前線の最前列に配置されるなんて、よほど運が悪い場合だけさ、お前は大丈夫だ。俺の強運を受け継いだ俺の息子だからな、と。
 無数の矢が突き立つ地面を、足場を選びながら駆け上る別の兵士は、刃物職人の息子だった。彼は家庭用のハサミやのこぎりを作る父の背を見て育った。父も母も寡黙だった。彼の母はまだ幼い彼や彼の弟のために家事をするよりも、帳簿付けや営業の外回りをしている時間のほうが長かった。彼はそんな両親に反発し、ひどく荒れた時期があった。喧嘩騒動を起こして大怪我をしたのをきっかけに、両親と自分の人生を見直して、家業を継ぐ道を選んだ。彼には恋人がいた。香辛料屋の娘だった。亜麻色の髪をしたその娘に、初めて自作したハサミを贈り、愛を告白した。召集を受け入れ、いよいよ故郷を去るときに、娘は林檎の木の下で泣いた。彼を抱きしめ、「行かないで」と泣いた。今彼の目に見えるのは、反乱軍兵士の剣や鏃のきらめきでも、先に斃れた仲間たちの姿でもなかった。記憶の中の、恋人を抱き返しながら見上げた林檎の白い花だけだった。
 血と脂のぬかるみに足を取られ、つんのめりながらも命令のまま駆ける兵士は、青白い顔で床に伏せる愛する女性の面影を振り払えずにいた。彼女が初めて妊娠した彼との子は、死産だった。彼は失意の恋人を残して召集に応じざるを得なかった。双方の両親の反対にあい、正式な入籍をしていなかったため、召集を拒否できなかったのだ。「必ず帰ってきて」愛する人は言った。「あなたとの子を育てたい。それで、お父さんとお母さんを、もう一度説得しましょう」
 歩兵たちの足許で、矢に貫かれ死にゆく騎兵は、幼い頃から融通のきかないことと、正義感の強いことで近所じゅうに知られていた。いじめられている子がいれば、助けるために、体の大きな年上の相手にも殴りかかっていった。子供を不公平に扱う大人がいれば、それを指摘し臆することなく不平を申し立てた。泣いている子がいれば、話を聞いてやり、笑顔を取り戻すまでおどけてみせた。誰もが彼を好きだった。彼も、身の回りの人々を愛していた。故郷を守るために職業兵士の道を選んだのは、彼にとって当然だった。勝手な戦争を始めたシグレイ・ダーシェルナキという悪と戦うのは、彼にとって使命だった。
 今、先陣を切って剣を振りかざしている兵士は、虫も殺せぬ穏やかで優しい気質の青年であった。読書家で、仲間と激しく体を動かして遊ぶよりも、本を読みながらその気配を感じていたり、見ているのが好きだった。そのおとなしさを時に仲間たちにからかわれても、困ったようにそっと微笑むだけだった。彼はまた、地域の慈善活動の熱心な参加者でもあった。休日に修道士たちを手伝い、身よりのない病んだ老人たちのとりとめのない話を聞き、「私はいつも、次にあんたに会える日を楽しみにしているんだ」と言われることに生き甲斐を感じていた。車椅子を押して、鳥たちにパンを撒く様子を見守り、この孤独な老人たちを悲しませぬために必ず生きて帰ろうと決意したのだが、どうやらそれは無理そうだと今思っているところだった。
 その隣で鬨の声を上げる兵士は、織機の修理工を本業にしながら、大道芸人の一座に加わっていた。休日ごとに街角でジャグリングを行い、子供たちの目を輝かせていた。彼はジャグリングの他に、即興の飴細工作りが得意だった。魚に鳥に、猫に犬。一座の仲間は彼に手紙を出してくれた。『みんな、飴のお兄ちゃんはまだ戦争から帰ってこないのって言ってるぜ』。彼は手紙を涙で濡らして誓った。必ず生きて帰って、また飴を作ってやるからな、と。
 戦争が、それら全てを消していく。
 意志を、未来を、約束を。
 人を、命を、消していく。
 彼らの前で、反乱軍第三軍団の左翼と右翼が横広がりに延び始めた。反乱軍は新総督軍の歩兵軍団との激突を避け、未だ血や騎兵の蹄で汚れていないガレ地を踏み荒らして幅広の横隊になった。
