長広舌

文字数 6,535文字

 2.

 漁村リェズの大隊指揮所で、ギルモア中佐は一枚の書面を睨んでいた。五時の鐘が鳴った。そういえば昨日のこの時間も同じようにしていた。昨日は予算公布書を睨んでいたのだ。
「何を考えているの?」
 副官兼愛人のレナ・スノーフレークがやって来て尋ねた。ギルモアは書面を折り畳んだ。そして考えていたのとは別のことを口にした。
「もう何日リェズで足止めを食らっているかとね。うんざりだ。いつになったら我々はシオネビュラに向かえるんだ」
「金がいりますもの」レナはわざと苛立たせるかのように、わかりきったことを言う。「兵士一人につき一日三デニーデル。下士官は四。士官は五。一泊五デニーデルとか、どんな素敵なホテルに泊めて下さるおつもりでしょうね」
 ギルモアは何も言わず、渋面を作ることで嘆きを表現した。予算が厳しいのはシオネビュラへの宿営費だけではない。今し方見ていた書面もまた、金に関係するものだ。兵士たちの、支給品の補修ないし追加支給を乞う嘆願書だった。本来そのためにあてがわれる金はレナの懐に消えていた。彼女が作成する予算書や明細書に誤魔化しがあることには気付いていたし、大目に見てきた。だがそろそろ限界だ。
 代わりの副官になる若い女性士官など、他にいくらでもいるはずだ。
「サーバス将軍も、さっさと予算を承認すればいいのに」そのレナが言う。「反乱軍と金のことで張り合って、負けるわけないんだから」
「最近はどこもシオネビュラ神官団に金を出したがらないんだ」
 ギルモアは優しそうな声で言った。
「溜めこんだ金を何に使うつもりかわからないから、皆警戒している。それに多額の前払い金を支払った王領の部隊を、契約の日数の半ばで追放して、金を返さなかった前科がある。金のことをきっちりしない人間は信用されないんだよ。個人でも集団でもね。レナ、君の金銭管理はどうなっている?」ギルモアは書面を机に伏せた。「あまり小うるさいことは言いたくないが、私にも庇いきれる限度というものがある」
 レナは全く動じず微笑んだ。
「何に使ったかも知らないくせに」
「わかるさ。大方、そのきれいな宝石付きのカフスボタンや、見る度に違うデザインになっている靴下留めに使ったんだろう」
 レナが軍服の、ジャケットの内側に手を入れた。内ポケットから何かを出し、ギルモアの机に置く。
 劇薬のマークが描かれた小瓶だった。
 ギルモアは瓶に注目した。ラベルに、その正体を記す文言はなかった。
「これは何だね」
「言語活性剤です。人間を化生に作り変える、あの」
 ついつい、小瓶とレナの微笑とを何度も見比べる。
 ギルモアは呆気にとられて質問を重ねた。
「どこで手に入れたんだね?」
 レナは無言で微笑むばかり。
「いくらしたんだ?」
「さぁ、いくらでしょうねぇ?」
「救世軍の男と寝たのか?」
 裏切られたという怒りと屈辱が、ギルモアの胸に湧き起こった。それは嫉妬だった。実に身勝手な感情。若くてかわいい女など他にいくらでもいる、だから自分が優位に立っている、とギルモアは思っていた。だがレナとしても、お小遣いをたくさんくれるおじさんなら他にいくらでもいるということだ。
「大隊長、時間です」レナはつぶらな瞳を輝かせ、小首をかしげた。「客人を迎えに行かなくては。小会議室でお待ちくださいませ」
 レナは余裕たっぷりに微笑んで、怒りゆえに硬直しているギルモアを残し指揮所を出た。
