リリィ。-5

文字数 2,332文字

「……シギがいるのに浮気なんかするかよ」
 ぼそっと呟いて、はっとした。何だか物凄く、とんでもないことを口走ってしまった。
 向かいの席のトーカは、彼女らしくなくきょとんとしたように瞬きをして、満開の薔薇のような笑みを浮かべる。
「そうよね、前戯もおざなりにしそうだし、この子を満足させられるはずがないもの」
 嫌味のように貶されたものの、フユトにはトーカに反論するだけの余裕などなかった。外で耳まで赤くなることなんて、絶対にないと思っていたのに、これも魔女が仕掛けたプレイの一環なんだろうか。或いは、苛立ち故に口が滑ってしまったのか。
 でも、否定はしなかった。今まではともかく、今はもう、フユトにはシギしかいらない。それ以外じゃ足りない。満たされない。実兄を誰にも奪わせまいとしていた頃のような激しい執着心を持たずとも、シギは変わらず其処にいてくれるはずだし、甘い声で、甘い顔で、睦言を紡いでくれる。
 あんなに不安だったのはどうしてなのだろう。兄の気持ちが他所に向いていると確信していたからなのか、同じ人を好きになってしまっていたからなのか。答えはもう、永遠に出ない。
「あたしが変なこと言っちゃったからなの」
 煙草を吸いにトーカが中座したので、ミコトがおずおずと口を開いた。
「ほら、ワガママ言ってご飯に連れてってもらったり、ラテを奢ってもらったりしたじゃない?」
 言われてみれば、そんなこともあったかも知れない。フユトが黙ったままでいると、
「怖い思いをしたときに来てくれたこともあったし……」
 当時を思い出したのか、ミコトの口角が幸せそうに持ち上がる。
「トーカねえさまと一緒にいると、そのときの気分になって、うっかり話しちゃったの、ごめんなさい、怒ってる?」
 微笑みを引っ込めたミコトは、大きな瞳を潤ませて、上目遣いにフユトを見た。口では反省しているようなことを言っていても、そういう顔をすると怒られないことがわかっている、確信犯の仕草だ。小聡明さは健在なのかと苦笑して、フユトは緩く首を振った。
 トーカの反応からするに、ミコトの昔話は誤解を生むような語り口だったのだろう。過ぎたことをああだこうだと言われても、取り返しようがないのだから、嫉妬も大概にしてもらいたい。それに、あのときはミコトもクライアントの一人だったのだ。金銭が発生する以上、何かしらのフォローをしなくてはならなかったのだから、強制的にデートに付き合わせた以外、ミコトは何も悪くない。
「大事にされてんのな」
 頬杖をつきながらフユトが聞くと、ミコトは恋する乙女の表情で破顔した。
「うん、すごく幸せ」
 気持ちはわかる。常に思われていると実感していると、何をするにも恐れなくていい。相手の顔色や機嫌を頻繁に窺う必要はない。たまに地雷を踏み抜いて苛まれることはオプションのようなものだから仕方ないとしても、それだって、本当に嫌なことはされないとわかっているから享受できる。
 好き、と伝えれば、好き以上の言葉で好意を伝えられ、満遍なく愛情を(まぶ)される日常は居心地がいい。時に不満や寂しさを訴えても、寂しくさせて悪かった、気づいてやれなくてすまなかったと、まるで一人の責任のように返されて、貝殻繋ぎのように指を絡め取られるのは、只管、心地がいい。
 大丈夫、怖がらなくていい。ミコトは満たされているだけでいい。トーカがシギと似ているなら、嫉妬はかなり粘つくだろうが、それさえ可愛く思えるほど愛される。何処にも行けないように囚われたようでいて、何処にも行きたくないと望んでしまうようになる。
 もう、フユトに欠けたピースは存在しない。埋まることなどないと思っていた空虚感は、どこにもない。
「じゃあ、あの人によろしくね」
 別れ際、トーカが微笑んで言った。疑ったことを詫びもせず、飽くまで誤解を生むようなことをしたフユトが悪いと宣う視線のまま。
「俺に二度と絡むなよ」
 ようやく解放される安堵から、フユトが胡乱な口調で答えると、
「わたしのお願いは、貴方の飼い主に直接するわ」
 ミコトという最愛がいながら、トーカは変わらず、フユトにも興味を抱いているようで、やはりぞっとしないのだ。
 まぁ、それはそれ、というやつか。
「トーカと会ったのか」
 シャワーを浴びて戻ってきたシギの口から出た名前に、ベッドでうつ伏せていたフユトはぎくりと身を強ばらせる。呼び出されたから会いに行く、と告げないままだったことを思い出す。
 だって、あれはミコトからの連絡だったから、トーカが同席するとは思っていなくて、そうと知れたあともオープンテラスでの対話だったから、おかしなことは何もされていないし、身の潔白は大勢の証人が担保してくれる。
 フユトが口を開く前に、ベッドの縁に腰掛けたシギが喉で嗤う。
「俺がいるから他所にはいかないって?」
 トーカの告げ口だ。青くなるべきか赤くなるべきかわからず、フユトは枕に顔をうずめた。
「うっせ、バーカ」
 いつもの照れ隠しで答えつつ、こう来たか、と思う。あのまま聞き流してくれれば良かったのに、トーカがおとなしくしているわけがない。きっと彼女は煙草を吸いに離れたついでに、あの子がこんなことを言っていたのだけれど、とでも連絡したのだ。どんな顔をしていたかまで想像がついて、恥ずかしいやら、消え入りたいやら、フユトの感情は忙しく移ろう。
 フユトの後ろ髪を、シギの指が梳いた。思わず身体を硬直させてから、恐る恐る枕から顔を上げてシギに視線を向けると、感慨深そうに目を細めた悪魔が静かに微笑んでいる。
「なに」
 思わず、つっけんどんな言い方になってしまった。こういうときにどんな顔をすればいいのか、フユトは未だにわからないままだ。
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