この四十六歳児!

文字数 6,112文字

 1.

 トリエスタの高級住宅地の坂を、二つの人影が上っていく。一つは神官シンクルス・ライトアロー、もう一つは陸軍情報部のアセル・ロアングだった。
 シンクルスはうんざりしていた。乗り合いの馬車に頼れず、難民の群れと不用意に接触する事もできず、徐々に気温が上昇するなか厚手の巡礼衣裳を纏って一日歩き続け、街道脇の茂みの中で虫にたかられながら横になる。そうして僅かでも音がすれば、刺客に怯えて飛び起きる。シンクルスは棲家を遠く離れるというのが苦手だった。加えて徒歩の旅というものに慣れていなかった。神学校の最終学年の時に、現地実習として地方の神官団と共に長距離行軍の訓練を行ったが、今にして思えばかなり快適なものだった。神学生たちは歩兵を引き連れて指揮用馬に跨っていればよく、重い荷物は輜重(しちょう)隊に任せ、野営時には自分の監督下でテントを設営させ、体を清めて服を替え、数日もすれば提携する神官団の根城(ねじろ)にたどり着き、ベッドの上で眠れた。
 うんざりした気分になる度に、自分の中に甘ったれた考えがある事を認めざるを得ない。自分はまだ、タルジェン島の大きな神殿の広く清潔な部屋で、一級品の家具に囲まれて暮らす権利があるなどと思っている。料理人が三度の食事を提供し、洗濯夫が下着から夜着から法衣一式から祭礼の衣裳から何から何まで着る物を用意し、メイドが備品を切らさぬよう心を配り、部下たちは神官将が雑務に気を取られずに済むよう率先して働く。そういう暮らしに慣れ過ぎた。そして今の自分には、そういう暮らしに戻る見立てはないのだ。
 だが何も持っていないわけではない。
 隣には心強い同行者がいる。
 シンクルスとアセルがトリエスタの街に到着したのは、つい一時間ほど前だった。
「喜べ。今日は屋根の下で眠れるぞ」
 街道から伸びる支道の一つ、森の横を通る荒れた細道にたどり着いた時、アセルは口を開いた。
「ここからちょうど十二時間の距離にトリエスタの街がある。トリエスタに着けば――」彼は後ろめたさを隠す時に特有の渋面を作った。「――私の昔の家がある」
 シンクルスはアセルの気まずそうな表情をまじまじと見つめ、首を傾げた。
 アセルには妻子がいた。一人息子は事故で亡くなったそうだ。妻とは数年前に離婚している。ひどい離婚の仕方だったそうだ。持ち家と家財一切合財を取られた――あるいは譲ったのかもしれないが――らしく、彼は今陸軍の独身寮に住んでいる。かつての家など彼にとっては古傷以外の何でもないはずだ。
「しかし、中佐殿……かつての奥方がご在住ではあるまいか? 俺に気を遣っているのなら……」
「トリエスタなら概ね希望者の疎開は完了している。妻もそれに加わっているそうだ。噂に過ぎないがな。……彼女は海軍関係者に親族が何人もいる。そこを頼って行ったとしてもおかしくはない」
「しかし――」
「別段君に気を遣っているわけじゃないぞ。状況が状況だ。宿を取る気にはなれん。それに、屋根と壁のある場所で今後の打ち合わせをするのも悪くはあるまい」喋りながらぼさぼさの髪を掻いた。「……家の鍵ならある」
 初めからそのつもりだったのだろうとシンクルスは考えた。もしも機会があるのなら、人生で一番幸せだった頃の住居を見ておきたいと彼が思ったとしても不思議ではない。それが最後になるのだから。陸を捨てる、という事が、不意に心に重くのしかかった。
