天佑
文字数 2,977文字
3.
奇妙に息苦しい。息を吸い込めば吸い込むほど、より苦しくなる。それゆえに夢とわかった。顔に布団を掛けて眠れば、夢でこのような具合になる。シンクルスはそうしたことを思い出したが、目覚める気にはなれなかった。目の前には、西方領神官大将であった頃の祖父がいた。懐かしさを理由に、シンクルスは夢を見続けた。
夢と自覚された夢は、その荒唐無稽な性質を弱め、過去の記憶を忠実になぞり始める。
シンクルスは子供だった。十にもなっていない頃だ。西方領ザナリス、ライトアロー邸。闇夜。星の輝きと、空を覆う天球儀の白色光。
柱廊には、屋敷の召使いたちが点した松明が赤々と燃えている。柱廊の突き当たりの曲がり角のすぐそばに、小鳥の水場となる水盆が設置されている。祖父と歩いていたシンクルスは、柱廊から庭に出て、水盆に手をつき、中を覗きこんだ。星々と天球儀の手前に、暗く自分の顔が映った。
「全ての物質を、もうこれ以上はできぬというまで小さく分けていけば、それは全て同じ物質だというのなら」祖父、オルドラス・ライトアローの水盆を覗き込む顔が、水面に映った。シンクルスはその顔に尋ねた。「水やこの水盆も、私も、同じ物質なのでしょうか? 水は私になるのでしょうか? 私は水盆になるのでしょうか?」
「万物の基本的な物質はみな同じ、二種類の粒子から成っている」
祖父の手が水盆の中を泳ぎ、中の黒い石を二つ出した。
「二種類の物質は、ある力によって結びつけられている」
二つの石は祖父の両手のそれぞれに握られた。
「この石を離していけば、結びつける力はどうなると考える?」
「引き離す力によって、結びつける力は消滅します」
祖父は両手を左右に広げ、石と石を離した。
「いいや」
何かを象徴するように、両腕を広げきる。
「離せば離すほど、結びつける力は強くなるのだ」
「それはおよそ直感に反することです」
「シンクルス、お前は聡明な子だ」祖父は腕をおろし、二つの石を水盆に投じた。「お前ならば、直感に反する事実を受け入れる考え方を見いだせよう」
シンクルスは慎重に口から言葉を紡ぎだそうとした。
「空間の中を物質が動くとき――」
何も言えなくなった。
何かを言い直そうとして、何が間違っているのかわからなくなった。沈黙した孫を、祖父が助けた。
「空間の中を物質が動いているのではない。空間の副産物が物質なのだ。それが地球人の世界観だった。物質よりも空間が、上位のものなのだ」
どうしてだか、言われてみれば当たり前のように聞こえる。言われるまで気付かなかったことが不思議だった。
「だから、シンクルス、空間が変質すれば、物質である我々も変質する」
「何故、空間が変質するのですか?」
「時間が変質するからだ、光の矢の家の子よ」
最後の一言に違和感を覚えた。瞬きをすると、祖父の顔が、歴史教科の文献で目にした男の肖像に変じた。
それが誰であったのか、ほとんど直観とも呼べる力でシンクルスは思い出す。
シンクルスは身を乗り出す。二十五歳の青年になって。
「予言者よ――」
「時の矢が戻るのだ」預言者キシャの一番弟子、予言者タターリスは告げた。肖像の顔が不意に肉を得て、八百年前の顔に現代の命を吹き込む。「見るがいい」
視界が暗転した。
夢が終わる。
鮮明な記憶、新しい記憶、緑の光の幕が視界に現れる。文字。
〈光あれ〉
目覚めと同時に、思考が頭の中に流れ込んできた。自分の頭で考えたようにはとても思えなかった。
時の矢が戻るのだ。
タターリス・エルドバードの幻影が、船室で目覚めて顔から布団をはぎ取るシンクルスになお囁いた。
自転は止めたが公転は続けている惑星アースフィアという物質が、宇宙という空間で運動しているわけではない。惑星アースフィアは、あくまで宇宙という空間の副産物にすぎない。
空間が変質すれば、物質も変質する。
「わかった」
シンクルスはベッドに手をつき、上体を起こした。
「そういうことであったか」癖で、瑠璃色の髪に手を入れ、軽く乱れを整える。「……何ということだ」
一人呟くその姿を、天籃石のランプが、黒い布越しの光で淡く照らした。シンクルスはサイドテーブルのランプから、その覆いを払った。
光は荒唐無稽な夢の思考を消すどころか、より一層固めた。
船室の窓は紫色の、夜明けの光に満ちていた。賑やかな人の声で、港に入っているのだとわかった。シオネビュラに着いたのだ。
シンクルスは確信を固め続けた。
時が戻るとは、その通りの意味なのだ。
夜明けが訪れるのは、そういうことではないか?