 指揮所として借り上げているのは魚市場の事務所だった。別にどこでよかったのだが、海がもっとも美しく見えるのがこの事務所なので、ここがいいとレナがギルモアに頼んだ。魚市場は練兵場にした。このところ毎日のように漁師や職員たちが、魚市場を開けるようにしてほしいと頼みに来るのだが、彼らが指揮所の代替案として提案する物件はどれも眺望がよくないので断り続けている。つい先日は魚市場が開けないと家族が食べていけない、と、女が足許に泣き崩れたのだが、そんなのはレナの知ったことではなかった。
 上機嫌で港を目指す。
 客人は既に上陸し、しかも村に入りこんできていた。その姿を煉瓦づくりの倉庫の前で見つけ、レナは立ち止まった。
 メイファ・アルドロス。
 シオネビュラ〈老いたる知恵と知識の魔女〉神殿、二位神官将補。
 長い黒髪に黄色の肌の女。背が高く、肉感的な体つきをしている。歳は三十を過ぎたかどうかといったところだ。ギルモアの大隊の兵士三人に付き添われ、倉庫の鉄格子の戸の向こうに機嫌よく語りかけている。
「おお、変わった生き物! 大きいねぇ。お名前は何て言うのかな?」
 レナは砂礫を鳴らして近付いた。足音が聞こえているのかいないのか、二位神官将補は話し続ける。
「こっちを向いてごらん。お前とお前。ほら、右上の人間の顔と右下の狐の顔、お前だよ」
 格子の向こうには、言語生命体が融合した巨大な化け物が存在する。その生物を表す名はない。〈捕食者〉と、化け物の存在を知る者は呼ぶ。言語生命体であれば、人間だって捕食する。
「名はサーリです」
 十分に近付いてから、レナは声をかけた。長い黒髪を背中に払う。軍規では、長い髪は束ねなければならないのだが。
「最後に融合した人間の名前です」
 それから、腰のサーベルを右手で持ち、鞘のまま格子の隙間に差し入れて、ちょうど正面にある女の顔をつついた。
「こいつですよ。この女です」
『サーリ』は咆哮をあげて鞘を噛み砕こうとした。レナは素早くサーベルを引っこめて、腰に戻した。
「お待ちいたしておりました。大隊付き副官、レナ・スノーフレーク少尉です」
 メイファ・アルドロスは少し細いが、決しては小さくない、濡れたような目をしていた。レナにいたずらっぽく微笑みかける。
「シオネビュラ神官団二位神官将補、メイファ・アルドロスです。レグロ・ヒューム二位神官将に代わり参りました。よろしくお願いしますね」
「アルドロス二位神官将補殿、何故こちらに?」
 二人は形ばかりの握手を交わした。
「港でお待ちいただくよう、書状でお願い申しあげたはずですが」
「〈捕食者〉の存在について確認させていただきたいというこちら側の要望について、いただいた書状には回答がございませんでしたので」メイファが握手を解いた。「いずれシオネビュラにお通しするのですから、確認させていただくのは当然のこと。業務を遂行したまでですよ」
「あくまで非公式の訪問と伺っていたのですが?」
「かと言って、遊びに来たわけでもございませんからね」
 メイファは何一つ釈明しようとせず、癇に障る笑みを浮かべ続けている。レナは真顔になった。
「二位神官将補殿、サーリがあなたを襲わなかったのは、たまたま運が良かっただけです。たらふく『餌』を食べさせたばかりですからね。近頃は舌が肥えてしまって、『生き餌』じゃないと満足しないんです」
「ふぅん」
 生き餌が何を意味するのか、わからないはずはないと思うのに、メイファは無関心な様子で薄笑いしたままだ。
 このおばさん、馬鹿なの?