 トリエスタの下町にはまだ生活感があったが、高級住宅地に入ると家々の明かりは全く見えなくなった。時折こそこそと人影が視界の隅を移動し、直視しようとすると素早く裏道に身を隠す。高級住宅地は泥棒の巣窟になっていた。中には子を引き連れて住み着いた貧民たちもあり、垢まみれの泥まみれになった高級子供服を来た痩せこけた子供が街路樹の下に座りこんで、親が食料を持って帰るのを待っている。辺りには糞尿の臭いが垂れこめ、喧嘩の血痕、くず鉄、食べ物を包むのに使った油紙やおむつが芝生や歩道に散っている。
「中佐殿のご自宅はご無事だろうか?」
「自宅じゃない」
「失礼した……だがもし他に住み着いている者があったら?」
「愚問だな。叩き出す」
 アセルは右手で拳を作り、左の掌に叩きつけた。乾いた音が響き、街路樹の下の二人の子供が驚いて逃げ去った。アセルは本当にそうするだろうとシンクルスにはわかった。自分だったらそのように行動できるだろうか? その行動が必要だと判断できるだろうか? きっとできないだろう。今この地区を占拠しているのは、虐げられ、安く()き使われ、厳しい労働で身体に障害を負っても何の保証も得られない、痩せた貧しい人々だ。自分ならきっと立ち去る。そして後から、まだほんの子供だったではないか、とか、追われる身で騒動を起こすわけにはいかない、などと言い訳を探すのだ。
「いいか、クルス」
 胸中を見越したようにアセルが続ける。
「憐れみをかけるな。君のそれは優しさではない。甘さだ。奴らは君が思うより遥かに(したた)かで逞しい。覚えておけ」
 ああ、と短く返事をし、シンクルスは頷いた。道徳的な是非を問うている場合ではない。決断力と行動力が必要で、目的のために必要な分だけ冷酷になるという覚悟が必要で、アセルはその全てを自分以上に持っている。加えて経験があり、度胸がある。
「……わかっている。中佐殿が正しい」
 ふん、とアセルは短く鼻を鳴らした。
「伊達に君より二十一年長生きしていないぞ」
 その家は、三百年間住み継がれてきた堅牢な住居だった。アセルにとって勝手知ったる元我が家だ。鍵を差し、回す。何の抵抗もなく開いた。付け替えられてはいなかったのだ。
 中は真っ暗だが、黴や埃の臭いはしなかった。空き家になってまだ間もないのだろう。物音はしないが、息を潜めているのかもしれない。アセルとシンクルスは油断せず、板張りの廊下に足を踏み入れた。シンクルスは扉を閉め、鍵をした。真っ暗になる。アセルが先に立って廊下を歩いた。間もなく奥の部屋に明かりが点る。
 食堂だった。四人掛けのテーブルと、椅子が三脚。きちんとテーブルクロスがかかり、全く荒らされていない。
 食品庫を漁るアセルが、ナッツの瓶を引っ張り出しながら声をかけた。
「とりあえず小腹を満たそう」テーブルに保存食の瓶を置いた。「喜べ。チョコレートもあるぞ」
「まことか? よろしいのか?」
 シンクルスは、さっと頬を上気させて目を輝かせた。
「おお、中佐殿! 俺はもう十日もチョコレートを口にしていなかったのだ!」
「いいから座れ」
「中佐殿」椅子を引きながら、シンクルスは開きっぱなしの食品庫に目を注ぎながら話を繋いだ。「なぜあのような場所に石が?」
 一番上の段に、子供用の食器が並べられていた。デザインで男児用だとわかる。
 食器の手前に水晶の群晶が一つ飾られていた。
「あれは私が集めた石だ」
 シンクルスは、アセルが趣味で集めている鉱物を見せてもらった事がある。
「しかし驚いた……残っていたとはな。とっくに捨てられていたかと」
 アセルは軽く頭を振り、ナッツを取り皿に出した。それきり食品庫に背を向ける。
「それよりクルス、今後の予定だが、一旦コブレンに向かうのがいいと思う」
 喋りながら、テーブルの上を滑らせて、チョコレートの包みを寄越してくる。シンクルスは有難く受け取った。