アースフィアの自転が何らかの理由で再開したのではない。
アースフィアが自転していた頃へ、時が巻き戻っているのだ。
それからは早かった。身支度を整え、元より乏しい手荷物をまとめあげる。そうしながらも考え続けた。
光になる? 変質させられる?
俺たちは変質させられた末、光になるのであろうか?
かつて宇宙のはじめにあった光へと?
そして、地球人たちは、こういうことが起きるのを知っていたのではないか?
キシャは、そして彼女に協力した地球人は、そのような滅びから生き延びる方法を探していたのではないか?
地球人はもうすでに光になった――表現はどうでもいい――とにかくもう滅んでいて、言語生命体からのいかなる呼びかけにも応答しないのは、そのためではないのか?
〈我々は消え去る〉
または、言語生命体を残してアースフィアを脱出したか……だが、どこへ? 宇宙という空間そのものが変質するのに、空間の副産物たる物質にすぎない生物が、どこに逃げるというのだ?
「ここはシオネビュラであろうか?」
廊下に飛び出して最初にあった神官に掴みかからんばかりの勢いで尋ねると、同年代の神官はたじろぎながら答えた。
「はい。左様でございますが……」
「そなたらは、情報部アセル・ロアング中佐殿とアーチャー家の姉弟を、このままミナルタまで連れていくのだ」
「神官将様、あなたは」
「俺はコブレンに行く。このことは出航まで口外せぬよう」
「シンクルスさん!」
叫びを押し殺すような女の声が、後ろから呼びかけた。
レーンシーが廊下の角に立っていた。
「私も行きます。同行させてください」
「レーンシー――」
「コブレンの聖遺物を目指すおつもりですね? ウィングボウ家の別邸跡を。そうでしょう?」
そして小走りで寄ってきて、真剣な眼差しを、シンクルスの目に注いだ。そして続けた。
「そうであれば、鍵が必要になります、シンクルスさん」
シンクルスはレーンシーの目をじっと見返した。返事ができなかったのは、迷ったからではない。彼女の命に対する自分の責任が、ふと恐ろしくなったからだ。
「命令を変更する」レーンシーに直接答えず、神官に言った。「このまま情報部のアセル・ロアング中佐とレーニール・アーチャーを、ミナルタまで連れていくのだ」
「シンクルスさん」
「直ちに荷物をまとめるがよい」
零刻の鐘が鳴る十分前、シンクルスとレーンシーが、シオネビュラの港に降り立った。
二人の姿は薄明の都市の人波に紛れ、すぐに見えなくなった。
奇妙に息苦しい。息を吸い込めば吸い込むほど、より苦しくなる。それゆえに夢とわかった。顔に布団を掛けて眠れば、夢でこのような具合になる。シンクルスはそうしたことを思い出したが、目覚める気にはなれなかった。目の前には、西方領神官大将であった頃の祖父がいた。懐かしさを理由に、シンクルスは夢を見続けた。
夢と自覚された夢は、その荒唐無稽な性質を弱め、過去の記憶を忠実になぞり始める。
シンクルスは子供だった。十にもなっていない頃だ。西方領ザナリス、ライトアロー邸。闇夜。星の輝きと、空を覆う天球儀の白色光。
柱廊には、屋敷の召使いたちが点した松明が赤々と燃えている。柱廊の突き当たりの曲がり角のすぐそばに、小鳥の水場となる水盆が設置されている。祖父と歩いていたシンクルスは、柱廊から庭に出て、水盆に手をつき、中を覗きこんだ。星々と天球儀の手前に、暗く自分の顔が映った。
「全ての物質を、もうこれ以上はできぬというまで小さく分けていけば、それは全て同じ物質だというのなら」祖父、オルドラス・ライトアローの水盆を覗き込む顔が、水面に映った。シンクルスはその顔に尋ねた。「水やこの水盆も、私も、同じ物質なのでしょうか? 水は私になるのでしょうか? 私は水盆になるのでしょうか?」
「万物の基本的な物質はみな同じ、二種類の粒子から成っている」
祖父の手が水盆の中を泳ぎ、中の黒い石を二つ出した。
「二種類の物質は、ある力によって結びつけられている」
二つの石は祖父の両手のそれぞれに握られた。
「この石を離していけば、結びつける力はどうなると考える?」
「引き離す力によって、結びつける力は消滅します」
祖父は両手を左右に広げ、石と石を離した。
「いいや」
何かを象徴するように、両腕を広げきる。
「離せば離すほど、結びつける力は強くなるのだ」
「それはおよそ直感に反することです」
「シンクルス、お前は聡明な子だ」祖父は腕をおろし、二つの石を水盆に投じた。「お前ならば、直感に反する事実を受け入れる考え方を見いだせよう」
シンクルスは慎重に口から言葉を紡ぎだそうとした。
「空間の中を物質が動くとき――」
何も言えなくなった。
何かを言い直そうとして、何が間違っているのかわからなくなった。沈黙した孫を、祖父が助けた。