 後列の弓射連隊がむき出しになる。
 横隊の両翼が半円を描いた。左右が新総督軍の両側面に届き、まだ延び続けた。新総督軍の最前列の歩兵たちは、眼前に残った弓射手たちまでもが、指揮官の号令のもと左右に分かれるのを見た。
 彼らの前には、湖だけが広がった。
 そして、右側面と右後方、左側面と左後方では、反乱軍の歩兵軍団が横隊を整えていた。
「第一歩兵連隊、及び第二歩兵連隊!」シルヴェリアと同時期に、第三軍団の師団長たちが、同じ号令を発した。「攻撃を開始せよ!」
 その攻撃は、新総督軍の統制に決定的な打撃を与えた。
 新総督軍の歩兵たちには細い逃げ道が残されていた。真後ろ、湖の岸に沿った右方向と左方向。運良く逃げ延びた兵士たちも少数ながらいた。だが、その数が合流し、再び隊列を組む手段はなかった。緊密だった歩兵軍団の陣形が破壊されていく。攻撃。そして前進。そして殺戮。シルヴェリアには全体を見渡すことなどできないが、前進しながら受ける手応えから、新総督軍に与えている打撃を感じ取ることができた。
 シルヴェリアがいるガレ地の斜面の真下には、コーネルピン大佐の第一歩兵連隊があり、ヨリスと彼の強攻大隊を眼下に見下ろすことができた。強攻大隊は新総督軍の部隊に、背後から深く食い込んでいた。突っ込みすぎではないかと思われるほどだが、ヨリスの適切な指示と個々の兵士や下士官たちの能力により、孤立する分隊はなかった。ついぞ強攻大隊の指揮部隊までが、敵部隊の中に押し込まれた。精鋭歩兵たちが、新総督軍兵士を恐怖のさなかでの死へと追い込んでいく。
「師団長殿!」
 フェンの声が聞こえた。副官が、騎馬の伝令兵を従えてシルヴェリアのもとに向かってくる。
「第三軍団本部より伝令。敵部隊、エンレン湖岸にて陣形を整え包囲突破に備えております。第三軍団全師団はこれを押し潰します。第一師団は直ちに左翼にて横隊を組み、備えてください」
「ご苦労」
 シルヴェリアの指揮部隊にて、喇叭が陣形指示の調べを奏でる。
 攻撃から防御への転換。
 攻撃からの陣形変換。
 攻撃停止は、最も隙の大きくなる瞬間だった。
 素早く個々の戦闘を切り上げさせるほど難しいことはない。最前線にいる全ての兵士たちが戦いながらの後退を始めたが、それは新総督軍の兵士を後方へ引き連れて来ることを意味していた。
「下がれ、下がれ!」
 強攻大隊弓射中隊のユヴェンサも、抜剣し戦う部下たちへと声を張り上げていた。
 ユヴェンサ・チェルナー。彼女は数多くの名将を輩出した名家の一人娘だった。彼女は愛情深いが過保護な両親に、次期女当主として大切に育てられた。彼女が士官学校に進んだとき、両親は彼女がそこで将来の結婚相手を見つけることを期待した。彼女の両親は、彼女が自ら戦場に立つことは望んでいなかった。だが、彼女は戦いに身を投じた。男に頼って生きるなど御免だった。自分をお人形のように扱う両親への反発もあった。彼女は戦いの世界で、愛を見つけた。
「コティー中尉!」生涯の愛を。「第三小隊の後退を支援せよ! リンセル少尉に――」
 ユヴェンサは肩を掴まれて振り向かされ、喉に奇妙な衝撃を受けた。直後、声が出なくなったことに気付いた。
 第三小隊の新任少尉、ヴァンスベール・リンセルはまだ未熟すぎる。この難しい機動には、助けが必要だ。
 そう言いたかった。
 そのことを考えていた。
 一瞬視界に入った、血で濡れた剣の切っ先。その血が己の血であり、喉から胸に広がる生温かいものもまた己の血であることを理解しながらも、まだ考えていた。
 後退を。
 第三小隊の後退支援を――。
 言おうとした。声が出なかった。
 力が抜けていく。