 コブレンには黒色火薬の原料となる硝石の採石場がある。反乱軍側にとって重要な町だ。シグレイはどうにかこの戦争の落としどころを見つけて講和に持ちこもうとしている。コブレンはそれまで手放したくないはずだ。
 だが、町の有力者たちは一枚岩ではない。実業家たちの利権と議会議員の思惑が複雑に絡み、住民たちも彼らに先導されて新総督派と元総督派に分かれ、流血騒ぎを繰り広げていると聞く。
「……確かにコブレンには、タルジェン島行きの便がある」
 海まで注ぐ川があるのだ。
 シンクルスはチョコレートを一粒指でつまみ、口に運んだ。話し合いの最中だが、噛みしめる内ににこにこと相好(そうごう)を崩し、食堂に幸福感を撒き散らした。
 食べ終わると真顔に戻り、相棒の目を見た。
「しかし、タルジェン島行きの定期船乗り場には刺客が張りこんでいる事と思う。個人的に船乗りを雇えればよいのだが、資金的に不安がある。タルジェン島に着きさえすれば、後の行程の目途も立つのだが……」
「考えねばならんな。金なら私もない」
「不躾な事を聞くが、中佐殿は追われているわけではない。預金を出していただいて後で俺が工面し折半するというわけにはいかぬだろうか」
「ない」
 アセルは力なく答えた。
「あんまりないんだ……預金。その……」珍しく歯切れが悪い。「マチルダ……元妻への慰謝料の支払いが終わってなくてだな……」
「なんと」
 離婚したのは二、三年も前だ。
 シンクルスは、かつて見せてもらった事があるアセルの鉱物コレクション、珍しい石や、美しい石、大きな結晶を思い出して言った。
「中佐殿、慰謝料が払えぬのなら石を買うのをやめればよかったのでは……」
「君が私の立場だったらチョコレートを買うのをやめられるかね?」
 シンクルスは息をのみ、目を(みは)った。
「すまぬ、中佐殿! 軽率な発言であった!」
「わかればいい」
「誰?」と、女の声。
 アセルとシンクルスの表情が同時に(こわ)ばった。
 二人とも呼吸を止めた。
 声は続く。
「誰なの?」
 押し殺し、緊張で震える声だ。食堂の扉一枚隔てて立っている。
 シンクルスは腰を捩り、椅子の背もたれに手をかけ、静かに立ち上がろうとした。アセルが手で制す。彼は生唾を飲み、覚悟を決めて声に応じた。
「マチルダか?」
 扉の向こうで女が息をのむ。ヒュッという、その呼吸音がシンクルスにも聞こえた。
 レバー型のドアノブが下がった。ゆっくり内側に開く。
 ドアの向こうにいた女が、暗い廊下を背景に姿を現した。
 ナイトガウンを身に纏った、肥満した長身の女だ。色あせた赤毛を肩に垂らしている。眠っていたのだろう。血色が悪い。右手にはペーパーナイフを携えている。若造りだが、寝起きで生気がないせいか、年相応に見える。五十前くらいだ。
「アセル?」
 囁くような問いかけで、彼女が前妻なのだとシンクルスは理解した。アセルの目から鋭さが拭い去られ、驚愕に塗り替えられる。彼は唇をわななかせ、何か言おうとした。だが何も言えなかった。左手で顔を拭く。
 そしてシンクルスと向き直った。
「マチルダだ。元妻の――」
「こんな所で何をしているの? 貧乏なアセル」
 緊張を解き、マチルダは砕けた口調になり、髪を後ろに払った。シンクルスは控えめな声で、できるだけ気配を消して声をかけた。
「中佐殿、俺は少し――」
 席を外そう、と続ける前に、マチルダが声を重ねた。
「貧乏な中佐殿って呼んだ方がいいかしらね。その人は誰? 部下? ここはもうあなたが仕事の仲間を招き入れてもいい場所じゃなくてよ? それ以前にあなたが入っていい場所じゃないし、あたくしのナッツを食べる権利もないし、あたくしのチョコレートを気前よく人に分け与える権利もなくってよ?」
