開戦の日

文字数 3,487文字

 1.

 強攻大隊の宿営地にリレーネを訪ねた日の終わり、シルヴェリアは師団指揮所の私室で滋養酒の栓を開けた。
「おや、お飲みになるとは珍しい」
 と、ベッドを整えていた副官のフェン。シルヴェリアはグラスを振った。
「つきあえ」
 フェンはとろけるような笑顔を見せた。
「いいえ。私は遠慮させていただきます」
「今日が最後になるやもしれんぞえ?」
 意地悪く笑いかけるシルヴェリアに動ぜず、フェンは静かに答えた。
「だからこそ、でございます。副官の私が素面でいなければ」
「何と。私が指揮不能に陥るほど酔うと思うておるか」
「とんでもございません」
 フェンは部屋の中央を占めるテーブルへと歩み寄り、しっとりした手で、シルヴェリアのグラスを持っていない方の手を取った。
「シルヴェリア様、まだお休みになられないのでしたら、お爪を磨いて差し上げましょう」
「ふむ」
 シルヴェリアは(ひざまず)くフェンの前に左手を垂らし、させるに任せた。ついうとうとしたくなる静けさが満ちた。副官は穏やかに微笑みながらやすりで爪を磨き、時計が規則正しく音を立て、テーブル周りには酒の臭いが満ちている。外からは何も聞こえて来ず、部屋は温かい。
 シルヴェリアは眠気覚ましに口を開いた。
「フェンや。この後民間人を無事後送できれば、あの娘ともお別れじゃのう」
「そうでございますね」
「軍団長は民間人の後送を妨げる要素があると考えておる」
 だから、リレーネとリージェスは様子を見てから、最後にトレブレニカを出る手筈になっていた。
「このような内戦では、何が起きようと不思議はございません。シルヴェリア様はあの大隊長を高く評価してらっしゃるのですから、今しばらく強攻大隊に預けておくのが正解ですよ」
 シルヴェリアはテーブル上の銀器を一瞥した。そこに紙を燃やした後に残る、黒い炭が乗っていた。酒を(あお)る。それからごく静かな声で言った。
「二日前、都で私の一番上の弟が毒殺された」
 フェンの爪を研ぐ手が止まった。
「奴は王領に寝返ったパンネラのもとへ安全に輸送されねばならんはずじゃった」
「下手人は」
「わかっておらん。パンネラは王領からたちまち抗議の声明を上げたそうじゃ。おかしいと思わんかえ? 二日前の報が今日、北トレブレンの私に届いたのに、同時に王領からの声明が届くとはな」
 肩を震わせて短く笑う。フェンは爪磨きを再開した。
「のう、それと、そなたは総督の娘をどう思う?」
 好奇心に輝く水色の目で、シルヴェリアは副官が自分の爪を磨く動作を見守った。
「シンクルス・ライトアローは公式には死んだ事になっておる。まともな神経をしていれば、口に出して良い名ではないとわかろう」
「もう一つ、あの娘はおかしなものを口に出しましたよ」
「申せ」
「宇宙空間に存在する、地球の戦列艦セト。天球儀完成後に夜の王国の動向を監視するべく宇宙港・南東領『言語の塔』より打ち上げられ、その後天球儀は永遠に閉ざされました。その存在は神官の筋の者しか知らぬ禁識です」
「ほう。では、私がうっかりそれを漏らせば、そなたも私も打ち首じゃの」
「シルヴェリア様、副官を困らせないでくださいませ」
 二人は声をひそめて笑いあった。
「興味深い娘ですよ。いくら想像力をたくましくしたところで、知りもしないものの名は出てきませんからね」
「では、その存在が禁識ではなかった『こことは違うアースフィア』から来た、と?」
「ご冗談を」
「想像するだけならタダじゃろうて。のう、もし異なる宇宙、異なるアースフィアというものが存在し、娘がそこから来たというのなら、黎明現象からの新たな逃げ道が存在する事を意味しておる――」
 誰かが戸を叩いた。
「誰じゃ」
 グラスを置き誰何(すいか)する。戸の向こうから女の声が答えた。
「参謀長ピュエレット・モーム大佐でございます」
「おお、モーム大佐か。開いておるぞ。入れ」