 喉。そこは苦痛が乏しく――苦痛を感じる間もなく――速やかに死がもたらされる急所であることを、ユヴェンサはふと思った。
 手から剣が滑り落ちた。
 ヨリスはその出来事を、後方の、少し高い場所から見ていた。ユヴェンサが剣を落とすのを見た。ゆっくり膝をつき、ガレ地に倒れ込むのを見た。
 アイオラが剣を振りかざし、ユヴェンサのもとへと駆けつけた。彼女は口をこれ以上ないほど大きく開いていた。戦いの喧噪の中、聞こえるはずのないその叫びを、ヨリスは聞いた。
 弓射中隊第一小隊隊長アイオラ・コティー。彼女の父は連絡将校で、母は軍医だった。いずれも彼女が幼い頃に、南東領との戦争で戦死した。アイオラは可憐な女性だった。そして、見かけや物腰よりずっと強(したた)かで苛烈な心を持っていた。南東領の敵兵は、一人でも多く殺してやる。ヨリスに対し、そう語ったことがある。だが、ヨリスは彼女が怯えて泣く捕虜の南東領兵士に、内緒で梨をむいて差し入れてやったことがあるのを知っている。六年前、彼女が初めて手を血で染めたとき、号泣し、震えながら吐いていたのを知っている。露営時に、マントにくるまり体を丸くしながら、お母さん、と寝言を呟いたのを知っている。
 アイオラは憎悪に顔を歪ませ、怒りの咆哮を放ちながらユヴェンサを刺した敵兵の顔面に剣を突き立てた。その兵士がよろめき倒れても、二度ともとの顔立ちがわからなくなるまで、その顔を滅多刺しにし続けた。ヨリスの感情が投射されたかのように。
 ユヴェンサを刺した兵士は、もと難民の志願兵だった。彼は港町デナリの出身だった。彼にはどうしても、故郷の港から所在地すらさだかではない宙梯にたどり着けるなどとは信じられなかった。前総督は俺たちを騙そうとしている。彼はそう訴えた。彼の家の窓には石が投げつけられた。彼の姉のまだ幼い息子は、道で謂われなく殴られた。彼は前総督の召集を拒んだ。その結果、家を追われ、一家で難民になるしかなかった。食料もなく、職もなかった。他の難民の一団と合流しても、新総督の支配領域を目指す旅の途中、行く先々で待ち受けるのは、厄介者を見る冷たい視線と言葉だった。彼には妹がいた。家にも地域にも守られぬ弱者となった彼女は、このところ性質のよくない男たちによく絡まれるのだと、彼に漏らした。彼には「辛抱しろ」と言うより他なかった。その妹は、集団で暴行され、変わり果てた姿で道に転がった。抱き上げ、縋りついて泣く彼に、誰も手を差し伸べなかった。難民という弱者である彼を、彼らを、誰も助けようとしなかった。
 一人の弓射中隊の兵士が、敵兵を刺し続けているアイオラを後ろから羽交い締めにした。無理矢理連れていく。伍長の腕章をつけた男が、ユヴェンサの隣にしゃがみこんだ。そして立ち上がり、すぐに後退した。
 シルヴェリアにも見えていた。
 フェンにも見えていた。
 それでも指揮は続いた。戦闘と整列は続いた。全ての部隊指揮官が、全ての兵士と下士官が、そうした。
 戦争という死に神が、命を刈り取っていく。
 指揮官たちがその大鎌となる。
 指揮官たちは命じる。
「突撃せよ!」

 ※

 フクシャ市を巡るこの会戦は、半日ののちシグレイ・ダーシェルナキの反乱軍の勝利によって終わった。反乱軍左翼が主たる戦場となったが、決定打となったのは、反乱軍右翼での連合軍部隊の局地的大敗であった。反乱軍第一軍第三軍団、及びシオネビュラ神官団によって連合軍左翼の戦闘部隊を全滅に近い状態に追いやられ、決定的な場面においてその戦力を主戦場に投入できなかったことが敗因となった。
 新総督軍に比べれば、反乱軍第三軍団及びシオネビュラ神官団が受けた損害は軽微であった。
 損害は軽微であった。

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