「わかってる、なあ、しかし――」
「アセル!」
 唐突に怒鳴りつけられて、アセルは子供のようにすくみ上がった。
「ア、セ、ル。この家は誰の家?」
「お前のだ――」
「この家の家財一切合財(いっさいがっさい)は誰の物?」
「お前のだ、わかってる、だがその――」
 シンクルスは、アセルから聞いた「ひどい離婚の仕方」の内容を思い出した。軍務でいっぱいいっぱいになっている間に何の相談もなく離婚裁判を起こされ、言い分は全てマチルダの主張が通り、持ち家と家財全てを取られたのだ。
「では最後に、あなた、慰謝料の未払い金があと幾らかお分かり?」
「……十……十五クレスニー……」
「卑しくもこの家に上げて頂きたいのなら!」マチルダはまた声を荒らげた。「さっさと未払い分を支払って、詫び状でも書いて、入れてくださいと頭を下げなさい! この問題児! 超問題児! 四十六歳児!」
「頼むから落ち着いてくれ」
 アセルは親子ほど年の離れた友人の前で威厳を保つ努力は放棄したが、せめてある程度の面子は保とうと試みた。
「マチルダ、勝手に上がりこんだのは悪かった。それは謝る。君はもういないと思っていたんだ。どうしてまだここにいる? 何故疎開しようとしない?」
「あなたが残りの慰謝料を持ってくるのを期待して待っていたのよ」
 会話の主導権を取り戻す元夫の試みは空しく終了した。
「支払期日は過ぎててよ? あたくし、よっぽど人を使って取り立てようと思ったのですから。あなたの事務所に離婚の慰謝料の件で弁護士が出入りしたら、部下や上官はどう思うかしら?」
「頼むからやめてくれ」
「中佐殿、俺は外そう」
 椅子を引くシンクルスを見もせず、マチルダは一言。
「そのまま外に出て行って下さる?」
「そういうわけにはいかんのだ」
 アセルはまた左手で顔を拭く。
「泊めてくれ。マチルダ、頼む。零刻になる前に出て行く。宿泊代は払うし、このナッツと、チョコレートの金も払う。なあ、頼む――一晩、じっくり話をして休む場所が必要なんだ」
「仕事ですの?」
「ああ」
「へえ、仕事」
 マチルダは、ペーパーナイフを持っていない方の手をテーブルに置いた。指の関節をゆっくり曲げ、天板に爪を立てる。
「仕事、仕事。いつだって仕事ばかり。あたくしの都合は置き去りで」
「普通の仕事じゃない」と、座ったままのアセル。「そういう事はお互い納得ずくの結婚だっただろう」
「その結婚が何故破綻したかはおわかりでないのね」
 唇を結んで、マチルダはアセルの目を見下ろした。アセルは彼女の表情から、適した答えを探そうとし、それから彼女がまた何か言い出すのを待ち、また答えを探した。
 アセルの困惑とマチルダの恨みが食堂に渦巻いた。
 時間だけが無駄に流れた。
 アセルは諦めた。
「わかった」と、頷く。「出て行こう」
「出て行ってどこに行くおつもり?」
「それは言えない」
「でしょうね」
 マチルダの指がテーブルを叩く。
「そうでしょうとも。あなたの仰る事ならわかりますもの。有事なんでしょ? 難しい局面なんでしょ? 危険なんでしょ? あなたが何も言わなくたって、あなたの仕事はわかってます。あなたが前総督派なのか、新総督派なのか知らないけど――」
 鋭く息をついた。
「下手にこの辺りをうろつかれて捕まったりしたら迷惑です。あたくしにも危害が及びますからね」
「マチルダ――」
「あなたとハラルの部屋は昔のままです」
 マチルダはナイトガウンを翻し、出て行く前に吐き捨てた。
「どうぞ、勝手になさってください。はした金など要りません」


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