 レナは生まれつき欠けた、冷たい心で思った。
「リェズに到着したその日にも、この檻から脱走しましてね」レナはメイファの顔を見ながら話し続けた。「その時は村人一人に兵士が三人、生き餌になりました」
「味方であるあなた方の大隊の兵士を? へぇ。ってことは」と、メイファ。「あなた、この生き物をうまく制御できないんですね」
 思わず頬の肉が引き攣った。
 レナはもうメイファを極力相手にしないことにした。
 それからは最低限しか口を利かずに指揮所に連れていった。小会議室に案内し、ギルモアに会わせる。そして、自分は客人に振る舞う茶を淹れに行った。
 小さな鍋で井戸水を沸かす間に、度の過ぎたいたずらを思いついた。三客分のソーサーとカップを用意する。ジャケットの内ポケットから小瓶を出し、用意したカップの一つに言語活性剤を注いだ。面白いことになると思った。そのはずだ。そして、カップに茶を注ぎ、小会議室に運んだ。
「単刀直入に申し上げますと、私たちに対しいくら金を積めるかってことですよ」
 小会議室では、メイファがそのよく動く舌をギルモア相手にふるっていた。
「お金があっても持っているだけでは駄目です。優遇されたければそれを差し出さなければ意味がありませんからね」
「誰もが優遇されたいが、誰もが金を差し出すわけではありますまい」と、ギルモア。「あまりに法外な金を要求されれば、代わりに力を差し出す者がいる。そのような事態は当然見越しておられるのですかな?」
 レナはカップを三つ、丸テーブルに並べた。言語活性剤入りのカップは、僅かに茶の色が薄い。それをメイファに差し出した。それから、末席に腰をかけた。
「ちょうど同じご心配をされた方がいらっしゃいましたよ、ギルモア中佐殿。もっともその方はなかなか強い調子で仰いましたがね」
 ギルモアの眉が片方吊り上がった。
「新総督軍のルルカ将軍。ええ、正に、力を差し出すと。もちろん軍事協力のお申し出ではございません。将軍はかっこいい、黒い、素敵な愛馬に乗ってらいらっしゃいましたが、どういうわけだか帰途に愛馬が暴走しましてね。ええ、本当にご愁傷様です。正位神官将が直筆した葬儀の弔辞は、不躾にも送り返されてきましたが」
 と、声をあげて笑う。笑いの後、数秒の間が空いたが、ギルモアもレナも喋らず、メイファが一方的に喋り続けた。
「それからですね。宿営される際にお気をつけいただきたいのは、宿営中に万一あなた方の立派な兵隊さんたちが負傷ないし死亡した場合、当神官団及びシオネビュラ市は一切責任を負わないということですよ。逆にあなた方が市民を傷つけた場合には、ひどい恥辱を味わう場合があるとお考えください。我々は半月ほど前に王領の貴族の護衛部隊を追放したのですけどね、羊ですよ、羊。えっ? 羊のように大人しかったわけです。装備品はすべて差し出していただきましてね、お服を頭の上にくくりつけて、下着と軍靴だけの姿で三列縦隊で東門までパレードです。シオネビュラ市民も沿道からやんやの声援でお見送り。そのままお引き取りいただきましてね――」
「お話し中失礼」ギルモアが遮った。「二位神官将補殿、大変失礼ながら確認させていただきますが、こうした話し合いの場には、通常最もわきまえていらっしゃる……諸々をです。諸々をわきまえていらっしゃる方がお見えになるものかと存じますが、我々との話し合いにはあなたが最適であるとシオネビュラ神官団はご判断されたのでしょうかな?」
「もちろんです! 神官団本部で協議した結果、現在他の用件にて出張中の三位神官将及び三位神官将補を除き、私が最も適任であるとの結論となりました」
 シオネビュラ神官団にはろくな人間がいないのだとギルモアは結論した。
「しかし私もどうやら長広舌が過ぎるようでして。大変失礼。本命の用件に入ることといたしましょう。あなた方の大隊が、新総督軍の実行支配下にありながらリェズより西進しあぐねておりますこと、私大変不可思議に思っております。東方司令部……失礼、今は新総督軍ですね。新総督軍の別部隊については各軍団より宿営の打診がきているのですが、あなた方南部ルナリア独立騎兵大隊についてはその名を目にも耳にもしておりません。これは予算の他に、何か上流部隊指揮官との感情が絡むご事情がおありかと察せられますが」
 メイファが挑発的に間を置くが、ギルモアは沈黙を保ち、挑発を躱した。