「空間の中を物質が動いているのではない。空間の副産物が物質なのだ。それが地球人の世界観だった。物質よりも空間が、上位のものなのだ」
どうしてだか、言われてみれば当たり前のように聞こえる。言われるまで気付かなかったことが不思議だった。
「だから、シンクルス、空間が変質すれば、物質である我々も変質する」
「何故、空間が変質するのですか?」
「時間が変質するからだ、光の矢の家の子よ」
最後の一言に違和感を覚えた。瞬きをすると、祖父の顔が、歴史教科の文献で目にした男の肖像に変じた。
それが誰であったのか、ほとんど直観とも呼べる力でシンクルスは思い出す。
シンクルスは身を乗り出す。二十五歳の青年になって。
「予言者よ――」
「時の矢が戻るのだ」預言者キシャの一番弟子、予言者タターリスは告げた。肖像の顔が不意に肉を得て、八百年前の顔に現代の命を吹き込む。「見るがいい」
視界が暗転した。
夢が終わる。
鮮明な記憶、新しい記憶、緑の光の幕が視界に現れる。文字。
〈光あれ〉
目覚めと同時に、思考が頭の中に流れ込んできた。自分の頭で考えたようにはとても思えなかった。
時の矢が戻るのだ。
タターリス・エルドバードの幻影が、船室で目覚めて顔から布団をはぎ取るシンクルスになお囁いた。
自転は止めたが公転は続けている惑星アースフィアという物質が、宇宙という空間で運動しているわけではない。惑星アースフィアは、あくまで宇宙という空間の副産物にすぎない。
空間が変質すれば、物質も変質する。
「わかった」
シンクルスはベッドに手をつき、上体を起こした。
「そういうことであったか」癖で、瑠璃色の髪に手を入れ、軽く乱れを整える。「……何ということだ」
一人呟くその姿を、天籃石のランプが、黒い布越しの光で淡く照らした。シンクルスはサイドテーブルのランプから、その覆いを払った。
光は荒唐無稽な夢の思考を消すどころか、より一層固めた。
船室の窓は紫色の、夜明けの光に満ちていた。賑やかな人の声で、港に入っているのだとわかった。シオネビュラに着いたのだ。
シンクルスは確信を固め続けた。
時が戻るとは、その通りの意味なのだ。
夜明けが訪れるのは、そういうことではないか?
アースフィアの自転が何らかの理由で再開したのではない。
アースフィアが自転していた頃へ、時が巻き戻っているのだ。
それからは早かった。身支度を整え、元より乏しい手荷物をまとめあげる。そうしながらも考え続けた。
光になる? 変質させられる?
俺たちは変質させられた末、光になるのであろうか?
かつて宇宙のはじめにあった光へと?
そして、地球人たちは、こういうことが起きるのを知っていたのではないか?
キシャは、そして彼女に協力した地球人は、そのような滅びから生き延びる方法を探していたのではないか?
地球人はもうすでに光になった――表現はどうでもいい――とにかくもう滅んでいて、言語生命体からのいかなる呼びかけにも応答しないのは、そのためではないのか?
〈我々は消え去る〉
または、言語生命体を残してアースフィアを脱出したか……だが、どこへ? 宇宙という空間そのものが変質するのに、空間の副産物たる物質にすぎない生物が、どこに逃げるというのだ?
「ここはシオネビュラであろうか?」
廊下に飛び出して最初にあった神官に掴みかからんばかりの勢いで尋ねると、同年代の神官はたじろぎながら答えた。
「はい。左様でございますが……」
「そなたらは、情報部アセル・ロアング中佐殿とアーチャー家の姉弟を、このままミナルタまで連れていくのだ」
「神官将様、あなたは」
「俺はコブレンに行く。このことは出航まで口外せぬよう」
「シンクルスさん!」
叫びを押し殺すような女の声が、後ろから呼びかけた。
レーンシーが廊下の角に立っていた。
「私も行きます。同行させてください」
「レーンシー――」
「コブレンの聖遺物を目指すおつもりですね? ウィングボウ家の別邸跡を。そうでしょう?」
そして小走りで寄ってきて、真剣な眼差しを、シンクルスの目に注いだ。そして続けた。
「そうであれば、鍵が必要になります、シンクルスさん」
シンクルスはレーンシーの目をじっと見返した。返事ができなかったのは、迷ったからではない。彼女の命に対する自分の責任が、ふと恐ろしくなったからだ。
「命令を変更する」レーンシーに直接答えず、神官に言った。「このまま情報部のアセル・ロアング中佐とレーニール・アーチャーを、ミナルタまで連れていくのだ」
「シンクルスさん」
「直ちに荷物をまとめるがよい」
零刻の鐘が鳴る十分前、シンクルスとレーンシーが、シオネビュラの港に降り立った。
二人の姿は薄明の都市の人波に紛れ、すぐに見えなくなった。