 戸が内側に開き、一人の女性軍人が入室した。モーム大佐は五十代半ばの参謀将校で、若い頃には作戦部で経験を積んだ。子が二人おり、子育てのための休暇が明けて暫くの間は情報部に勤務し、また作戦部に戻り、黎明という大局を迎えて前線に出てきた。男のようにオールバックにした金髪と、突き出た頬骨、鋭い眼光、尖った鷲鼻がいかにも無骨な印象を与える。が、見た目よりかは幾分物腰の柔らかい人物だ。シルヴェリアはくせが強く個性的な人間ばかりをやたらと集めたがるが、参謀長モーム大佐もその一人で、フェンやヨリス同様、シルヴェリアの気に入りであった。
「掛けよ」
 シルヴェリアの許しを得て、モーム大佐は一礼し、向かいに腰を下ろした。
「何用じゃ?」
「はっ。第一師団には直接の関わりはございませんが、師団長殿がご興味を示しておられた件につきまして情報が入りましたゆえ、お耳に入れたく」
「申せ」
「昨日、トリエスタ近郊の村にて、情報部のアセル・ロアング中佐が神官将シンクルス・ライトアローを保護しました」
 シルヴェリアは眉を片方吊り上げ、にやりとした。
 シンクルス。前神官大将が処刑される直前に正位神官将の座から罷免され、自由の身となった唯一の神官。オレー大将はシグレイに、有事にはシンクルスを遣わす事を約束していた。
 だが新任の神官大将ウージェニー・アーチャーの行動は素早く、オレー大将は個人的な親書で以って呼び出したシンクルスが到着する前に、捕らえられ、殺された。
 未知なる海の何処にあるかも定かではない、静止した月へ昇る宙梯。そこにたどり着くためには、地球文明の正しい知識を持つ神官が絶対に必要だった。――とりわけシグレイにとって信頼できる人物が。
 シンクルスは最適だった。頭が良く、知識が正確かつ豊富なばかりでなく、シグレイとオレー大将に対する恩義がある。
「ロアング中佐か。そなたが情報部にいた頃の直属の部下であったな」
「はい」
 その事は、シンクルスがシグレイとオレー大将に恩義を抱くようになった理由に関係していた。
 九年前、西方領神官大将であったオルドラス・ライトアローの息子夫婦に国王暗殺を謀った嫌疑がかけられると、王家、及びライトアロー家の長年のライバルたるアーチャー家は、ライトアロー家断絶に向けて動いた。盟約御三家、つまり矢の家・弓の家・射手の家のうち、弓の家=ウィングボウ家は八百年も昔に滅んでいた。矢の家=ライトアロー家が滅びれば、神官たちの世界はアーチャー家の独壇場となる。
 シグレイはライトアロー家の末裔がどうしても欲しかった。まだ若すぎて、若すぎるゆえに純粋で、この一件でアーチャー家に並みならぬ憎しみを抱いているはずのシンクルスをどうしても手許に置きたいと、オレー神官大将に打ち明けた。結局、情報部はシンクルスが捕らえられていた牢獄の看守たちを買収し、死んだことにさせて、南西領に亡命させる事に成功した。
 この一件は、モーム大佐が知る二人の人物に思わぬ良い影響を与えた。
 一人は当時少佐だったアセル・ロアング。彼は事故で息子を失った悲劇から何年も立ち直りきれずにいた。シンクルス救出のための実働部隊を指揮し、彼に死んだ息子を投影し世話を焼く事で、息子の死を乗り越え、精神の安定を得た。人当たりと愛想が良いように見えて他人の干渉を嫌うシンクルスは、当時両親と婚約者を最悪の形で失ったばかりか、自身も監獄で手荒い扱いを受け、極めて悲惨な精神状態にあったため、アセルの世話焼きを受け入れた。そこには共依存という恐ろしい罠が口を開けて潜んでいたが、二人はことに自立心が強かったためそれを避けた。
 もう一人はリアンセ・ホーリーバーチ。西方領の神官の名家の娘だが、命を賭して南西領陸軍情報部に極秘で協力した。その後はホーリーバーチ家を見限り出奔、単身南西領に移り住み、モーム大佐の後ろ盾と奨学制度を利用して士官の道に進んだ。モーム大佐はリアンセに、娘に対するような感情を抱いていた。可憐にして剛毅。繊細にして大胆。それはある程度までは事実であり、後は『親の欲目』だった。
 モーム大佐がリアンセの事を思い出していると、窓の外で、攻撃開始の喇叭が激しく吹き鳴らされた。
 フェンが爪磨きをやめた。シルヴェリアはモーム大佐の報告について、何か言おうと口を開いたところだった。モーム大佐の目が窓のカーテンに吸い寄せられた。シルヴェリアが椅子を倒して窓に飛びつき、厚いカーテンを払った。


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