「おっと、下衆の勘繰りが過ぎたようですねぇ。まあ私が言いたいのはですね、あなた方に、シオネビュラに来ていただきたいのですよ」
「我々に?」
「ええ。他に優先して、あなた方に」メイファは軽く肩を竦めた。「資金面についてご相談させていただきたく参ったのですよ」
「現在は予算申請中でしてね」
「予算認可を待つまでもなく、あなた方は既に立派な資産をお持ちではないですか。サーリですよ。あの悪趣味、失敬、なかなかに斬新奇抜なデザインの生き物です」
「冗談じゃない!」ついにギルモアが声を荒らげた。「帰れ!」
「まあまあ、何も寄越せと言っているわけではございません。三週間お貸しいただけるだけで結構です。学術的な面から興味がありましてね。三週間です。その間、宿営費を免除させていただきます」
「そうするまでもなく予算が下りる」
「予算が下りたところで、あれを私たちが市内に通すと思っておいでですか? または予算が下りなかったら? 他の部隊ではなく自分たちの部隊に予算が下りると思われる根拠がおありで? まさか自分は何もせず、上流部隊の指示を待ってさえいれば、手柄を立てる機会が転がりこんでくるなどと甘いことは思ってらっしゃいませんよねえ?」
 ギルモアはメイファを殺してやろうと思った。
「それにですね、ギルモア中佐殿。反乱軍側のいくつかの部隊とはもう話がまとまっているんですよ。受け入れまで秒読み状態です」
 それを聞き、メイファを殺すのはしばし見送ることにした。
「反乱軍のドブネズミ共も宿営させるおつもりですかな?」
「当然です! 規定の料金を払うこと。市民の安全を保障すること。その他問題を起こさないこと。これさえ守っていただければ拒む理由はございません。実のところ、残っている受け入れ枠も残り半数を切っておりましてね。反乱軍側は自分たちの部隊で全枠埋め尽くすのもやぶさかではない様子ですが。どうでしょう? かといってこの事実を新総督軍に告げるのは私共の負担ではございません。あなた方は上流部隊にご報告されてはいかがでしょう? 三週間の宿営費免除の申し出と共に?」
 不機嫌に黙りこむギルモアへ、メイファは更に畳みかける。
「ところで聞いた話ですが、反乱軍には、言語活性剤を摂取した化生の将校を二人も討ち取った陸軍少佐がいるそうですね。北トレブレンで」
「下手なお考えはよしていただけますかな。所詮、そいつも人間でしょう。ヴィルと戦ったらヴィルが勝ちますよ」
「今はヴィルではなくサーリです」
 レナが横から訂正した。
「普通に考えたらそうでしょうとも。ですが私は一見負けそうな側を応援したくなる性分でしてね。勝っても負けてもゾクゾクします。ええ、最高……」
 メイファは突如、好色そうな本性を露わにして舌なめずりをした。
 すると、噂が聞こえたでもあるまいに、捕食者のおぞましい喚き声の重奏が倉庫から放たれた。何が刺激になったか知らないが、気に食わないことがあるとすぐに騒ぐのだ。レナは苛立った。本当に頭の悪いゲテモノだこと。
 サーリは激しく倉庫の壁に体当たりをしており、麻痺性の毒矢を撃ちこむ兵士たちの怒鳴り騒ぐ声が、その音に紛れ聞こえる。
 どういうわけだか、今日に限ってなかなか騒ぎが収まらない。
 レナは立ち上がって、きれいな海が見える窓辺に歩み寄った。ちょっと失礼、と断って、ギルモアが後に続く。
 二人の視線が完全に外を向いた。
 メイファは念のため、なんだか茶の色が薄く感じられる自分のティーカップとレナのティーカップを素早く取り替えた。
 レナがくるりと振り向いた。
「お騒がせいたしました。無事収まりました」
 二人が戻ってくる。
「仕切り直しをしませんか、二位神官将補殿。折角のお茶が冷めてしまいますので」
「ええ。私もちょうど喉が渇いてきたところです」
 あれだけ喋れば当然だ、と思いながら、ギルモアはメイファの正面に座った。
「エンレン湖北岸の初摘みでして」
 レナはティーカップを掲げ、上目遣いにメイファを窺い微笑んだ。メイファもソーサーを持ち上げた。
「では、有り難く頂戴いたしましょう」
 ギルモアも無言でソーサーを左手に持ち、右手の指をティーカップの持ち手にかけた。レナが言う。
「それでは、私たちの良い先行きのために」
 三人が、同時にカップの紅茶を口にした。


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